ペンネームの由来 「東北 編」

ペ ン ネ ー ム@出生地
A本 名
B代表作
解  説
太宰 治(だざい・おさむ)
太宰 治
@青森県

A津島修治
(1909 - 1948)

B『人間失格』
『走れメロス』
■明治42(1909)年6月19日、青森県津軽郡金木村に生まれる。生家は地主で、父は貴族院の勅選議員だった。 8人兄姉の末子として、異常に感受性の強い子どもであったが、青森中学に入ってからは作文や小説で頭角を あらわし、弘前高校時代には同人誌活動を行った。4年生のときカルモチン自殺を図っている。

 昭和5(1950)年、上京して井伏鱒二に師事、東京帝大仏文科に入って左翼運動に関係したがすぐに脱落、 バー女給と心中未遂。翌年、生家との関係を絶った。8年『魚服記』で注目を浴び「東奥日報」の懸賞小説 『列車』を執筆、初めて「太宰治」を使用した。

 由来は東京帝大仏文科の教授太宰施門に発するとか、高校時代の同級生太宰友次郎からの借用とかの説がある。 当人は大宰府に起源があるなどと語ったというが照れ隠しであろう。

 その名を高めたのは戦後の『斜陽』『人間失格』『ヴイヨンの妻』『桜桃』などの作品である。昭和23 (1948)年、山崎富栄とともに玉川上水に身を投じた。
  
石川啄木(いしかわ・たくぼく)
石川啄木
@岩手県

A(はじめ)
(1886 - 1912)

B歌集『一握の砂』
■6才で没した天才歌人石川啄木の名はだれでも知っている。またその号の意味がキツツキであることも説明の 要はあるまい。
明治19(1886)年、岩手県岩手郡日戸村の常光寺に生まれ、間もなく渋民村に移った。

 17才のとき文壇にあこがれて上京したが、収入の道が得られず栄養失調になって故郷に連れ戻された。 その療養中に彼の心をなぐさめたのは、窓の向こうの深い森から絶えず響いてくるキツツキの音であった。 静かな空気を伝わってくるその「閑静高古の響」は、失意の彼の心を清め、再び歌へ向かう気持ちをかきたてるのだった。

 以来、号を「啄木」と改め、このことを『無題録』という文章に記した。
  
野村胡堂(のむら・こどう)
野村胡堂
@岩手県

A長一
(1882 - 1963)

B『銭形平次』
■銭形平次の生みの親。明治15(1882)年、岩手県紫波郡に生まれた。最初画家を志したが、父親の反対で 東大法科へ進み、卒業後は報知新聞に入社した。

 大正3(1914)年、新聞社で記事を書くにあたりペンネームが必要となったが、同僚から「おまえは東北の 出身だから胡堂としろ。<胡堂北風にいななく>の胡だ。堂という字は木堂、萼堂などエライ人がみな付けている から・・・」といわれ、それに従った。

 「胡」は中国北方または西方に存在した異民族だが、『文選』によると、そこから産出した馬は他国にあっても、 北風が吹いてくると、いなないて故国を懐かしむという。

 「銭形平次」というネーミングの由来もおもしろい。『水滸伝』中の石投げの名人からヒントを得て、平次に 何かを投げさせようと思ったが、よいアイデアが浮かばず思案にあまって編集局の窓から外を眺めていると 「設計・施工・銭形組」の大きな文字が目に入った。その瞬間、銭形という名と銭を投げさせるアイデアが 浮かんだという。
  
土井晩翠(どい(つちい)・ばんすい)
土井晩翠
@宮城県仙台市

A土井(つちい)林吉
(1871 - 1952)

B歌詞『荒城の月』
■『荒城の月』の作詞者として著名な土井晩翠は、明治4(1871)年、仙台市の質商を営む旧家に生まれた。 父親は養子だったが、和歌や俳諧をたしなむような教養人で、林吉もその影響から読書好きの少年として 育った。

 ところが祖父が「商家には学問はいらない」という考えだったため、高等小学校を卒業後は家業に従事させられて しまった。学問の道をあきらめきれない林吉は、英語の通信教育を受けるなどして抵抗すること4年、ついに 許されて第二高等学校へ入学することができた。

 その在学中、校友会誌を編集することになったが、原稿が集まらないので自作の『謫居(てききょ)』という長詩を 掲載することとし、晩翠生と署名したのがそのまま終生のペンネームとなった。

 晩翠とは冬枯れの季節の緑のように長持ちする葉のこと。転じて老年になっても変わらない節操を意味する。 しかし晩翠自身によると宋の詩人范質の「遅々たる澗畔の松、鬱々として晩翠を含む」という詩からヒントを 得たと言う。
  
小杉天外(こすぎ・てんがい)
小杉天外
@秋田県

A小杉為蔵
(1865 - 1952)

B『魔風恋風』
■明治33(1900)年ごろの文壇で、紅葉と並ぶ盛名のあった小杉天外は、慶応元(1865)年、羽後国仙北郡六郷村 (現、秋田県仙北郡六郷町)の商家に生まれた。父は勤皇家だった。

 政治家を志し18才で上京、英吉利(イギリス)高等学校などに学んだが、春水や馬琴などを読んで文学に開眼した。

 その後郷里との間を往復してきたが、家族からは文学志望を理解されないまま、明治24(1891)年、齋藤緑雨(りょくう)に 認められ、本郷二葉町で共同生活をする。翌年、その紹介で「国会」(のちに「朝日新聞」に吸収合併された 新聞)に処女作『改良若旦那』を発表した。

 このとき緑雨と雅号を考えたが、気難し屋の緑雨から、あれもいけないこれもいけないと言われ、一任して しまった。新聞に出たのを見ると「天外」であった。「奇想天外より花落すとは僕の自惚れで、弱虫で、 始終びくびくして居るから魂が天外に飛んで居るとの意味で、つけてくれたのであろう」。緑雨の真意は 不明である。このほかに草秀、如是庵などの号がある。

 31才ごろ結核を患ったさいにゾラを読み、その回復後は人間の運命と社会悪を描いた『はつ姿』や『はやり唄』 などの佳作を生んだ。しかし、明治36(1903)年、紅葉のあとを継ぐように「読売新聞」に連載した長編 『魔風恋風(まかぜこいかぜ)』が人気を獲得したのを機に、大衆作家に転じた。
  
藤沢周平(ふじさわ・しゅうへい)
藤沢周平
@山形県

A小菅留治
(1927 - 1997)

B『蝉しぐれ』
■昭和2(1927)年、山形県に生まれた。山形師範卒。
 中学校教員、業界紙編集長を経て、昭和46(1971)年に老絵師葛飾北斎の、若い広重に燃やす情念を描いた『溟い海』オール讀物新人賞受賞。昭和48(1973)年『暗殺の年輪』で直木賞受賞。昭和61(1986)年『白き瓶−小説・長塚節』で吉川英治文学賞受賞。
 著作に『蝉しぐれ』『たそがれ清兵衛』『隠し剣孤影抄』『海鳴り』など多数。
 平成元(1989)年菊池寛賞受賞。平成7(1995)年には紫綬褒章を受章した。

[由来]故郷の鶴岡郊外の藤沢と甥の名前を合成。
  
横光利一(よこみつ・りいち)
横光利一
@福島県

A横光利一(としかず)
(1898 - 1947)

 
■横光利一は明治31(1898)年、福島県の東山温泉で生まれた。母は三重県出身で、芭蕉の家系である。

 三重県での中学時代から文学に目覚め、早稲田大学英文科に入学したが、1年有余にして中退した。20才までに 「白歩」の筆名で多くの短編を書いたが、芽が出ないので、「左馬(さま)」というペンネームを考えた。「どんな 絶交状を叩きつけられても、ぼくを呼び捨てにできないからね」。

 しかし、間もなく本名に戻って「りいち」と読ませた。