こんなことがありました(日記)

2006年4月


また、新年度が始まった。

2006年4月28日(金)
今月は、いい出会いに恵まれた月だった。 招かれた友人のパーティーでは、たまたま、ゲイの人類学者に出会えたし、レズビアン・アートについての本を読む読書会では、価値観を共有できるレズビアン・フェミニストたちと知り合いになれた。

そして、今日は、最近の20代には珍しい(?)、リブ魂を持つ素敵なゲイの子と会うことができた。久しぶりに「ファンです」なんて言われて、舞い上がってしまった。最近、また体調はいまいちだけど、こうした出会いがあると、元気になれるなぁ。

人との関係の中で、傷ついたり疲れたりするけど、やっぱり、力をくれるのも人との関係。お互い力を与えられる関係をたくさん持てるといいな。


2006年4月22日(土)
最近、順調に日記を書いていたけど、またごぶさた。なんだかまた体調が悪くなってしまった…。まだまだアップダウンがあるけど、まぁ、なんとか回復傾向に。ところで、日記を休んでいる間に、また東京都教育庁が恐ろしいお達しを。

==========
 東京都教育庁は13日、職員会議で教職員による「挙手」や「採決」を行ってはならないとする通知を都立高校など263校の都立学校長に出した。校長の意思を貫徹させた効率的な学校運営が狙い。

旧文部省は00年に「職員会議は意思決定権を持たない」との通知を出しているが、挙手や採決そのものを禁止するのは極めて異例。教育現場での主導権確保を目指す同庁の姿勢を反映した内容だが、教職員の反発も予想される。

通知は「学校経営の適正化について」。中村正彦・都教育長名で出され、同日の都教育委員会定例会で報告された。それによると、学校経営について通知は「職員会議を中心とした経営から脱却することが不可欠」と強調し、「職員会議において『挙手』『採決』等の方法を用いて職員の意向を確認するような運営は不適切であり、行わないこと」と指示。

会議の運営上の権限がある「議長」を置く学校は、単なる「司会者」に改めるよう求めている。  そのうえで校長、副校長(教頭)、主幹教諭らによる「企画調整会議」を、学校経営の中枢として方向付けの場とするよう促している。
==========

こういう組織運営する人たちは、もはや「教育者」ではない。ただの管理者。どうして、このようなお達しが可能になるのかが僕には理解できない。「民主主義」という言葉は、まさに今、死に瀕している。


2006年4月12日(水)
今年大学に就職した友人が、入学式で「君が代斉唱」があって…という話をしていた。そっかー、大学でも「君が代斉唱」があるんだ、と改めて認識しつつ、僕だったらどうするかなぁ?と考えたりしていた。

もう15年くらい前に、私立高校に就職したとき、入学式の「君が代斉唱」では、僕は立たなかった。すっごく勇気が必要で、曲が終わるまで針のムシロに座っている気分だった。

とりあえず、その後、とやかく言われることがなかったのは、僕が沖縄出身だったので、「まぁ、沖縄出身だからねぇ」という解釈で許されたせいなのかもしれない(そういう理解のされ方は、それはそれで問題なんだけど)。<ちなみに、学校は諸々の理由から、すぐ辞めたけど。

そんなことを考えていたら、教育基本法の改変案に「伝統と文化を尊重し、それらを育(はぐく)んできた国及び郷土を愛する」という文言が入りそうだというニュースが…。もう、うんざり。何を愛して、愛さないか、ということまで法律で指示されなくちゃいけないなんて。


2006年4月9日(日)
素敵な言葉を見つけた。4月14日付の「週刊読書人」で、陣野俊史さんの著書『フランス暴動 移民法とラップ・フランセ』を紹介した記事の中(記事は、藤本一勇さんが書かれている)。

その本の第3章には、日本のラッパー「志人」(しびと)のインタビューが載っているらしいのだが、この紹介記事の中で引用されている言葉が胸に響いた。(またまた、かなり長いけど、引用、「」内は陣野さんの本から藤本さんが引用している部分)

==========
「志人」は言う。社会のなかで、システムのなかで生きていかなくてはならないとしても、「自分の中で曲げられない/負けられない部分もある。そこから滲み出る人間性やユーモアがある」。

あくまでも単独性を軸としながらも、それに閉じない。「他人事ではすまされない感覚」を喚起すること、しかも「無理やりではなく思いやりで開いていく」、「「独り言」ではなく「話しかける」という姿勢」。(中略)

「人間らしく間違っていく姿を、人間らしく正していく姿を公の場で見せることで、衝動の同時性が生まれるのかもしれません」。そうした「表現者がいれば、自ずとその場に、その人に、それを見た人に、その街にいいようのないエネルギーが流れていることになる。回路ができるかもしれない。」
==========

表現するということについて、勇気をくれる言葉だと思う。僕にとっては、研究を含め、文章を書くことが一番大きな表現方法だけど、パレードの運営にかかわってきたことも、6日の日記に書いたような、HIV/AIDSに関係した活動も、表現方法の一つだったんだなと気づかされた。

これからも、色々形を変えたりしながらも、きっと僕は何らかの表現を続けていくんだろうな。時には、くじけることもあるだろうけど、たぶん僕は、死ぬまで、誰かに向けて何かを語っていくんだと思う。


2006年4月6日(木)
「J-AIDS」というML(メーリングリスト)がある。HIV/AIDSにかかわっている医療関係者や活動家、そして、HIV陽性者などが参加しているもので、HIV/AIDSに関係する様々な情報や意見がやりとりされるMLだ。そのML上で、最近、ゲイなど、男性と性行為をする男性に関連する話題が珍しく盛り上がりを見せていた。

日本で最もHIV感染が深刻な層は、ゲイやバイセクシュアルなど男性と性行為をおこなう男性なのだけれど、このMLでは、その層に関係するテーマで盛り上がることは少ない(まぁ、今回も僕を入れて3〜4人くらいのやりとりだったけど…)。

今回のやりとりは、知識があれば行動が変わるわけではない、という、だいぶ長い間言われてきた話をめぐって始まったものなのだけれど、ゲイなどが置かれている状況についての意見交換へと議論が発展していった。

そのやりとりで最も積極的に発言していた人が、昔、僕が中心になって、ぷれいす東京のゲイグループでつくった「Safer Sex Guidebook」について次のように書いてくれ、とてもとても励まされた(かなり長いけど、引用)

==========
ぷれいす東京の「SAFER SEX GUIDE BOOK」のことで砂川さんを存じ上げている、と書きました。 当時(十数年前でしょうか)、私は地方で家族と同居していて、全く偶然にそれを偶然知り、郵送をお願いしたのです。 中にワープロの案内文が入っていて、丸っこい字で「砂川秀樹」とサインがありました。

ゲイのための雑誌を買うにも、バスで一時間もかかるような田舎に住んでいた私には、どれだけ心強いものだったことか。 初めてゲイコミュニティからのシグナルと接触した証が、それだったんです。「お守り」でした。

知りたかったのはHIV/AIDSのことだけではなく、自分が一人ではないこと、この世の中には叡智のようなものがちゃんと息づいていること、だったんだと思います。あなた方が発信していたのがそういうものなら、ちゃんと受け取ってましたよ。

未だにその封筒ごと、大事に持っています。当時の、田舎のガキに過ぎなかった自分が抱いていた切望まで鮮明に思い出すので、捨てられない。ある時期を確実に支えてくれた、冊子でした。
==========

僕が深くかかわってつくったものを、こんな風に受け取ってくれた人がいたなんて。このガイドブックは、当時、資金がない中、英国のファンドに拙い英語で申請書を書いて、やっと手にした資金で作ったものだった。

彼は、今や、「ゲイ・コミュニティ」のHIV/AIDSの啓発活動でがんばっている活動家だ。僕の方はというと、逆に、「ゲイ・コミュニティ」向けHIV/AIDSの啓発活動のメインスリームからは今や外れている。

しかし、彼のこの言葉で、「生活が安定したら、またがんばろう」と思うことができた。そのためにも、今やるべきことをやらなくちゃ。


2006年4月3日(月)
ソメイヨシノも満開を過ぎ、強い春風の中、散り始めている。この春はあまり花見ができていないので、近くの公園へ散歩がてらでかけてみた。この公園を春に訪れるのは初めて。思っていた以上に桜がたくさん植えられていて、たくさんの花びらが舞っていた。

僕は、満開くらいよりも、その前後の桜の方が好き。ソメイヨシノの花吹雪には、いつも見とれてしまう。橋の上にぼんやり立って、散りゆく花を見ながら、ふと、昨年亡くなった姉のことを思い出した。

もう十年以上前になるだろうか、一度だけ、その姉が東京の僕のところを一人で訪れてくれたことがあった。その頃から、姉は、パニック障害に悩み、子供の発達のことでとても悩んでいた。辛そうな声で夜中に電話がかかってくることが度々あった。

過呼吸の発作を起こしてしまうため、なかなか外出も出来ない状況だった。それでも、姉は、一人で飛行機にのり、上京した。旅行なんて全くしたことない人なのに、僕に会うためだけに。ちょうど桜の季節だった。

僕は、姉を空港まで迎えにいき、自分の住んでいるアパートへ案内した。その頃住んでいたアパートの近くにあった高校の正門には、ソメイヨシノの大きな木が2本くらいあって、夜になると街灯に照らされ、とてもきれいだった。

沖縄ではソメイヨシノのような華やかな桜は見られないので、姉は、その桜を見ていたく感動していた。しかし、きれいとはいっても、正門のそばにたった2本立っているくらいの桜の木。東京のいろんなところで桜を見慣れている僕には、ちょっと物足りなくもない。通りすがりにちょっと立ち止まって見るくらいしかできないし。

そこで、もっとたくさん桜の木が植えられている公園へ花見に行ってみようと姉を誘ってみた。でも、発作を恐れて、姉は断った。結局、数日の滞在中、姉は近所のスーパーと僕の家の間を行き来しただけで、沖縄に帰っていった。

でも、その桜のことは、とても印象に残ったらしい。その後、何度か「あの桜、きれいだったね」と語っていた。僕としては、もっと、たくさんの桜が咲いているところを見せてあげたかったのだけれど…

そんなことを思い出して、「あー、こんなに桜がたくさん咲いているところ見せたかったなぁ」と改めて思い、涙があふれた。ずっと苦しんでいた姉に、もっとできることはなかったのか、そんな思いが胸をしめつける。









2001年
6月   7月   8月   9月   10月   11月   12月

2002年
1月   2月   3月   4月   5月   6月

7月   8月   9月   10月   11月   12月

2003年
1月   2月   3月   4月   5月   6月

7月   8月   9月   10月   11月   12月

2004年
1月   2月   3月   4月   5月   6月

7月  8月   9月  10月  11月   12月

2005年
1月   2月   3月   4月  5月  6月

  7月  8月  9月  10月  11月   12月


2006年
1月   2月   3月


最新月の日記へ


トップページへもどる