96 花さそふ嵐の庭の雪ならで
  ふりゆくものはわが身なりけり


○春の光は満ち溢れ 桜は風に舞い躍る
吹き散らされた花びらは、雪のように降り積もり
地のあれこれを覆い隠す。
白くなりゆく穢土は自分。
降るが古いに通じるように、花びらが降り、自分は古い。
年毎ふりゆくは、花びらでなく自分自身。
あの落ちる花は私自身。


☆花を散らす風の吹く庭で、ふるのは花ではなく、古くなる自分だ。

はなさそふあらしのにはのゆきならで ふりゆくものはわがみなりけり
出典 新勅撰集

Nyudo Saki no Daijo-Daijin
Not the snow of flowers,
That the hurrying wild-wind drags
Round the garden court,
Is it that here, withering, falls:--
That in truth is I, myself.

花の雪でな
急ぎのワイルドな風はドラッギングする.
庭の法廷の周りで
それである…それ…ここ…枯死…滝--
真実でのそれが私である…自分


入道前大政大臣 にゅうどうさきのだいじょうだいじん (1171〜1244)
低本では 大政大臣となっているがこれは 太政大臣の誤りだろう。

本名藤原 きんつね/公経だが西園寺家の祖であることから、西園寺 公経とも呼ぶ。
藤原さねむね/実宗の次男。藤原家の傍系に属したが、承久の乱では幕府側につき、
その後援により内大臣を経て太政大臣となる。

妻が源頼朝の 妹の娘であった関係から、
鎌倉幕府と繋がり深く、羽振りも良かった。
六十一歳で出家して、覚勝と名乗る。
出家してから後、夢のお告げにより 京都の衣笠山の麓に
 西園寺を営んだことから、
西園寺家と称された。西園寺は 人の栄を尽くせる限りの、
豪奢な建物であったという。
『増鏡』に「田舎めいたところを開き、見事な庭園とした。
山林は茂り池は広く、
滝の音は感涙をもよおすほどで、本堂にある 
西園寺の如来は生身のようだ」と
大絶賛されている。
…感涙を誘う滝ってどんなんだ…想像つかない。

後に西園寺は現在の上京区高徳寺町へ遷され、
元の土地には足利義満によって、鹿苑寺が建立されている。
鹿苑寺とは通称金閣寺。
結構知らない人もいるので、クイズに出たら、即効答えて
知識をひけらかしてみよう。娘・孫が当時の天皇の中宮に立ち、
ひまごは東宮になった。当然権勢一人占め。

藤原定家の妻は公経の姉で、
その縁もあって定家は西園寺家の庇護を受けた。



この歌は詞書に「落花をよみ侍りける」とある。

庭の花は古くなっても、雪となってまだ見所があるが、
古くなってしまった自分はもう無用の身だと ちょっと悲観的。

濃密なまでに舞散る桜花びらが、春から初夏に移る爽快な季節感を漂わせ、
壮年を過ぎ去った自分をみつめる 悟りのようなものを感じさせる。

だが、権勢をふるった老いでの感慨だからか、深い哀しみや嘆きはみつからない。
まさに花吹雪といった絢爛たるイメージと、そこ果敢ない無常感が同居している歌。

《雪ならで》雪ではなくて
《ふりゆく》降りゆく花と古りゆく自分の掛詞

*****************************************************

97 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
  焼くや藻塩の身もこがれつつ


○太陽は西に傾き、ソラ/宙がオレンジ染まる頃。
風も波も収まって、夕凪むかえた穏やかな時間。
松帆の浦の海岸で、塩を煮詰めて取るために
濃緑・蘇芳・きはだ/黄蘗にひはだ/檜皮 
色トリドリの海草が 焔に炙られ燃えている。
それはまるで 来ない貴方を待つ私。
あの藻のように身を焼かれ、いろんな感情
混じえつつ焦がれるほどに貴方を慕う。

☆来ない貴方を待つ私は、松帆の浦で夕方、塩を取るため焼く海草のようだ

こぬひとをまつほのうらのゆふなぎに やくやもしほのみもこがれつつ
出典 新勅撰集

Gon-Chunagon Sadaie
Like the salt sea-weed,
Burning in the evening calm,
On Matsuo's shore,
All my being is aglow,
Waiting one who does not come.

塩の海草のように
夕凪の中で燃えること.
松尾の岸で
私のすべての存在が熱している.
来ないものを待つこと.


権中納言定家 ごんちゅうなごんていか・さだいえ(1162〜1241)藤原定家。
藤原俊成の子。出家してからは明静と号した。
また、京極中納言とも呼ぶ。

余談だが、某有名水戸の御老公 こと黄門様の 黄門とは、
中納言を唐風に言った物である。

紀貫之とともに歌聖とあがめられ、 歌論・繊細な歌詠みに優れる
誰もが知っている百人一首の撰者。

九条家に仕えたが、九条家が失脚したことにより、新境地を開く。
後鳥羽院の 和歌所寄人でもあったが、院の怒りをかう出来事から、
閉門の憂き目に会い、承久の乱には連座しなかった。
また、和歌だけでなく『源氏物語』といった古典の研究、検訂も行っている。
(どうも私達から見ると、定家も紫式部も同世代と
考えがちだが中百年ほど開いている)

ここまで書くと、学者肌の天才歌人だが、
決しておだやか優雅な芸術家ではなかったらしい。
宮中で 先輩貴族にからかわれたのを怒り、相手の顔をぶんなぐっって、
昇殿資格を停止させられたことも。

当時の貴族社会で昇殿とは、社会人が 会社に勤めるより重要なことで、
宮中に入れないのは大変な恥であった。
いい年した息子が、いわゆるプータローで 毎日働きもせずブラブラしているようなもの。
その後、職務に復帰。

日記である『明月記』は世の中は間違っており、
ずるいやつばかり出世している等の 愚痴がだらだらと続く。
天皇の乳母で権力を誇った藤原兼子を、蔭で狂女とののしりながら、
表面上はコビをうったり、金の力で出世する 能力のない奴も 増えていると
批判する一方、姉を通して寄進をし、ちゃっかり自分も金で 
官位を手に入れたりもしているのである。

…有名になりそうな人は、あまり本音をあからさまにした
日記を残さない方がいいという見本。

二条派の祖。定家の奇癖のある書体は、「ていかよう/定家様」として
後代に継承されている。

「有心」という定家の考え出した歌論は、中世の規範とされた。
有心とは無心の反対で、深い心で 歌を詠むということ。
他にも「定家仮名遣い」とされる 「お」と「を」の違いなどを定義づけ、
歌に関わる言葉にも一定の規則を示した。

定家にまつわる川柳は何首かあり、
「御父子して千と百とをおんえらみ」
父藤原俊成は『千載集』を選び、定家は『百人一首』を選んだ。
「来ぬ人は花と風との間に見へ」
この歌が「花誘ふ」と「風そよぐ」の間の順番に在るよ、という川柳。
「九十九はえらみ一首は考える」
百首の中に、自分の歌もいれていることから。



 この歌の詞書は『拾遺愚草』に
「建保四年閏六月内裏歌合 恋」とある。

『新勅撰集』では「建保六年…」となっているが、
他の資料から照らし合わせて、四年が正しいとされる。

恋のテーマで歌合に詠んだ句で、この時順徳院の歌との勝負で、勝ちになった。
浦の光景と恋に焦がれる技巧に富んだ秀歌と評価は高いが、
身近過ぎる風景に、海草・塩といまいち 現代人の
浪漫感覚とはかけ離れている気がする。

《松帆の浦》淡路島北端、岩屋の浦。松と待つの掛詞でもある
《焼くや藻塩》海草に海水を掛け塩分をしみこませ、それを乾燥させて釜に
       いれて煮詰め、塩を造る方法。ここでは釜を焚くための火。
 
***************************************

98 風そよぐならの小川の夕暮れは
  みそぎぞ夏のしるしなりける


○風が楢の枝揺らす。暁のかはたれとき/彼誰時は過ぎ、
新緑の眩しい若芽は光りをはじく。
河原を旋舞する風は、歩く村人の袖を膨らまし 
ふところ/懐 涼しさ送り込む。
逍遥とする旅人を、気取って 川沿い散歩をすれば セミの抜け殻
乾いた小石 塞き止られて忘れられ、そのまま澱む小さな川瀬
そよぐ樹々と叢の音を聞き、つかのまにふと秋の気分。
騒ぐ歓声寄せられて、
御手洗川を覗いて見ると、穢れを落す儀式の禊。
秋の気配を感じれど、この光景が見れるのは、
まだまだ夏の証であった。


かぜそよぐならのをがはのゆふぐれは みそぎぞなつのしるしなりける 
出典 新勅撰集

Jozammi Karyu(ジョザンミ?)
Lo! at Nara's brook
Evening comes, and rustling winds
Stir the oak-trees' leave;--
Not a sign of summer left
But the sacred bathing there.

見よ…奈良の小川
晩は来て,
サラサラと音を立てることは曲がりくねっている.
オーク木の休暇をかき回しなさい;--
夏のどんなサインも去らなかった.
そこでの神聖な入浴
.

従二位家隆 じゅにいいえたか・かりゅう (1158〜1237)藤原家隆。
幼名は雅隆、法号は仏性。藤原光隆の四男。
壬生二品または壬生二位とも呼ばれた。寂連の養子で、藤原俊成の門人。
生涯に読んだ歌の数は六万首に及ぶとも言われる。

毎日人に話すより、ひたすら歌に明けこんでいたのか、
人に会うたび歌で会話でもしていたか、半端じゃない数。
もっとも現代に残っているのはその中の数千首だが、それでもすごい。

後鳥羽院歌壇の中心メンバーで、『後鳥羽院口伝』でも、
「たけもあり、心も珍しく見ゆ」つまり格調高く、心もすばらしいと誉められている。

和歌の故実などにこだわらず、常に「歌を詠むべき正しい心」を問い 
和歌の世界では藤原定家と並び賞された。

没する1年前にに出家し、現在の大阪市天王寺区の夕日丘町から
伶人町の辺りに「夕陽庵」という庵を結んで、日想観を信仰。
後鳥羽院の信任厚く、隠岐配流後も音信を絶やさなかった。



「寛喜元年女御入内屏風」 この歌は七十一歳の時、藤原道家の娘
 藻壁門院よしこ/立尊子(すみません本当は 立+尊で「よし」一文字なのですが、
どうやっても その漢字が出てきませんでした…)
が、後堀川天皇の 中宮として 入内する時に 嫁入り道具として、
持って行く屏風に書かれた歌。

家隆だけでなく、箔をつけるために 藤原定家や道家、公経など
当代有名歌人数人の歌が添えられた。

この時家隆は七首選ばれたが、定家はそれを『明月記』で全然良く無いと酷評したうえで、
この歌のみ誉めている

。ここでの「ならの小川」は、京都の上賀茂神社御手洗川を指す。
(京都橋本と、八幡の間にある川との説も)
御手洗川の場合、「奈良」社 という神社があるのと、
「楢」の木が風にそよぐのを掛けている。
禊とは、身そそぎから来た言葉で、 旧暦六月三十日と十二月三十一日に行う儀式。
この場合は六月の水無月祓(六月祓・夏越祓とも)をさす。

水浴びで心も体もさっぱりさせますといった内容。
また、汚れを落とすというだけでなく、水の聖なる力を魂に降りかけ、
充足を促すという意味も。
六月末に秋の気配…?と思うが旧暦なので、約一ヶ月足しても…七月末。
あれ? やっぱり秋にはほど遠いな。
まぁ、屏風絵の世界に添えた歌なので、と言うことで。

《しるし》証拠

******************************************
 
99 人もをし人も恨めしあぢきなく
世を思ふゆゑにもの思ふ身は


○平凡な暮しの中にいるけれど、考えることが多すぎる。
つまらないことあった日は、人間嫌いになってみたり
ちょっと良いことあった日は、人間すべてを愛しく思う。
ふとした時間が空いた時、思考の海を探索し 
世界を惜しく恨めしく、思わせる人類について考える。

☆世の中を色々考えていると、惜しく思われる人とそうでない人がいることだ

ひともをしひともうらめしあぢきなく よをおもふゆゑにものおもふみは 
出典 続後撰集

Go Toba-no-In
For some men I grieve;--
Some men are hateful to me;--
And this wretched world
To me, weighted down with care,
Is a place of misery.

数人の人を, 私は嘆き悲しむ;--
数人の人が私にとって憎らしい;--
そして, このわびしい世界
私に, 重みを加えられて, 慎重に倒しなさい.
災いが場所があるか?


後鳥羽院 ごとばいん (1180〜1239)第八十二代天皇、名は尊成。
後に出家し、法諱は良然。

はじめ 顕徳院と諡されたが、怨霊が 噂された為 この名が良くなかったのかと
四年後に後鳥羽院と改められた。
諡号が改められたのは、異例中の異例。

高倉天皇の第四皇子。第八十二代安徳天皇が 祖母に当たる平清盛の妻、
二位の尼に抱かれ「海の底にも都はございます」と 入水したことによる
天皇崩御の後を継いだ。
この時、二位の尼は道連れとばかり、皇位継承の神器をともに海に沈めたので、
神器無しでの即位であった。

後鳥羽を帝位につけたのは、当時院政を行っていた 祖父の後白河院。
十五年天皇位に付き、その後譲位。
と書くと、ちょうど社会人が仕事をして、そろそろ疲れてきたので
後継者に仕事譲って引退しちゃおうかなーとでもいうように感じるが、
天皇位についたのは、僅か四歳の時のこと。
だから引退したのも成人前後、まだバリバリの働き盛りであった。

外孫に当たる土御門天皇の後も、順徳・仲恭天皇の計三世代、
二十四年に渡って院政を行った。
幕府との関係を円滑にしようと 自分の 従姉妹を 源実朝に嫁がせたりもしてる一方、
西面の武士を置くなど、朝廷の権威を取り戻そうした。

実朝の死後1221年に、政権を武士から取り戻そうと "承久の乱"を起こし、
北条義時追討を謀るが敗れる。

当面の敵役としては、北条政子のほうが有名かもしれない。
敗戦であった為、 三上皇の配流と仲恭天皇の譲位が決定された。

隠岐に流されて約二十年後、六十歳でそこで崩御。
このことから、「隠岐帝」とも呼ばれる。

『承久記』には、遊女亀菊を愛するあまりに土地問題でもめ、
それが遠因となって承久の乱が起こった、とある。
…そんな事が原因で、死んだりしたら 報われないなぁ…

和歌所を再興させ、『新古今和歌集』を撰上させたり、
「千五百番歌合」など大規模な歌会を催し、和歌を盛んにした。

和歌に留まらず、武芸、笛、蹴鞠、水泳、相撲、琵琶、有職故実、
流鏑馬、競馬、犬追物、鷹狩、囲碁、双六等多くに通じた、多芸多才の人といわれる。

中でも刀剣は特に愛し、自ら鍛えた太刀は「御所焼きの太刀」と呼ばれ、
好んで菊の紋で飾られたことから「菊作りの太刀」とも称された。
 菊は日本代表の花で在来種だと思われているが、
本来は古く中国から渡ったもの。
「菊花の御紋章」の由来はここから来ている。
近臣に与えられた太刀は「菊一文字」「菊御作」と
呼ばれて現代にも伝えられている。

さらに女に関してもオールオッケーな方で、皇位であるにも関わらず
白拍子や遊女を 宮中に引き入れて、周囲が引くことも合った。

配流先でも和歌の心を忘れがたく、
本人の著した『後鳥羽院口伝』 (『遠島御抄』とも)は歌論書として有名。
御子左家風の歌を支持する向きであるのに、
なぜか定家を厳しく批判している。

…仲が悪かったのか?と気付いた方、正解。
若い頃は共に歌を愛する同士として 交流があったのだが、
『新古今集』を後鳥羽院が自分の好みで編纂したのを、
定家が「歌人として面目が立たない」と 謗ったのが発端で、決裂。
定家は 院に歌の感覚がないと罵ったり、
院も 内裏の歌合を 定家の母の忌日にわざと重ねたりと泥沼。
弔い事を優先した定家に、院は激怒し、その後 定家を歌合に出席するのを禁止した。
…どっちも 大人げない気もするが…

おかげで、院が流された後定家は
「後鳥羽院とツルんでいた」と思われる事なく、承久の乱でも何のお咎めもなかった。

後鳥羽院の死後、後堀河院の中宮が死産で没し、
仲恭天皇が十七歳、後堀河院が二十三歳で連続して崩御したのは、
後鳥羽院の怨念だと噂された。



この歌は「だいしらず」であるが、
『後鳥羽院御集』では「述懐」の分類を受ける。

「思う」が恋について煩うのではなく、執政者として社会を思う意味で、
百人一首では数少ない例。
なんだかちょっと下降線を描く、後向きな歌だが配流後ではなく、
承久の乱九年前 三十三歳の時の歌。

『百人一首』原型である『百人秀歌』には、この歌が無いことから、
藤原為家辺りが手を加えたとの説もある。  

*************************************************

100 百敷や古き軒端のしのぶにも
   なほあまりある昔なりけり


○王なる宮には瓦礫が落ちて、翠の雑草生い茂る。
すでに栄華の欠片も偲ばれず、軒下這うシダ揺れるだけ。
忍ぶ草というシダに、誘われ昔を懐かしむ。
繁栄あふれたあの御世も、盛者必衰の理に洩れず
過去の幻影に成り果てた。
衰えきった今の世で、栄えた面影しのび立つ。


☆宮中の古い建物軒下に忍ぶ草を見ると、もっと栄えていた昔を思い出すことだ

ももしきやふるきのきばのしのぶにも なほあまりあるむかしなりけり
出典 続後撰集

Juntoku-In
O Imperial House!
When I think of former days,
How I long for thee!
More than e'en the clinging vines
Hanging 'neath thine ancient eaves.

おー帝国の家!
私が日間の前者を考えるとき
私はどのようにあなたを切望するか.
固着はe'enよりもつるを形成する.
汝の古代の軒の下に掛かること.


順徳院 じゅんとくいん (1197〜1242)第八十四代天皇。
名は守成。後鳥羽天皇の第三皇子で、土御門天皇とは異母兄弟。

父 後鳥羽院に愛され、十五歳で即位し 二十五歳で、息子の仲恭天皇に譲位した。

譲位した直後、父 後鳥羽院と謀り、承久の乱を起こすが敗れ、
佐渡に配流される。
身の廻りの世話役として お供は 男四人女三人と定められたが、
男の内の一人は結局行かず、一人は病で 道成りの途中で帰国し
、もう一人は病で乗船できず、結局 付いてきたのは藤左衛門康光のみ。

女の方も 帰国したいと お役御免を願うのを、必死で留めようとする 淋しい生活であった。
二十一年間在島し、悲嘆のまま崩じ 真野の陵に葬られた。
佐渡院とも呼ばれる。

父と違い、政治より歌や音楽の世界を好み、
従来の歌論書を 集大成した『八雲御抄』を著した。

佐渡には 「ほととぎす/時鳥 啼かずの里」と
呼ばれる場所があるが、これは順徳院の歌からきている。
「啼けば聞く聞けば都の恋しきに この里過ぎよ山ほととぎす」
(鳴声聞いたら京都が恋しくなるから、ここは通りすぎてよ ほととぎす)
この歌を詠んで以降、そこでは寂しい毎日を送る院に遠慮をして、
ほととぎすが鳴かなくなった、という訳。

じゃぁ現代でも、そこでほととぎすは鳴かないのか?というと、
そうではなく、後になってやはり佐渡に配流された 日野資朝が
「聞く人も今は亡き世を時鳥 たれに偲びて過ぐるこの里」
(もう鳴かないで、といった人も亡くなっているのに、誰を偲んでほととぎすはこの里を通り過ぎるのかなぁ)と
詠ったので再び鳴くようになったとか。



この歌は「題知らず」。
二十歳の時の承久の乱直前の歌。
幕府に押されぎみであった朝廷は、宮殿の整備に手を入れるものもなく、
実際に荒れ果てていたのだろう。

ここでの「昔」は延喜・天歴の聖代を示し、宮中が 充実していた昔のこと。
ラストに寂しい歌だが、小さい頃は この歌 某駱駝色ズボン下を想像していて、
これを得意札としていた人は、よくからかわれた。

《百敷》宮中、皇居などのこと。本来は 百=たくさんで、たくさんの石で
築いた城の意味から来ている
《しのぶれど》忍ぶ草と昔を忍ぶの掛詞。シノブグサはシノブ科の
多年生シダで、夏の季語。
《なほ》やはり


****************************************************
さて、ここまで来たら締めくくりに川柳を三種紹介しよう。
*「百の字があるで仕舞の御歌也」
 「百敷き」の百が、ちょうど百人一首ラストに入ってこれでおしまい。

*「庵ではじめて軒端にてとめる也」 
一首目…かりほの「庵」の家全体で始まって「軒端」の軒下で終わる。

*「古き軒刈穂の庵の百軒目」 
同じく「庵」から始まって、百首目のこの軒下は百軒目だ。

それでは、皆様お疲れ様。
少しでも暗記に役立ってくれたり、歴史に興味を持ってくれる
一端になってくれれば幸いです。

戻る