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81 ほととぎす鳴きつる方をながむれば
  ただ有明の月ぞ残れる


○何だかすっかり目が覚めて 青白くそっと透き通る
夏の朝景色眺めてた 
どこからともなく鳥の声
声につられ顔をあげ 鳥の姿を探しても 
あるのは暁空ばかり
虹彩に淡く写るのは 明け方の淋しい残月ばかり

☆ ほととぎすの声が聞こえたので、声のする方向を探してみたが
あるのは朝方の月ばかりであった

ほととぎすなきつるかたをながむれば ただありあけのつきぞのこれる
出典 千載集

 Fujiwara no Sanesada
When I turned my look
Toward the place whence I had heard
Hototogisu,--
Lo! the only object there
Was the moon of early dawn.

私が自分の外観を変えたとき
私が聞いた場所起源に向かって
Hototogisu--
見よ, 底はそこで反対する.
速目の月は夜明けだったか?


後徳大寺左大臣ごとくだいじさだいじん(1139〜1191・1192?)藤原実定。
読みは「ふじわらさねさだ」だが「じってい」とも呼ばれる。

藤原公能の息子で、定家の従兄弟にあたる。
何故 後徳大寺かというと祖父の藤原さねよし/実能が
徳大寺左大臣と呼ばれていたので、区別する為「後」徳大寺左大臣とした。
…みんなさぁオリジナルの名前つけようよと、日本史をやっているとしみじみ思う。
一族みんな義のつく名前だとか、三代開いて 
後を付けるだとか テストでどれほど泣かされたか。

ちなみに中国では 先祖と同じ名前を使っては失礼と
名前が 基本的に ダブらないようにするし、一族が皇帝として政権を
握っている間は その名前の文字すら
一般で使用禁止とされる。(例 皇帝が直人という名前だったら
直・人 という漢字は 使用禁止 どうしても使いたい場合 字画を減らしたりして
違う形の文字にすればOK) 

漢詩・和歌・管絃に優れ、蔵書家でもあった。
住吉神社ですばらしい歌を作ったことがあったので、
徳大寺家の年貢米を運ぶ船が 海難事故に遭いそうになった時、
住吉明神が助けてくれたという逸話の持ち主でもある。

徳大寺家は歌詠みが家風のような物であり、家の西の角の間に
「歌の間」という歌人の為の部屋をかかさず 造っているほど
であったにも関わらず、実定は何故か途中から歌から遠ざかっている。

当時は藤原氏に実権はなく、武家政権の平清盛の全盛期。
『平家物語』で、平宗盛に官を越えられたので、 
なんとか自分も出世できる様にと
広島の厳島まで詣でて、左大将になったとある。

平家にそれほど嫌われていなかった人物なのか 良い好敵手と思われていたのか、
平清盛の息子 平重盛が右大将の時に左大将になったり、
実定が右大臣の時に重盛が左大臣になったり 抜きつ抜かれつの出世街道を走っていた。
五十三歳で出家して、まもなく亡くなった。



この歌は「暁聞郭公といへる心を詠み侍りける」で
藤原頼通の「有明の月だにあれやほととぎす ただ一声の行く方を見む」をふまえている。

歌中にある「眺むれど」は ただふと見たという考えと、
思いにふけりながら見たとの解釈がある。

個人的には、ふと見たという感じの方が、素朴でありのままを伝えられ、好き。
『素然抄』ではこの歌を「ホトトギスの歌では一番とでも言うべき」と絶賛している。


《ホトトギス》杜鵑・不如帰・郭公・時鳥・杜宇・蜀魂 等 色々な漢字がある。
梅雨から夏にかけて、悲哀のこもった声で鳴く…と 紹介されるが
鳴声は「てっぺんかけたか ほぞんかけたか」「とっきょ きょかきょく」と
紹介される事が多く ちょっと間抜けな響き。
冥土を往来する鳥と言われ、春は鶯・夏はほととぎす・秋は雁と季語鳥の代表格。
同名の植物もある

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82 思ひわびさても命はあるものを 
  憂きに堪えぬは涙なりけり     


○今日もからっぽポストの中。
ずっと信じて1週間  不安になった十日目の夜。
 疑い尽くして十五日。
「お前との仲は、終わったよ」 耳を塞いだ現実が、心の奥に分け入る 
掘った穴に埋めるのは 昔の写真とプレゼント
  自分の想いも埋めましょう
ざっくり空いた土の間に 恨みつらみを
  ぶちまけて埋葬儀式は完了だ
つれない態度を腹立てて、無慈悲な言葉を
  忘れ捨て、生きてやろうと決めたのに。
  なのに命は耐えられても 何故か涙があふれだす


☆恋の辛さに思い悩んでも命はあるのに、涙は堪えきれず流れてしまう。

  おもひわびさてもいのちはあるものを うきにたへぬはなみだなりけり
出典 千載集

Doin Hoshi
Though in deep distress
(Through the cruel blow), my life
Still is left to me:--
But my tears I can not keep;
They can not my grief endure.

もっとも, 深い苦悩で
(残酷な打撃による), 私の人生
まだ, 左に, 私にはある:--
しかし, 私はそうすることができる私の涙は保たれない;
それら…私の深い悲しみは続くことはできない.


道因法師 どういんほっし (1090〜?)俗名、藤原敦頼。藤原清孝の息子。
崇徳天皇に右馬助という役職で仕えていた。
その役職の任期が過ぎれば、装束は下役の馬飼いに 与えるのが慣わしであったが、
その褒美をケチったため、斎宮行列の最中に 部下に衣服を剥ぎ取られ、
裸で逃げ出したという逸話がある。
これはかなり恥ずかしい。
今でなら、皇族家パレードの真っ最中に部下に襲われ、
裸にしてほっぽり投げ出されたようなもの。
以来、「はだし馬助」、「はだかの馬助」と呼ばれた。
しかし、タフな人でその後もケチは直らなかったらしい。

反面、歌道には熱心で、八十歳になっても毎月「秀歌をよませたまへ」と徒歩で
住吉明神にお詣りしたという。
…現代人から見ると、「歌人の坊さん」という肩書は、
俗世を捨て去ったわびさび幽玄界の人と、イメージしてしまうがこの人は違う。
ケチ・タフ・(歌に関して)未練がましいと三拍子揃っている。

歌合の際、判者 藤原清輔が道因の歌を負けとしたところ、
清輔の元へ出向いて、涙を流して泣き恨んだという逸話も。

また、九十歳を越え すっかり耳が遠くなっても、歌会に出席して人に分け入り
講師の話に耳を傾けていたりもした。

道因の死後、藤原俊成が『千載集』を編集することとなり、
道因の歌を十八首入集させた。
すると道因が 俊成の夢に現われ涙を流して 喜び礼を述べたため、
さらに二首 追集したという話も残っている。
鴨長明は『無明抄』でその歌道への熱心さを絶賛している。

九十歳頃、右大臣家の歌合に出席したとあるので、没したのもその後。
うーん当時では破格の長生きだったろう。

「住吉社歌合」など、大規模な社頭歌合つまり
「第○回 神社前歌合戦」…のような物を主催した。



この歌は「題知らず」で失恋の歌とも、片想いの歌ともされる。
本人の経歴から見ると、なんだか、想像つかないデリケートな内容だ。

《思ひわび》思いわびしく、つれない態度をなげく
《さても》それでも
《憂きにたえぬは》つらさに耐えきれないのは  

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83 世の中よ道こそなけれ思ひ入る  
  山の奥にも鹿ぞ鳴くなる


○もし行くのなら、どこにしよう
青木が原の樹海にしようか
  それとも八幡の藪知らず、知らない山奥鍾乳洞
誰も行方をツカメナイ
決まりに囚われないところ。己を捨てる決心で、色々探索歩き回る
だけどどこかへ逃れるため、都会を離れてさ迷っても、
全てを捨てる道は無い。
最後に選んだ山奥も、憂いごとはあるのだろう。
嘆くようにもの哀しい 鹿の聲が響きゆく。


☆ 世の中というものから、逃れる道などないものだ。こんな山奥にも鹿がかなしげに
鳴いている。

よのなかよみちこそなけれおもひいる やまのおくにもしかぞなくなる
出典 千載集

Kwotai Kogu no Tayu Toshinari
Ah! within the world,
Way of flight I find nowhere.
I had thought to hide
In the mountains' farthest depths;
Yet e'en there the stag's cry sounds.

Ah!世界の中で
私がどこにも見つけない飛行の方法.
私は, 隠すと思った.
山の最も遠い深層で;
まだそこの雄ジカの叫びが鳴らすe'en.


皇太后宮大夫俊成 こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい (1114〜1204)藤原俊成。

普通、「しゅんぜい」と呼ぶが「じゅんぜい」と読むことや 「としなり」と読むことも。
始めは 顕広 という名前だったが、五十四歳の頃改名して 俊成に。

藤原俊忠の三男で、藤原定家の父。
家のあった場所と 非三議正三位皇太后宮大夫で
あったことから、五条三位と呼ばれた。

六十二歳で出家し、法号は 釈阿。
藤原長家が祖であるみこひだりけ/御子左家を 歌道家として成立させたのは、
俊成・定家親子の力に寄る。

俊成は歌を詠む時には 常に古い浄衣を着て正座し、
桐の火鉢を抱きながら心を込めて詠んだのでその姿を 
「桐火鉢のすがた/体」と呼ばれた。
…火鉢って、木で作っても大丈夫なの?とか 
心を込めるのはわかるが、何故火鉢を抱えなくちゃいけないの?
という疑問が湧くが、理由不明。

同じ歌道家の六条家とは激しく対立した
 ちなみに御子左家の由来は、後醍醐天皇皇子 兼明親王の屋敷であった
御子左邸を伝領したことから来ている。

また、女流歌人で有名な ふじわらとしなりのむすめ/藤原俊成女は、
正確な血筋関係では孫。
実の娘の産んだ娘を養子にした。
うーん何故そんな事をしたのか、ちょっと気になる。
静寂が余情的にたたえられた境地を幽玄とする、幽玄体という歌論を創造した。
…簡単に言うと、静かでどことなくもの哀しい世界全般を「幽玄」と名付け、
「それとなくはかなく、哀しい歌」と解説していたものが、
これ以降「幽玄的」の一言で片付くようになったという訳。

後白河院の院宣で『千載和歌集』を作った。



「述懐の百首よみ侍りける時、しかの歌とてよめる」との詞書から、
この歌は俊成が二十七歳の折りの、百首歌の内の一首と分かる。
…にしては随分隠棲的というか、正直暗い。
若さが微塵もあらへんがなと思わずツッコミ。

当時が隠者が流行していたことと、平安朝末期で貴族世界から武家社会へ 
変わっていく状況も影響しているのかも。

『小倉色紙』では四句目が「山の中にも」となっているが、
『自筆本近代秀歌』で「これは定家の書き違いだ」の一言。

八番目の歌でも述べたが、「鹿」には権力者が欲しがる力や
物の象徴という意味もある。
人の居ない山奥へはいったつもりだが、
そこでも覇権争いの声は聞こえてきてしまうなぁ、とも取れる。

《道こそなけれ》のがれる道などない
《思ひ入る》深く思い入る。ここでは、思いに耽る・山に考えながら入るの
       両方の意味に取れる
《しかぞ》然ぞ・鹿ぞの掛詞

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84 ながらへばまた此の頃やしのばれむ
  憂しと見し世ぞ今は恋しき


○ このまま生き長らえたなら、
毎日ため息のこの今も、いつか懐かしく思うのだろう
吐息すらも倦厭な、絶望だけが 心を埋めて時が止ればと
祈りつづけるこの今も。
  憂鬱な校則にしばられて、勉強に悩んだ学生時代。今では恋しく懐かしい。
  慟哭の日々が続くけど、過去の想い出にできるよう
  明日も1日生きていよう。
暗い思い出になったとしても、いつか
  微笑み懐かしめる 過去の出来事にしてしまおう


☆もしこのまま生き永らえたなら、辛いこの世も懐かしく思うのだろうか。
厭だった昔が、今では恋しく思われるのだから。

  ながらへばまたこのごろやしのばれむ うしとみしよぞいまはこひしき
  出典 新古今集

Fujiwara no Kiyosuke Ason
If I long should live,
Then, perchance, the present days
May be dear to me;--
Just as past time fraught with grief
Now comes fondly back in thought.

私が長い間生きるならば
そしておそらく…今日
私にとって親愛かもしれない.--
まさしく深い悲しみによって
悲惨な過去の時間として
もう, 考えで優しく来る.


 藤原清輔朝臣 ふじわらのきよすけあそん (1104〜1177)初名 隆長。
六条家の顕輔の次男。

堀川・鳥羽・崇徳の三帝に仕えた歌学者で、生存中は俊成をしのぎ歌壇の第一人者であった。
  
六条家と御子左家と対立が始まったのは、この人から。
「六条」は、特に歌道でその家を継いだ人を示しているので、苗字ではない。
ややこしいが、御子左家だって藤原氏だし。

歌道 家元名とでも思って納得しましょう。
『袋草紙』の著者としても知られる

七十九番目の歌作者 藤原顕輔の息子だが父とは不仲で、出世もままならず、
父 顕輔が撰じた『詞花集』にも一首もえらばれていない。
歌のエリート一家なのでさぞかし大ショックだったろうが
…それにしても大人気ない親だこと。

この歌での「憂し」とは、ただ愁うの では無く、上記の理由で歌が 全く選ばれなかった
ことのショックを指すとの説も。

また、二条院の勅で編んだ『続詞歌集』が、完成直前に 二条院崩御 により
勅撰集にならなかった事を「憂し」とする説もある。

  現代人から見ると、何がそんなに死にたいほどつらいの〜?と
感じるが、自分 の本が「天皇陛下お墨付き」となるのを
目指して執筆しもうすぐ完成!
で直前、「陛下がお隠れになったから、このお話なしね」と言われたようなもの。

当時の歌学者にとっては、歌=政治の小道具でもあったのだから、
勅撰集を携わったというのは破格の名誉だったのである。

 六十九歳の時に、長寿の歌人を集めて白川の宝荘厳院で 
「しょうしかい/尚歯会」という和歌の会を催した。

参加者は八十四歳〜六十九歳までの、当時ではシルバー軍団、
藤原敦頼、藤原顕広、藤原成仲、藤原永範、源頼政ら。



  この歌は詞書に「いにしへ思ひ出でられける頃、三条大納言いまだ中将にて
おはしける時つかわしける」とある。
「題知らず」となっているものも。

なにー?なんで自分で書いておいて、題を知らないんじゃぁ、と
思われる方もいるかもしれないが、(ここまできて、今更か)
和歌を作る時、特にテーマを決めず 詠み上げたのをそう呼ぶのであって、
別にボケで書いている訳ではない。

この詞書も一見詳しいようだが内容読破に数説あり、
「三条大納言」が誰なのか不明。
ひとつ目が藤原実房を差すとし、実房が中将であった五十五〜六十三歳の頃作説。
ふたつ目が藤原きんのり/公教を指すとし、三十歳頃に清輔が藤原公教に
「昔をなつかしく思う」と送ったとの説。

現在三十歳説が有効。
…しかし昔を懐かしいと言って、こんなクラ〜イ歌が送られてきてもなぁ…。
もっとも、落ち込みからいずれ解放されたのだろう。その後七十四歳まで
本人 生存している。

 《ながらへば》生きながらえていたならば
 《憂しと見し世ぞ》つらいと思った頃が

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85 夜もすがら物思ふころは明けやらで
  閨のひまさへつれなかりけり

 
○ずっとあなたを 待っていた。幾ら時が経とうとも、貴方の気配感じない。
  冷酷薄情卑怯者 悪口脳裏に描きつつ、それでも影を探してる。

  夜通し思い悩みつつ、訪れる貴方を待つ為に 寝室のドア ちいさく 隙間開けておく。
 いっそ眠ってしまいたいのに、睡魔の誘惑 全然来ない。
  時計の針よもっと進め、こんな時間の潰し方 とっとと過ぎて欲しいから。
  朝日を浴びて、ドロドロ 澱む醜い気持ちを即効浄化したいから。
  せめて夜が早く明けるよう、お月様に祈っても開いたドアの隙間には、
  朝の光は射し込まない。 …あなたも朝も私につれない。


☆つれないあなたを想う晩は、寝室の隙間までそっけなく、なかなか朝日が射し込もうとしない

よもすがらものおもふころはあけやらで ねやのひまさへつれなかりけり
出典 千載集

  Shunye Hoshi
Now,-- as through the night
Longingly I pass the hours,
And the day's dawn lags,--
E'en my bedroom's crannied doors
Heartless are, indeed, to me.

現在-- 夜
あこがれて, 私は数時間を過ぎる.
そして, 1日の夜明けの立ち遅れ--
E'en…私の寝室のひびの入っているドア
無情本当に…私


俊恵法師 しゅんえほうし (1113〜?)父源俊頼 母藤原あつたかのむすめ/敦隆女 の子…
であるのだが本人の本名不明。
俊恵は法号で、本名では無い。

祖父・父・本人と三代に渡り百人一首に載っている歌う一族。
八十歳頃までは生存していたが、没年不明。
…有名人なのに不明点が多いなぁ。

通称「大夫公」。東大寺に入るが、後に京都白河で自分の家を「歌林宛」と名付けて、
貴賎僧俗身分問わない歌人を集め、自由な雰囲気な
歌会などを催し、和歌政所とも呼ばれた。

自由というと庶民的 市場的に聞こえるが、参加者は 二条院讃岐・藤原清輔・寂連法師・源頼政・平経正等と
著名的メンバー。弟子に『方丈記』で有名な鴨長明がいる。



この歌「恋の歌とて詠める」と詞書。
妻問婚つまり男が気が向いたら女の家に立ち寄る恋愛形式が、この頃では当然なので、
待つ=女性でないと不可解になってしまう為、俊恵が女の立場で、恨む恋を詠んだ。

自由に行き来可能な現代でも、悩む心が共通する。
恨むべきでない寝室の隙間を恨んだり、心に かけたりする見方が新鮮で、
巧みな表現である。

『応永抄』では「うらむまじき物を恨み、なつかしがる あるまじき物をなつかしがり、
そのおも影にする事、恋の道のならひ也」と判りやすい解説があった。

『千載集』『林葉集』室町期の『百人一首』諸本では、
三句目が「…もの思ふころは 明けやらぬ…」となっていたのだが、
いつのまにか「明けやらで」の方が流布してしまったらしい。

ひま=隙間とは知らなかった頃
「恋人が来ないので、暇な寝室はつれなく見える」と、寝室を外から眺めている
形の解釈をしてしまっていた。そうじゃなくて、寝室から「外」がつれないと嘆く歌だったのね。

《夜もすがら》夜通し 一晩中
《明けやらぬ》夜が明けないとも、心が明けないとも
《閨》 寝室
《ひま》隙間