76 わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの
雲ゐにまがふ沖つ白波

 
○鳥か魚になった気分。
自由な気分に包まれて、大海原で深呼吸。

 果てなく続く紺碧は、船壁までも染め上げて
見渡す限りの青・藍・蒼。
 海と空との境目も遠くかすんで、わからない。
 打ち寄せられる白波も、佇む雲と見紛いまぎれ、
 ひょうびょう縹渺続く、海の境界覆い隠す。
無限に広がる波の中、漂いながら
 背伸びし、吐息。母なる海に思いを寄せた。

☆船に乗って海原に出ると、白波もただよう雲にまぎれて、どこが海の果てで
 どこが空の果てすらもわからない。

わたのはらこぎいでてみればひさかたの くもゐにまがふおきつしらなみ
出典 詞花集 

Hoshoji no Nyudo Saki no Kwampaku Daijo-Daijin
O'er the wide sea plain,
As I row and look around,
It appears to me
That the white waves, far away,
Are the ever shining sky.

O'er…広い海の平野
私が船をこいで, 見回しながら
それは私にとって現れる.
白は遠くに振られる.
輝きの空である.


法性寺入道前関白太政大臣 ほっしょじにゅうどうさきの かんぱくだいじょうだいじん(1097〜1164)
藤原忠実の息子。法性寺殿とも呼ばれた。
ものすごい早口言葉のような呼名だ。しかもこの中に名前は含まれていません。
本名 藤原忠通。

ちなみに、百人一首中二番目に名前の長い、 後京極摂政太政大臣はこの人の孫。
祖父孫で揃ってこんな長い呼名付けなくてもいいのに。

法性寺入道とは法性寺の坊さんという意味で、法名は円観。
たこ入道とか 一つ目入道とかで、お馴染みの通り 
入道=坊さんという意味で、個人名ではない。

関白太政大臣は、並ぶものない位階の頂点 役職名。
名前を分かりやすくすると、「前は 日本トップクラスの官僚で 
今は法性寺の坊さんだよ」という意味になる。

十一歳で元服、鳥羽天皇の時に二十五歳で関白、
次の祟徳天皇の時に摂政・太政大臣関白、
更に次の近衛天皇の時に摂政と まさに若き日から エリート街道まっしぐら。

父と不和であった為、末弟 藤原頼長に後継位を奪われるが、
保元の乱で祟徳上皇についた父と弟を倒し 相続権を取り戻した。
若いうちに家庭内で苦労した分、大人な方で、性格は寛仁で人を愛し
文芸・書にも優れたブラボーな人。
法性寺流書道の祖でもあり、そんえん/尊円親王に受け継がれて、御家流となる。

世尊寺流に力強さを付加したとされ、後に後京極流となった。



この歌の詞書は
「新院、位におはしましし時、海上眺望といふことを 詠ませ給ひけるに詠める」
つまり、崇徳上皇がまだ天皇位についていた頃、
海を眺め見た内容で歌を詠めと言われ詠んだ、とある。

潮騒の音とともに雄大なパノラマが、脳裏に浮かぶ。

《わたの原》広々とした海
《雲井》雲の天井、とでもいった意味で空を指す。

******************************************************

77 瀬を早み岩にせかるる瀧川の
 われても末に逢はむとぞ思ふ


○川の流れの勢いは、涼しく 見えて激しく強く。
眩しき しぶき/飛沫をあげながら、いわお/巖に当たり流離する。

一度わかれたその水が、やがて一つに戻るよう、
我等のこの身も喩えよう。
透明な水に心をゆだね、辛い思いで今別れても、
きっとどこかでまた逢おう。

☆早く流れる川瀬で、水が岩によって二つに分かれるが、結局戻るように
  私達もまたどこかで出会いましょう。

せをはやみいはにせかるるたきがはの われてもすゑにあはむとぞおもふ
出典 詞花集

Sutoku-In
Though a swift stream be
By a rock met and restrained
In impetuous flow,
Yet, divided, it speeds on,
And at last unites again.


迅速な流れであるが, あること.
会われて, 抑制される岩石で
激しい流れで
まだ…分割…それは疾駆する.
ついに, 再び結合する.


崇徳院 すとくいん・しゅとくいん(1119〜1164)第七十五代 崇徳天皇。
本名 あきひと/顕仁。 配流された土地から 讃岐院とも呼ばれる。

現存最古の百人一首カルタ( 兵庫県芦屋 滴翠美術館)では、天皇であったのに
畳の縁が臣下用の模様で描かれている。

鳥羽天皇の第一皇子だが、母親が 鳥羽天皇の祖父である
 白河院の「お手つき」であると噂があった。

その為、鳥羽天皇は 崇徳天皇を自分の息子と認めず「叔父子」と言っていた。
余談だが、鳥羽天皇は ウルトラ級美女に化けた
妖狐「玉藻の前」 に誑かされる物語で有名。
陰陽師に破れた玉藻の前は都を逃れ、毒を放つ岩 殺生石になったとある。

閑話休題 白河法皇の意向で 五歳で即位。 
法皇死後、政権を父 鳥羽上皇に奪われ、
二十二歳で三歳の近衛天皇に譲位させられる。

勿論、三歳の天皇に実務は不可能.な為、
実権は 鳥羽上皇と摂政 藤原忠通の手にあった。
(この歌のひとつ前の作者)近衛天皇が十七歳で亡くなり、
崇徳上皇の弟 後白河天皇が位を継ぐ。

上皇が二人居ることから、鳥羽院を 一院・本院と呼び、崇徳院を 新院と呼んだ。
その年に 鳥羽上皇もなくなり、崇徳院は積年の恨みで 保元の乱を起こした。

しかし、結局 乱に敗れて 讃岐に流され、当地で悲憤のまま没した。
大部経を写し、父の墓に奉納したいと申し出たが断られ、流されたことの
恨みも重なり、一度も 爪を切らず 髪もヒゲも伸ばし放題にして
「われ日本国の大魔縁となり、皇をとって民となし
民をとって皇となさん」
(大魔王となって、皇室と一般民の身分が入れ替わるようにしてやる)と遺言。

舌を噛み切り その血で神仏に誓状をしたため、五部大乗経 を書写して亡くなった。
歴史上、天皇としては累を見ない 凄まじいまでの恨みは恐怖を呼び、
後世で 丁重に鎮められている。
『保元物語』では「生きながら天狗の姿になった」とある。

また、生きながら怨霊になったとも言われ、
没した二年後、鎌倉幕府が成立し、後鳥羽、順徳両天皇が 臣下によって、
島流しに遭うという稀有な事例が起き、呪いを 実現した 大魔王として認識されている。

反面、『詞花集』を撰上させたり、百首歌を 何度か
詠進させる等、和歌に熱心であった。

1868年8月26日、明治に年号が変わるわずか 12日前に
勅使大納言 通富は 崇徳天皇御陵に出向き、
「京都に神社をつくりましたので(白峰神社宮)怒りを鎮め 
天下が安穏となるようお助けください」
と詠み上げている。これは 怨霊鎮魂 つまりタタリよけ。
現代に近い時代でさえ、崇徳天皇の呪い は生きていると思われていたのである。



この歌は「題知らず」で、
元歌は『久安六年御百首』の
「ゆきなやみ 岩にせかるる滝川の われても末にあはんとぞ思ふ」
これも作者は 崇徳天皇ご本人。

『詞花集』に収録する際、改作したらしい。
私は勢いあって、瀬を早み…に惹かれるが 歌評では、
「これを直したのは間違いだ(元歌の方が良い)」と言われている。

落語「崇徳院」は、一目ぼれの相手に この歌をなげかけられ、
意味がわからず 珍解釈をする
若旦那が主題となっている。

「超スピードの 流れでぶつかって、 岩を割るぐらいの 根性で、また逢おうね」と
珍解釈をしていたのは、学生時代の私だ。

恋の歌ではあるが、地方に流された自分が、また もとの流れに戻り
都に復帰する…という願いをこめての歌かもしれない。

《瀬を早み》川瀬の流れが早いので
《せかるる》塞かるる。せきとめる、さまた妨げる

*****************************************************

78 淡路島通ふ千鳥の鳴く声に
  幾夜ねざめぬ須磨の関守

 
○ 哀しげな、鳥の聲。
空を翔ける鳥にも、苦しみはあるのだろうか 
悲鳴のような、その響き。

幾度眠りを覚まされただろう。わが身の嘆きを なきかける。
須磨の関所の番人も、都に思いを 馳せながら
幾つ眠れぬ夜を過ごしたか。
淡路島へと帰り行く、小さく哀しい千鳥達。今日も憐れな声で鳴く。


☆淡路島へ通う千鳥の声で、須磨の関守は何度目が覚めただろう。

あはぢしまかよふちどりのなくこゑに いくよねざめぬすまのせきもり
出典 金葉集

Minamoto no Kanemasa
Guard of Suma's Gate,
From your sleep, how many nights
Have you waked at cries
Of the plaintive sanderlings,
Migrant from Awaji's isle?

須磨のゲートの警備
あなたの睡眠, いくつの夜から
あなたは叫びで目覚めた.
悲しげなsanderlings(ミユビシギ)について
淡路の島から, 移住性


源兼昌 みなもとのかねまさ (生没年不明) 美濃守 源俊輔の子。
生没年不明で、たまに「天永三年」 1112年が没年となっているものもあるが、
これは出家した年。
「大治三年」1128年に住吉歌会に兼昌入道名で出席してるので、
その頃まで生きていたことは、判明している。

宇多天皇皇子 敦実親王の六代孫、といっても 
当時の貴族は どっかしら 必ず天皇家に繋がるので、
六代孫なんてほぼ他人。
六代前の先祖を知っている人、何人居るやら。

藤原忠道の 屋敷で開かれる歌合に参加し、忠道家歌壇で
活躍したが歌人としてさほど有力ではなかったらしく
『百人一首抄』『応永抄』では「此の百首(百人一首)に入るべき人とは思えぬ」
定家の見る目を疑っちゃうね、と辛口不評。

江戸時代の国学者である契沖も、
「さして名高い歌詠みにあらず」と兼昌の歌が入首していることを不審としている。
無名な人が、たまたま選に入っちゃったからといって、この言われようは
ちょっと気の毒である。



詞書は 「関路千鳥といへることをよめる」
この歌は、収録されている本に よって微妙に単語が異なっている。

『応永抄』では一句目の「淡路島」が「あはちかた」
明石海峡を隔てた須磨の西南になっているおり、
『経厚抄』『幽斎抄』などでは四句目の「幾夜寝ざめぬ」が「幾夜寝覚めを」
もしくは「幾夜寝ぬらん」「幾夜寝ざめぬる」になっている。

『源氏物語』の「須磨」で、不倫が ばれて流された 光源氏がわびしく
千鳥を詠みこんだ歌を創ったのを踏まえている。

強い印象はないが、心に残る鳥の鳴声・配流の土地・関守・幾夜と
いった言葉それぞれの情感が、しみじみとした心持にさせる。

《千鳥》チドリ目チドリ科。群れをなして飛ぶので、この呼び名がついた。
海岸川辺でえさを取る。ひょこひょこ可愛らしげに歩く様子が
頼りなく、千鳥足の語源になった。冬の季語
《須磨》神戸の海岸

*********************************************

79 秋風にたなびく雲の絶え間より
 もれいづる月の影のさやけさ


○やるせない夜、窓越しに空を見上げる。
ガラスに写るやさしく遠い星の光 
闇に浮かぶ秋風にたなびく銀の雲。
薄く雲の切れ間から、原初の月が貌を出す。
差し零れる月光は、虚空清明澄み果てて、
私の心に冴え渡る。

☆秋風にたなびく雲の隙間から、月光が美しく洩れている。

あきかぜにたなびくくものたえまより もれいづるつきの かげのさやけさ
出典 新古今集

Sakyo no Tayu Akisuke
See, how clear and bright
Is the moon-light finding ways
'Mong the riven clouds
That, with drifting autumn-wind,
Gracefully float o'er the sky!

どれくらいはっきりと,そして明るく見なさい.
月光は方法を見つけている.
'…裂かれた雲をMong(a mongで囲まれて)する.
漂流秋風があるそれ
優雅にo'erを浮かべなさい…空


左京大夫顕輔 さきょうのだいぶあきすけ(1089?・1090?〜1155)
藤原顕輔。藤原あきすえ/顕季の三男。

堀川・鳥羽・崇徳・近衛の四帝に仕えた。
白河天皇の近臣として 昇進するが、後に疎外。
天皇没後 また政界に復帰した。
…それにしても激しい政権交替だこと。 父は歌道 六条藤家の祖で
、息子は歌学者藤原清輔、歌人で有名な藤原けんしょう/顕昭は養子、
孫の有家・友家もやはり名高い歌人と まさに歌うエリート一家。

発端は顕季であるが、 歌学知識の伝承や確立から、
六条家の歌祖と呼ばれているのは 顕輔である。
ちょっと父の立場ない。それにしても、いろんなものに流派があるんだなぁ。

末子ながらその歌才を見込まれ、
相伝の柿本人麻呂の肖像画 こと「人麻呂影」を受け継ぎ、
父の初めた人麻呂影供を続けさせた。
人麻呂影は本来、藤原兼房が夢に見た人麻呂像を 白河院に献上し、
それを模写した物でつまりは コピー。

のちに献上された本物は 焼失してしまい、こちらが本物となった。
六条家の由来は、顕季の邸宅の一つが
京都烏丸六条にあったことから。
保守派と呼ばれ数代活躍したが、南北朝時代に断絶した。

顕輔自身も、歌壇で指導者的役割を果たし 家で歌会を催すことも 数回あり
『詞花集』の撰者を務めている。後に出家。



この歌は「崇徳院に百首の歌たてまつるに」と
詞書にあり、『久安六年百首』の一首。

『久安六年百首』は 崇徳院が当時著名だった 十四人の歌人達に
歌を百首進上させ 編纂もので、そちらのオリジナルでは 
初句が「秋風にただよふ雲の…」となっている。

夜闇の中、雲から顔を出す月…一瞬の叙景が、鮮明清澄と目に浮かぶ。

《さやけさ》清らかで、はっきりしている

********************************************

80 長からむ心も知らず黒髪の
 乱れて今朝はものをこそ思へ


○とわ/永久に貴方を愛すると、夕べ あなたはそう言った。
  つのる想いがようやくかない、あやかな夢に浸りたいのに
  どこかに冷静な自分がいるの。
浮気なウワサ耳にした。
  永遠なんて誓えるかしら?
  夜闇の 熱い想い出が、心に重く絡みつき
  うねる長い黒髪が、けだるい肢体を搦めとる。
  白いシーツに広がった、乱れ流れる 黒髪が惑いに 浮いた私みたい。
  褥の上での寝物語。信じてみたくてやるせない。

☆ 長く心は変わらないというが、人の心は当てにならないので今朝の乱れ髪の様に、
私の心は乱れています。

  ながからむこころもしらずくろかみの みだれてけさはものをこそおもへ
出典 千載集

Taiken Mon-In no Horikawa 
If it be for aye
That he wills our love should last?
Ah! I do not know!
And this morn my anxious thoughts,
Like my black hair, are confused.

それ…賛成
彼が我々の愛を望んでいるのは持続するべきであるか?
Ah! 私は知らない!
この朝…私の心配している考え
私の黒い髪が好きである…混乱する.


待賢門院堀川 たいけんもんいんほりかわ(生没年不明)
藤原顕房の孫で 源顕仲の娘。

姉妹も 大夫典侍、上西院兵衛などの 有名歌人。
すでにお馴染みの通り、この人が「院」とよばれる身分なのではなく、
待賢門院に仕えた堀川という人、という意味。
堀川は 祖父の兄 堀川左大臣から由来する。
祖父の兄なんて、ほぼ他人の気がするが…。

はじめ 白河天皇の皇女 さきのさいいん/前齋院令子内親王に仕えていたため、
さきのさいいんのろくじょう/前齋院六条(ただの六条とも)と呼ばれる。

後に鳥羽天皇の皇后 待賢門院しょうし/璋子に仕えたため、
この名で呼ばれた。
待賢門院が出家した際ともに尼となった。

西行とも親交があり、歌の贈答を交わしている。
当初、藤原忠通女房堀川と 同一人物説もあったが、
現在は別人と見られている。



この歌は 「百首の歌奉りける時恋の歌詠める」とあり、
『久安百首歌』をつくりあげた際の恋をテーマにした歌で、後朝の返歌としている。
後朝…つまり初エッチした翌朝、男が想いを歌にして女に贈り、
それに対しての返事である。

艶冶的官能的で、白い寝布の上に乱れる 黒髪の様子が印象的。
恋がかなった 翌朝の返事としては、ちょっと じめっぽいが こういう儚げな女は
男性諸君にポイント高そうだ。

しかし困ったことに、『群書類従本』ではこの歌の初句が
「長からぬ」で打消しの意味となっている。
「む」と「ぬ」の一文字だが、それだけで意味は正反対。

この場合だと「長くない心も知らないで、乱れた黒髪を見ては
(昨日の晩の出来事を)思っています」と、ラブラブモードで
一夜の熱い思い出に浸る女を冷静に見つめる主人公になってしまう。

まぁ、こちらの打ち消しの歌はほとんど膾炙していないので、参考にまで。

《長からむ心》長くあいしてくれる心、という意味だが長く=黒髪を連想させる
《物をこそ思へ》物思いにふけいってしまう
   
戻る