71 夕されば門田の稲葉おとづれて 
  蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く
 

○土の匂いと、草の香り 
  寒いぐらいの秋風が、夕方頃に門前の
  稲穂を揺らし 吹きぬける。
  さやさや鳴らすその風は
  私の元へも 訪れて萱葺き屋根下 通りゆく。


☆夕方になると、門前の稲畑に秋風が吹き、粗末な家にも吹き入ってくる。

ゆふさればかどたのいなばおとづれて あしのまろやにあきかぜぞふく
出典 金葉集

Dainagon Tsunenobu
When the evening comes,
From the rice leaves at my gate
Gentle knocks are heard;
And, into my round rush-hut,
Autumn's roaming breeze makes way.

晩が来る場合
私のゲートの米の葉から
温厚なノックは聞かれる;
そして, 私のラウンドに, -小屋を急いで運びなさい.
秋の移動微風は道を作る.


  大納言経信 だいなごんつねのぶ (1016〜1067) 源経信。源道方の六男。
博学多芸で和歌・管絃・詩に秀で、藤原公任と並び
 「三船の才」(55の藤原公任の項参照)と称された。

漢詩・和歌・管絃・蹴鞠・有識故事に通じ、中でも 琵琶を得意とし、琵琶の 桂流の祖とされる。
別荘が桂にあったことから、桂大納言とも呼ばれた。

その能力振りをアピールする為、白河天皇が嵐山で
三船の催しをした際、 わざと遅刻。
「どの舟でもいいから、乗せてください」と一番近くに居た管絃の船に乗り、
更に後から 乗船しなかった 課題分の、
歌と詩を遅刻のお詫びにとばかりに 天皇に奉ったので
こう呼ばれるようになったとか。 

ただし知識に優れ教養深いから、一流重役トップクラス 
幸福人生 まっしぐらかというと、
そうではなく大納言まで進んだのに、なぜか後に 
太宰権師におとされ、八十二歳で大宰府で没した。

太宰権師は 菅原道真も落とされた役職で、ていのいい地方窓際 左遷であった。



この歌は「梅津の山里に 人々まかりて、 でんけしゅうふう/田家秋風と 
いふことを詠める」京都府右京区の梅津の山里に源師賢の別荘があったので、
みんなで出かけた際、秋の農村風景を詠んだもの。

机上の産物ではなく、実際に訪れた上での歌だから実感がこもり、
さっと秋の涼風が通りすぎる感触が、伝わってくる。

《夕されば》夕方になれば。さるとは去るで、いまでは過ぎてしまうの意味だが、
当時は時間の移動を示す言葉で「来る」とか「なる」の同義であった
《門前の稲葉》家の前の田んぼ
《芦のまろや》芦の葉で屋根を葺いた、粗末な小屋。一般的な農民の家。

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72 音に聞く高師の浜のあだ浪は
  かけじや袖の濡れもこそすれ

  
○袖が濡れ、泣いたりすること無いように
 有名な高師の浜の大波には、気をつけて。
  それよりもっと、気をつけるのは
波のように寄せては返す 浮気なあなた。
気の変わりやすいと有名な、プレイボーイで浮気なあなた。
「だから貴方と付き合わない」 うっかり甘い言葉を信じたら
  涙をこぼすはこの私。涙で袖を濡らすのはイヤ。


☆ 有名な高師浜の仇波を、袖に掛けたりしませんよ。掛けてしまって涙で袖を
 濡らしたくはありませんから

おとにきくたかしのはまのあだなみは かけじやそでのぬれもこそすれ
出典 金葉集

Yushi Naishinno-Ke no Kii
Well I know the fame
Of the fickle waves that beat
On Takashi's strand!
Should I e'er go near that shore
I should only wet my sleeves.

井戸Iは名声を知っている.
打たれる飽き性の波について
隆のストランドに関して!
I e'erはその岸に達するべきである.
私は自分のスリーブを濡すだけであるべきである.


  祐子内親王家紀伊 ゆうしないしんのうけのきい (生没年不明)
「紀伊」で「き」と読む説もある(紀伊国屋だってキノクニヤでしょ?)
しかし名前で、「き」と呼ばれていたとは考えにくいのだが…。
呼びづらいし。

堀河御乳母 典侍紀伊三位師子と同一人物か?
平経方の娘・源忠重の娘・藤原師長の娘説があり、
一体誰が父親やねんと ツッコミたいが未詳。

紀伊守 藤原重経の妹とも、妻とも言われる。
これだけ周囲の名前が上がっていて、身元が謎なのもめずらしい。
はじめ 後朱雀天皇の 中宮女原子に出仕した事と、
兄もしくは夫の 重経の役職が 紀伊守だったことから
「中宮の紀伊」と呼ばれた。次いで 女原子の娘で 高倉邸に住んだ 祐子内親王に仕え、
祐子内親王が第一皇女だったことから「高倉一宮紀伊」「一宮紀伊」とも呼ばれた。

 しかし、この名前ややっこしいぞ。
てっきりこの人が 内親王家の身内かと思ったもん。
まして 一宮なんて 付いたら姫様かと 勘違いしてしまう。

祐子内親王家の後見が、摂政・関白・太政大臣を務める時の大権力者、藤原頼通であったため、
一宮家の羽振りはよく、歌合せは盛大に度々行われており、紀伊も参加していた。



  この歌は「堀河院御時 艶書合によめる」の詞書。
堀川院の艶書合わせの歌会で、返事として詠んだ「返し」の歌。

艶書というとイヤ〜ン、ウフフなイメージだが、(どんなだ)いわゆるラブレター。
はじめに男性陣が、女房達に求愛歌を書き、それに対する返歌を披露する形で催された。

 中納言 俊忠が「人知れぬ思ひありその浦風に 
波のよるこそいはまほしけれ」
(人は知らないでしょうが、恋悩んでいますので風に寄る波のように、貴方の元へ通いたいものだ)
と歌ったのに対しての歌。

 あくまでも宮中行事の一環で、実際に恋人関係であった訳ではない。
その証拠に、といっては失礼だがこの頃紀伊は七十才ぐらいであった。
 
《音に聞く》噂に聞く
  《高師浜》大阪の高石の浜と波に掛かる高しの掛詞
  《あだ波》いたずらに立つ波。ここでは誠意に欠けた口説きを例えている
  《かけじや》かけない。波を袖に掛けないと、想いを貴方にかけない

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73 高砂の尾の上の桜咲きにけり
外山の霞立たずもあらなむ

 
○高き峰に開く花
やさしく枝を覆い尽くし、桜花びら舞いおどる
白い紗しっとり山を隠し、夢幻の無限 世界を創る。
霧は結界、狭間の境目。人里しっかり纏っても山里景色は隠すなよ
ようやく咲いたあの花を、皆のまなこ眼に焼きつけろ

☆山峰でようやく花が咲いた。霞よ立つな、桜を隠さずにいておくれ

たかさごのをのへのさくらさきにけり とやまのかすみたたずもあらなむ
出典 後拾遺集

Gon-Chunagon Masafusa
On that distant mount,
O'er the slope below the peak,
Cherries are in flower;--
May the mists of hither hills
Not arise to veil the scene.

その遠方のマウントに関して
O'er…ピークの下のスロープ
チェリーは開花している;--
こちらにの霧が積み上げる5月
場面をベールで覆うために, 起こらない.


  前中納言匡房 さきのちゅうなごんまさふさ (1041〜1111)大江匡房。大江成衝の息子。
大江匡衡 と 赤染衛門の曾孫に当たる。

権中納言匡房とも、太宰権師に 二度なったので ごうそち/江師とも呼ばれた。

後冷泉・後三条・白河・堀河の四天皇に仕え、後三条時代には
「延久の荘園整理令」を建議するなど、政治家としても活躍。

 あまり有名な 家柄の出でもないのに、 
博学ゆえに異例の出世をして 「三事兼帯」となる。
つまり衛門佐・五位蔵人・弁官三職を兼任したすごい人。

この役に任じられるのは、大変名誉なこととされていた。

四歳で書を学び、八歳で『史記』を読み、十一歳で詩を作った…って本当かー?
『史記』なんて、成人式をとっくに終えた 大人でも、現在では読破した人少ないぞーと、
思わずツッコミたくなるほどの神童ぶりだ。
二十歳すぎればただの人、となる事もなく『傀儡記』『本朝神仙伝』など 著書も多数。

天才っぷりは伊達じゃなく、 侍読 つまり皇太子家庭教師役を三度も歴任している。
教え子に三人も将来の天皇がいるというのは、グレートステータスであるし、
本人の明晰さをいわずと語る。

平等院設立時、四足の大門を北向きに 造った例はあったかとの問いに、
専門家でもない匡房が日本の古代建築から 
中国インドの建築例まで並べて答えたという 逸話もある。
…普通の人は、外国の門の向きまで知らないよなぁ。

武将として名高い 八幡太郎こと 源義家が、ある日戦ばなしをしていたところ、
匡房が「好漢、惜しむらくは兵法を知らず」とつぶやいた。
それを伝え聞いた義家は、匡房に弟子入りし兵法を学んだという。

頭が良過ぎて世を憤り、山に隠れようとしたが、
藤原経信の 諌めで思いとどまったこともあった。



「内のおほいまうち君の家にて、人々酒 たうべて 歌詠み侍りけるに 
はるかに山の桜を望むといふ 心をよめる」が詞書。

内のおほいまうち君 とは 内大臣藤原師道のことで、宴会上の歌。
墨絵的な霧立つ山峰に、美しくほのかな一斤染めの桜
…幽玄的で、格調高い一幅の絵のようである。

読み人知らずの「山ざくらわが見にくれば春がすみ 峰にも尾にも立ちかくしつつ」の
本歌取りであるとされる。

《高砂》高い砂の集まって出来た山の意で、地名ではない。
《尾上》高い山の上、峰の上。
《外山》里に近い山⇔深山・奥山の反対

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74 憂かりける人を初瀬の山おろし
  はげしかれとは祈らぬものを


○私のことが嫌いなの?もともと会話は途絶えがち。 
  避ける様に姿を隠す。
  この想い少しでも伝わってと、初瀬の長谷寺観音に
  お参り祈ってみたけれど、あなたは増々冷たい態度。
  山風段々激しくなるように、冷たい視線を投げつける。


☆冷たい人が振り向いてくれるように、願いをかけたのに、初瀬の山風の 
  ように一段と冷たくなっている。そんな風になれとは、祈らなかったのに。

うかりけるひとをはつせのやまおろしよ はげしかれとはいのらぬものを
出典 千載集

Minamoto no Toshiyori Ason
I did not make prayer
(At the shrine of Mercy's God),
That the unkind one
Should become as pitiless
As the storms of Hase's hills.

私は願いをかけなかった.
(Mercy(慈悲,情け,あわれみ)の神の聖堂の),
それ…不親切なもの
薄情になるべきである.
長谷の丘の嵐として.


源俊頼朝臣 みなもとのとしよりあそん (1055〜1129)源経信の三男。俊恵の父。
堀川・鳥羽・崇徳の三帝に仕えた。

世渡り上手だったのか、政権争いに興味のない窓際だったか。多分後者。

とはいえ この頃 政権交代が非常に激しく、在職中に五人も天皇が
  変わった人だっている位なので、とりたてて騒ぐほどでもない。

まぁそれでも、しょっちゅうトップが替わるのに 一定の地位にいられるのは、
それなりの保身はしているのでしょう。
 政治的にはあまり出世していないが、父と共に歌壇の革新に勤め、
  自由な歌風で多くの歌会に参加したり、 判者つまり 歌の審査員として出席している。

歌会は出席者が ただ読むのではなく、その歌の優劣を決めたので、審判役が必要であった。
この次の75の歌の作者である、保守派の藤原基俊と対立したが、
基俊が才をたのみ人を謗るタイプであったのに対し、
俊頼は温厚な性質であったことから 多くの人に支持を受けた。



この歌、「権中納言俊忠の家に 恋の十首の歌 よみ侍りけるとき、
祈れどもあはぬ恋といへる心を詠める」との通り、
祈っても想う人に逢えない恋が主題。

ここでの「逢えない」は 実際の距離ではなく、心が通い合わないの意味ととれる。
短い物語性のある歌。
『小倉色紙』では「山おろしよ」となっているが、語呂的にも ない方が言いやすく、普及している。
しかしこの歌、現代では ストーカー扱いされかねないぞ。
そこまで嫌われているのに、お参りにまで行って、尚もアタックする根性は買うが、報われない恋だろう。

《うかりける》憂くありけるの略で、暗くつれない・思いになびかない。
浮かれてるの変化形かと早合点して、妙な訳をしないよう要注意。←やったのは学生時代の私
《初瀬》奈良県桜井市長谷町の初瀬寺。泊瀬寺・長谷寺とも。初瀬の観音があって、
人々に信仰された。牡丹の花の名所。

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75 契りおきしさせもが露を命にて
  あはれ今年の秋もいぬめり

 
○「大丈夫、僕を信じてまかせていいよ」あなたは笑って、そういった
貴方の言葉を頼りにし、時が来るのを待っていた 
なのにそれきり何もない さしもぐさ/差艾に宿った露のよう、
転がり落ちて忘れたの?
  いつまで待っても連絡来ない
縺れた糸は、ほどけぬまま 約束の秋はすぎてゆく


☆さしも草に付く露のような約束を頼りに、待っていましたが果たされないまま
今年の秋も過ぎてゆきます

ちぎりおきしさせもがつゆをいのちにて あはれことしのあきもいぬめり
出典 千載集

Fujiwara no Mototoshi
Though your promise was
"Like the dew on moxa plant"
And, to me, was life;
Yet, alas! the year has passed
Even into autumn time.

あなたの約束はそうしたが,
「もぐさプラントの上の露」
そして…私…人生だった.
しかし, 残念ながら年は経過した.
秋時間までさえ.


藤原基俊 ふじわらもととし・きしゅん (1054・1060?〜1142)
父 藤原俊家は右大臣までなったが、本人は出世に恵まれなかった。

出家後は 覚舜と称した。藤原俊成の師と なるなど 和歌をよくしたが、
源俊頼を激しく忌み嫌い、性格は驕慢で人望は薄かった。



「僧都 光覚 維摩会の講師の請を申ける時、たびたび 
洩れにければ 法性寺 入道前太政大臣に
うらみ申けるを、しめぢがはらと侍りければ またその年も 
洩れにければ つかはしける」の詞書。

藤原氏であるが、官位の低かった基俊は、時の実力者
 藤原忠道に、出家している息子 光覚を
興福寺の維摩会講師にして欲しいと、優遇を頼んだ。
維摩会とは十月十日から、七日間にわたって維摩教を講じる法会のこと。

これを勤めると、恒例的に宮中の最勝会の講師にもなれた
しめぢがはら」ではよく判らないが、 しめじがはら を読みこんだ
「なほ頼めししめぢが原のさせも草 われ世の中にあらむかぎりは」
(しめじが原のさせも草よ 自分がこの世にある限りは頼っていいぞ)
という歌が過去に既存しており、それを踏まえての「了解」という意味の返事。

しかし 忠道はこう送ってきたにもかかわらず、
約束の時に なっても何の音沙汰もなかった。
そこで、あの約束はどうなりましたか?と基俊はこの歌を贈った。

いつの時代も変わらない親心というか、
子供の 裏口入学を頼んで 裏切られてしまう 
現在とかわらぬ、親莫迦ぶりを示している一方、
約束と信頼を破られた 悲嘆も込められている。


でも詞書を読むまでは、恋の歌かと思っていたし、そうとも取れる。
私訳はそんな感じで書いたので、 親父がオヤジに向って贈った歌とは考えないように。
ちなみにこの次の七十六番目の歌が、約束を破った相手。
はっはっは意地悪な並べ方だね。

《させもぐさ》差艾・指艾・焼草 ヨモギの別名。
伊吹山に生えるさしも草の露は、不老不死の妙薬との伝説があり、
酒呑童子はその水を飲んで育ち、霊力を得たとの伝説もある
《露》ここでは、相手にとっては儚い約束の象徴と、
自分にとっては命の源である貴重な水の意 をあらわしている



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