66 もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし

 
○何もかも捨ててしまいたくなって、山奥へ独りハイキング。
少し疲れた躰をやすめ、木陰でひとつ大きく背伸び。
頚を動かし見上げると、遅咲き桜が乱舞した。
桜よ、お前を懐かしもう。お前も私に親しんでおくれ。
今ここには、私と桜二人きりの世界なのだから。

☆お互い懐かしく思っておくれ山桜よ。ここでは花と私しかいないのだから。

もろともにあはれとおもへやまざくら はなよりほかにしるひともなし
出典 金葉集

Saki no Daisojo GyosonのSaki
Let us, each for each
Pitying, hold tender thought,
Mountain-cherry flower!
Other than thee, lonely flower,
There is none I know as friend.

それぞれのためにそれぞれ我々をさせなさい.
哀れんでいて, 保持穏やかな考え
山チェリー花!
あなた…孤独な花
私が友人として知らないなにもある
.

前大僧正行尊 さきのだいそうじょうぎょうそん (1055・1057?〜1135) 
前を付けず大僧正行尊と表記されることも。
当たり前だが、そりゃある年代過ぎたら皆、前のになるもんね。

源基平の息子だが、右大臣頼宗の養子に。12歳で出家。
…養子で若くして出家というと、なんだか継子いじめを疑ってしまう。
特にそうだという記述もないが、
望んで出家という文章もないので、不問にしておこう。

歌だけでなく書にも優れ、行尊没後も 
残された手跡が 仮名文字の手本として、
利用されるほどであった。
明行法親王・明尊大僧正の弟子だが、
始めは 熊野三山検校預で山伏修行。
十七歳で諸国行脚に出る。
この頃から優秀な才能をみとめられ、祈祷にも 優れたことから
白河・鳥羽・崇徳の三帝の護持僧になった。

円城寺長吏、天王寺別当などを務めた後、
天台座主になるが、延暦寺との対立によりすぐ辞任。
仏教界では随分とお偉様のはずなのだが、
寺に留まらず諸国の霊場を行脚し廻っている。



この歌の詞書は 「修行し侍りける時、
大峰にて思ひかけず 桜の花を見て詠める」

ハイキングではなく、修行場である奈良の 
吉野山で 遅咲きの桜を見かけて、詠んだ歌。
お坊様の本格的な修行は、ツラくキビシイものなのに、風流な方だ。

ここでの「思ひかけず」は「桜が散ってしまい
初夏に近いのに咲いている」と季節と見る説と、
「深山では、花の咲かない木がほとんどなのに 
その中で桜がぽつんと佇んでいる」と場所と
見る説があるが、特に気にしなくても良い。

《もろともに》お互いに、一緒に。よく時代劇などで
悪役が「死なば諸とも…」と 
叫んで主人公や、お偉い様を巻き込もうとするので
おなじみのせりふ台詞。

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67 春の夜の夢ばかりなる手枕に
  かひなく立たむ名こそ惜しけれ

 
○春の日に、みんなで徹夜でバカばなし。
うとうと眠気に誘われて、思わず私アクビをひとつ。
それを目ざとくみつけた君は「腕枕してやろうか」とからかい笑う。
ありがと気持ちは嬉しいけれど、そんなことをした日には
次の日学校中の噂だよ。

☆春の夜の夢のように短い腕枕のせいで、二人に何かあるかのような無益な噂が
立つのは悔しいですよ。

はるのよのゆめばかりなるたまくらに かひなくたたむなこそをしけれ
出典 千載集

Suwo no Naishi
If, but through the dreams
Of a spring's short night, I'd rest
Pillowed on this arm,
And my name were blameless stained,
Hard, indeed, would be my fate.

夢 スプリングのものでは, 短い夜,
私は休息するだろう.
このアームでは, 枕になられる.
そして, 染みを付けられて,
私の名前は非の打ちどころがなかった.
本当に, 困難なのは, 私の運命だろう


周防内侍 すおうないし (?〜1110?)周防守 
平 むねなか/棟中の娘で、本名平 仲子。

一説には 父が つぐなか/継仲とも。後冷泉天皇の元へ出仕した。
父の役職名プラス、内侍司の総称である 女官名が呼び名の由来。

後冷泉・後三条・白河・堀河の四人の天皇に仕え、没する少し前に出家している。
『栄華物語』末巻の作者という説もあるが未詳。



この歌の詞書は 「如月ばかり月あかき夜、二条院にて人々あまたゐあかして 物語などし侍りけるに、
内侍周防 よりふして 枕をがなと忍びやかに いふを聞きて、大納言忠家 
これを枕にとて かひなを御簾の下より
差し入れて侍りければ詠み侍りける」

今回の訳は、ほとんど当時の状況そのまま。
如月つまり二月、月が明るい中に皆で夜語り中、枕が 欲しいと呟いた 
周防内侍に、藤原忠家が御簾から 腕を差し出し、
腕枕してあげようと答えた。
それを断るときに詠んだのが、この歌。

二月というと、まだまだ冬というのが現代のイメージだが、 
陰暦なので想像よりは、気温も暖かい「春」なのだろう。
 この断りだけでも優雅だが、忠家は更に 「契ありて春の夜深き手枕を 
いかがかひなき 夢になすべき」 一夜をかわす程の深い仲での手枕なのに
(要するにベッドで過ごす既成事実ありあり)、
どうしてつまらない春の夢にしちゃうのかなぁと、
平安貴族の名に恥じぬ伊達男っぷりな歌を返してる。

とっさにこう返しちゃう忠家の性格は好みだが、
この歌、周防の歌が出来が良過ぎて、評価がいまいち低い。
男女の恋愛が、比較的自由だった平安朝らしい歌。

とっさに歌を読み上げた周防内侍も、それを返した 
藤原忠家も機知に富み、社交辞令上のやり取りにしても、
お似合いのカップルだ。春の夜・夢といった女性好みの単語から始まり、
身近にありそうなエピソードから覚えやすい。

《夢ばかりなる》夢のような短い間の
《かひなく》何の甲斐もなく無益に、と腕枕のかいな肘を掛けている

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68 心にもあらでうき世にながらへば
  恋しかるべき夜半の月かな


○死んじゃいたい。全てを捨ててしまいたい。
私は大地の一片の土くれとなり
何もかもを見透し何者にも関わらない。
だけど私はまだしばらく、人として生き続けてしまうだろう。 
不本意に現世にとどまれば、冴えた今宵のこの月を
いつか懐かしく思うのだろうか。


☆不本意にでもこの世に永らえたなら、いつか今夜の月を恋しく思うだろうか。

こころにもあらでうきよにながらへば こひしかるべきよはのつきかな
 出典 後拾遺集

Sanjo-no-In
If, against my wish,
In the world of sorrows still,
I for long should live;--
How then I would pine, alas!
For this moon of middle-night

私の願望
悲しみの世界…まだ.
長いIは生きるべきである;--
どれくらい次に, 私が切望するだろうか, ああ!
中央夜のこの月に.


三条院 さんじょうのいん (976〜1017)六十七代目三条天皇、 名は おきさだ/居貞。

冷泉天皇の第二皇子。没する1ヶ月前に出家し、法名を 金剛浄といった。
天皇というと、日出づる国第一人者 栄耀栄華思いのまま、
天上天下唯我独尊というイメージがありますが、
この方 とてもそうとは 思えぬほど悲惨です。

十一歳で皇太子に立ち、三十六歳で天皇位につくが、眼病に悩まされ 
(どうも現代で言う緑内障?眼圧が高まることから、
視野が狭まり視力が後退する病気)当時の権力者であった藤原道長と対立。
天皇対家臣では 本来 天皇優勢のはずなのに、
事あるごとに迫害されて 宮中行事すらままならなかった。

政略婚の為、 道長の娘 けんし/妍子を中宮に据えられた 三条天皇は、
皇太子時代から寵愛するせいし/?子を 皇后とする条件を出した。
しかし せい子の立后式の日に、道長は里帰りしていた
 妍子を参内させ、 大勢の貴族は 皆そちらに参加。

立后式は、病気で家に篭っていた 貴族などをかき集めた
 参加者四人のみ、という淋しいものだった。
…かき集めて四人…どれだけ屈辱か、想像するにも余りある。

さらに五年後には眼病を理由に退位させられ、
道長の外孫に当る 四歳の 後一条天皇に譲位させられた。

それ迄に、皇居が二回火事になっているし (中国の思想で、頻繁に都に良くない事があると、
天皇に徳がない為と考えられた)
退位後は病が悪化しついに失明。退位の翌年、四十二歳で崩御。
権力とはほど遠い、名ばかりの皇位であった。



「例ならずおはしまして、位など去らむと覚しめしける頃、月のあかかりけるを御覧じて」の詞書。

退位して失意の中、冴えた月を眺めての一首。『栄華物語』では
中宮 妍子に詠みかける形となっている。
失明の直前の月なので、余計に心に焼きついたであろう。

室町期の本では、三句目の「浮世に…」が「この世に…」となっているものもある。
また、この歌は三条院の皇后作説もあるが『栄華物語』の不備による、間違いと判明している。

《心にもあらで》心外にも、思いもがけず。
《恋しかるべき》恋しくなるだろう。

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69 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 
 龍田の川の錦なりけり


○累々と続く ひぢりめん/緋縮緬 。
  淅瀝と降るもみじ葉は、虚無の水上散在し
  風吹くたびに、揺れ躍る。
 びゅうとやまあい山間吹き散らす 嵐が落すは楓の葉。
  龍田の川を紅染めて、茜の錦繍お織りあがる。


☆山風で舞散った三室山の紅葉で、龍田川は錦のようになっている。
 
  あらしふくみむろのやまのもみぢばは たつたのかはのにしきなりけり
  出典 後拾遺集 

Noin Hoshi
By the wind-storm's blast,
From Mimuro's mountain slopes
Maples leaves are torn,
And as (rich) brocades, are wrought
On (blue) Tatta's (quiet) stream.

風嵐の爆破で
Mimuroの山のスロープから
カエデ葉は引き裂かれる.
(豊かな)綾錦…扱われる.
(青い)龍田の(穏やかな)流れ


能因法師 のういんほっし (988〜?)俗名 橘 ながやす/永ト 。
遠江守 橘元ト(橘忠望の説も)の子。 一族の 橘為トの養子になる。
うーん読みにくい名前の一族だね。他にも何人か出ているが、
名前の終わりが「ン」だと「〜ほうし」でなく「ほっし」と読む。

きせんほっし/喜撰法師とか りょうぜんほっし/良暹法師とか。
最も現代では 「ほうし」でほぼ統一されているので、
知識として蓄えておけば上等でしょう。

この人 坊さん名も このようにちょっとややこしいが、本名はもっと難読。
一発で読めた人、拍手をあげます。

三十六歌仙の一人。 文章生となり肥後進士と号するが、
三十歳頃出家、理由は恋人が死んだためといわれる。
初めの法名は融因。 摂津 こそべ/古曽部に住んだため、古曽部入道とも称される。
歌は藤原長能に師事した。
これまで歌道に師弟関係というものはなかったが、ここで歌の師匠・弟子という関係が
誕生したといわれている。

歌には熱心で、生前 伊勢が短冊を結んだことで
有名な松の前を、通りかかった能因は
慌てて牛車より飛び降り「名高い伊勢の結び松の前を車に乗ったまま
通り過ぎることは出来ません」と
松が見えなくなるまで歩いたという逸話や、
美しい旅の歌を作ったが、
都に居たまま詠んだのではウケが悪いと考え居留守を使い、
旅行に出たまねをして庭で充分日焼けした後、
その歌を披露したという経歴が記されているお茶目さん。



この歌は「永承四年 内裏の歌合わせ」の詞書。
1049年11月9日の歌会で詠んだ歌。豪華絢爛なイメージで、見栄えは良いが
巧緻もなく近代の上では、不評を受けている。
参考までにこの歌上下句を「嵐が立った」とすると暗記しやすい。
嵐は近くの人の名でも、アイドルの名でも何でも良いから人名を想像する。
こじつけたモン勝ちという事で。

《あらし吹く》嵐は暴風でなく、二十二番の「吹くからに…」歌の通り山風
《三室山・龍田川》奈良県生駒郡の山川。かんなびやま神南備山と大和川上流の川

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70 さびしさに宿を立ち出でてながむれば
  いづこも同じ秋の夕暮


○一人ぼっちで部屋に居た。
 夕焼け色に染まった壁が、なんだか妙に淋しくて
財布を持って外に出た。
だけど辺りを眺めると、どこもかしこも枯葉の秋。
かさこそ乾いた音がして、周囲にはもう誰も居ない。
まるで異境にいるように、寂寥と胸を締めつける。


☆さみしくて外に出て見たが、どこも同じ秋の夕暮れだった。

さびしさにやどをたちいでてながむれば いづくもおなじあきのゆふぐれ
出典 後拾遺集

Ryozen Hoshi
In my loneliness
From my humble home gone forth,
When I looked around,
Everywhere it was the same;--
One lone, darkening autumn eve.

私の寂しさで
旅立つ私の粗末な家から
私が見回したとき
いたる所では, それが同じだった;--
1のひとりで,暗くなっている秋前夜


良暹法師 りょうぜん・りょうせんほっし (生没年不明)生没年・伝記不明。
父を道済とする説もあるが未詳。 六十八歳頃、没したといわれる。

比叡山の お坊様で 京都洛北の大原に住んでいた。
…ところで名前の暹という漢字、あまりにも 見たことないので 
漢和辞典を引いたら 唯一の単語が
「暹羅」で国名のシャムと読むとあった。 
シャム猫の原産地だが、はたして日本人の何人がこれを読めるだろうか…。

歌人としては有名であったらしく、 源俊頼が 友人と大原へ 遠乗りに出かけた際、
俊頼が突然馬を下りたので友が理由を聞くと、「良暹法師が住んでいた土地だから、
下馬して敬意を表す」と言ったと『袋草紙』にある。



「題知らず」 の詞書の歌だが、『小倉色紙』では
「さびしさに宿を立ち出でなかむれと いつこも同じ秋の夕暮」と、微妙に言葉が異なっている。

また『百人秀歌』では 「いつくも同じ」となっている。 
どっかで写し間違えでもしたのだろうか、
そんなに深く追求する程のものではないので予備知識とでも。
一般的には 「ながむれば・いずこも…」で出回っているので、
大丈夫あなたの知識は間違っていません。

俗世間の感情や煩いを捨てたはずの仏僧でも、
ふとした秋の寂しさは同じく感じるんだなぁ。
一説ではただ家から離れるのではなく、家を 住み捨てるものとして
一層深い感慨を示すと見る説もあるが、ちょっとそれはうがち過ぎな気も。

《宿》自分の家・我が家。後の世代になって、
現在言う宿屋はたご旅篭などを指すようになる


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