61 いにしへの奈良の都の八重桜
  今日九重に匂ひぬるかな

 
○虚栄の王国、揺れる影。
昔日にぎわう奈良の都に、彩り添えた八重櫻。
歴史の地脈を受け継いで、今ここで尚艶やかに
鴇色花弁撒き散らし、薫放として咲いている。


☆昔、奈良の都で咲いた八重桜が、今宮中で咲き誇っている。

いにしへのならのみやこのやへざくら けふここのへににほひぬるかな
出典 詞花集
  
Ise no Osuke(大輔がオオスケと訳されているそれでも可)
Eight-fold cherry flowers
That at Nara,--ancient seat
Of Our State,--have bloomed;--
In Our Nine-fold Palace court
Shed their sweet perfume today

八重のチェリー花
奈良-ancient(古代の)のそれは固定される.
Ourでは, 州--haveは咲いた;--
Our Nine-fold Palace(私達の9の折り重なる宮殿)法廷で
今日, それらの甘い香水をはじきなさい


伊勢大輔 いせのたいふ・いせのだゆう (?〜?)41の 中臣能宣朝臣の孫。
神祇大輔大中臣すけちか輔親の娘。
 父 輔親が伊勢神宮の祭主であったことから この名で呼ばれる。

高階成順に嫁し、七十歳頃死亡。



詞書は 「一条院御時、奈良の八重桜を人の奉りけるを、
その折御前に侍りければその花題にて 
歌よめとおほせごとありければ」とある。

意味は 簡単だが、背景を知らないと、ちょっと不明で 
何が言いたいのか分からなくなってしまうかも。

  一条院 こと 藤原道長に、奈良の八重桜が献上され、受け取る役であった
 伊勢大輔が 道長に手渡す際、
この花を主題とした歌を詠めといわれ即興で返した歌。「

殿を始め奉りて、万人感嘆宮中鼓動す」と大絶賛だった。
当時八重桜は京都では見られず、奈良から取り寄せていたらしい。
また、中宮・彰子がその歌をたいそう喜び、返歌を詠んでいる。

個人に向けられた歌ではないのに異例のこと。

「九重に にほふを見れば 桜狩 重ねてきたる 春かとぞ思ふ」
(宮中が艶やかであるのを何かと見れば桜だ。まるで春が重ねてきたようだ)

本来桜を受け取る役は、 紫式部であったが 新参の 伊勢大輔に譲ったとある。
紫式部とは先輩後輩の同僚で、中宮彰子に共に仕えた。
『袋草子』では 始めて出仕した、
伊勢大輔の歌才を試そうとして詠ませたのだとしている。

意味的には深くないが、咲き誇る花の映像のあでやかさと、
公の場にふさわしいめでたさを兼ね備えた上、
いにしえと今日、やえ/八重とここのえ/九重の対照も鮮やか。
この頃の都は京都であるので、
奈良の旧都 平城京を、いにしえの都とあらわした。

《八重桜》ヤマザクラが変化した物。花びらが幾重にかさなるのを、八重とした。
桜の中では遅めに開花。春の季語。
《九重》宮中のこと。昔中国の宮殿に九重の城(門)があったことから由来。
《匂ひ》香りではなく、映えるとか艶やかという意味。
確かに桜はあまり匂わない。○訳では薫りとしているのは、ご愛嬌。

***************************************************

62 夜をこめて鳥のそらねをはかるとも
  よに逢坂の関はゆるさじ


○昔々のお話です。朝にならなきゃ開かない関所
 ここが開かなきゃつかまっちゃう。困った困ったその人は
 得意の物まね一発芸。朝を告げる一番鶏、コケコッコーと高らかに。
 つられて寝ていた鶏達も、大慌てでコケコッコー。
 寝ていた番人飛び起きて、慌てて関所を開いたよ。
中国昔のお話さ。
 だから日本の番人は、コケコッコーではもう開かない。
 逢坂の関の番人は、夜が明けなきゃ開かない。


☆夜の明けぬうちに鶏の鳴きまねをしても、かんこくかん函谷関とは違い大阪の関は
許しませんよ
 
よをこめてとりのそらねははかるとも よにあふさかのせきはゆるさじ
 出典 後拾遺集

Sei Shonagon
Though in middle night,
By the feigned crow of the cock,
Some may be deceived;--
Yet, at Ausaka's gate
This can never be achieved.

もっとも, 中央夜
コックのfeigned(振りをする)カラス(何故か烏と
英訳されている)で
何かがごまかされるかもしれない;--
まだ…Ausakaのゲート
これを決して達成することはできない
.


清少納言 せいしょうなごん (生没年不明)清原元輔の娘。

苗字の一部と、元輔が 小納言であったことからこう呼ばれた。
橘則光と結婚し、後に一条天皇皇后定子に出仕。
その様子は『枕草子』に詳しい。

物を はきはき言い、私は賢いのよ〜と いった書きっぷりが、ちょっと反感もたれがち。
有名な「香爐峰の雪」エピソード
(「香爐峰の雪ってどんなかしら?という定子の問いに 清少納言がサッと 御簾を掲げ
こんなです と返した)でも、
最後に「他の女房達皆が、が こんなに 機転の利く 
貴方は 宮に仕えるべき人と 述べた」と自画自賛で
 しめくくっている辺りからも伺える。

「雪は○日後まで残る」との賭けに 一人勝った清少納言が
証拠とばかりに 雪を集めに行くと、その雪が消えていた。
「誰のしわざっ!?」と追求すると それは定子だった。
「みんなが雪を残っていたのは知ってるのに わざわざ 
証拠を つきつけたりするのは 貴方がヤナ奴と 思われるだけだから
処分 しちゃったの」

おちゃめで 巧みに諌める 定子とのやりとりと、
納言のそんな女主人への愛着振りがほほえましく、
文章に見える感性は 今にも通じるエッセイスト第一人者である。

定子崩御後 藤原棟世に嫁するが、晩年は出家し 京都郊外に住んでいたとも、
零落してぼろぼろの家に住んでいたなどとも言われるが未詳。



この歌は、大納言藤原行成とかわしたもので、
「大納言行成物語などし侍りけるに、内の御物忌に こもれば、
急ぎ帰てつとめて鳥のこゑに もよほされてといひをこせて 
侍りければ、 夜深かりける 鳥のこゑは
函谷関のことにやといひつかはしたりけるを立ちかヘリ これは相坂の関に侍ると
あればよみ侍りける」の詞書…

何割かの人がとばし読みしただろうな…。

原典の 函谷関の物語は 『史記』の孟嘗君伝に由来する。
史記は当時どちらかというと男性向けの教養本。
何気ない応答歌でも、才女っぷりをアピールしている。

朝方に物忌みだからと、とっとと帰ってしまった 行成が
「鶏の声にせかされて、早く帰ったのです」と弁解。「函谷関のニセニワトリかしら?」
「いいえ(男女の)逢う(坂)関です」とのやりとりのあと、
鶏の声で函谷関はひらいても、逢坂の関の向こうに
居る私はだまされませんよと返した歌。

  物忌みとは、穢れや災難にあわないよう一定期間家にじーっと篭っていること。

《そらね》鳴きまね

********************************************

63 今はただ思ひ絶えなむとばかりを
   人づてならでいふよしもがな

 
○愛があなたの邪魔になるなら、僕から君にさよならあげる。
眠れない夜に、思い出まとめて捨ててしまおう。
奥行きいっぱい詰められた記憶を捨てて、孤独を詰める。
同じとき刻をきざめないなら、もう一度だけ君に逢いたい。
「さよなら」の言葉 人に預けてしまわずに、自分で貴方に伝えたい。


☆今はもう貴方を思いきろうと、人づてでなく自分で伝えられる方法が
あればいいのに。

いまはただおもひたえなむとばかりを ひとづてならでいふよしもがな
出典 後拾遺集

Sakyo no Tayu Michimasa
Is there now no way,
But through others' lips, to say
These so fateful words,--
That, henceforth, my love for you
I must banish from my thoughts?

現在, どんな道もない.
しかし, 他のものを通って,は, 言うために唇を触れる.
これらのとても運命的な単語--
今後はのそれ…私のあなたに関する愛
私は自分の考えから追放しなければならない.


左京大夫道雅 さきょうだいふのみちまさ (993?〜1054)藤原道雅。
儀同三司こと藤原 これちか/伊周の息子で、童幼名 松君。

東宮亮となった頃は祖父に愛され、世の覚えもめでたかったが、
父が 藤原道長に押され 幼くして失脚し
(54で紹介したが、天皇射掛事件)不遇のまま一生を閉じた。

父の失脚で出世の道はすでに閉ざされていた 通雅は「荒三位」と称されるほど、
奔放な素行を繰り返したという。



『栄華物語』によると、この歌は三 条天皇皇女 とうし/当子(一説によると常子)との
恋愛をテーマとしている

当子は 伊勢神宮の斎宮。斎宮とは 役職で、巫女のようなもの。
神に仕える身として 未婚の処女でなくてはならず、 
その身分は 当然 恋愛沙汰御法度であった。

不文律で、役目 引退後も一生独身が定めの、正直女性にとってはヤナ役目。
大抵 天皇の身内にあたる娘や 妹が託宣で決められた。

これは、その極秘の二人の恋愛が 周囲にばれて、引き離されたときの歌。
詞書では 「伊勢の斎宮 わたりよりまかり上りて 侍りける人に忍びて かよひけることを、
おほやけ聞こし召してまもりなど つけさせ給て、忍ぶにもかよはず 
成にければよみ侍りける」となっている。

ここでの「おほやけ」とは天皇で、 「まもりなど」は侍女のこと。
天皇にばれてしまい、見張りの女がつき、逢うことも
出来なくなってしまったので詠んだという意味。

すごいドラマチックで、今の映画も真っ青。
ばれた時点でもう 一生めちゃくちゃの事態なのに、それをまた 和歌にしているから凄い。
当然事態を知った天皇は激怒し、道雅を 左近衛中将から左京大夫に左遷。

左京大夫は左京職の長官だが、検非違使が置かれてから、実権はない 
お飾りの要職であった。
道雅はそのまま政権に復帰することなく死亡。

当子内親王も大きく落胆し、十七歳で落飾。
(尼さんになったという事だが、神仏混合してて大丈夫なのかな)
ただの失恋の歌なら、ちょっと鬱陶しく思ってしまう歌だが 
背景を知ると、悲痛な嘆きと絶望の声が見えてくる。

《思ひ絶えなむ》思いきる、あきらめる。…考えを止めるという意味で、死ぬことかと思っていた
…勿論間違い、そうだったらめちゃ不吉な歌になる。
《言ふよしもがな》言ふよしで言う手段、すべ術。言う方法が欲しいものだ。

******************************************

64 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに
あらはれ渡る瀬々の網代木


○めずらしく早く起きたので、宇治川沿いに軽くジョギング。
 吸いこむ息は冷たくて、朝靄濃くて向こうも見えない。
 ゆっくり上る太陽が、空気を蜜柑色に染め替えて
 だんだんと霧を晴らしてく。
 途切れ途切れに顔を出すのは、川の流れと杭と網。
   気分爽快、朝のいっとき一刻。


☆朝方、宇治川の霧も途絶えてきて川瀬のあちこちに網代木が見えてきた
  
あさぼらけうぢのかはぎりたえだえに あらはれわたるせぜのあじろぎ
   
出典 千載集
Gon-Chunagon Sadayori
Lo! at early dawn,
When the mists o'er Uji's stream
Slowly lift and clear,
And the net-stakes on the shoals,
Near and far away, appear!

見よ, 早いことでは, 明けなさい.
いつ…o'er宇治のものが流す霧
ゆっくり, 持ち上げて, クリアしなさい.
そして, 浅瀬でのネットの賭け
近くて遠いこと…出現


 権中納言定頼 ごんちゅうなごんさだより (995〜1045)藤原定頼。藤原公任の息子。
権中納言の権とは、 仮 とか 准 の意味で 位としては中納言より下。

四条中納言とも呼ばれた。
能筆家であり、 ソラで経文が読める名手とも言われる
一方、藤原氏 全盛期の驕児 あったとも称される。

小式部内侍、相模、大弐三位らと親しく交流があった。
 60番目の歌のエピソードにも 小式部をからかう役目で 名が見える。

若い頃、あつあきらのみこ/敦明親王の従者と 自分の従者が騒動を起こした時に、
親王の従者をひどく痛めつけるよう 自分の従者に命じたため、
 行事の役を 五年に渡って停止されたこともある。

摂政 藤原頼通は「定頼才能ありて 賢きことは賢けれど、
緩怠なる事、また甚だし」と評している。



「宇治に、まかりて侍りけるとき 詠める」の詞書。
宇治に行ったとき詠んだ歌。この頃、『源氏物語』が流行していたので、
その中の「宇治十帖」を意識してだろうとされる。

「眼前の景色つくろう所なく、 うつくしさそのままを読み出した歌の上」という、批評が一般的
とされてるので 良い歌なのだろう、多分。
なぜ多分かというと、正直あまり魅力が無い。 

想像しても、とても綺麗な風景とは言い難いし、
それによって 揺り動かされる感情も湧かない。
叙情的…なのかもしれないが、その割に網なんて、日用品がでちゃぁねぇ。
好きな方、ごめんなさい。

一説によると 人間の現れ隠れる有無を、あらわ/著した歌とも。
朝ぼらけで始まる歌は、もう一種あるので 札取りの際はご用心。
 
《宇治》京都の宇治。宇治川は琵琶湖に発し、淀川に合流する川。
現在はお茶や平等院鳳凰堂があることで有名。
『応永抄』では山深く、川上の霧も晴れがたき所とある
《網代木》あじろぎ、上代はあじろきと読む。川の瀬に杭を立て、網を絡ませ
    魚を取る仕掛け。

*********************************************

65 恨みわび乾さぬ袖だにあるものを
  恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ


○このままの関係続くなら、辛い思い出になってしまう。
   やさしい言葉を思い出し、その度私は涙を拭う。
   あなたの為に男友達と別れたし、袖が乾かないほど泣いたりもした。
 まわり周囲はおもしろ半分噂する。男が浮気をしてるって、女がしつこくすがってる、
いやいや共に愛想が尽きた。それともケンカしたのかな。
   そんな噂を聞くたびに、名前が貶められるようで私は悔しく歯噛みする。

 
☆あなたの冷たさを恨み、袖は涙で乾く暇も無いのに、その上この恋で世間から
悪く噂される我が名が口惜しいです。

うらみわびほさぬそでだにあるものを こひにくちなむなこそをしけれ
出典 後拾遺集

Sagami
Even when my sleeves,
Through my hate and misery,
Never once are dry,--
For such love my name decays:--
How deplorable my lot!

均等…いつ…私のスリーブ
私の憎らしと災いで
かつて決して乾いていない.--
そのような愛のために, 私の名前は腐食する:--
どれくらい嘆かわしいこと…私のロット



   相模 さがみ (998?〜?)源頼光の義理の娘、実父不明。

武勇に優れた義父 頼光は「らいこう」とも呼ばれ、酒呑童子退治や 
土蜘蛛伝説など 多くの文芸物語に名前が出ている。
夫の大江 きんすけ/公資が相模守であったことから、こう呼ばれた。

当初は夫と夫婦仲むつまじかったが、あまりに仲がよすぎたか、
宮中昇進会議で 大江公資を 格上げしてやるべきかという 
話題が出たときに、
「妻を抱くのに いそしみ、役職を疎かにしそうだから駄目だ」と 
右大臣 小野宮実資があざけったので、
結局望みの役職に付けず、そのまま夫婦仲も悪くなってしまった。
小野宮という人も根性が悪い。

公資と別れた後、入道一品 脩子内親王家に出仕。
多くの歌会に出席・判詞を務め、歌壇の中心的役割を果たした。



 詞書によると、 1051年5月5日の「永承六年内裏歌合」で詠まれたもの。
解釈は二通りあり、ひとつは 「毎日泣いて涙で袖が乾く暇も無く、
朽ち果ててしまい(腐ってしまい)、名前までも恋故に朽ちる」とする説と、

もうひとつは「涙で毎日濡れている、この袖ですら朽ちないのに、
私の名前は朽ちてしまった」とする説。

つまり、袖が無事かそうでないかの二通り説で、
現在はどちらかというと 腐ってしまった説が有効。
泣くだけではなく、お前のせいだ悔しーぞという歌は珍しい。
欠点を述べるなら、この歌では すまなかった、もう一度 俺達やりなおそう 
という気にはなり辛い点だ。

一度恨み言ぐらい言わなくちゃ、気が済まないという人向け。
もっともこの歌は、歌会で詠んだものなので、とくに相手は指定されていないけどね。

《恨みわび》恨むプラス侘しい
《ほさぬ》乾かぬ、ここでは涙の為。
《恋に朽ちなむ》恋のせいで、朽ちてしまう。ここでは名前が悪く噂されてしまう。

戻る