6 かささぎの渡せる橋におく霜の
 白きを見れば夜ぞふけにける


○真夜中にふと、散歩したくなって 犬を連れての道なり散策。
 吐く息白く、空気が歯に凍みる冷たさ。
七夕の夜、織姫彦星が会うために、天の川に鵲が橋を作るって昔読んだ絵本にあった。
その伝説の橋ほどじゃないけれど、霜がおりてきらきら光る目前の夜橋も充分綺麗。
…だけど、寒すぎ。あと少しだけ見ていたいけど、風邪ひく前に家に帰って もう寝よう。


☆天の川の伝説の橋のように、霜が降り白くなっているこの橋を見ると
 夜が更けてきたなぁと感じられる。

かささぎのわたせるはしにおくしもの しろきをみればよぞふけにける
出典 新古今集

Chunagon Yakamochi

If the "Magpie Bridge"--
Bridge by flight of magpies spanned,--
White with frost I see:--
With a deep-laid frost made white:--
Late, I know, has grown the night.

「カササギの橋」--
かかられるカササギの飛行による橋--
霜で, わかりましたを空白にしなさい:--
ひそかにたくらんでいる霜が白くされている状態で:--
遅く私が知っている…夜を育てた.


中納言家持 ちゅうなごんやかもち (718?〜785)大伴家持。三十六歌仙の1人。
大伴旅人の息子。少年時代を、九州の大宰府で過ごし、
山上憶良や小野老などと共に歌をつくって過ごした。

父の異母妹にあたり、妻である
おおとものさかのうえのいらつめ/大伴坂上郎女(坂上大嬢)も有名歌人。
越中守・兵部大輔など、地方や中央の 諸官歴任を経て、中納言に至る。
中納言は役職名だから、今風に言えば課長家持…ってところだろうか。
父親も歌人で、自分も歌人な一見優雅な家庭。

その分現実問題対処が苦手だったらしく、
生きてる間に一度 死んでからも一度、無実の罪を着せられている。

死んでからの罪とは死の翌月に起こった 「長岡京造宮使長官 藤原種継暗殺事件」。
これに関わっていたとされ、没しているにも関わらず、官位を剥奪された。
名誉が回復されたのは、その二十年後。
大伴氏の権力が衰えはじめ、藤原氏に圧されていた為不遇に終わった。
萬葉集』の大部分を編纂したといわれており、最多の479首が入集しているが、
この歌は『萬葉集』には載っておらず『新古今集』の歌。



詞書は「題知らず」。『家持集』では、ラスト五句目部分が「夜はふけにけり」になっている。

正岡子規は、この歌の嘘が面白かったらしく、『歌よみに与うる書』の中で
「全くないことを空想で現して見せたるゆえ面白く感ぜられ候。
嘘を詠むなら全くないこととてつもなき嘘を詠むべし、
しからざればありのままに正直に詠むがよろしく候」と述べている。

本文中の「かささぎの橋」とは、古代中国での織姫彦星にまつわる伝説の橋で、烏鵠橋とも。
…この烏(う)はカラスで鵠(くぐい)は白鳥のこと。
どうしてそれがカササギなんだとややっこしいが、それでも同一視されているのだから仕方ない。

別の説では、伝説では無く 宮中のみはし/御階ではないか ともいわれているが、諸説がある。
子規のように空想とする説、高貴な人物の邸宅の階とする説、
現実の地上の橋とする説など、様々な議論がなされている。
幻想的で、凍るような寒気が伝わってくる感覚・視覚的な歌。

《かささぎ》鵲 肩と腹が白く、他は黒の羽根を持っている。(この歌のせいで、
      ずーっと白鷺系の真っ白な鳥かと思っていた)かちがらす・朝鮮烏
 ともいい、秋の季語

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7 天の原ふりさけみれば春日なる
三笠の山にいでし月かも


○留学生として、海外に来た。
夜空を仰ぎ、月を見る。 冴え渡る月光は 暗渠の闇に尚美しい。
言葉も文化も何もかも 自分のくに邦とは違う異境。
とうの昔に慣れはてた、そんな想いでいたけれど。
故郷の奈良の三笠山で見たものと、全く同じあの満月、
月闇の中 薄紺にたたずむ山をを眺めてしまった為だろうか。
もうすぐ日本に帰るのに、何故か突然ホームシック。
故郷が途端に懐かしい。


☆この大空に見る月は、故郷春日の三笠山で見たものと同じ月なのだろうなぁ。

あまのはらふりさけみればかすがなる みかさのやまにいでしつきかも
出典 古今集


Abe no Nakamaro

When I look abroad
O'er the wide-stretched "Plain of Heaven,"
Is the moon the same
That on Mount Mikasa rose,
In the land of Kasuga?-

私が海外を見るとき
O'er…(詩語・overの短縮形)広い伸ば天の「平野」
月は同じである.
山の三笠バラのそれ
春日の陸で?



安部仲麿 あべのなかまろ(698?・701〜770)「阿倍」「仲麻呂」と表記することも。
安部船守の息子。この方、出世・長生きしたけど結構悲惨です。

十六歳で きびのまきび/吉備真備らと遣唐使として入唐。
中国に行き、玄宗皇帝の下で働く。皇帝の信頼厚く、ちょうこう朝衡と名乗り高位に昇った。

中国有名詩人の 李白・王維らとも親交がある。
玄宗皇帝というと、楊貴妃のせいで色気に惑い国を滅ぼした、うつけ皇帝というイメージがあるが
若い頃は政治能力に優れ、国を繁栄させた名君で、能力があれば外国人でも優遇した。

朝廷に仕えながら何度か帰朝を試みたが上手くいかず、
753年(入唐後36年目)六十一歳の時、藤原清河一行にしたがって最後の帰朝を試みた。
しかし結果これもうまくいかず、船は暴風にあい難破。
漂流の末、安南(現在のベトナム・ハノイ)に漂着。

無事助かったのだが、都では溺死したとの噂が先行し、
中国歴代歌人がそれをいとなむ詩まで造っている。
その後再度長安へ戻り、そのまま七十歳になるまで日本に帰れず寿命を迎えた。

ホームシックにかかってたら、本当に悲惨。
45年も中国にいて、まだ日本を愛して帰ろうとする辺り立派だ。
(それだけ長く居ても蔭では未開発国人とでも、いじめられていたのだろうか…)
今の日本人なら、最進国に行ってバリバリに出世できたら、あっさり日本国籍を捨てて現地人になりすます気がする。

結局トータルすると、人生約1/4以下しか、日本にいなかった。



この歌は遣唐留学生だった作者が、中国の明州で詠んだとされている。
「もろこしにて月を見てよみける」の詞書。

望郷の歌にしては、さらっと明るく流されている。
これは、もうすぐ帰国という祝宴の際に詠んだ歌だからであって、
この後また中国に逆戻りしてくるとわかっていれば、もっと重い感じになったいただろう。
現在の西安のこうけいきゅう興慶宮跡は公園になっているが、阿倍仲麻呂を記念する五メートル近い石碑が立っており、
漢文調のこの歌が刻まれている。


《あまのはら》広々とした大空。日本神話では天上界を指す
《春日》奈良市春日神社近辺。当時海外などへの旅行の際、安全祈願に訪れた
《三笠山》春日神社に隣接する山で御蓋山・御笠山とも。現在の若草山を
     三笠山と呼ぶのとは異なる

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8 わが庵は都のたつみしかぞすむ
世をうぢ山と人のいふなり


○今、流行の自然派生活、京都南東の宇治山に拠点を決定。
早速引越、住まい移す。
和風の白壁・流れる木目・せせらぎは澄み、緑に囲まれいい感じ。
電化生活はできないけれど、結構毎日充実しているよ。
なのにたまに来る友人達は「何でこんな田舎に?」とか「世の中憂いてこんな山奥来たの?」
と 失礼な質問を連発するよ
一度ここに住んでみなって、いいとこ一杯あるんだから。


☆今は都の東南の宇治山に、私は住んでいる。人は皆、私が世の中を憂してこの 
  ような辺鄙な所に来たのだと言っている。

わがいほはみやこのたつみしかぞすむ よをうぢやまとひとはいふなり
出典 古今集

Kisen Hoshi

Lowly hut is mine
South-east from the capital:--
Thus I choose to dwell;--
And the world in which I live
Men have named a "Mount of Gloom

卑しい小屋は私のものである.
南東首都から:--
したがって, 私は, 住んでいるのを選ぶ;--
そして, 私が住んでいる世界
人は「Gloom(暗がり・陰気な)の山」を命名


喜撰法師
 きせんほっし (生没年不明)この方も謎の方、醍醐法師とも。
この人の作と伝わる歌はこの一首しかない。長唄や歌舞伎等でもで取り上げられいるし、
六歌仙の一人であるのに、正体は一切不明。

鴨長明が『方丈記』の中に、「三室戸の奥二十余町ばかり
山中に入りて、宇治山の喜撰が住みたる跡あり。
家はなけれど室の礎など定かにあり、これ必づ訪ねて見るべきことなり」と
宇治山に喜撰法師が住んでいた跡があると記述している。

どこから来たのかわからない仙人で、不老不死の薬を飲み、
ある日雲に乗ってどっかに飛び去っていったとも。

歌舞伎舞踊の「喜撰」はこの方が由来で、江戸時代につくられた 
ろっかせんすがたのいろどり/六歌仙容彩のひとつ。
この説明でどんなものかわかった人はすごい、私にも想像つきません。



 詞書は「題しらず」。当時『源氏物語』の『宇治十帖』で、
世間はここに暗いイメージを持っていますが、
そんなことはありませんよと、紹介するような趣がある。
しかぞ住む」部分、学生時代「鹿がいる山奥か」と勝手に解釈をしていたが間違い。
「しっかりこのように住んでいる」のしかぞという意味ですので、念の為。
でも、歌中に山とあったら、鹿を連想するよね?

* 注 私は勉強不足の為、最近になって下記の学説が有ると知りました。
つくづく自分の勉強不足を知ると共に、ミステリー小説で推理が当ったようで嬉しいです。
これって歴史好きの醍醐味だよなー。

「十二支は、子・丑・寅・卯・辰・巳…と続く通り、この歌の中には「うぢ山」の「卯」、
「たつみ」の「辰」「巳」と三つの干支が出てくる。 
普通は「卯、辰、巳」とくれば次は「午」となるのだが、
そこへ「しか」を持ってくる、一首のジョークと ともに言外に「午」の存在を匂わせているというわけ。」

「午」をうし?と読んだ人、十二支ぐらいは覚えましょう。
これでなぜか「うま」で、合計すると 
馬+鹿=馬鹿…ここまで計算していたら、凄い人だ。
更に「鹿」には、権力者が欲しがる 力や物の象徴という意味もある。
(漢和辞典を引いてみよう)

財宝や政策とは無縁な暮らしですが、
あなた達の 一番欲しがる何事からも束縛されない自由ですよ…と
まで言ったら、穿ち過ぎかな?

川柳にある「お宅はと聞かれたように喜撰よみ」はこの歌のこと。

《辰巳》方角で、南東のこと。対する丑寅が東北で厳しいイメージなので、
    暖かみの方向と見られた。ちなみに丑寅は、鬼の方角とされ姿の由来。 
    鬼の牛の角と、虎の腰巻はここが由来している
《すむ》住むと澄むの掛詞。本文中には出てこないが、澱んだ陰気な場所では
    なく澄んだ場所ですよ、の意
《うぢ》憂しと宇治の掛詞

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9 花の色はうつりにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに


○ぼうっとしていると、嫌な事ばかり気づいちゃう。
 長く続いた雨で、お気に入りの桜がかなり色褪せている。
 「君は花のように綺麗だ」なんて口説き文句も、ここのとこ
 すっかりご無沙汰。しおれた桜が自分みたいで、ちょっと嫌。
 前向きにそろそろ何かしないと、私もこのまま散っちゃうのかな。

☆桜を眺めると、花の色が長雨ですっかり衰え色移りしている。この身も、
 いつかはそうなるのであろうか

はなのいろはうつりにけりないたづらに わがみよにふるながめせしまに
出典 古今集

Ono no Komachi
Color of the flower
Has already passed away
While on trivial things
Vainly I have set my gaze,
In my journey through the world.


花の色
既に, 去った.
些細でものをゆったり過ごしなさい.
むだに, 私は私の凝視を設定した.
世界を通る私の旅行で
.



小野小町 おののこまち (生没年不明)参議篁の孫とも、小野良貞の娘、
出羽郡司小野良実の娘とも言われるが未詳。
『古今集』では、あまりに美しく衣を透しても光り輝くことから
そとおりひめ衣通姫と呼ばれた姫の 流れであるとしているが、
衣通姫は同腹の兄 木梨軽皇子と交わり、
近親相姦の罪で心中していて子供はいない。

それ程の美しさを表現したかったのだろう。六歌仙のうち、唯一の女性。
謎の美女というシチュエーションは今でも有効な通り
、様々な謡曲や戯曲の題材に使われている。
現在でも○○小町といって、美人を示すのは、この方の名前から来ている。

クレオパトラ、楊貴妃と並んで 世界三大美人といわれている
…がこれを言ってるのは日本人のみ。
中国では楊貴妃より西施とかの方が有名だし、
何より小町を知ってる外国人って何人いることやら。

でも、自分を「花」に例える辺り玉造小町伝説の由来となったのかも。
小町は王妃となるのを望み、錦繍の衣裳、山海の珍味を好み、
男を次々と袖にし続けたが落ちぶれて、
結局狩人と結婚。子供を儲けるが、夫子に先立たれ磊落して諸国を放浪したいう伝説。

また、男を次々と退けたのは、男女の交わりができない穴なし
(意味のわからない人、大人になれば分かります。
間違っても 両親や先生に尋ねたりしないこと)であったからだといわれ、
穴のない針を小町針転じてマチバリと呼ぶようになったとも言う。
尤も之は俗説で、マチ針は待針と表記するのが正解。

また、有名な謡曲「通小町」は百夜通い目前に死んだ深草の少将が、
霊となって小町の霊を追うが、僧の回向で成仏する話。
「卒塔婆小町」は在原業平が玉造の小野という地に出向いた際、
どくろが喋るのを聞き、思わず歌を返すと(度胸あるな)
そこに美女の幽霊が現れ、自分は小町の幽霊であると述べ消え去り、
そこには両目からススキがはえた髑髏が転がっていたという話。

連続して死後の話ばかりなのでオマケにもう一つ「水洗草子小町」を紹介しよう。
とある歌合戦で、小町と対することになった大伴黒主は、
とても勝ち目はないと、前もって小町の歌を盗み調べ、
その歌を父の歌帖に記しておいた。歌会で小町が歌を読み上げるやいなや、
黒主は父の盗作だと騒ぎたてるのだが、その歌のみ墨跡新しく、
水に浸すとその個所のみ消えてしまい、
盗作したのは黒主であるとバレてしまったという話。ここまでは、まぁ伝説として笑えたりもする。

この話を下敷きに、椿の品種で紙を洗ったように、白と紅が霜降り状の模様に
なったもので「草紙洗い」と名づけられたものがある。

『小町草子』では、小町は如意輪観音の化身であったと、ちょっと神がかったことが書かれている。

絵姿の小野小町が何故後ろを向いているのかは、(本当は)美人の
条件を満たしていなかったので、それをごまかす為という説もある。


 この歌の詞書は「題知らず」。『古今集』以前では、
花=梅であったが、この頃から桜をさすようになっていった。

《いたづらに》むなしく
《ふる》長雨が降ると自分が経るの掛詞。個人的に桜の花びらが降る(散る)も加えたい
《ながめ》長雨と眺めの掛詞

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10 これやこのゆくも帰るもわかれては
 知るも知らぬも逢坂の関


○へぇこれが昔の関所?京都と滋賀の境目にあるんだ。
 きっといろんな人が通ったね。ここを出る人も入る人も、必ずこの関所を
 通るんだから。知人かそうでない人かも関係なく、そして逢坂関の名前を知っ
 てる知らない関わらず、皆ここで出会うから「逢う坂の関」っていうんだね。


☆これが行く人帰る人、知る人知らない人が皆出合う逢坂の関か

これやこのゆくもかへるもわかれては しるもしらぬもあふさかのせき
出典 後撰集

Semimaru

Truly, this is where
Travelers who go or come
Over parting ways,--
Friends or strangers,--all must meet;
'Tis the gate of "Meeting Hill."

本当に…これがそうする…どこ
行くか, または来る旅行者
道を分けること上で--
友人か他人--allが会わなければならない;
'…「ヒルに会う」のゲートをTisする.


蝉丸 せみまろ/せみまる (生没年不明) 実在が怪しまれるほどの、謎の人物。
本来は「せみまろ」と読んでいたらしい。
『今昔物語集』では敦実親王の雑色
(身の回りのお世話をする小使い役)となっている。
『平家物語』や謡曲では、醍醐天皇の第四皇子としているが、
事実的には否定される事が多い。
盲目の道心者、つまり仏教に帰依した人とも。

謡曲「蝉丸」は、盲目のため逢坂山にを捨てられた延喜帝の皇子
 蝉丸のところへ、姉の逆髪宮が訪ねてきて、
二人で互いに自分たちの運命を嘆く、というものになっている。

蝉丸が盲目で捨てられ、姉は髪が逆立つ貴人の相とは ほど遠い容貌だったから 
捨てられたという話。
嘆くだけで復讐に走らないのは、自主規制だろうか。
普通 そういう不幸な目に合うと、結託して叛旗をあげ結局
 朝廷に召されてしまう、宮廷側の勧善懲悪話になりがちだが…。

絵札に描かれているのは、頭巾姿の法師スタイル。法師であったのなら、
名前に蝉丸法師と付きそうだが、そうでもない。

琵琶の名手で、何度か流れた曲を、聴いただけで覚えてしまうほど。
敦実親王がつくった「流泉」「啄木」は、秘曲として誰にも伝えなかったが、
それも聞いただけで覚えてしまった。
今で言う絶対音感でも持っていたのだろうか。

音楽好きの源三位博雅は、秘曲を聞きたいものだと 逢坂の関まで幾度も通い、
三年目にしてようやく聞くことができた。
蝉丸もまた、博雅の熱意にうたれて秘曲を博雅に伝え、世を去ったという。
年を取って放浪生活を始め晩年には盲目になっていた。

阿刀田高氏の『ものがたり風土記』によると
『大石兵六夢物語』という江戸時代のお話で、
 山部赤蟹という巨大な赤蟹が、主人公をつかまえて
このやつこ 行くも帰るも とらまえて
行くも引かぬも足かせの関 
と 蝉丸の歌をもじったものを詠んだとある。

ちなみに、それに対し兵六は
かささぎの 渡せる橋に住む蟹の
赤きを見れば 身ぞひえにける
と返したとか。


現在の蝉丸神社こと 逢坂関明神は、昔の蝉丸の棲家。
「彼の藁屋の跡を失はずして、そこに神となりて住み給ふべし」と
後年に神様扱いされるようになった。

無邪気に通りがかった逢坂の関を、初めて見て驚嘆する様子がつたわるが、
  詞書は「逢坂の関に庵室をつくりて住み侍りけるに、行きかふ人を見て」
つまり、地元の人が旅人の心を代言した歌。

『後撰集』『百人秀歌』では、三句目が「行くも帰るも別れつつ」になっている。
リズム良くたたみかける軽快さと分かりやすい意味、
そしてなんとなく謎の蝉丸という名前で、小さい子にも暗記しやすい歌。
この歌から「行くも帰るもの関」で逢坂の関をさすようになった。

《逢坂の関》美濃の不破の関・伊勢の鈴鹿の関とあわせ三関と呼ぶ。
ここでは  逢うの掛詞。


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