56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に
今ひとたびの逢ふこともがな
○冷たく湿った空気が重い。
動きの鈍る躰持ち上げ、灰色の染みがにじむ天井を見る。
偏狭な自分が嫌になり、執着捨てたはずなのに
命が絶えてしまいそうな今、せめて最後の思い出に
もう一度だけ、あなたに会いたい。
☆病によって、この世ではないところに行きそうです。あの世での思い出に
もう一度だけ会いたく思います
あらざらむこのよのほかのおもひでに いまひとたびのあふこともがな
出典 後拾遺集
すぐ.--
私が保つ1つの好きなメモリ
現世を超えて.
そして, 私のためのどんな方法もない.
ちょうどもう一度…あなたに会う?
Lady Izumi Shikibu
Soon I cease to be;--
One fond memory I would keep
When beyond this world.
Is there, then, no way for me
Just once more to meet with thee?
すぐ.--
私が保つ1つの好きなメモリ
現世を超えて.
そして, 私のためのどんな方法もない.
ちょうどもう一度…あなたに会う?
和泉式部 いづみしきぶ (976?〜?)大江雅致の娘。
母が冷泉天皇中宮 昌子内親王の乳母であった関係から、ともに仕えた。
平安きってのプレイガールで有名。 浮気者、というよりは
その時 その時 で真剣なんだろうけど、
兄弟二股までやってるんだから、…タフな方。
当時でも、その行動は眉を顰めるものだったのか
藤原道長に「浮かれ女(尻軽)」といわれ、
紫式部に「けしからぬかたこそあれ(立派な人物に相応しくない、
良くない行動だ)」と評されている
初め父の下僚であった 橘道貞と結婚。
道貞が和泉守となり、父が 式部丞だったので和泉式部と呼ばれるようになった。
道貞との間に 小式部内侍を得る。
昌子内親王が病に罹った時に、見舞に訪れた内親王の
義理の息子に当る ためたか/為尊親王に見初められた。
これを機に夫と離別し、父兄弟には勘当される。
二年後、為尊親王が二十六歳で夭逝、
次いでその弟「そちのみや/帥宮」こと あつみち/敦道親王と恋愛。
この頃、帥宮二十二歳、式部三十歳前後。
個人的にこの帥宮ってキライ。
「あなた以外の恋人が、遠くに行くことになったので 心のこもったラブレターを届けたい。
あなたは歌が巧いので代筆してくれないか?」
と 恋人 和泉式部に頼むとは、何事?
承諾する式部も式部だ。正妻の住む屋敷にいきなり愛人を連れ込み、
一間を与えるという行為も、許しがたい。
式部をいきなり 邸に迎えたことで、正妻の親王妃が怒り、
邸を 出て行くという事件もあったが、
敦道親王も四年後、二十七歳で死去。
この 敦道親王との恋愛を記録したものが『和泉式部日記』。
親王との間にもうけた 一子は、のち法師となって 永覚と名のった。
式部はその後、藤原道長に召されて、
一条天皇中宮 彰子に娘の小式部内侍と共に仕える。
また、その後「武士四天王」の一人 藤原保昌と再婚。
今までの王子様タイプから一変し、今度の旦那様は
大江山の酒呑童子退治や、大盗賊 はかまだれ/袴垂を戒めるなどの
逸話で有名な超豪胆タイプであった。
夫の任地である大和や丹後などへ共に下り晩年、誠心院の尼となった。
★
「心ちれいならず 侍りける ころ/比、人のもとに つかはしける」
病気のときに好きな相手に贈った歌らしいが、
よほどラブラブな相手でない 限りもらう方も正直重い。
与謝野晶子は 最初の夫 橘道貞に贈った歌と見ているが、詳細不明。
様々な恋の遍歴を重ねた上での、特に相手を指定しない感慨の歌とも。
『応永抄』『改観抄』などでは五句目が「逢ふよしもがな」となっている。
《あらざらむ》あらずあらむの略。
日本語版「to be or not to be」(ハムレットの有名な台詞)といった所
《この世の外》この世じゃない所、あの世
*****************************************
57 めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に
雲隠れにし夜半の月かな
○何気なく入った喫茶店、湯気立つ紅茶の窓の向こう。
幼馴染の君が居た。
「東京へ行くの」と言ったきり、会えなくなった君がいた。
慌ててレジでお金を払い、白いコートを追いかけたけど
すでに激しい人込で、君の姿はもう見えない。
雲に隠れた月のよう、君の姿がもう見えない。
☆久々に出会い、そうともわからぬ間に雲隠れした月の様、貴方は見えなくなり
帰ってしまった。
めぐりあひてみしやそれともわかぬまに くもがくれにしよはのつきかな
出典 新古今集
Lady Murasaki Shikibu
Meeting in the way--,
While I can not clearly know
If 'tis friend or not;--
Lo! the midnight moon, ah me!
In a cloud has disappeared.
方法におけるミーティング--,
私は明確に知ることができないが,
または'…tis友人…--
見よ…真夜中の月…私をahする.
中では, 雲は見えなくなった.
紫式部 むらさきしきぶ (973・978?〜1014?)
藤原為時の娘。当初「藤式部」の名で出仕。
この方を知らない日本人はごくわずかでしょう。
ご存知超大作小説 『源氏物語』の作者。
(一人でこの作品は 無理と多作者説もあり)
『源氏物語』は その登場人物の名前などから 『紫の物語』とも呼ばれた。
「紫式部」と称されるようになったのは、紫の上の名前から由来とも、
藤原公任が「この辺りにわか紫やさぶらう」
(屋敷のこの辺りに若紫はいたのでしたね) と
戯れて問い掛けたことからとも言われる。
幼少時 兄と並んで漢詩などを学ぶ際、あまりの利発振りに、
この子が男だったら…と父のボヤキも。
ちょっと兄の立場ない。
『源氏物語』は、今で読んでも 充分に面白い。
各々の章のタイトルの優雅さと、潔い女性陣は美しく、
千年を隔てた今でも登場人物たちは生き生きと動いている…が
実は 主人公の光源氏がいまだに好きじゃない
というより、正直キライ。
自業自得の トラブル招いては、「私って何て悲劇の運命」と浸りきり、
自分の浮気に寛大で 女の浮気は執念深く許さない。
あっちこっちで騒動起こしては、収攬もせず 本人サッサとその場を退散…と
書くと、みもふたもないが名作です。一度は読んでみましょう。
(フォローになってないな、こりゃ)
一条天皇がこれを読み、「この人は日本書紀に通じている人物だ」と
述べたことから「日本紀の局」とも渾名された
『紫式部日記』では、知ったかぶりだ 歌に心が無いだと
自分以外の才女をとにかくけなしまくっている。
まぁ 日記だから 誰でも 内心の鬱憤ばらし 書いたりするだろうし。
★
この歌は 「はやくより 童友達に侍りける人の、年頃へて
行き逢ひたる ほのかにて七月十日の頃、
月にきほひてかへり侍りければ」と添書あり、
幼馴染に久しぶりに会って、すぐ月を追うように 帰ってしまったのを 惜しむ歌として作られた。
『紫式部集』の詞書だと、日付が「十月十日」になっているが、
深く追求しないでおこう。
どろどろの恋愛や、四季の歌が多い中、異色の「友達」を詠った歌。
「夜中月に巡り合ったら、それとわからぬ間に
雲に隠れてしまった」 そのままに直訳するとこうなる。
月はここでは友人を 指しているとの添書きがないと、意味がとれず迷うかも。
『新古今集』『紫式部集』では五句目が「夜半の月影」
紫式部は、月影という言葉を好んで使用していたから、
本来はこちらであったかとされる。
うーん私も「月影」のほうが美しいと思う。
余談だがクマツヅラ科にムラサキシキブという観賞用植物があり、
紫でかわいいビーズ状の実をならす。
学名カリカルパ・ヤポニカ ギリシャ語で「美しい果実」という意味
**********************************************
58 有馬山猪名の笹原風吹けば
いでそよ人を忘れやはする
○あらひどい、逢いに来ないの貴方じゃない?
有馬山から笹原へ、吹き降ろす風のよう
あっちでそよそよ、こっちでそよそよ。
違う女に目移りし、向こうに行って戻らない。
なのに私の心変わりを疑うなんて、あなたの神経疑っちゃう。
私が貴方を忘れたり、するもんですか絶対に。
☆有馬山の笹は、風が吹けばあなたのようにそよぎますが、
私は簡単に他人になびかず貴方を忘れたりしません
ありまやまゐなのささはらかぜふけば いでそよひとをわすれやはする
出典 後拾遺集
Daini no Sanmi
If Mount Arima
Sends his rustling winds across
Ina's bamboo-plains;--
Well! in truth, tis as you say;
Yet how can I e'er forget?
Arimaを取り付けなさいならば
横切って風を彼のサラサラと音を立てるのに送る.
伊奈の竹平野;--
井戸!真実で, あなたとしてのtisは言う;
I e'erはしかしどうしたら忘れることができるか?
大弐三位 だいにのさんみ (999〜1082?) 本名 藤原賢子 のち結婚して 高階賢子。
べんのつぼね/弁局・ないしのすけ/典侍と呼ばれる事が多いが、
藤原宣孝と紫式部の娘 であったことから
藤三位とも、祖父が越後守であったため、越後の弁とも称された。
幼くして父と死別し、母とともに祖父 藤原為時に養われる。
母紫式部ともに彰子皇太后に仕えたが、十四才ごろ母と死別。
十六才頃には祖父 為時が出家し、身寄りをなくした。
行く末が見えないのに、孫をほっぽって
世間を捨てた祖父さんに、ちょい不満を感じるが
他人の立場で 文句をいえる筋でも無いので、しょうがない。
はじめ 藤原定頼や兼隆らと恋愛をし、兼隆の子を産んだのと同じ頃、
後朱雀天皇に 後冷泉天皇が産まれたため、
その乳母となった。
その後たかしなのしげあきら/高階成章の妻となる。
成章が太宰大弐で本人が三位の位であったことからこう呼ばれた。
『源氏物語』の薫の宮を模した 狭衣大将の『狭衣物語』の作者説もあったが、
現在は六条斎院宣旨作者説が有力。
★
この歌の詞書は 「かれがれなる男の おぼつかなくなど 言ひたるに 詠める」
足遠になってた男に、「この頃来ないけど、心変わりでもしちゃった?」と
聞いたら、「お前のほうこそ(心変わりが)あやしいものだ」と言われ
この歌で切り返したとある。
疑われて、こう切返す機転が気持ちいい。
上の句と下の句の意味が結びづらく、詞書をしらないと 意味がわからないかも。
全国の有馬さん・猪名さん・井出さん・笹原さん等得ぜひ これを得意札にしてみよう。
《ありまやま》兵庫県の有馬山
《いなの》は本来、「猪名野の」で猪名川流域。
ごろが悪い為「の」を一つはしょった
《いでそよ》ええそうですよの意と、風のそよそよという擬音を掛けている
*******************************************
59 やすらはで寝なましものをさ夜ふけて
かたぶくまでの月を見しかな
○ほんのつまらないことで、アイツとケンカ。
今日来るって約束どうなるの?
謝って。そうすればすぐに許してあげるから。
ちょっぴり文句を言いながら、笑って迎えてあげるから。
夕方になっても電話は鳴らない。夜になってもメール来ない。
ぐずぐずしないで、寝ちゃえばよかった。晧々冴えたあの月が
沈むまで 寝ないでずっと待っていたのに。
☆約束がなければすぐ寝てしまったものを、来ると言った言葉を信じて月が西に
傾くのを見てしまった。
やすらはでねなましものをさよふけて かたぶくまでのつきをみしかな
出典 後拾遺集
Akazome Emon
Better to have slept
Care-free, than to keep vain watch
Through the passing night,
Till I saw the lonely moon.
Traverse her descending path.
より良い眠ったために
呑気…無駄な腕時計を保つ.
通過夜を通して
私が人里離れている月を見るまで.
彼女の下り経路を横断しなさい.
赤染衛門 あかぞめえもん (958?〜?) 江戸時代の武士のようだが、
れっきとした女性の名前。
赤染時用の娘とも、平兼盛の娘とも言われる。
これは母親が 時用と別れた後、身ごもった状態で 兼盛に嫁いだ為。
兼盛が 元妻に娘が生まれたと聞いて、引き取りたいと申し出たが、時用に拒否された。
赤染時用の苗字プラス時用の役職、衛門尉だったのを併せこう呼ぶ。
大江まさひら/匡衡と結婚したので、匡衡衛門とも呼ばれた。
大江匡衡は ノッポでいかり肩で率直に訳すと…いわるゆ ブ男であったといわれるが、
七歳で書を読み九歳で 漢詩を作った秀才の人。
宮中の女房達に からかわれても、冷静に歌で対処し、
返歌をできない女房達が 恥じてその場から逃げたりと、
大人の対応ができる人で、夫婦仲もむつまじかった。
はじめ源雅信の娘 倫子(のち藤原道長の妻)に仕え、
のち道長の娘 中宮彰子に仕える。
『栄華物語』の作者として有力だが未詳。
紫式部が珍しく、悪口だらけの自分の日記で この人の歌と性格を誉めている。
浮気な友人 和泉式部を諌めたり、別れた その夫にフォローしたり、
子供のために任官を歌で訴えたりと、行動がとかく
良妻賢母の女性らしさに満ちている。夫の没後、尼になった。
★
詞書は 「中関白少将に侍りける時、はらからなる人に 物言ひわたり侍りけりためて
来ざるを つとめて 女にかはりて詠める」
つまり 当時の 中関白少将こと 藤原道隆が、同朋の女性こと 馬内侍と約束をしたのに、
来なかったので同僚の赤染衛門が代わってこの歌を詠んだ、とある。
その為かこの歌 『馬内侍集』にも 「こよひかならず来むとて来ぬ人に」と見え、
『古来風体抄』でも馬内侍本人を作者としている。
赤染衛門と馬内侍 は はらから/同胞とも言いがたく、両名とも 名高い
女流歌人で代作を頼むとは 考えにくく不審。
まぁ全国規模で 赤染衛門作者説が浸透しているので、
こういう説もあることだけ一読欲しい。
言葉ひとつひとつが女性らしく丸みを帯び、恨み節にしては さらりとおだやかなのは
(赤染衛門が作者だとしたら)代作故か。
『応永抄』『経厚抄』などでは四句目が「かたぶくまでに」となっている。
かたぶくとは、傾くのこと。
《やすらはで》ぐずぐずしないで
《寝なましものを》寝てしまったものを
*******************************************
60 大江山いく野の道の遠ければ
まだふみも見ず天の橋立
○転勤で、一人京都のお父さん。
「パパから手紙、来たかしら?」定くんが聞いてきたけれど
知らないの?京都行くにはおっきいお山と町を越え、
島を出なくちゃ行けないの。道がとっても遠いから、手紙もまだだし
遊びにも、そう簡単には行けないの。お山の名前は大江山。町の名前は
生野といって、近くにあるのは天橋立。
☆大江山を越える生野の道は遠いので、天橋立をまだ踏んでもいないしふみ文も見ていません。
おほえやまいくののみちのとほければ まだふみもみずあまのはしだて
出典 金葉集
Koshikibu no Naishi
As, by Oe's mount
And o'er Iku's plain, the way
Is so very far,--
I have not yet even seen
Ama-no-hashidate.
麻植のマウント
そして, o'er(古語・詩語overの略) Ikuの平野, 道
非常に遠くて, ある.--
私はまだ見てさえいない.
海部ノーはhashidate(ハッシュアイデイト?幾ら辞書引いても
載ってない〜と思ったら橋立のローマ字でした)する.
小式部内侍 こしきぶのないし (?〜1025) なんだか女性が連続登場、
坊主めくりなら大喜びなのだが。
橘道貞と 和泉式部の娘。 物心ついた頃には
父母はすでに離婚していたと思われる。
母と共に 中宮彰子上東門院に仕えた。 「式部」も「内侍」も女官の名で、
母に対し小をつけただけの呼名なので、
祺子内親王家に同名異人がいる。
母に似て美人だったのか 「かたちすがた世に勝れて」と 恋愛経験も豊富。
関白 藤原教通や その異母兄頼宗、教道親王、頭中将公成
この歌のエピソードの元となった定頼などの
貴公子達が名が連ねるが、若くして病没。
歌の才能もあったが、二十五歳ぐらいで亡くなった為、残された歌は少ない。
藤原教通とは愛人となり、子を出産。
のち しげいのとうのちゅうじょう/滋井頭中将の愛人となり、
その子を出産した時に死亡した。
母の和泉式部はいたく哀しみ、その歎きを歌に百数十首を残している。
★
「和泉式部 保昌にぐして丹後に侍りけるころ/比、 宮古に 歌合侍りけるに
小式部内侍 歌詠みにとられ侍りけるを 定頼
郷のつぼねにもうできて 歌はいかがせさせ給ふと 、
丹後に人をつかはしけむや 遣ひはまうで来ずや
いかに心許なくおぼすらむなど、 たはぶれ 立ちけるをひきとどめて 詠める」
幼少の頃から、歌が巧かった小式部は、母が代作しているとの噂があった。
都で歌会が催されることになり、藤原定頼が丹後の保昌へ 嫁いだ
和泉式部から(代作の)手紙はまだ届かないのですか?とからかったのを、
瞬時に のうし/直衣の袖を捕らえて切返した歌。
咄嗟にこう詠われた定頼は「返歌に及ばず袖を引き放ちて逃げられけり」
…逃げた(笑)
《大江山》京都府与謝郡の大江山。京都から山陰に通じる。おいのさか大江坂とも
《いくの》京都の生野と行くの掛詞
《ふみも見ず》文=手紙を見ていない、と踏んでみてないの掛詞
《天橋立》日本三景のひとつ。アマノハシタテと澄んで読むことも。
京都宮津湾にある、砂嘴で島の陸続きとなっている部分。
橋のような地形なのでこう呼ぶ。私は橋の名前かと思っていたが、間違い。
ちなみに三景の残りは宮城の松島と広島の厳島。
戻る