41 恋すてふ我が名はまだき立ちにけり
  人知れずこそ思ひそめしか


○誰にも知られないように、そっと好きになったのに。
私が恋をしていると、光りの速度で噂たつ。
他人の恋には敏感で、私の心に鈍感な
クラスメイトの励ましが、実はちょっぴり
うっとうしい。


☆恋をしているという噂が、もうたってしまっている。人にしられぬよう
こっそり思っていたのに。

こひすてふわがなはまだきたちにけり ひとしれずこそおもひそめしか
出典 拾遺集

Mibu no Tadami

Though, indeed, I love,
Yet, the rumor of my love
Had gone far and wide,
When no man, ere then, could know
That I had begun to love.

本当に, 私は愛しているが,
まだ私の愛の噂
その時以前どんな人も知ることができなかったとき
私は愛し始めた.


壬生忠見 みふのただみ (生没年不明)壬生忠岑の子。
幼少の頃の名は「多々」で、その後「忠実」と改めさらにその後「忠見」とした。

父の名前から、「ね」の音を消せば同じ名前になる上に、本人も改名を重ねた結果、
周囲もわからなくなってしまったのか、残された歌が 一部父子混同されている。
貧しい家の出であるが、歌に優れ宮中に召された。

初めて呼ばれた幼少時に「宮中へ参りたいのですが、
(貧乏で)馬もないので辞退します」と返答したところ、
天皇は「それなら(貧乏人でも買える)竹馬で来い」と答えたとか。
おいおいとツコッミをいれたくなるやり取りだ。…もちろんシャレだよねぇ…。
これを聞い忠見は「鹿毛(馬)は無理なので、
夕日の蔭を背に訪れます」という歌を返している。

その後、摂津国(現在の大阪・兵庫)に引きこもっていたのを、
醍醐天皇が召して蔵人所に勤めさせた。



詞書は「天暦御時歌合」 
40の歌と共に「忍ぶ恋」をテーマに歌を作れと 命じられた際に詠んだもの。
かーっ初々しい青春やねぇと、茶々ををいれたくなるほど ほほえましい。

なんとなく当時のお貴族様というと、「高尚な恋愛こそすばらしいですわ…ほほほ」と
でも言いそうなイメージがあるが、この歌などから親しく感じられてしまいそうだ。
先にも述べた通り歌合で 40の歌と優劣が付け難かったが、結局負けてしまった。

『沙石集』によると、兼盛とは対称的に田舎じみた格好で出席し、
負けの知らせを受けた忠見は、あまりのショックで食べ物ものどを通らなくなり、
そのまま不食の病に罹り死んでしまった。

兼盛王は宮家にも続く由緒正しき家柄だが、忠見は地方の下官に過ぎず、
歌才のみを認められ上京してきたのだから、
その自信ある歌で破れたのがさぞかしショックだったのだろう。

だからといって、仲が悪かったとか兼盛を恨んでいたという事はなく、忠見が倒れたと聞き
兼盛は見舞いに駆けつけている。
 もっともこの逸話は『袋草紙』で載っていない。先の兼盛の話が載っていて
これがないのは不可思議であると、後世の作り話と見る向きが強い。
…この歌も不倫の意味にとれるよね…。

《恋すてふ》恋をする。てふは「ちょう」と読む。参考までに蝶々は当時「てふてふ」と書いた
《まだき》もう、すでに「まだ」という意味かと思っていたら、その反対。
まだその時になっていないのにの意

***********************************************

42 契りきなかたみに袖をしぼりつつ
末のまつ山波こさじとは


○熱病のような、誓いだった。互いの涙で袖を濡らし、
 「この高い松山が、海波に決して呑まれる事がないが如く
永遠に変わらぬ愛を契ろう」と
山が波に沈まぬ限り、二人の心は変わらないと。
…なのに貴方は、もうこちらを見ない。
すべてを過去の夢にして うわごととして、誓いを破る。


☆互いに涙でぬれた袖をしぼりつつ、波が松山を越さぬよう、変わらぬ心を
 約束したのでしたね

  ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつ すゑのまつやまなみこさじとは
 出典 後拾遺集

Kiyowara no Motosuke

Have we not been pledged
By the wringing of our sleeves,--
Each for each in turn,--
That o'er Sue's Mount of Pines
Ocean waves shall never pass?

我々は誓約されなかった.
我々のスリーブを搾り取りで--
それぞれ…それぞれ…順番に.--
そのo'erスーのPines(松)の山
海洋波は決して通らないだろうか?


清原元輔 きよはらもとすけ (908〜990)清原春光(一説では清原顕忠)の子。清少納言のお父様。

『萬葉集』に訓点を付す事業に携わった。え、万葉集なんて、昔はみんな読めたんじゃないの?
と思いがちだが、万葉仮名の存在を忘れてはいけない。
たとえば「山」も万葉仮名だと「也麻」。 「懐かし」は「奈都可之」または「名津蚊為」など、音が重視の記述。

「わが妻も…」とあれば、現代でも意味が取れるが「和我都麻母…」では訳わからん現代と同じ
そういう理由で、こういった作業が当時でも必要とされた。

また村上天皇による「梨壷の五人」の一人として (和歌を選ぶ時に、
利用した場所が、宮中の梨壷にあったためこう呼んだ。
他のメンバーは源順・紀時文・大中臣能宣・坂上望城) 『後撰和歌集』の撰にもあたっている。

才女清少納言も、歌の才能では父に一目置いていたらしい。
即興型の歌詠みで 「予は口に任せて之を詠み、
詠まんと 思ふ時は 深く沈思す」と言っていた。

当時の歌は、一種の外交手段でもあった。
 有力者にめでたい事があれば、即座に文を 送り 自分を売り込んだり、
 自分の官位が低すぎて貧乏だと訴えたり。
運良くその歌が お偉いさんの心を仕留めたらしめたもの。

元輔は運良く功をきし 歌のおかげで 周防の守に就任、 国の守ポストで一財産作る。
その後 更に、薬師寺の回廊造りに 寄進して従五位上にまでなった。
当時、じょうこう成功といって 寄進することで 官位をもらえる制度があったのである。 
現代では賄賂にあたるかも…。

歌・堅実な昇進といった経歴からみると、ちょっとつまらなそうなオジ様だが、こんなエピソードも。

元輔は賀茂祭で奉幣使という大役に任じられたのだが、祭りのにぎわう道中で、落馬し冠を落としてしまう。
この冠を落すという行為は、大っ変に恥ずかしい物とされており、
 いわゆるヅラが大衆注視の中で、とんでいってしまったようなもの。

例として あげるなら 別のお話になるが 藤原道隆という人物は、病で床に伏せっていたときに
 将来天皇の后にしようと育てた娘二人が、見舞に訪れた。
その時に「無礼な姿で対面できない」 とわざわざ烏帽子をかぶって 布団に入りなおしたという逸話もあるほど。

さすがにこれはやりすぎだが、よほどくつろいだ空間でないと、冠は付けているのが常識であった。

で、話は戻る。なんと冠を落した後に現れたのは、ツルツル禿頭。
周囲は更に笑うが、ここで彼は「馬から落ちるのは当たり前の事。 私だけでなくあの人やこの人…」と
平然と過去の例を持ち出し、演説をはじめたので更に周囲は笑いの渦が広がった、とか。



この歌は「心変わりける女に人に代わりて―」
『元輔集』では「心変れる女に遣はす人にかはりて」詠んだ歌。

…ようするに心変わりされた女宛に、恨みつらみのラブレターを代筆してあげたということ。
こんな大事なことを、代筆に頼るような男じゃ 浮気されてもしょうがあるまいと思うのは、偏見か?
 それとも最後に巧い歌をみせてから、わかれてやろうという 
可愛い男のプライドだろうか。
かたみは形見(遺品)の意ではなく、互いに、の意味。
決して「亡き人の形見のぶっ千切た袖」ではないので、要注意。
(そんなふうに考えたの、私だけか)

《末の松山》宮城県多賀城市八幡近辺とも、岩手県二戸郡一戸町付近とも言われる。
歌枕として有名で、決して波が越えないとされた。
今風にいえば「都庁が波に沈まない位ありえないね」といった所か。(もっともこれは海から離れすぎ)

***************************************************

43 あひみてののちの心にくらぶれば
昔はものを思はざりけり


○片思いの頃、毎日が苦しかった。
 思いもかけず、恋がかなって喜びだけがあると思ったのに。
 どうしてだろうせつなさが、微粒子のように纏いつく。
 記憶に残る孤独より、あなたに会えない今の時間が痛みとなって加速する。
 あなたの行動、考え方、趣味に私への気持ち、すべてが知りたくなっていき
 私の心を窮屈にする。


☆恋のすべてにであった今の悩みに比べれば、昔の片恋の苦しさなど何も考えていなかったに、等しい物だ。

あひみてののちのこころにくらぶれば むかしはものをおもはざりけり
出典 拾遺集

Chunagon Atsutada

Having met my love,
Afterwards my passion was,
When I measured it
With the feeling of the past,
As, if then, I had not loved.

私の愛を満たした.
その後, 私の情熱はそうした.
私がそれを測定したとき
過去の感じをもって
私が当時であるならば愛していなかったように.


中納言敦忠 ちゅうなごんあつただ (906〜943)藤原時平の子。
母は在原/むねやな棟梁の娘。 
しかし、母は大納言藤原国経の元妻で、時平が国経から奪った女性であるため、
それ以前に懐妊していた可能性もあり、実際は国経の子ではないかといわれる。
また、母は本康王女の説も。

権中納言敦忠とも、本院中納言とも、すぐれた琵琶の引き手でもあったので
琵琶中納言・枇杷の中納言とも呼ばれた。
どれをとっても中納言だが、実際にその位についたのは
死の直前の942年、一年しか任官していない。

ちなみに琵琶はサンスクリット語のヴィーナという楽器が由来。 
和楽器での重要な位置を占めているが、本来はインド方面からの舶来品である。

父時平は道真いじめの主役で悪名高いが、能力はある実力者であった。
息子として育てられたこの人は 両親の良い所のみを遺伝したのか、
ハンサムで人柄もよく「世にめでたき和歌の上手」と称えられ、その死後に 宮中で催された管絃の宴では
「音楽の上手がいなくなってしまった」と嘆かれている。

本人の北の方こと奥さんは、もと時の東宮妃。
元々東宮と妃のラブレター橋渡し役であった敦忠であったが、
東宮がそのまま崩じてしまった関係から、婚姻を結んだ。

タナボタだね。江戸時代の儒教思想のせいで、
特にお偉方の奥方は、旦那が亡くなるとみーんな 剃髪して尼さんになると思われがちだが、
この頃はまだ男女の仲は自由で、離婚再婚もあった。
また右近の恋人でもあり、誓いを破って三八歳で亡くなったという相手とはこの人のこと。



この歌「題知らず」の詞書。
『小倉色紙』『百人秀歌』では四句目が「昔は物も思はざりけり」となっている。
片思いがかなって、めでたくハッピーじゃなく、 増々悩んでしまう日々を、鋭くあらわしている。

現代の恋愛ドラマを、五・七・五・七・七でまとめたらこれに尽きるかも。
ストレートで意味はわかりやすく、覚えやすい。
初めて契った女の家から帰った翌朝贈った、いわゆるきぬぎぬ(後朝)の歌

単に恋についてうんぬん悩むというより、ずーっとあこがれていた相手と
ヤル事をヤッテしまった後の、男の生理の虚しさを含むと見る向きもある。

******************************************************************

44 逢ふことの絶えてしなくばなかなかに
人をも身をも恨みざらまし


○遅かった恋。すべてを捨てることなんて、たやすいと思っていたのに。
本当の気持ちを自覚したときには、あなたはもう冷たい態度。
 なまじ毎朝すれ違うから、あなたを恨み、自分を悔やむ。
 …あなたが見えなくなりさえすれば、こんな思いはしないのに。

☆会うことがすっかり絶えてしまえば、あなたも自分もこれ以上恨むことはないのに

あふことのたえてしなくはなかなかに ひとをもみをもうらみざらまし
出典 拾遺集

Chunagon Asatada

If a trysting time
There should never be at all,
I should not complain
For myself (oft left forlorn),
Or of her (in heartless mood).

trystingが調節されるならば
全く決してあるべきでない.
私は不平を言うべきでない.
自分(しばしばわびしいままにされる)
彼女(無情なムードでの)


中納言朝忠 ちゅうなごんあさただ (909・910?〜966)藤原朝忠。
藤原定方の五男、笙という和楽器の名人であった。土御門中納言とも三条中納言とも呼ばれる。

学問も才能に優れ、歌の詠み口も巧み、楽器もこなすとあると、スマートな貴族を想像するが、
肥大漢…いわゆる○ブ。あまりに太って笙を吹くのがつらいと、
医師に相談をしたところ「痩せる妙薬などないが(あったら欲しい!) 冬は湯づけ夏は水づけで飯を食え」とのお達し。
湯づけとはご飯にお湯をかけたもので、
お茶漬けかお粥みたいな感じ、水づけも同様。
その通りにしても、何の効果もないと訴えられた医師が調べてみると、
確かに湯づけにしているが大杯で何杯もおかわりしているのだから、
こりゃ効果がある筈もない。その後相撲取りのようにまで太ってしまったと『宇治拾遺物語』に載っている。



詞書は「天暦御時歌合」 兼盛・忠見と同じ歌会で詠まれたもの。
「詞清げなり」と賞されて相手方に勝となっている。

悩むのが嫌いな私としては、鬱陶しい奴の歌だなぁと感じる反面、
何となくその心境が伝わってくるのだから、巧い歌なのだろう…多分。恨み節のいいまわしが、日本的。

別れた人から、こんな歌が届けられたらしばらく外出を自重しそうだ。
「いまだあはざるこい未逢恋」つまり片思いか 「あうてあはざるこい逢不逢恋」
別れ話に差し掛かっている最中か で見方が変わるが、
まだ脈のある恋というより、過ぎ去った恋というイメージが 強いので個人的には後者を取る。
音の流れが少々発音しづらいので、意味で覚えたほうが早い。

《なかなかに》中途半端に、むしろ
《人をも身をも》ここでは相手と自分の身

*************************************************

45 あはれともいふべき人は思ほえで
身のいたづらになりぬべきかな


○ 寝床のなかで、考えた。
もしもこのまま死んだなら、貴方は嘆いてくれるかな。
哀れと同情くれるかな。
 だけど本当は気付いてる。私がこんなに悩んでも、あなたはきっと気にしない。
 心変わりをしたのでしょう?
 もう、私は過去の思い出。こんなに思い焦がれていると、いつしか
 ホントに虚しく死んじゃいそう。

☆ あわれと言ってくれる人も、思い浮かばぬまま、この身は虚しく死んでしまいそうなことだ。

あはれともいふべきひとはおもほえで みのいたづらになりぬべきかな
出典 拾遺集

Kentoku Ko

Sure that there is none
Who will speak a pitying word,
I shall pass away.
Ah! my death shall only be
My own folly's (fitting end).

なにもないのを確信している.
だれが哀れみ言葉を話すだろうか?
私は亡くなるだろう.
Ah!私の死があるだけであるものとする.
私自身の愚かさ(終わりに合わせる)のもの


謙徳公 けんとくこう (924〜972) 本名 藤原伊尹 ふじわら…いい?としか、
読めなさそうな名前だが、これで「これただ」。
藤原師輔の長男で、一条摂政とも呼ばれる。

大変な派手好みであったため、父が遺言で 「何事も倹約すべし」 とわざわざ言い残しているほど。
もっともそれを聞いたからといって、性質がころりと変わることもなく 日頃から豪奢な生活を続けた。

亡くなる時はさすがに反省したのか、葬式は簡素にと遺言したが、結局遺族は盛大な葬式で送っている。
住んでいた邸宅は後に世尊寺という 藤原氏代々の氏寺になった。 謙徳公は諡号。

「梨壷の五人」(坂上もちき望城・紀時文・大中臣能宣・清原元輔・源したごう順)の事業を監督したりした。
ちなみに梨壷の五人とは、村上帝の命令で 梨壷を和歌所として、万葉集に訓読をつけたり、
後撰集の選に当たった 歌のプロフェッショナル集団で五歌仙とも言った。

娘の懐子は冷泉天皇の女御となり、花山天皇を産んだ。
眉目秀麗、叡智抜群、家は金持ち、時の帝も 東宮も(皇太子)自分の孫にあたり
 本人摂政太政大臣と、もう権力我が手に一点集中。

…すげーパーフェクトな一生だ。こういう 全てに恵まれた人がいるから、
貧乏人は増々苦労…なんて感じてしまいそうだが
そのわりには、くよくよした歌。



詞書は「ものいひ侍りける女の のちにつれなく 侍てさらにあはず 侍ければ」
長い間繰り返し手紙を送ったのに、返事をくれない女性に贈った歌。

一条摂政御集』によると、やっともらった返事は
「何事もなかったら同情しますけど、私も恋愛沙汰に苦しんでいるので、
今さらあわれとも思えましょうか」女が男に捨てられて悩む歌は多いが、
逆でこの受身パターンは珍しい。

歌だけを見ると同情するが、本人の背景を知ると、
ふふふ一つぐらい 人生悩みやがれと、僻みがでてしまう。
大金持ちのハンサム君も、恋になやんだりしたのだろうか?詠み人の立場と、歌のイメージが正反対。
藤原氏の栄華は、この頃からはじまったとされる。

《思ほえで》思われないで
《いたづらに》むなしく、はかなく死ぬ

戻る