26 小倉山峰のもみぢ葉心あらば
今ひとたびのみゆきまたなむ

○素肌にしみる山の空気。ころがるどんぐり、秋の結晶。
愁いに充ちた錦絵を 完成させるは小倉山の染まった紅葉。
紅葉よお願い。この心が通じるのなら、もうしばらくだけ散らないで。
今度あの人と一緒に、もう一度この景色眺めに来たいから。


☆ 小倉山の紅葉よ、心があるならば今ひとたび天皇の訪れがあるまで
散らないでおくれ

をぐらやまみねのもみぢばこころあらば いまひとたびのみゆきまたなむ
出典拾遺集

Teishin Ko

If the maple leaves
On the ridge of Ogura
Have the gift of mind,
They will longingly await
One more august pilgrimage.

カエデが去るならば
Oguraの尾根で
心の贈り物を持ちなさい.
彼らはあこがれて待ち受けるだろう.
もうひとつの厳かな巡礼の旅.


貞信公 ていしんこう (880〜949)本名藤原忠平
 貞心公と諡名で死後につけられる名前。
戒名とはちょっと種類が違うが、似たような物。

この方の兄は菅原道真と争い、蹴落としたが、本人は道真と交流していたとか。
一族きってイヂメをしている相手と 親しくできるのは、剛毅なのか超温厚なのか。

実はその両方。文献には「性格が温厚で人望厚い」と載っていたりするし、
宮中に鬼が現れた折、臆せず太刀で追い払ったという逸話もある。
うーんぜひ友人になってみたい人物だ。宇多天皇に信頼され、その皇女 順子を妻とした。

醍醐天皇が宮中に人相見を呼んだ際、人相見は兄の時平は才智があまりに過ぎ、
菅原道真も才能が高すぎてともに幸福を全うする人物ではないが、
末座に控えた忠平は才智容貌兼ね備え、長く朝廷を助け繁栄するだろうといわれ、
実際その通りになっている。

時平が着手した法典『延喜格式』を完成させた。

朱雀天皇の即位で摂政・関白になり、村上天皇の即位後も関白に留まった。
兄の仲平、時平とともに「三平」と称される。

ここで、雑学豆知識。小倉アンの由来はこの歌。
粒あんを紅葉の鹿子模様にみたてて、「今ひとたびの…」で、
もう一度食べたいと思わせる美味しさを表している。
本来小倉というのはこしあんに大納言あずきの蜜煮(皮を破らないように炊いたもの、
おせち料理の黒豆状態)を混ぜたものを言っていたのだが、
いつしか あんこ全般がそう呼ぶようになった。



詞書は「亭子院、大井川に御幸ありて、行幸も ありぬべき所なりと
仰せ給ふに、ことのよし奏せむと申して」

「御幸」は上皇、法皇のお出かけの事で、「行幸」は天皇のお出かけ。
両方とも読みは「みゆき」つまり、宇多上皇が
大井川に出かけて、あまりの景色の美しさに
これは醍醐天皇も訪れてみるべきだと言ったのをうけての歌。

社長が花見に行くんだ〜!それまで散るな〜といったような気分だろうか。
醍醐天皇は翌日行幸しているので、紅葉は無事だったろう、よかったね。
定家は、小倉山の美しさを称える歌がほしく、この歌を選んだのではないかといわれている。

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27 みかの原わきて流るる泉川
いつみきとてか恋しかるらむ

○瓶の原から湧いて、流れていく泉川。
少しの涌水が、この大きな流れになるように、
いつしか私も大きな思いを抱えてしまった。
  あの時、貴方に偶然逢った。その後、貴方と話した。
そして携帯にTELが掛かった。
小さな気持ちが次々あふれ、ふしぎな気持ちが流れ出す。
 いつ見たのかも、覚えていない。いつ初めて出会ったのかも忘れてる。
 なのに、いつしか貴方に、恋してた


☆ 瓶の原から流れて、よぎっていく泉川の「いづみ」という名のように、あなたを
「いつみ」たというのだろう。まだ逢ったこともないのに、どうして私はここまで  
あなたを恋しく思うのだろう。いつ頃からか、恋しい気持ちが溢れ出してしまった。

みかのはらわきてながるるいづみがは いつみきとてかこひしかるらむ
出典 新古今集

Chunagon Kanesuke

Over Mika's plain,
Gushing forth and flowing free,
Is Izumi's stream.
I know not if we have met:
Why, then, do I long for her?

Mikaの平野の上で
先へ, 噴出して, 無料で流れること.
和泉のものは流れであるか?
私は, そうでないことを我々が会ったかどうかを知っている:
なぜ, そして, 私は彼女を切望するか?


中納言謙輔 ちゅうなごんかねすけ (877〜933)本名藤原謙輔 …って藤原姓ばかりだな。
当時が「藤原姓にあらずんば人にあらず」(注:こんな歌はありません)
時代だったのだからしょうがない。
根性で覚えましょう。藤原利基の六男。

加茂川の堤あたりに住んでいた為、堤中納言とも呼ぶ。

紫式部の曽祖父にあたる。この人の歌では、
別に有名なものがあり、ことわざにもなっている。
宴席で子供の話になったときに詠った
「人の親の心は闇にあらねども 子を思ふ道にまどひぬるかな」というもの。
で、ことわざ「子ゆえの闇」…無条件で、盲目的なまでの
無償の親の愛はいつの時代にも変わらないと、
教えてくれるちょっとせつなくもありがたい歌。

この歌、『古今六帖』では詠み人知らずの歌らしい。
定家が『新古今和歌集』に兼輔作と間違えて入れたとも言われているが、
真偽詳細不明。



詞書は「題知らず 」現代人には少々謎が残るのは「いつ何時み見き」直訳部分の
「何で、あった事もない人を恋しく思うの?」という点だろう。

当時、深窓の姫君達は御簾・屏風の向こうに隠れ、
家人以外のものにはめったに顔を見せたりしない
暮らしが普通とされていた。
その為、独身の男共は「○○家の次女は美人らしい」とか、
「□□家の三女は、天皇中宮の妹に当たるから 美人に違いない」という噂で、
相手に恋文を出していた。

その為、こういう歌になった訳。ちなみに、噂や宮家血筋ならさぞかし…
という直感で顔を見ずに一夜を過ごし、大失敗した例は『源氏物語』の「末摘花」で有名。

《みかのはら》 瓶の原・甕原・三日の原・三香の原とも
『枕草子』ではあしたの原・その原と表記。
京都府加茂町近辺で、大きな甕をうず埋めたので、原から水が湧くという伝説がある。
《泉川》淀川につながる、木津川の旧名。
《わきて》湧きてと分きて(みかの原をよぎって)の掛詞。

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28 やま里は冬ぞさびしさまさりける
  人めも草もかれぬと思へば

○1色のセピア色鉛筆で描いた様。
冬になった山里は、言い知れぬほどの淋しさだ。
会話の途切れる帰り道。目に付く物は、枯れた草。
  いつも訪ねてくる客も、冬になるともう来ない。
心も凍ってしまいそう。


☆ ただでさえ淋しい山里だが、冬になると人の訪れや草が途絶えてしまい
いっそう寂しくなってしまうものだ。

やまざとはふゆぞさびしさまさりける ひとめもくさもかれぬとおもへば
出典 古今和歌集

Minamoto no Muneyuki Ason

Winter loneliness
In a mountain hamlet grows
Only deeper, when
Guests are gone, and leaves and grass
Withered are;--so runs my thought.

冬の寂しさ
山の中では, 小村は発展する.
より深いことだけ…いつ
客がいない…葉と草
萎む…--そうは私の考えを走らせる


源宗干朝臣 みなもとのむなゆきあそん (?〜939)一品式部卿是忠皇子の子。
三十六歌仙の一人。15の光孝天皇の孫に当るが、当時天皇の孫が山のようにいた為、
臣籍に降り源姓になる。

知ってると思うが、念の為。天皇一家には苗字がありません。
苗字が与えられるというのは、天皇家からその家臣に変わったということ。

なぜそんな事がされたのかというと、皇子や皇女は いわゆる税金で
養われていた存在であった為。
一人につき子供が何人もいると、さすがに財政がパンクしてしまうので、
それなりの官位や年俸を与えるから、自分で糊口をしのぎなさいと言うこと。

コネは充分にありそうな気がするが、父も出家をしており、ツテがなかったのか出世せず
地方官で一生を終えた。

『大和物語』では官位が進まぬ事を嘆いた様子が見られる。
…そう知ると、歌のさびしさが最大限に身にしみる。

余談だが、名前の後についている 朝臣とは「あそみ」が変化したもの。
位によって、姓の下につけたり、名の下につけたり姓と名の間に付けたりした。
源宗干朝臣の場合、本人が正四位下だったので、
名の下に付けられている。
そう言われてみると、結構ばらばらに表記されていると気付くかも。

『寛平御時后宮歌合』の作者。
光孝天皇の皇后班子の歌合のことだが、完本は現存していない。



詞書は「冬の歌とてよめる」。
人目がか離れて、草も枯れる、と冬の冷感を直接には伝えないが、なーんかむなしい…という
心の寂しさがしみじみ納得させられる。
 雑学おまけ 訳文で利用したセピアとは、本来イカ墨のことです。
 
《山里》山家。京都からあまり隔たっていない村里

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29 心あてに折らばや折らむ初霜の
  おきまどはせる白菊の花


○ 銀色に地面を染める初霜の中、零れ落ちる白い息。
どこともわからぬこの場所で、冬の空気に浸っている。
真っ白、何も見えない空間に、
私はそっと手を伸ばす。
ぽっきり折れた感触は、白い菊の茎のもの。
霜にまぎれて咲いていた、白い白い菊のもの。


☆ 初霜にまぎれ、どこに咲いているかわからない白菊の花。たぶんここら
 だろうと検討をつけ、探し摘んでみよう。

こころあてにをらばやをらむはつしもの おきまどはせるしらぎくのはな
出典 古今集

Oshikochi no Mitsune

If it were my wish
White chrysanthemum to cull;--
Puzzled by the frost
Of the early autumn time,
I by chance might pluck the flower.

それが私の願望だったならば
傷物とキクを空白にしなさい;--
霜によって, 当惑される.
前の秋時間について
私は偶然花をむしるかもしれない.

凡河内躬恒 おおこうちのみつね (生没年不明)有名な歌人だが、身分は低く、
国司として地方官で一生を終えた。凡河内ェ利の息子との説があるが、未詳。

凡河内家は代々河内の国(大阪府)を治めることが多く、その流れか。
苗字も名前も難読だ。一読できる人がいるのだろうか?
苗字があまり歴史上で、聞いたことがない人は基本的に身分は低い。
貧乏な生活であったらしいが歌人としては認められ、早詠みを得意とした。

歌詠みが巧みであると、醍醐天皇から御衣を賜ったこともある。
御幸にも3回供奉し、中でも926年の大堰川御幸では9つの歌題に対し、
6人の歌人がそれぞれ歌を披露するなか、
躬恒は 内8題を各2首ずつ詠み上げ、トップとなっている。

後世に聞くと誉めるべき逸話だが、一緒に出席した
歌人からは、ひとり目立ち根性でヤナ奴ぅ〜
と思われたかも知れない…。っていうか、私なら多分そう思う。
しかし この頃は 歌も出世の手段のひとつ。アピールは大事である。



『古今集』の詞書には「白菊の花をよめる」
正岡子規がこの歌を「この躬恒の歌百人一首にあれば誰も口ずさみ候えども、
一文半文のねうちもこれなき駄歌にござそうろう御座候。この歌は嘘の趣向なり。
初霜が置いたくらいで白菊が見えなくなる気遣いこれなく候。

趣向嘘なれば趣も へちま糸瓜もこれあり申さず、
けだしそれはつまらぬ嘘なるがゆえにつまらぬにて、上手な嘘は面白く候。」

「今朝は霜がふって白菊が見えんなどと真面目らしく人を欺く仰山的の嘘
はきわめて殺風景に御座候。」 
「小さきことを大きくいう嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申し候。」
 つまり菊がいくら白くたって、霜に紛れてしまうはずないだろう。
嘘が大きすぎて一文半の価値もない、小さい事を大げさに言う
和歌 腐敗の原因だ、とボロクソに批判。

正岡子規の批評は 納得いくものがなくもないが、
…おいおい歌の世界にそんなリアリズム追求してどうするよ。
現在の歌謡曲なんて、恋愛沙汰で
宇宙空間まで話が跳んじゃう事もあるんだぞ。

憐れにも、近代では この評が出回ってから 誉めてくれる人がいなくなってしまった。
私は寒々しすぎず、気品ある霜と清楚な菊の清涼な白さで心洗う
清々しさが感じられ、良い歌だと思うが。

《心当てに》心をあてに、推量で

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30 有明のつれなく見えし別れより
暁ばかり憂きものはなし

○ 星も消えた明け方のソラ。哀しみだけが、冷たく心に刻まれる。
やるせないほど、好きなのに。
そんな言葉も呑み込んで、別れ話も平気なふり。
頭上に広がる闇色が、暁色に変わる頃、月のように冷淡で、そっけないほど
あっけない貴方との別れを思い出す。


☆ 明け方に冷たく貴方と別れて以来、暁が来る度憂鬱な気持ちになってしまいます。

ありあけのつれなくみえしわかれより あかつきばかりうきものはなし
出典 古今集

Mibu no Tadamine

Like the morning moon,
Cold, unpitying was my love.
Since that parting hour,
Nothing I dislike so much
As the breaking light of day.

朝の月のように
冷たく, 「非-哀れ」することは, 私の愛だった.
その別れの時間以来
私があまりに非常に嫌でない何でも
日の壊れている光として


壬生忠岑 みふのただみね (生没年不明)当時、地名は「みぶ」と読み、
人名は「みふ」と澄んで読んだらしい。

歌の名人三十六歌仙の一人ではあるけれど、壬生安綱の子で
壬生忠見の父であるとの他、生没年・生涯・家系など殆どが不明。
『大和物語』では藤原定国の随身、つまり護衛役を勤めたとある。
と、いっても昇殿をゆるされたのは、この歌のおかげ。

醍醐天皇がこの歌で忠岑の歌才を認め、随身に抜擢した。
『古今集』の撰者を務める。



この歌の詞書は「題知らず」であるが、 「逢わないで(夜が)明けた」
歌群のひとつにあるので、別れてすぐの歌ではなく、
しばらくたってからの想いと見える。

女の立場で詠んだ歌かと思うと、ありがちで浮気な
相手の男がひどく感じられるが、
男の立場で詠んだ歌と知り、感想が一変した。

だって、有明・暁とかが似合うつれない女って
 …想像だけでもゾクゾクしそうな妖艶さだし。
恨み言をグチグチ連ねるよりも、こういった温和な 男の哀愁を
訴えかけられると、ぐっとくる。

後鳥羽院が『古今集』でもっとも優れた歌を訊ねた時、
藤原定家・家隆の二大歌人がこの歌を上げた。

《暁ばかり》明け方の時間ほど
《憂き》悲しい、愁う


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