11  わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬ
人には告げよあまのつり船


○引っ越すことになったの。海の向こうに見える、
あの島々のうちのどこかに。
 お別れがつらいから、皆に黙ってきてごめん。
海鳴りが寂しさをかきたてる中
 これを書いています。
 もう船がでてしまうから、この手紙 近くの漁師さんに託します。
 さようならの言葉とともに。


☆私はあの島々に向けて漕ぎ出ると、どうか私の変わりに、
そこの海人よ 伝えておくれ。

わたのはらやそしまかけてこぎいでぬと ひとにはつげよあまのつりぶね
出典 古今集

Sangi Takamura

O'er the wide, wide sea,
Towards its many distant isles,
Rowing I set forth.
This, to all the world proclaim,
O ye boats of fisher-folk!

O'er…広いこと…広い海
その多くの遠方の島に向かって
私が先へ設定する船をこぐこと.
全世界へのこれは宣言する.
おー 漁夫人々のそのボート!



参議篁 さんぎたかむら (802〜852)小野小町の祖父(?)本名小野篁。小野岑守の息子。
漢学者で歌人でもある。幼少の頃は、学問より 弓馬を好むどちらかと
いうと粗暴な性格であったが、
それを嵯峨天皇が嘆いたと聞き、行いを あらためたと言われる。

性格奔放でしきたりを嫌った性格から、野宰相・野宰公、
ひどいのになると野狂とも呼ぶ。閻魔様の下で仕事を手伝い
働いてるとか、妻が幽霊だとかいう説話も有り、
しまいには仙人になったとの説もある。

篁が島流しに遭った折、弁護してくれた 西三条 よしすけ/良相(藤原良相)は、
一度死んで地獄に行ったが、そこで夜間のみ冥界で
働いていた篁に人物を保証されて生き戻り、長生きしたというお話も。

852年の12月、篁は京都八坂六道の辻で、忽然と姿を消したとある。
人生最後まで、ミステリアスな方。
京都東山区六道珍皇寺には 小野篁像と閻魔像が並び、 裏庭には篁が冥界へ下りるのに
利用したという井戸が現存する

『篁物語』の主人公でもあるが、これは創作色が強く、実際の話とは考えにくい。
異母妹との悲恋物語の一部と、篁の昇進物語の二部構成になっていて、
その間を繋ぐのが異母妹の幽霊となっている。家庭教師役として 漢籍を教えていた妹が死んだときに、
涙で三途の川を溢れさせたら、妹はかえってくるだろうかと歎いた為、このような創作がさせたのであろう。



 この歌の詞書は「隠岐の国に流されける時に、船に乗りて 
出でたつとて 京なる人のもとにつかはしける」
…タイトルと歌本文の長さがほぼ変わらん。

要約すると、流罪で隠岐に送られるときに、京に残した人に詠んだ歌。
残した人、とは家族や召使だろう。転勤や引越しとは違い、単身での流罪だし、
友人達はやはり表面上、罪人とやりとりできなかったであろうから。

流罪の理由は、 下記の通り。篁は遣唐使で副使役に選ばれたのだが、
二度の航海失敗後、三回目の渡航前に大使役藤原常嗣とけんかして、
仮病をつかい役目を断った。
そればかりか、遣唐使を諷刺した歌まで作ったのが原因。

嵯峨上皇が国法を曲げたと、死罪にしようとしたが、一等減じられて、配流となった。
うーんさっぱり男らしいというか、子供かいと突っ込みをいれるべきか。
後世から見ると、どちらも大人気ない。

 もっとも篁を弁護すると、怒った理由がもっともで、藤原常嗣の船が破損したので、
自分と篁の船とを交換しようとしたから。しかも天皇がそれにオッケーを出している…
命懸けの航海に出る前に、そんなことされたら私も怒るよ、きっと。

《わたのはら》和田の原・海の原。広々とした海
《八十島》地名ではなく、八十=いっぱいの意味で、たくさんの島
《かけて》向って

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12 天津風雲の通ひ路吹きとぢよ
 をとめの姿しばしとどめむ


○ぽかぽか暖かい桜霞の中、 乙女達が踊ってる。
 ふうわりふわり、ひらりひら。
いたずらに吹く風よ、お願い。
雲間に見える、妖精達の帰り道を
しばらくの間だけ塞いでおいて。
…もうすこしだけ、このきれいな姿見ていたいから。


☆風よ、天への雲路を閉ざしておくれ。乙女の姿をしばしみていたいから 

あまつかぜくものかよひぢふきとぢよ をとめのすがたしばしとどめむ
出典 古今集

Sojo Henjo

O ye Winds of Heaven!
In the paths among the clouds
Blow, and close the ways,
That we may these virgin forms
Yet a little while detain.

おー 天のそのWinds(風)!
雲の間の経路で
吹いて, 道を閉じなさい.
我々がそうする…これらの処女のフォーム
まだ少し…引き止めである




 僧正遍昭 そうじょうへんしょう (816〜890)俗名、よしみねのむねさだ/良岑宗貞。
桓武天皇の孫で、良岑安世の子。仁明天皇に寵愛され、左近少将、蔵人頭となり
、良少将と呼ばれる。
ハンサムで風貌が優れていたので、海外からの使者の接待役を命じられたことも。
良僧正・中院僧正・花山僧正とも言われた。
850年に仁明天皇が崩じたため、それに伴い出家。妻には告げずに出家したという。

のち僧正にのぼり、花山にがんぎょうじ元慶寺を創設して座主となった。
僧正とは坊さんで一番偉い役職であったが、後になって ポスト争いからか
人数が多すぎて役職が必要になったかで
大僧正や権僧やらの僧正以上の位を増やし、偉い人が一杯いるようになってしまった。

15の歌の 光孝天皇とは親王時代から親しく、天皇から七十の賀の祝いを祝宴されている。
「六歌仙」「三十六歌仙」の一人。

小野小町と恋仲であったとされ、小町とのロマンス話の、
九十九夜通いで有名な恋人役、深草少将のモデル(大納言義平の息子、
義宣がモデルとする説もある)と言われている。
ただし、この話では小町が慕っていたのは深草の帝こと第五十四代仁明天皇であった。
深草少将は良い目に会わず、結構悲惨なのでモデルといわれても、本人は嬉しくないかも。



詞書は「五節の舞姫をみてよめる」。
坊さんがこんな艶っぽい歌読んでいいんかいと思うかもしれないが、
この歌は出家前、蔵人頭であった頃の歌。

五節舞は、天武天皇が吉野へ行幸した際に、その場に
天女が舞い降りて舞ったという説話に基づき、
旧暦11月に、五人の乙女を天女に見たて踊るという宮廷行事。
春っぽく訳したが、本来は冬の季語。

きれいな物をもうちょっとだけ見ていたい…
乙女チックな気持ちは男女かかわらず、一緒らしい。

1960年天津乙女という名前の、黄花系薔薇が寺西菊雄氏に
よって発表されている。

《天津風》天すなわち空に吹く風
余談だが、1915年天津風と名付けられた駆逐艦がある。

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13 筑波嶺の峰よりおつるみなの川
恋ぞつもりて淵となりぬる


○ 人を好きになるのって、この川に似てる。
 筑波山に源流がある大きくうねるみなのがわ男女川。   
最初はちょっとした1滴。
「おはよう」とか「がんばってるね」とかの軽い挨拶。
そこから気持ちが膨らんで、1滴1滴集まるように、
いつか大きな流れに変わる。
でも川淵の水が淀むよう、いつしか私の気持ちも濁ってた。
恋する気持ちだけでなく独占・嫉妬・孤独感…抱えきれない大きな感情、
深い深い淵みたい。


☆筑波山から落ちて、男女川になるように、恋も淵のように貯まってしまった。

つくばねのみねよりおつるみなのがわ こひぞつもりてふちとなりぬる
出典 後撰集
 
Yozei In

From Tsukuba's peak,
Falling waters have become
Mina's still, full flow:
So my love has grown to be;
Like the river's quiet deeps.

 筑波のピークから
降下している水域はなった.
Minaの静かで, 完全な流れ:
そう私の愛が成長するようにする;
川の静かな深みのように.


陽成院 ようぜいいん (868〜949)第五十七代陽成天皇。名は貞明。
文徳天皇の孫で、清和天皇の第一皇子。十歳で即位したが、
脳を病んでいた為、奇矯な振るまいが目立つ 兇暴な性格であった。

馬が好きで宮中でそっと馬を飼ったり、馬を飼うのだけが得意な無法者をのさばらせ、
儀礼を乱す程度ならまだ良かったが、動物虐待の趣味を持ったり、
人殺しの噂が立ったりした(さすがにこの当たりは曖昧)ため、
摂政 藤原基経によって十七歳で皇位を追われた。

十歳で天皇即位。十七歳で退位。懐かしの子役アイドルじゃないけれど、
一番周囲が見れるようになった頃、廃位させられるのって…やだなぁ。
 まぁ、この場合政治的な陰謀じゃないのが救いか。
廃位後も乱行は続いたが、八十二歳まで 長寿をほこった。周囲はさぞ、大変だったろう。
廃位を進めた基経は、母の兄で いわゆる伯父に当たった。



この歌の詞書は「つりどののみこにつかはしける」。
釣殿の皇女とは、光孝天皇の皇女 すいし/綏子内親王のこと。
歌としては、恋に纏わる心について 人を納得させ優れているかと思うが、
本人の行状を知った上で、「あなたに淵のように思いがたまるほど、恋しています」
なんてラブレターもらったら、うっ…ちょっと怖いかも。

この方の歌で、現存しているのはこの一首のみ。
この手紙が効をきしたのか、綏子内親王は後に陽成院の後宮に入っている。
この歌も少し違うバージョンがあり、『後撰和歌集』『百人秀歌』等では
、第五句が「淵となりける」となっている。

《筑波嶺》いわゆる茨城の筑波山で、古来有名な歌枕
《みなのがわ》男女川・水無川とも。筑波山の男峰と女峰の、二峰から流れ出   
       ているからこの名とついたらしい。

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14 陸奥のしのぶもぢづり誰ゆゑに
乱れ染めにしわれならなくに


○ このTVあなたも見てるかな?
 あ、借りてたCDまだ返してないよ。
はふ…駄目だ、何見てもあなたの事を考えちゃう。
本を読んだら、あなたの趣味を思い出し、
ご飯を食べたら貴方の好物思い出す。
思考回路が麻痺寸前。
福島旅行で買ったおみやげの、乱れ染めのこのハンカチ。
あっちこっちに色が跳び、まるで今の私の脳みそだ。


☆ 陸奥の乱れ染めのように、私の心が乱れてしまったのは誰のせいでしょう?私 
 のせいではなく、貴方のせいですよ。

みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに みだれそめにしわれならなくに
出典 古今集

Kawara no Sadaijin

Michinoku print
Of shinobu's tangled leaves!
For whose sake have I,
Like confused, begun to be?
Only yours! I can not change!

Michinoku印刷
shinobuのもつれている葉について!
だれの目的に, Iがあるか?
混乱するように, 始められて, あること
あなたのものだけ! 私は変化することができない


河原左大臣 かわらのさだいじん (822〜895)本名 源融。嵯峨天皇の第八皇子。
臣籍降下して源姓を名乗る。

東六条の鴨川近くに、河原院という豪奢な邸宅を構えたため河原左大臣、また河原院とも呼ばれた。
別荘が河原にあって役職が 左大臣だったから、こう呼ぶらしいが、じゃあなにか?
今時なら軽井沢文部省長官とでもなるのか?
なんでこんなややこしい名前で編集したんだか。

四つの町をまたぐ大邸宅で(想像もつかないぞ)邸の庭には陸奥 
しおがま/塩竈 浦の風景をそのままに再現し
 池には海水を入れて塩を焼くようにして、陸奥の風情を楽しんだ。
他にもたくさん別荘を持っていた大金持ちで、宇治にも別荘を持っており、
陽成・宇多・朱雀天皇等の御幸もあった。
それが後の十円玉で有名な平等院鳳凰堂。…リッチだ。
といっても、しばし戦禍で焼失しているので、現存の建物は異なっている。

豪奢な生活で七十三歳まで生きて、未練無くこの世を去れそうだが、
融の死後息子の昇が、この屋敷を宇多法皇に寄進。
そこで法皇が妻の京極御息所と出向き、
邸内で眠っていたところ、夜中に扉の開く音…。
何者かと問うた所、融の幽霊だといきなり腰に抱き付かれ、
半死半生に。法皇は加持でやっと蘇生したという話が『今昔物語』にある。

父が一生懸命作った屋敷を、息子によってぽんと あげられてしまったら さぞ恨みに
思うだろうという、民衆の心理を反映したお話かも。

それにしても、幽霊にいきなり腰を抱き付かれるって、妙にリアリティあって怖い。
とはいえ、息子が寄進したものを、いきなり祟るのを不審に思った貴方。鋭いです。

これには別の因縁話もあって、陽成天皇の退位が決まり、次の天皇を探す藤原基経に、「
自分も天皇に近い血筋だ」と融は自推したのだが、
「一度臣籍に下ったものが、即位した例はない」と基経に潰された。
にも関わらず、光孝天皇が崩御した後、次の天皇は臣籍に下っていた源さだみ定見、
つまり宇多天皇であった。
生存中、融は若い宇多天皇に、礼を尽くし仕えたが、その相手に邸宅まで取られてしまったら、
死後、幽霊になって現れても不思議は無いというわけ。


  
  この歌の詞書は「題知らず」。女から疑われたのを、答える形になっている。
『古今集』では四句目が「乱れんと思ふ」になっていて、原歌はどちらか不明だが、
乱れ染めにしの方が、艶っぽさがあり語呂も良く好きだ。
 
 《陸奥》奥州地方で、みちのおくが語源
《しのぶ》福島県信夫郡とシノブ草を掛けている
 《もぢずり》綟摺り・忍ぶ摺りと同じで、シノブ草を擦り付け、乱れ染めの模
      様にした摺衣。信夫地方の特産品だから「しのぶもちづり」という
      説とシノブ草を使うからとの説があるが、あまり意味は変わらない。

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15 君がため春の野出でて若菜摘む
 わがころも手に雪はふりつつ


○まだ寒いのに、ぽっちり出ていた若菜の芽。
春を招く、アイテムみたい。荒涼とした土色の中、そこだけ翠輝いていた。
貴方にもみせてあげたくて、白い息吐いてかがみ込む。
摘むのをちょっと躊躇いながら、指先そっと大地に触れる。
ためらい伸ばした袖元に、空から落ちてきたのは
小さい小さい幾何学的な六角形。
袖にちょこんとついたのは、雪の結晶冬模様。


☆貴方のために、若菜を摘んでいると袖先に雪が降ってきましたよ。

きみがためはるののにいでてわかなつむ わがころもでにゆきはふりつつ
出典 古今集

Koko Tenno

It is for thy sake
That I seek the fields in spring,
Gathering green herbs,
While my garment's hanging sleeves
Are with falling snow beflecked.

それはあなたの目的のためにある.
そのIはスプリングの分野を探す.
緑色のハーブを集めること.
私の衣類の掛かっているスリーブをゆったり過ごしなさい
降下している雪がbeflecked(この単語でみつからなかった
be + flecked?で、まだらに付く)されている状態で ある.



光孝天皇 こうこうてんのう (830〜887)仁明天皇第三皇子。
第五十八代天皇で、名は時康。
小松殿で育ったので、小松帝・在位の年号から仁和帝とも呼ぶ。
13の歌の作者、陽成天皇が17歳で退位したのは述べたけど、
その後を継いだのは、なんと54歳のこの方でした。

普通年齢的には逆な気がするが、そこはそれ政治の世界 周囲の都合。
社長が死に、継いだ若社長が無能で会社めちゃくちゃ。
ピンチと思った重役達が、どこからか前社長の義理の弟を探し出し、クーデター。
もちろん実権は重役達が…ってな所か。どの時代もかわらないなぁ。

ここでの重役は、藤原基経で、弟が光孝行皇。
これを恩に思った天皇は、藤原基経を重用し、政治を任せた。これが、関白の始めとなる。

また、遠慮の余り藤原氏と外戚関係の無い 自分たちが、天皇家を継がないと 
暗に示す為、皇子を皆臣籍に下している。

若い頃、渤海国から来朝した王文矩が、「この方は 貴い人相なので、将来天皇になる」と告げたとか、
藤原仲実が弟に「必ず天子につく人だからよく仕えよ」と言ったなどの
エピソードの持主だが、五十三歳までは、誰からも忘れられた暮らしをしていた。
急な生活の転換がたたったのか、在位したのはたった四年間で崩御



詞書は「仁和のみかど 皇子におはしましける時に人に若菜たまひける歌」

まだ親王であった頃に詠んだ歌で、春の七草を摘んで人に贈る時添えた歌。
現在でも、七草粥を食べて邪気を払う習慣と同じ。
ひっそりと暮していた人だけに、庶民的な若菜摘みも、実際に自分で行っていたのだろう。
「君」は自分の前の天皇の陽成院をさすとの見解もあるが、
読み口を考えてもどこか親しげで、もっと身近な人な気がする。



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