百人一首の成立
まずは、百人一首成立の歴史から。
撰者 藤原定家の日記『明月記』によると
嘉禎元年(1235年)五月二十七日が
原型である『百人秀歌』の成立の日とされている。
『百人秀歌』は計百一首が載せられており、
うち九十七首が『小倉百人一首』一致しているが、
残り四首は異なり、また唄の配列順も違っている。
小倉山荘の障子に、歌仙の肖像と詠歌を書き添え貼りつけた物が草案と成り、
補修して今の『小倉百人一首』形になったとされる。
ただし、歌仙絵については異説もあり、
鎌倉時代の和歌四天王の一人(なんだか戦隊ヒーローのようだ)
頓阿の『水蛙眠目』に「嵯峨の山荘の障子に、上古以来の歌仙
百人のにせ絵を書いて、各首の歌に書添えた」とある
それ以前には、作者絵姿についての文献の著述が見えないことや、
その品の伝来の形跡や遺品が現存しないことから、
実物の存在が疑われている。
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にせ絵とは、「贋物の絵」ではなく「似せ絵」で似顔絵のこと。
当時でもトップクラスの有名人のお宝品なので、
所持する人は当然家宝御自慢の一品としてもよさそうなのに、
それを世間一般でまったく聞かないから、存在しないのでは?という意味。
文献的「残っていない」証拠はないけれど、
心理的には「やっぱりなさそうだよなー」という印象に傾く。
撰者は別で、定家色紙は染筆をしただけだとか、
他の人が選んだものを定家が修正したなどの説もあるが、
現在は定家撰で一致している。
ちなみに、何故定家撰が一部否定されたかはラスト二人の読み人の名前による。
後鳥羽院と順徳院は、定家の死後に決まった諡で、
定家生前はこう呼ばれていなかったことと、
政権を倒幕しようと企て、流刑にされた当時禁忌の人。
死後数年たっているとか、恩赦が出て帰ってきたという事実はなく、
最高級の罪人扱いをされていた人を、
親幕派であった定家が取り上げるだろうかという疑問に寄る。
なんとなく百人一首=平安時代イメージ一色だが、七世紀の天智天皇から始まり、
十三世紀の順徳院までの、約六百年間に渡る年代の歌が収蔵されている。
百首の順番はどこの本でも統一されているが、おおまか歴史順。
もっとも、父の前に息子が来ていたり
曾祖父がひ孫の後にあったり叔父より甥が先にあったりするけれど、
前の方ほど古い歌が配列されている。
『百人一首』という呼び方が起きたのは、室町時代頃でそれまでは「百人首」と呼ばれていた。
百人一首も字面で追うと、妖怪みたいだが百人首とだけ書くと
「戦場で多くの者を倒した歴戦の勇者である人の異称・百人の首を狩るほどの勇者の異称」
とか嘘八百の説明をしても、歴史に興味が無い人なら欺けそうだ。(あざむいてどうする)。
ちなみに、「百首歌」という場合は、自分一人で歌を百本作りましたよ、
という意味なので混同なきよう注意。
百という切のよさが好まれたのか、
後になって『源氏百人一首』『後撰百人一首』『武将百人一首』
などが編まれるようになった。
中でも『愛国百人一首』は近代のものとして有名で、
日本が軍国主義に走ろうとする中、愛だの恋だの浮ついた歌ばかりが、
日本の代表歌集とはけしからんと編纂されたもの。
内容的には、大和国は美しい・日本はスバラシイ
大君バンザイと当時の風潮が読み取れる。(別ページに付随)