龍神の女 


 『たつの湯』
 古びた木の板にはそう書いてあった。墨で書かれた文字も薄れていて、遠目にはなんと書いてあるかもわからない。
 突然の雨に、軒を借りた建物だった。色あせた瓦屋根、飴色の壁。歳月がじっとりと染みこんだ家屋だと一目でわかる。山に囲まれた窪地にひっそりと佇む街にしっくりと馴染んでいた。
 山に囲まれた景色を求めて訪れた街だったが、晴れてはいても、空気に水分をたっぷり含んでいるようなしっとり感が気に入った。温泉でもあるのだろうか。かすかに硫黄の匂いもする。街全体が目に見えない細かな霧に包まれているようで、山にある水の里のようだとさえ、思った。
 けれど、雨となると呑気なことも言っていられない。気楽な旅のつもりだったので、雨具の用意はなにもなかった。
 大粒の雨にアスファルトがみるみる黒くなり、民家に挟まれた狭い路地は雨に煙り、ますます狭くなったように見える。
 仕方なく、目についた軒に避難した。民家にしては作りが大作りなので、公民館かなにかだと思ったが、引き戸の上に古びた板が架けられていた。脇には小さな賽銭箱のようなものが置かれ、こちらも墨で「志」と書かれている。
 温泉だろうか。もしそうなら、ちょうどいい雨宿りになるかもしれない。
 僕はそっと引き戸を開けて、中を覗いてみた。
 開けてすぐのところがもう小さな脱衣所だった。その向こうに磨りガラスの引き戸がある。
 銭湯ではないのだろうかと思い、入り口にあった賽銭箱を思い出した。ここにお金を入れて勝手に入れと言うことか。
 先客がいるようだった。脱衣所の壁に作られた棚に籠が並べられ、その一つに浴衣が入っているのが見えた。
 僕は靴を脱いで脱衣所に上がると、そっと引き戸を開けた。
 途端に凍りついた。こじんまりとした風呂場の真ん中に木の湯船があり、一人の女がこちらの背を向けて湯に浸かっていた。人の気配に気がついたのか、ふっと振り向いた顔はほっそりと白かった。涼やかな瞳が僕を射る。
「す、すみません」
 慌てて目をそらし、戸を閉めようとしたとき、声がした。
「お入りなさいな」
 静かな、けれど有無を言わさぬ声だった。
「でも」
「慌てることなんかないじゃありませんか。ここは混浴ですよ。どうぞ、遠慮なく」
 逃げるタイミングをなくしてしまった。引くに引けず、かといって「そうですか」と入れもせず、中途半端な体制のままに僕は視線を彷徨わせる。ちゃぽんと、湯がはねるかすかな音が聞こえた。
「外は雨が降っているんでしょう? 暖まっていらっしゃいな」
 ふと見ると、湯は白濁していた。女も、だから、肩より上しか見えない。
 それで、落ち着いているのか。
 そう思ったら、僕自身も落ち着いた。そして、覚悟を決めた。
「じゃあ、せっかくなので」
 一度引き戸を閉めると、脱衣籠に背負っていたリュックを置く。中から汗拭き用のタオルを取り出すと、僕はひと思いに服を脱いだ。
 外からは、まだ雨の降っている気配がする。まだ止む様子はなく、むしろ雨足は強まっているように感じた。
 再び磨りガラスの引き戸を開けると、女はこちらに背を向けていた。長い髪を一つにまとめているせいで、白い首筋が露わだったが、立ち上る湯気のせいでぼんやりとして見えた。
 失礼しますと声をかけ、ぼくは女の背の側から湯船に近づいた。湯おけに湯を汲み体にかけると、そっと湯船に入った。
 少しぬるめの、じんわりと柔らかな湯だった。まるで、女の肌のような。
 そう思うと、同じ湯船に入っている女の体を意識してしまった。なるべく見ないようにしても、ふと気がつくと視線の中に女の白い肩がある。女のかすかな動きも、湯のわずかな動きで感じ取れてしまう。
 湯に浸かっても、ゆったりとした気分にはなれなかった。
 ふいに女が立ち上がった。思わず視線を向けて、はっとした。
 そこに、龍がいた。真っ白な細い背中に見事な龍の入れ墨があったのだ。
 龍は空に向かって飛躍するかのように、緑色の体を大きくくねらせている。黄色い目は大きく見開かれ、しっかりと俺を睨みつける。鱗の一枚一枚が、濡れて艶やかに光っていた。ゆらめく湯気で、入れ墨の龍はまるで生きているように見えた。
 女はそのまま湯船から上がり、湯船の縁で立て膝をついた。女の肩から、湯の滴が流れ落ちる。
 女が肩越しに僕を振り返った。束ねた髪の後れ毛が、頬に影を落とす。女の浮かべた笑みはうっすらと薄い。
「ねえ、あなた」
 女の声は艶やかで、僕は湯船の中で身じろぎ一つできない。息をつめて、ただ女を見つめ返していた。
「湯の次は、わたしの中にお入りなさい」
 黒い瞳から目を離せない。白い肩から、ふくよかな尻から、猛々しく飛翔する龍から。どうしても、視線を逸らすことができない。
 湯から立ち上る湯気が、まるで女にまとわりつくように渦巻いている。その間から、龍が睨みつけている。
 現実感が遠のいていった。
 この女は龍神の化身なのだろうか。龍神が男を求めているのか。
「さあ」
 有無を言わせぬ口調だった。
 ふわりと吸い寄せられた。白い湯の中を、女に向かって歩いていく。雲の上を歩くように、足取りはふらついていた。湯に足を取られ、転びそうになりなる。
 近づくと、女は笑みを消した。間近で見ると、女の瞳は吸い込まれなほどに深く黒かった。体をひねり、僕の方に手をさしのべる。その手の暖かさを感じたときに、僕の中から完全に現実感がはじけ飛んだ。
 女の肌は柔らかで、火照った体は僕のすべてを受け入れてしまう。なめらかな肌が僕の肌にぴったりと貼りついてくる。
 夢中になって抱いていると、女の背で龍がもだえた。まるで、女のあえぎ声に呼応するかのように、大きく体をねじらせる。鱗が激しく擦れ合う音は幻聴なのだろうか。
 すべてが夢の中の出来事のようだった。体の熱が、湯から伝わるものなのか、それでも女の激しさによるものなのか、わからない。ただ、がむしゃらに、龍の体を抱きしめていた。
 女を強く抱くと龍の瞳の光が強くなり、どんどん大きくなって僕を凌駕する。龍に、女に、僕は飲み込まれていった。
 果て終えて、ぐったりと女の胸に顔を埋めると、とくとくと確かな鼓動がした。じっとりと汗ばんだ体からは、甘い石鹸の匂いがする。
 ようやく、我に返った。
 背中に入れ墨がある女。凛としているとさえ思える妖艶な様。
 普通に考えたなら、危ない筋の女ではないだろうか。
 途端に臆病風が吹いた。暖かいはずの湯殿なのに、体の温度が下がっていく。
 そんな俺の心境がわかったのだろうか。女は艶めかしく微笑んだ。細められた瞳が冷たく僕を見る。
「もうお帰りなさい。雨もやんだでしょう」
 僕はお許しをもらった犬のように脱衣所に逃げ出し、急いで服を着た。棚には浴衣の入った籠が置かれている。女のものに違いない。
 龍神が浴衣を着るはずなどない。
 誘われたとはいえ、見知らぬ女を抱いてしまったことへの罪悪感は、背筋を伝いあがる怯えにかき消された。
 風呂場にタオルを忘れてきたことに気がついたが、取りに戻る勇気はなかった。
 リュックをひっさげるように表に出る。
 雨は止んでいた。街を囲む山が迫って見えた。雨に濡れて、緑が濃くなっている。谷間に白い霧が立ち上り、空に襲いかかるように渦巻きながら上へと登っていく。
 女にまとわりついていた湯気を思い出した。思い返すと、女のまわりだけ、妙に湯気が多くはなかったか。
 あの女は本当にまだ風呂にいるのだろうか。
 けれど、引き返して確かめる気にはなれなかった。

 数年後、僕はまた同じ街を訪れた。
 もしかしたら、幻だったのではないかと思った『たつの湯』は確かにそこにあった。が、古い建物は建て替えられたようで、美しい白木作りの粋な建物になっていた。