賭 ![]()
賭をしようか。
そう言いだしたのは、由香里だった。
わたしはそのとき、ナポレオンパイを一切れ、口に入れたところだった。口の中いっぱいにさくりとしたパイととろりとしたクリームが溢れ返っていて、すぐには返事ができない。
このパイは由香里が土産に持ってきた物だ。ケーキの箱には懐かしい店の名前が書かれている。高校時代、彼女と通い詰めた店だった。由香里とは、ケーキの好みも似ている。
冬の日の昼下がり。年末の慌ただしさをよそに、こんなふうに女友達と過ごすのもいいものかもしれないとわたしは思い始めていた。
彼女が突然遊びに来たときには驚いたが、わたしも恋人が仕事でたいくつをしていたところだった。本当なら今日から正月休みのはずだったのに、急に仕事が入ったという。
小さな6畳間のリビングにおかれたローテーブルとソファの間を、ゆったりとした時間が流れている。柔らかな昼間の光の中で見る部屋は、あわただしい朝や疲れ切った夜とは別の部屋のようだった。
「賭ってどんな?」
やっとパイを飲み込んでわたしは聞く。
「明日、雨が降るかどうか」
わたしは思わず窓の外を見る。
そこには青空がある。考え抜かれたアクセントのように白い雲が所々浮かんでいるが、雨の気配など微塵もしない。
「何をかけるの?」
「大事なもの」
そう言って、由香里はにっこりと笑う。
ショートカットの髪に縁取られたほっそりとした頬、すっきりとした化粧。耳元で揺れる大振りの銀のピアスが、小さく揺れる
丸顔で髪型はいつもセミロングのわたしとはまるで違う。
けれど、わたしたちは似ているのだ。
「わたしは雨が降る方にするわ」
由香里はわたしの返事を待たずに続ける。
わたしはもう一度窓の外を見た。
マンションの窓は小さくて、空も小さく切り取ったものしか見えない。あるいは、窓から見えないところに黒々とした雨雲があるのもかもしれなかった。
少しだけ、迷った。
賭をするかどうか。
雨が降るかどうか。
そんなわたしを由香里が静かな目を見ていた。
その黒い瞳を見て、わたしは決める。
「わたしは雨が降らないほう」
そう。
由香里はまたにっこり笑った。
そして、わたしたちは同時にパイをもうひち口食べた。
パイを食べ終わると、由子はさっさと帰ってしまった。まるてパイだけを食べにきたようなあっけなさだった。
次の日も、神様が青いペンキで描いたような鮮やかな晴天だった。
わたしは恋人と駅で待ち合わせをして、公園を散歩して、カフェで休んで、映画を見て、食事をして、その後部屋に戻って二人でベットに入るというありきたりなデートをした。
暖かな日差しや、映画の作られた甘い雰囲気の中ではすっかり忘れていたが、今恋人の寝顔を横にベットに横たわっていると、昨日の由香里との約束が思い浮かぶ。
時計を見ると、もう今日も終わる時刻だ。
わたしはじっと息を潜めて待っていた。
電話の向こう側で、由香里もわたしと同じように日付が変わるのを待っているような気がした。電話線でわたしたちはつながっている。
今日が明日になった瞬間に、電話が鳴った。
『もしもし?』
もちろん、相手は由香里だ。
隣の男を起こさないように、わたしは小さな声で「わたし」と返事をする。
『悔しいけど、わたしの負けね』
由香里の声はとても遠くて、彼女がどんな表情をしているのか、わからない。
『今ね、パリにいるの』
「パリ?」
どうしてそんなに遠いところにいるのだろう? わたしたちの賭はどうなってしまったのだ?
『こっちはね、雨が降っているんだ。昨日から、ずっと』
わたしは振り返って恋人を見た。そこには穏やかな寝顔がある。
『そっちは雨なんて降っていないんでしょうね』
恋人の横顔に陰が落ちている。静かな寝息さえ聞こえるほど、部屋は静寂に満ちている。しっとりとした闇に包まれた部屋は、昼に見た部屋と本当に同じものなのか。
もう、由香里が何も言わなくても、わたしには賭の意味がわかってしまっていた。わたしの沈黙で、由香里もそのことがわかったはずだ。
それでも、由香里は続けたし、わたしは黙って聞いていた。
『昨日ね、空港で彼と待ち合わせをしていたの。だけど、来なかったわ。彼はあなたを選んだのね』
わたしは受話器を、持ったまま窓を見る。
カーテンがかかっていて何も見えない。けれど、夕方から降り出した雨がまだ降っている音がかすかにしていた。