感動すること 

 とても感動することがありました。これを書いている今もちょっと興奮気味です。何があったかというと、ようやく4次元の仕組みがわかったのです(ここで引かないでくださいね。オカルティックな話にはいきませんので)。
 もちろん、わたしが新たに見つけたというわけではありません。四次元の仕組みについては物理の本やらSFやらでとうの昔から説明されています。その意味がようやく理解できたのです。(詳しい話になると興味のない人もいると思うので別のところで)
 わたしが四次元の仕組みについて考え始めたのは中学か高校のときなので、15年近くも考え続けたことになります。それが今朝、彗星のごとくひらめいたのでした。理解してみれば、とても簡単なこと。今まで読んだ本にも散々書かれていたくせに、どうして今まで理解できなかったのか。自分のあほさ加減にはあきれてしまいます。

 まあ、とりあえず。

 この感動は、ヘレンケラーが水という存在に「水」という名前がある、すなわち、物の存在と手文字の連なりに関連があるということを理解した感動と似ているのではないかと思います。これは、すでにその意味を知っていて、「木という存在の名は「木」である」と知った場合より、ずっと大きいと思うのです。

 そもそもなぜわたしが四次元の仕組みに気が付いたかというと、昨日次女とやった幼児学習の問題が発端でした。そして、それは勉強に対する考え方をも考えさせられるものでした。
 その問題は紙にいくつかの積み木が書かれていて、「青い積み木の上に乗っている赤い積み木はどれでしょう」というものでした。それが次女にはできなかったのです。
 「青い積み木」もわかる。「赤い積み木」もわかる。「上」と言う意味も「机の上にある本をとって」と言えばとってくるのでわかるはず。なのに、積み木が描かれた紙を前に悩んでいるのです。
 話を聞くと「上がわからない」といいます。そこで気が付きました。紙という二次元の世界に、「上」があるわけない。つまり彼女は「紙の向こう側に書かれた物が上」ということを知らなかったのです。彼女には紙に書かれた絵が三次元の物体に見えないのです。

 その場はとりあえず、紙を立てて位置関係を説明しました。その後の訓練によって、最後には「黄色い積み木の下にある赤い積み木は?」という問題もできましたが、本当に理解しているかどうかは疑問です。
 もし彼女が「二次元に描かれた三次元を理解した」、もっと簡単に言えば「絵に描かれた積み木が三次元に見えた」とすれば、それはヘレンケラーの感動につながり、この先勉強のおもしろさがわかるのではないかと思うのです。が、もし単に「向こう側にあるものを上とする」と覚えただけならば。
 今はいいけれど、そのうち覚えなくてはいけないものが増えるに連れて、勉強の辛さだけが増えていくに違いありません。勉強嫌いの子というのは、知ることの感動を知らない子だと思うのです。
 明治維新の年号を覚えるのはしんどいだけですが、明治維新で起こったこと、その影響、それが今の自分にどうつながっていくのか等々がわかれば、それはとても面白いでしょ。
 もちろん、物を知る・理解することに感動を覚えない子もいるかもしれません。でもそういう子にこそ、知る・理解することにおもしろさを感じて欲しいと思うのです。
 我が家の長女は親が何もせずとも、そのおもしろさがわかっているようです。問題は次女。この先、どうやってその面白さを理解させてあげれるか。「勉強しなさい!」と叱りつける前に、やってあげなくてはいけないことがあるようです。