ドペルゲンガー三重奏 ![]()
「闇の中から」
「Dear you」
「影法師」
「闇の中から」
暖かな日差しの降り注ぐオープンカフェだった。
わたしは遅めの朝食を食べ終わり、残り少なくなったカフェオーレを啜りながら、街を歩く人たちを眺めていた。休日のせいか、通り過ぎる人々も華やかで軽やかだ。カフェでくつろぐ人たちも、穏やかな日差しのせいか、オープンスペースに出る人が多く、店内はむしろ暗く静かに沈んでいて、なにもかもを外に追い出さなくてはいけないような気配さえ漂わせている。
わたしが彼女に気がついたのはほんの偶然だった。斜め前のテーブルに白いシャツのウエイトレスがカフェを運んできた。わたしは彼女が店内に戻るのをなにげなく目で追っただけだったのだ。
その女は店内のカウンターに向かって歩いていた。そのときは背中しか見えなかったが、その歩くリズムをどこかで知っているような気がして、わたしはウエイトレスからその女に視線を移した。女はカウンターの前まで来ると、つと体を斜めにして、細長い椅子に腰掛けた。
わたしはその横顔を見た。そして、そのまま女の顔から目が離せなくなってしまった。わたしの凝視などまるで気がつかない女は涼しげにカウンターの中に視線をおいたままだ。わたしは日差しが急に熱を帯びたような気がした。
女の顔。それは、わたしと同じ顔だった。
二度目にその女に会ったのは、図書館だった。
町はずれにある図書館はいつもひっそりとしていた。埋もれるような本の間に人々は散らばり、手垢の付いた紙の匂いやページをめくる乾いた音に身を任せている。全ての人が、人知れぬ間に本の間に隠された暗号を探しているかのようだ。わたしはその秘密めいた空気を吸うために、たびたび図書館に訪れていた。
読みたい本があるわけでない。だた、本の間を彷徨って、気に入った装丁の本をちょっと触ってみるだけだ。わたしはふと目についた水色に銀色のローマ字でタイトルが書かれた本を手に取った。と、本が抜けた隙間から、通路の反対側が見えた。そこに、鼠色のロングワンピースを着た女がやはり、本を片手に立っていた。その視線は本に吸い込まれるように注がれている。
その横顔は、わたしのものだった。
肩にかかる黒髪、その間から見える首筋と小さな耳、焦げ茶の瞳。それは鏡で見るわたしのものとそっくりだった。
わたしは本を手に持ったまま、呆然と彼女の横顔を見つめていた。まるで鏡の残照を見ているようだった。彼女がなぜわたしと同じ仕草をしないのか、不思議なほどに。
そのとき、女がわたしを見た。そして、かすかに、けれど確かな笑いをその口元に冷たく広げた。
わたしはあなたを知っている。あなたもわたしを知っている。なのに、あなたはわたしを知らないの?
ささやかれたはずもない女の言葉が、耳元で聞こえたような気がした。
わたしには、双子の姉がいた。
幼い頃、わたしと姉はいつも一緒に遊んでいた。裏庭で遊ぶときも、買い物に行くときも、雷の夜に部屋で過ごすときも。
わたしは姉にそっくりだった。姉もわたしにそっくりだった。
同じ形の手をつなぎ、同じ色の瞳で見つめ合い、同じ声で話をした。
わたしは姉で、姉はわたしだった。
今はもう姉のことを思い出すことはなくなった。姉の存在は消えたのだと思っていた。
そして、あの女が現れた。
女はわたしの前にその姿を見せびらかしているようだった。
買い物に並んだレジで、本屋で、バスを待つ列で、たまたま通った街角で。女は待ち伏せしていたかのごとく、姿を見せ、わたしを見て刺すような瞳で笑ってみせる。わたしはそのたびに、まわりの空気が氷になるのを感じた。冷たくて逃げ出したいのに、凍り付いた空気の中では動くこともできない。
冷たくなった唇を震わすわたしに、女は瞳だけで話しかける。
わたしはあなた。あなたはわたし。
わたしは必死になって女の言葉に抗う。
違う、わたしはあなたなんかじゃない。
けれど、わたしの言葉は女の耳には届くことはない。
姉なのだろうか。姉がわたしのところに戻ってきたのだろうか。
女を見るたび、わたしはその問いを繰り返す。
あの女がわたしのはずはない。わたしはここにいるのだから。
部屋のチャイムが鳴り、開けるとそこには鏡があった。
肩に黒い髪、焦げ茶の瞳、部屋で過ごすためのワイン色のワンピース。そこに立つ女は、すべてがわたしと一緒だった。ドアの向こうの世界が鏡になったかのように。鏡像は、けれど、こわばるわたしに微笑んだ。
「姉さん?」
思わずつぶやいてから、そんなわけはないのだと思った。
女は何も言わず立っている。その瞳はわたしをまっすぐに見つめている。
わたしはあなた。あなたはわたし。
そんなわけはない。この女はやはり姉なのだ。
けれど、姉でないこともわたしは知っている。
双子の姉は、わたしが確かに殺したのだから。ほっそりとした首をしめた感触を、わたしは確かに覚えている。暗くしめった穴に放り込んだときのずっしりとした重さも、腕はまだ覚えている。上にかぶせた土の匂い。ひんやりとして湿った空気。土が落ちる密やかな音。
姉の体が土の中に見えなくなったとき、わたしの中から姉の存在は消えたのだ。
では、この女は誰なのだ。
わたしはあなた。
嘘だ。わたしはわたし。あなたなんかじゃない。
あなたはわたし。
姉は確かに死んだのだ。わたしのところに、戻ってくるはずはない。
わたしは堅く目を閉じた。何か重いものが胸に詰まり、息が苦しくてたまらない。
わたしはあなた。あなたはわたし。
体が動かない。まるで、何かに押しつぶされているように。体が何か黒く湿ったものに包まれている。
息が苦しい。まるで土に埋められているかのようだ。わたしをここから出して。この暗く湿った土の中から。
絞められた首がずきずきと痛んだ。
わたしと同じ顔をした女がわたしを見下ろして、囁いた。
わたしはあなた。あなたはわたし。
女の意識が流れ込む。それは、わたしがわたしであった時の意識と混じり、解け合った。
冷たい土の下で、マンションの一室で、わたしはようやくわたしになった。
「Dear you」
彼の優しい指は鏡の中でゆっくりとなめらかに動いていた。首筋から肩にかけてなだらかなカーブを描くラインを何度も何度も撫でるその感覚に、わたしはうっとりと身を任せ、薄暗い部屋の中で目を凝らした。
部屋の中は薄暗い。真っ赤なサテンのカバ−がかかったベッドと黒いビロ−ドのソファがスタンドの弱い光にうっすらと浮かび上がっている。窓には金モ−ルのついた濃緑のカ−テンがかけられ、いかにも紛い物らしき裸婦の彫刻が窓際に置かれている。決して趣味がいい部屋ではない。けれど、ここはわたしのお気に入りの場所だった
壁は大きな鏡になっており、ベットのそばにも安物の手鏡と偽アンティ−クの鏡台が置かれている。そして何より、天井には燻銀もどきの天使の枠に囲まれた大きな丸い鏡がはめ込まれていた。その鏡の中で彼の背中が動く様は艶めかしい。
わたしは耳にかかる男の息を避けるように、鏡の中の彼にそっとほほ笑みかけた。彼は鏡の中でわたしをゆっくり愛撫する。物憂げに、けれど優しく体に触れるその動きに、わたしの体はねじれるように疼き、肌がざわりとうごめいていく。
この部屋での彼が一番艶めかしい。明るい街角のガラスの中の彼は、どこかよそよそしく感じられる。薄暗く安っぽい部屋のすれたような匂いが、彼の体臭なのだと思う。
初めてこの部屋に来たときには、わたしは彼のことに気がついていなかった。ただ、一緒にこの部屋に来た男の逞しい腕とその汗臭いにおいと獣のような動きに夢中だった。
何がわたしを呼んだのだろう。ふと視線をあげると彼がいた。安物の天使たちに囲まれて、薄暗く光る鏡の中の彼と目があったとき、わたしは背筋に冷たい滴がしたたるのを感じた。
その瞬間から、わたしを抱き締める肉体はただの幻影になり、わたしは、鏡の中の彼に恋をした。
鏡の中で、彼はわたしを優しく抱き締める。わたしの耳にすり寄せられた冷たい頬、わたしの胸を優しく愛撫する長い指が鏡に映る。
目の前にのしかかる男の感触は耐え難い。生臭い息の匂いや動物めいた体臭、生暖かく汗でぬめりとした肌は、彼を愛するわたしには汚らわしい限りだが、この男は彼の幻影なのだ。わたしはなるべく男の顔を見なくて済むよう、天井の彼を見つめている。
「……」
男が何かささやいたが、わたしの心までは届かない。わたしは男の腕に夢中になる振りをして、やり過ごす。
男はわたしの額にべちゃっりとした唇を押しつけて、ゴロリとわたしの横に寝転んだ。
鏡の中で、彼は横たわっていた。滅多に見ることのない彼の瞳が茶色の髪の間から見えて、わたしはどきりとする。そして彼に見つめてもらいたくて、必死に彼を見つめていた。けれど、彼の優しい視線はもうわたしには向かない。
わたしはここよ。
心の中で呼び掛ける。けれど、彼のいらえはない。
愛しげな視線をわたしから逸らしたまま、赤いベッドの上に横たわっている。
その視線。なぜわたしを見てくれない?
わたしは焦れて視線を追った。その先に、わたしがいた。黒い瞳が真っ直ぐわたしを見つめている。
その時、鏡の中のわたしがくすりと笑いを漏らした。あざけるような冷ややかな笑いだった。そして、ゆっくりと体を起こすと、わたしに視線を残したまま、彼の胸元に口付けをした。
わたしは鏡の中のわたしを、身動きもできずに見めていた。鏡の檻に閉じ込められたように動くことができなかった。
彼は鏡像のわたしをその胸に引き寄せると、強く、がむしゃらに抱き締めた。
わたしは鏡の中の女の体に夢中になる彼をただ呆然と見つめる。女の胸に顔を埋める彼はわたしの方を見ようともしない。
わたしはここよ。
必死に訴えても、声は彼には届かない。
手を伸ばす。けれど、天井の彼には触れることもできない。
わたしの目の前で、指先で、彼は女の肌に口づける。
わたしは気が狂いそうだった。
途端、彼の頭を抱き抱えていた女が狂ったように笑いだした。鏡を切り裂くような鋭い嬌声はけばけばしく飾り立てられたホテルの部屋に響き渡る。耳をふさいでも、おたけびのように発せられる笑い声はなり止まない。
彼がわたしを見る。さげすんだ、冷たい瞳に、心の中の鏡が飛び散った。
わたしは体を起こすと、枕元の手鏡を掴んだ。ぎしりとベッドが鳴り、横の男が何かを叫けび、わたしの肩を強く掴んだ。わたしは男の腕を必死に振りほどくと、手鏡を天井の二人に向かって投げつけた。
鏡は大きな音をたてて粉々になり、彼と女の血が飛び散り、ベッドを赤く染めた。
それでも女の笑い声は続いていた。声の方を見ると壁の中に裸体の女が立ってわたしをあざ笑っている。
幻影のくせに、わたしを笑うのか。
わたしは夢中になってベッドから飛び下りると、壁際の彫刻を取って投げつけた。女の横顔に大きなひびが入り、女はその動きを止めた。
それでも笑いは続いている。この部屋のどこからか、狂った女の笑い声が聞こえてくるのだ。その声がわたしを縛り、わたしを苛立たせる。
わたしは耳をすます。目を凝らす。
どこだ。どこだ。どこだ。
それはとても近くから聞こえてくる。
一体女はどこへ行ったのだ。
そして、気がついた。笑いはわたしから聞こえていた。身をよじらせ、髪を振り乱して笑っていたのはわたし自身。
ベッドを振り返ると、怯えた目をした男のまわりに粉々になった彼が飛び散っていた。彼の瞳は冷たく光っている。
わたしの中から甲高い笑いが津波のように次々押し寄せた。わたしは狂ったよういつまでも笑い続けていた。
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