妻たちのバレンタイン
   〜 St.Valentine Present for you 〜
 公園に泣き声が響きわたった。
 砂場の縁に腰掛けて、小さなプラスチックのスコップで砂の山をぼんやりと作っていたわたしは顔を上げ、慌てた。
 泣き声の主はたかしくんだった。その前には、娘の絵里菜が仁王立ちをしている。さっきまでわたしの目の前で砂を掘っていたはずなのに。
「絵里菜」
 急いで立ち上がり、お尻についた砂をはたき落としながら娘に近づいていく。
「なにをしたの」
 絵里菜は黙ったまま、わたしから顔を背ける。
「絵里菜!」
「たかしが悪いのよ」
 思わず大きな声を出すと、たかしくんのお母さんが取りなすように口を挟んだ。
「絵里菜ちゃんのおもちゃをたかしが勝手に使ったの。それで怒っちゃったのよね」
 最後の「ね」は絵里菜に向けて発せられた言葉だったが、絵里菜はその救いの手にさえ目もくれず、ふてくされたようにうつむいている。その態度に、余計いらだちが募る。素直に謝れば、まだかわいげがあるものを。
 こみあげる怒りを穏やかな口調で押し殺し、絵里菜の代わりにたかしくんとお母さんに謝った。ちらりと絵里菜を見ると、ハート型のカップをきつく握りしめて立っている。
 たかしくんは大人が来たことで落ち着いたらしい。まだ瞳は濡れていたが、もう泣いてはいなかった。とりあえずは泣き声がなくなったことにほっとして、絵里菜に「もうだめよ」と声をかける。絵里菜は聞こえないふりをして、砂の山の前に座り込み、スコップで穴を掘り始めた。
 その小さな背中を見つめて、わたしはため息をついた。
 絵里菜は乱暴な子だった。公園でも、いつも誰かに手を出しては泣かせている。
 娘から目をそらして、あたりを眺めた。夕方の公園にはたくさんの子どもが遊んでいた。大人も何人もいたが、皆子どもの付き添いだ。長い影を引きずった大人たちは、どうしてあんなに心細げなのだろう。
「ごめんね、たかしがきちんと貸してって言わないもんだから」
 たかしくんのお母さんがわたしの横に腰掛けた。
「おもちゃぐらいで手を出す方が悪いのよ。いつもごめんね」
 親同士の会話が聞こえているのかいないのか、たかしくんと絵里菜は互いに離れた場所で砂を掘っている。
「たかしは大事なことも口に出して言えないんだから。大人になったら『めし、ふろ、ねるだけ男』になるんじゃないかって思っちゃうわ」
 おどけた口調に吹き出しそうになる。
「それはたかしくんだけじゃないって。小さい頃はすっごくおしゃべりな男の子も大人になると無愛想になるのよね。うちの旦那なんか、『めし、ふろ、ねる』さえ言わないわよ。そんなに家でしゃべりたくないんなら、筆談でもしろっていうの」
「そうそう」
 力の入った相づちに、どこの家庭でも似たようなものなのかと思う。
「ねえ、今日はなにか用意する?」
 急に聞かれ、首を傾げる。
「今日?」
「やだ。今日はバレンタインじゃない」
 言われて初めて、そういえばと思う。たしかに、ここ数日、スーパーに買い物に行ってもやたらとチョコレートが目についた。バレンタインが近いことはわかっていたが、それが今日という形を持っては浮かんではこなかった。
「旦那様にチョコレート、あげるの?」
 逆に聞き返すと、たかしくんのお母さんはふふふと笑った。
「だって、この頃は残業続きで、今晩だって今日中には帰ってこないもの。12時過ぎたら時効よ、時効」
 あっけらかんと言い放つ。
「そうだよねぇ」
 あいづちを打ちながら、ほんの少しだけ、寂しさを感じた。いつのまにか、時の流れから外れてしまったような気がした。一体、何年の間、バレンタインなんてものから離れていたのだろう。
 思えば、絵里菜が生まれてから、時は絵里菜の上にだけ流れていたのかもしれない。
 それでも、時は流れている。そう、確実に。
 今更バレンタインもないかなと思う。そう、この年になってバレンタインだなんて。絵里菜にはまだ早いように、わたしはもう遅い。
 黙々と砂を掘っていた絵里菜が立ち上がった。手には砂のつまったハート型のカップを持っている。あたりを見渡して、赤いお皿を見つけると、それもつかんでわたしに向かって走ってきた。
「ママ、これ、やって」
 お皿とハート型のカップを差し出した。
「自分でできるでしょ」
「でも、きれいにしたいの」
 真剣な瞳に、ふと笑みをこぼしそうになる。なんだかんだ言っても、まだ砂遊びに夢中になる子どもなのだ。
 そっと、砂をこぼさないように型から抜いてやる。赤いお皿の上に、きれいなハート型の山ができた。
「えりなちゃん、プリン?」
 たかしくんのお母さんがのぞき込む。
「ううん、チョコレート。たかしくんにあげるの」
 あら、とたかしくんのお母さんはまんざらでもなさそうに笑う。
「えりなちゃん。うちのたかしにチョコレートをくれるの?」
 うんと真剣な顔つきのまま、絵里菜は頷くとたかしくんの方に走っていった。
「女の子のねぇ」
 絵里菜の後ろ姿をうっとりと見つめながら、たかしくんのお母さんがつぶやく。
「今度の子は女の子がいいなぁ」
 さりげなく腹部に置かれた手に、気がついた。まわりの人には聞こえないように、小さな声でそっと聞いた。
「もしかして、おめでた?」
「そうなの」
 照れくさそうに笑って、たかしくんのお母さんは頷いた。
「なによ、さっきは仲の悪そうなことを言っておいて」
「そんなこと、言ったっけ?」
「言った言った。ひどいなぁ、油断をさせておいて抜け駆けするなんて」
 わざと責めるような口調でいうと、たかしくんのお母さんはふふと首をすくめて笑った。
 砂場の向こう側では、我が娘がたかしくんに赤いお皿の上にのったチョコレートもどきを渡していた。たかしくんはきょとんとした表情のまま、お皿を受け取ったようだ。
 そうか、絵里菜はたかしくんが好きなのか。
 まだまだ小さいと思っていたのに。
 たかしくんに無事お皿をわたし終わった絵里菜は満足そうに戻ってきた。さっきまでのふくれっ面が嘘のように晴れ晴れとした顔をしている。
 早いとか、遅いとか、関係ないのかもしれない。
「ねぇ、絵里菜。今日、パパにチョコレートケーキを作ってあげようか」
 そう声をかけると、絵里菜はぱっと顔を輝かせた。
「作る!」
「お、えりなちゃんのところもがんばりますか?」
「ええ、たかしくんのところには負けられません」
 そう言い合って、妻二人は顔を見合わせて笑った。


〜 end 〜