=抹茶君=


靴を履く。おろしたての黒地のスニーカー。
扉を開ける。優しい茶色をした木製の引き戸。
一歩踏み出す。敷居をまたぐと石畳。
空を見上げた。ほどよい量の白い雲、日を照らす太陽。
暫くたってからじわりと汗をかく。
湿気が多くて気温が高い。纏わりつくべたべたとした空気。
そんな夏の世界を眺めていると猫が歩いていた。
よく出会う猫でそれなりに親しい。私なりのあだ名もある。
「やあ、抹茶君」
じっとこちらを見た後。ぷいっと消えるように何処かに行ってしまう。
コミュニケーションの失敗を暑さのせいにして、
私は目的地に向かって歩き出した。

 「で、なに? どうして私は呼び出されたの?」
歩いて数分。
目的の場所に到着すると、背のとても小さい女の子が頬を膨らませていた。
「相変わらず小さくて可愛いな、君は」
そう言って彼女の頭を撫でる。
「ええい。頭を触るな。馬鹿にするな。身長の話題を振るな」
相手は憤慨した様子だが、それもまた可愛い。
「大体その格好は何? 何でこの真夏日にズボンもシャツも靴も黒色なんだ。
 見ているこっちが暑苦しい」
彼女の小さい指で腹をぐいぐい押されて、自分の服装を意識してみる。
「真っ黒だな。熱を吸収している。
 しかし私は黒っぽい服しか持っていないし」
「もうちょっと派手な服を買ったら? お金はあるんでしょう?」
「派手な服? 迷彩服とか?」
手でパタパタと顔を扇いでいた彼女の手が止まる。
「……どうして迷彩服になるのよ」
「派手だと思わないか? あの色合い」
「迷彩服が派手な訳がないでしょう? 
迷彩色は軍人が敵に見つからない様にする為の色なんだから
アホなこと言わないように」
呆れたように言う。
「本当にそうなのか?」
「そうでしょう? 迷う彩るって書くわけだし。相手を迷わせるんでしょ」
「迷わせる? 惑わせるじゃなくて?」
「えっと……あれ? 迷彩色って敵に見つからないようにする色じゃないの?」
「……ふむ。確かに迷彩色だな」
「はい? 何が?」
訳が分からないといった風な表情で、彼女は私を見上げる。
私は彼女のこの表情の豊かさが大好きだ。
「こうして迷彩色と言う言葉は、君を迷わせているわけだ」
「……」
「……」
「あんた。計算してこの話題を振ったでしょう」
「もちろんだ。迷彩色は敵の目をごまかすための色。
 ついでに言うと、迷うと言う漢字。これには惑わすと言う意味もある。
 家を出るときに辞書で調べた。間違いない」
彼女の困った時の顔は中々に可愛い。
時折こうして彼女の困惑する顔を見て楽しむ。
「こいつ!」
「あいたっ」
意味のない会話が楽しくてしょうがない。
こんな日が来るなんて思ってもみなかった。

  彼女と二人で炎天下の中しばらく歩く。
暑い暑いと言いながらも散歩に付き合ってくれているあたり
彼女も夏が好きなのかもしれない。
「それで結局私を呼び出した理由は何なの?」
木陰の続く並木道に入ると、彼女が暑い以外の言葉を言う。
「……」
「なに? その、やっぱり話さないと駄目か。みたいな表情は」
「……私達に言葉は必要ないのかもしれない」
「必要ある。……もしかして用件なんてないとか?」
「どうやら本当に言葉は必要ないようだ」
「そんな事だろうと思った」
それから、大体あんたは暇つぶしにしか人を誘わないしね。
と彼女は大げさに小さな肩を落としてみせる。
「……それなら私のお店に来る?」
「それは魅力的な提案だ」
やれやれ、と言った風な骨董屋の店主。
まだ十代後半の彼女は、親から譲られた小さなお店を切り盛りしている。
「……こんなに小さいのに」
ぴょこぴょこと前を歩く彼女を見ていて思わず呟く。
「あいたっ」
彼女の拳は中々に鋭い。

  彼女の身長話で盛り上がり。時折殴られながら数分。
彼女のお店まで直線距離二百メートルといった所で私は彼を見つけた。
「抹茶君がいる」
気だるそうに日陰を歩いている黄土色の猫。
特徴的な、足先と尻尾の先の白色。間違いない抹茶君だ。
「え? なに。抹茶?」
少し前を歩いていた彼女はすごい勢いで駆け寄ってくる。
「うむ。しかし君に驚いて逃げてしまった」
先程まで抹茶君がいたところには何もない。
彼はいつものように、消えるように逃げてしまったのだ。

  なるべく木陰を歩くようにしながら裏道などを通り
私達は一軒の小さなお店にたどり着く。
ほとんど車の通りがない道に面したその店は落ち着いた雰囲気を出していた。
とても静かで遠くに幽かに人の声。
ここに来るまでの間に聞き続けてきた蝉の歌も遠くに聞こえる。
とても涼しい、高低差の激しい迷路のようなこの街の影。
私はここに初めてきた時から心底ほれ込んでいる。
「ほらほら、なに店先で遠くを見ているのよ」
彼女に背中をつつかれて、私は急かされるようにその店に入った。

  店の中は少し散らかっているように見える。
彼女曰く、どんなに頑張ってもこれ以上は無理だそうだ。
確かになるべく種類別に分けられていたり、棚に整理されていたり。
整頓しようとしているのは分かるのだけれど、私には散らかって見える。
彼女は、そう見えるのは私だけだという。そうかもしれない。
でもまあいいのだ。私は散らかっているのが嫌いではない。
色々な雑貨に囲まれるのは大好きだ。
奥に引っ込んでいった彼女はなかなか帰ってこない。
手持ち無沙汰になってぐるりとあたりを見渡すと
木製の棚の高い所に彼を見つけた。

  「やあ、抹茶君。さっきも会ったね」
今の彼は私をじっと見ている。どうやら話しを聞いてくれているらしい。
「今日はこれで三回目の出会いになるんだね。
 相変わらず先の白い尾を立てて歩く姿は凛々しかったよ」
それから少し店内に風が通る。奥に行った彼女が窓を開けているらしい。
優しく吹く風に彼の首から下がっていたカードが揺れる。
「そのカードが気になるのかい? いや、見ない方がいい。
 そのカードは君の人生を左右するかもしれないものだけれど
 君の絶対の価値を決めるものじゃない。
そこに書かれているものは君にとってあまり意味はないさ」
店の中は少し埃っぽい匂いがする。
いかにも古いものを扱っていると言った風で悪くない。
「それでも気になるみたいだね。仕方がない。
 そのカードにはこう書かれているんだ。数字じゃない。
 無骨な三文字の漢字さ。非売品ってね」
カードには強く大きくしっかりと赤色で書かれている。
「ちょっとがっかりだろう? 君はもしかしたら
自分の価値を数字で知りたかったのかもしれないからね。
こんな文字は期待外れだったんじゃないかな」
彼の瞳はじっと中空を見ているようで、私を見ているようで。
ただ瞬きもしない目は眠たげに開いている。
「けどね。私はその三文字の漢字がそこに書かれていて嬉しいんだよ。
 君がここに私を連れてきてくれなかったら私は彼女と出会えなかった。
一生友達と呼べる人が出来なかったかもしれない。
君がそこに居続けてくれている限り私はここに来れる。彼女に会える。
君に会いに来たって口実でね。
君は私と彼女を繋いでくれている気がするんだよ」
彼の作り物の身体はピクリとも動かない。
それでも可愛らしい丸い耳をこちらに向けてくれている。
「……おや? また外に行くのかい? まだ暑いよ。
 夕方まで待てば涼しくもなるのに」
少しの沈黙の後、彼は置物の身体を置いて歩き出す。
開け放たれた窓から外に出るかと思いきや、その縁に座りこちらを見る。
少しだけ警戒を含めた瞳を見て私は首をかしげた。
「なにしてるのよ。さっきから呼んでるのに」
それから数秒、奥から彼女が出てきた。
作業用兼営業用のエプロン姿。腰に手を当て、眉を上げている。
彼女は全身で感情を表現する。
「悪かったよ。抹茶君と話していたんだ」
「ん? いるの? そこに」
彼女は棚から数歩離れて棚を見上げる。
「棚のほうには身体だけ。心のほうはそっちの窓で君を見ているよ」
そう言って窓を指差すと抹茶君はより警戒心を高めていた。
「……やっぱり私には見えないのかな」
ポツリと残念そうに呟く。
「……ところで君は、もしかして抹茶君に何かしたのかい?」
「なっ、何もして無いよ。
夜な夜な語りかけてみたり、揺さぶったり小突いたり。そんな事はしてないよ!」
彼女の目は面白くらいに泳いだ。
「……」
「ほ、ホントだよ?」
「……君は可愛いな」
「なによその言い方は。その慈しむ様な目は。それに頭を撫でるな!」
顔を真っ赤にしてうろたえる彼女は
口には出さないが小学生のよう、とても微笑ましい。

  「ところで、前々から思っていたんだが。君は彼を売ったりはしないのかい?」
彼女の顔の赤みが治まる頃、唐突に質問をぶつけてみた。
「私が抹茶君に初めて会ったときは値札が付いていたと思うんだが」
そこに書かれていただろう数字は思い出せない。
「……まあ、売る気はないね」
「どうして?」
「……なんかちょっと恥ずかしい話である気もするんだけど。
 ……釘をさす意味でも言っておいたほうがいい気もする」
「理由があるということかな」
「ある。と言うか理由はあんた」
ビシッと私を指差す。
「私が理由?」
「そう。なんかあんたって自分が厄介者だって思っている気がするわけよ。
 だから何時の間にか居なくなっちゃいそうでさ。
 確かにあんたは一般の人からは奇妙に見えるのかもしれないけど。
私にとっては、その。尊敬できる友達であって。
 だから居なくなってほしくないと言うか、なんと言うか。
 それでね、抹茶が居ればあんたは居なくならないような気がしてさ。
 ほら、ここにあんたを連れてきたのも抹茶だし。
 抹茶はあんたを繋ぎとめていてくれているような気がしたから。
 ってうわあ。なんか私、恥ずかしいこと言ってる!」
話が進むにつれて再び紅くなり始めた彼女の顔はさらに真っ赤になっている。
それから、かなり恥ずかしかったのか
彼女は狭い床をゴロゴロと転がりながらあたりの商品を蹴散らす。
それを見ている私の頬も恐らく赤くなっているのだろう。
「……」
「……なに?」
ようやく我に返った彼女は立ち上がり埃を払う。
そんな彼女に向かって一言私は言う。
「惚れてしまいそうだ」
「……は?」
「私達は深いところで繋がっている」
「……はい?」
「私は君を愛してしまいそうだ。伴侶にだってなれる」
「えっと。 本気? 私、その、同性愛はちょっと……」
彼女の困惑の表情を見て思わず微笑む。
「……もちろん冗談だ」
「……」
「どうしたんだい?」
「……こいつっ!」
「っっ!!」
恥ずかしさを紛らわすためにいつもより強めに握られた彼女の拳は
狙い通りに鳩尾に吸い込まれ私の意識を綺麗に刈り取った。

  ぼんやりと覚醒した頃には外はもう茜色になっていた。
窓から差し込む優しい色を見る。
窓の縁には抹茶君が居た。沈む太陽を背負って私を見ている。
彼に影はない。私が見ているものが実体のないものだと確認する。
もしかしたら今私を射抜いている、彼の綺麗な色の瞳は幻覚なのかもしれない。
「そう。全部自分の思い込みかもしれない」
モノの心を形として見れるなんて聞いたこともない。
特殊能力なんかじゃなくて、ただの病気なのかもしれない。
「もしかすると私は壊れているだけかもしれないね。
 ……君は本当にそこに居るのかい?」
彼の綺麗な瞳は何も語らない。
「まあ、君にとってはどうでもいい話なんだろうね」
立ち上がろうとして、じわりと腹に痛みが走った。
「彼女は乙女の柔肌に痣を付けてしまったか」
黒のシャツを捲ると少しだけ痣になっていた。
私の照れ隠しが招いた結果だ。自業自得。
「私は君達が見えるせいで色々なものを失ってきた。
 幼い頃に置物の狸が動いていると言った時から
 病院に通い詰めだ。
そのせいか知らないけど友達は今まで一人も出来なかった。
 両親も何時の間にか家と私と少しのお金を置いていなくなってしまったよ」
彼は座りなおし、それから大きなあくびをする。
その仕草はつまらない話は止めろといっているみたいで、少し苦笑いをする。
「そうだね。やっぱりどうでもいい話だね。
 それに悪いことばかりじゃなかったんだ。
 君のお陰でそう思えるようになった。彼女に会えた。
 そうだ。そうだよね。君に言う言葉は愚痴なんかじゃなかったんだ。
 もっと簡単で幸せな言葉」
そこまで言うと彼の顔がまっすぐに私に向かう。
瞳は何か期待しているように輝く。
「ふふ、でも今は言わないことにするよ。私は意地悪だね。
 自意識過剰かもしれないけれど君は私を救うために存在している気がしてね。
 その言葉を言うと君は消えてしまいそうなんだ」
僅かに彼の瞳が泳ぐ。
「だからね。その言葉は彼女に言うことにするよ」
静かに振り返ると、少し罰が悪そうにこちらを見ている彼女がいる。
「ありがとう」
「この場合、こちらこそと言った方がいいのかしら?」
「……どうだろうね」
「……もう。やめてよね。あんたの滅多に見せないその表情を見ていると
 私が恥ずかしくなるんだから」
「それはもしかして私に惚れているということかい?」
「そ、そんなわけがないでしょう!?
 どうしてすぐに、惚れたはれたって話になるのよ!」
「……君の取り乱す姿は可愛いね」
「……こいつっ」
「あいたっ。痛い痛い」
恐らくお腹の痣に拳をもらったのだろう。激痛が走る。
「突っ込みとして殴るならもう少し上にしてくれると嬉しい。
 お陰で私のお腹は鍛えてもいないのに割れてしまっているんだよ」
「ええい。五月蠅い。それならしゃがみなさい!」
「こうかい?」
彼女の前でしゃがみ頭を向ける。
「……」
「どうしました?」
「……とても馬鹿にされているような気がするのよ」
「……私達に矢張り言葉は要らないみたいだ」
「こいつっ」
「あいたっ!」
始めてもらった頭頂部へのチョップは、視界がぶれるほどに強烈で
……少しだけ涙が出た。
滲んだ視界で抹茶君を見ると見たこともない優しい表情だった。

  夜の帳が降りた静かな街の一軒の小さなお店。
その店の奥にある小さな棚に一匹の猫が座っている。
彼の前では二人の人間がバタバタと騒ぐ。
全身黒い服で固めた人間が何かを言うと、
身長の低い人間がボクサー真っ青のボディーブローを放つ。
棚に座った、毛が黄土色で尻尾と足先だけが白の猫の置物は
いつもの事だといわんばかりの、つまらなそうな表情でそれを見つめている。
とても綺麗な瞳でじっとそれを見つめている。
瞬きもしない、動いたりもしない。ただじっと見つめる。
それが自分の使命のように、ただじっと彼女達の幸せを見守り続ける。
彼の綺麗な抹茶色の瞳がきらりと静かに輝いた。

おしまい