=泣き虫=
彼は私の泣き顔が好きだといった。
私は生来気が弱くて泣き虫です。
感情の喜怒哀楽。
そのどれでも一定量を超えてしまうなら雫ははらはらと頬を伝い落ちてゆきます。
そんな私の泣き虫が気に入らなくて私を嫌いになる人もいるのです。
それが悲しくて、私はまたはらはらと涙を流します。
私としても、泣き虫である事を良しと思った事はありません。
ですが、気づくと零れ落ちる雫は私の軟弱な意志では止められないのです。
私にできる事といえばその簡単に滲む瞳を伏せて、
人を不快にさせないようにすることだけなのです。
ですから、自然と私の顔は下を向き、陰気な雰囲気をかもし出してしまうのです。
その雰囲気でさえ、人を不快にさせるかもしれないという意識はあるのですけれど、
涙を見せて、人を驚かせ心配させそして、それから不快にさせるよりはよっぽどいいと、
やはり今でも顔を伏せるのです。
彼女は俺の笑い顔が好きだといった。
俺は本来泣き虫だ。
幼い頃なんかは簡単に大声を上げて泣き喚いていた。
幼い頃は泣くという事がずいぶん身近にあったように思う。
大人たちから泣くなと教わっても泣く事がいけない事だなんて思った事はないし、
むしろ自分の意識の届かないところから来るものだと信じていたから、
だから、幼い頃は泣き虫でいることを良しとしていた。
それが涙を頬に伝わせる代わりに笑顔を貼り付けるようになった。
それは自分にとって無くてはならない成長の過程の産物。
自分が自分を好きになるために必要な事だった。
俺は彼女が好きといってくれる自分になりたいから、何が起きたって涙を流さない。
俺は知っているから、俺が泣くとそれ以上に彼女が泣く。
俺以上に辛そうに悲しそうにはらはらと泣くのだ。
俺以上に泣き虫な彼女がただ一度、俺を慰めるために言った言葉を胸に刻んで今日も俺は笑顔を貼り付ける。
今日、俺は彼女をまた泣かせてしまうのだろう。
彼女の涙に俺は弱い。弱いというよりか苦手だ。
女の子が泣いているというのは、いい気持ちがするものではないことはもちろんだけれども、
彼女のそれは俺の中のしまいこんだそれを、共感で引き釣り出そうとするのだ。
それを許してしまえば彼女はまた泣いてしまうから、だから俺はそれを許すわけにいかない。
何より俺は彼女の泣き顔なんて見たくないのだから。
待ち合わせの喫茶店で、外に向けた椅子に座り珈琲を飲む。
四角形に切り取られた窓からは濡れた地面。
それに地味な色の傘の群れ。
空には低い所で雲がたむろして、不機嫌に睨んでいる。
雲が投げる雫はとても冷たそうで、傘をささずに走る人の表情は雨を呪っている事が一目で分かるものだった。
どこか抜けている彼女は果たして傘を持ってきているのだろうか。
彼女の事だ、待ち合わせの時間まで待ち合わせ場所の喫茶店で時間をつぶすなんて考えないで、どこかの本屋辺りで時刻まで時間をつぶしてここに向かうつもりなのかもしれない。
雨が降り出したのはついさっきだから、早めに家をでたなら傘を忘れている可能性は十分にある。
もし忘れてしまっているならば時刻に遅れてもいいから、雨が止んでからここに向かって欲しい。
「……」
珈琲を口に含もうと傾けると唇に何も触れない。
カップを覗くと白い底が見えた。
いつの間にか飲み干していたらしい、苦味すら感じさせずにのどを潤していた珈琲の存在感の無さに多少の失望を感じて、まだまだ心中が平静に収まっていない事を自覚した。
待ち合わせの時間まで三時間もあるのに外にでて、それから本屋をみて回り、改めて約束場所の喫茶店に向かおうと外にでると雨が降っていて、
その雨は彼との約束に浮かれていた私の心を急速に冷やしました。
喫茶店までは歩いて十分程だけれど、この雨が後三十分もの間降っているなら私はずぶ濡れで喫茶店に駆け込まなければいけない。
喫茶店に迷惑なのはもちろんだけれど、デートの前になんて出だしの悪い事なのか。
低い所で固まっている灰色の雲を少し睨んで、それから一刻も早く雨が止むようにと、本屋の軒先で雨宿りをすることに決めました。
黒光りするアスファルトの上をはねる雨をぼうっと眺めていると、段々と心に暗い靄がかかってきました。
それは最近の彼の雰囲気が私を不安にさせているのだと分かっています。
数ヶ月前から、時々口数が極端に減ることがあるのから、それがどこかで読んだ恋愛の本の別れの前兆の項目に当てはまるような気がして段々と不安になるのです。
その気持ちが沸き起こるたびに顔を洗ったり、小説を読んだり、何かに没頭して振り払うのですけれど、今、目の前にある雨は振り払うどころか、もやもやを呼び起こすものです。
そういえば、昨日の彼からの電話から今朝にかけて、浮かれていて気づきもしなかったのだけれど、喫茶店で待ち合わせというのは始めてである事に気づく。
いつもは駅や、どちらかの家に迎えにいったり来てもらったり。
それなのに、昨日彼は喫茶店を指した。
そもそも、喫茶店という雰囲気が苦手だと彼は言っていたように思えます。
喫茶店に何か重要な話をする場所というイメージを持つ私も喫茶店は苦手。
ただ、一度は入ってみたいと思っていたから今日は喜んでいたのですけれど……。
そういえばと、空を見あげる。
いまだ降り注ぐ雨。
こんな天気の日に喫茶店で似合う話といえば―――
「……別れ話」
ドラマや、映画でも、登場人物の心象を表現する手法なのか雨を降らせる事が多いように思えます。
自然に手に力が入り、肩からかけたサイドバックの紐を握る。
少しだけ高価で、お洒落をするときだけに使用する何時もは頼もしいそれは何だか頼りなくて、
頭には悪い思考しか浮かばなくて、その思いに囚われて身動きが取れなくなる前に、
高価なバックと先ほど購入した本が濡れるのもかまわずに、雨の中を駆け出しました。
その雫はぞっとするほど冷たくて、私はぽろぽろと涙をこぼしてしまっていた。
珈琲の消費が激しい事を自覚しながら、三杯目の珈琲を飲み干したとき、信号の向こうで待ち人が泣いているのを見かけた。
それもお気に入りだと言っていたバックが濡れるのもかまわずに、彼女にしては珍しくあごを上げて前を向いている。
眉が八の字なのは何故なのか。
彼女の、遠めにも分かる子犬のような雰囲気を感じて、これまでの時間自分が散々考えていた、これからしなくてはならない話の切り出し方は全て思考のゴミ箱に放り投げた。
ああ、何故彼女は俺が泣かせてしまう前から泣いてしまっているのだろうか。
どうにも思考がまとまらなくて、長年の自分の大嫌いな癖を顔に出してしまった。
決して速くない足を必死に動かし、はねるカバンと髪を押さえながら喫茶店に向かい、目的地のすぐ目の前の信号につかまって、息を整えて喫茶店を見ると彼の姿を見つけました。
その遠くからでも分かる、張り詰めたような雰囲気は、彼にあまりに合わない類のもので、そしてその直感が正しいなら、彼が普段しないような話をしようとしているのでしょう。
ああ、と心の中で声を出してしまう。
いいえ、実際に声を出してしまっているのかもしれません。
信号が青に変わり、もう雨の事なんてどうでもよくなって、ただ、自分の心に優しくしたくてゆっくりと彼にむかって歩を進めます。
段々と鮮明になる彼の表情。
そこにあった私の苦手な彼の笑顔を見て、私はついに予感が本物であったと理解しました。
喫茶店の入り口に立ち、一拍置いて空を見る。
ああ、確かに、雨は心象風景を理解していたのだと。
頬に当たる雫は涙の雫なんかよりとても気持ちのいいもの。
芯の部分が泣き虫であるとは自覚している。
だけれども臆病だとは思っていなかった。
泣きながらも辛い事でもやり遂げて見せる事ができる男だと、勝手に自己評価していた。
今その評価は、独りよがりで、自分をどこまでも過大評価していたものだと気づいた。
雫こそ滴らないものの全身をぬらして彼女はオレの隣に座る。
彼女は温かい紅茶を頼んだ。
とりあえず口を開く。
「その……泣かないでほしい。君に泣かれると、とても困るんだ。にがてなんだよ、泣き顔」
その言葉は私の両の耳からどろりと滑り込み、頭の中を溶かすものでした。
「もしかしたら、今日の話で君は泣いてしまうかもしれない。でも、本当は……笑顔で聞いて欲しいんだ」
ああ、私は勘違いをしていました。
彼が好きだといってくれた、私の泣き顔が好きだといってくれた、あのとても温かい言葉を私は鵜呑みにして、そうして幸せに浸っていたのです。
ああ、なんていう道化。
私が彼の傍にいてもいいのだと、そう思える言葉は、どうということはない慰めの言葉だったのです。
私に一番縁のない、笑顔というものを望む彼は、私と一番遠い存在なのでしょう。
彼の困った表情と彼の言葉を正確に理解したというのに、彼の思いには答えられず、涙がぽろぽろと零れました。
何度拭ってもほほを湿らすそれで、私は思考が絶望に塗りつぶされていきました。
声こそ出さないけれど、その雰囲気、その仕草、その涙が、彼女の感情を伝えてきた。
自分が何か不用意な発言をしたのかと、慌てて記憶を辿り、数秒前に自らが発した言葉すらも覚えていないことに気づいて、平常心に愛想をつかされているのだと分かった。
「……」
「……」
二人とも何も話さない。
この沈黙は毒であり、致命的なものである。
店の中の地を這うような音楽、外からは冷気と雨脚の強まる乱雑な音。
何か言わなくては。何を考えるべきか。
頭が回転していない回転してない。まず整理だ。頭を頭を言葉を言葉を――――
「あ―――」
思考の波から押し出されて、何の意味も乗せることが出来ないまま声が出た。
自分の声とは思えないほど不気味でかすれて、何よりおびえた声。
情けない声。
ここにいるのは泣き虫のオレ。
ひっくり返った不思議な声で、沈んだ思考の海から抜け出す。
思考が真っ白になったと表現した方が的確かもしれません。
だってその声はいつもの彼の声とは遠くはなれたもので、隣の彼の様子は彼が過去に一度だけ見せた泣いている時の様子に似ていたから。
だから私の内側に向かう思考なんて考えている暇は少しもない。
ああ、何故彼は悲しそうな顔をしてしまっているのか。
きっとそれは私が泣いてしまったから。
ああ、何故彼は私のせいで悲しくしならなくてはならないのか。
きっとそれは彼の優しさ。
「……」
身勝手な涙しか流せない私とは違って、なんて暖かな涙が流せるのでしょう。
彼の表情を見ると涙の決壊はすぐそこ。
「……」
覚悟を決めましょう。
胸にある悲しい気持ち、それがまだ涙を押し上げてくるから止まりそうにありません。
思いを伝えましょう。
彼がくれた暖かな思いでも胸に確かに光っている。
その思いのなんて暖かいこと。
貴方と恋愛をしてどれだけ幸せだったか、貴方のその涙にどんなに救われているのか。
それを伝えなくてはいけません。
貴方は泣かなくてもいいと伝えなくてはいけません。
無意識に伸ばした指先は、彼の硬いほほにあたる。
驚いた彼はまぶたをギュッと閉じた。
其処からこぼれる雫。私は私の中の全ての気持ちでそれを拭う。
「―――。」
「―――。」
言葉を優しく胸に刺し込まれた。
それを聞いたとたん頭の中が真っ白になって、涙を止める手段も思いつかなくて、ただ昔の泣き虫な自分に戻っていた。
ただ、それを、泣き虫の自分を受け止める自分もそこにいた。
ほほが涙でごわついてもかまわない。
声が震えてひっくり返ってもかまわない。
鼻水が出ても。
何かが胸に詰まっても。
全てのそれが自分らしいものだと感じることが出来ている。
頭の中は落ち着いてはいないけど、今日彼女に伝える予定だった。
一番大切なものはどの瞬間よりも真っ直ぐに、戸惑いもせずに伝えられる。
覚悟を決めよう。
一度決壊した涙は止まらない。
思いを伝えよう。
ここ一番で誰よりも暖かく、そして強くなれる彼女の指先がほほにあるのだから。
伝えられないなんてことはあるはずもない。
暗い気持ちなんかじゃないのだから笑顔で伝えよう。
さあ、泣いていたってかまわない、その上から笑ってやる。
それにさっきの言葉は―――
俺は言う。
「……もう一度さっきの言葉を言って」
相変わらず涙を拭ってくれる彼女は、驚きながらも照れながらも泣きながらも「微笑んで」――
「私は貴方の優しく濡れた笑顔に恋をしたの」
幸せな言葉は幸せな言葉を誘う。
「俺は君の暖かい泣き顔に恋したんだ」
その言葉を受けて彼女はいっそう泣いた。
けれど口元に浮かぶ笑顔は消えない。
「だから」
「だから」
そっと手を伸ばし彼女に触れる。少し冷たい。
「俺に世界一幸せな微笑を見せて」
そっと触れられる。暖かい彼の手のひら。
「私に世界一幸せな涙を見せて」
「それでさ、あの、結婚……しよう」
そこに二つの泣き笑い。