=勇気の声=


=黒い空=

 重い。とても重い。これは一体何の重さなのだろう。

 どこを見るともなく視線をめぐらす。興味を引くものはない。
部屋の温度は適温。コートは既にバックに押し込んでいる。
窓の外は快晴とはいえないものの晴れている。午後からの雨が少し憂鬱。
椅子に座っているお尻が少し痛い。椅子の小ささが不快。
腕は机の上。組んだ指先が冷えているのが分かる。
まとわりつく人の声。誰とも知れない声にいらだつ。
息を軽く吐く。眼をつぶる。意識的に外界と自身を切り離す。
混乱と、興奮と、焦りと、落ち着きと、期待と、希望と、絶望。
見えてくる自分の感情を自らのものと思えない自分。
私は今、なにをするべきなのだろう。

 私はよく、落ち着きのある人と評価される。
友人いわく、抜き打ちテストで私の表情が変わったことはないそうだ。
私自身抜き打ちテストで表情を変えた覚えはないのだけれど、よく見ているものだと感心する。
それに常々落ち着きのある人と評価されるように心がけて生活しているのだから、当たり前の評価なのかもしれない。

 時間の感覚もいつもとは違う世界で、考える。
やらなくてはいけない事は沢山あるように思える。
しかしそれと同時に、いまさらやっても意味のない事ばかりな気もするのだ。
そしてそれは両方正しい。
意味のない思考に無理矢理見切りをつけて行動を起こす。
のろのろと動く指先の向かう先は机の上に転がる筆入れだ。
自分でもおかしな位、丁寧を心がけて筆入れを開ける。
覗き込むと窮屈そうに収まる鉛筆。
普段使わない緑色の鉛筆を一つ取り出して先の黒鉛をなでる。
指に光る黒がつくのを何も考えず見つめていた。

 最近、人生の岐路について考えることが増えてきた。
それが前向きの思考ならいいのだけれど、たいてい後ろ向き。
あの時こうしていれば、というような思考が大体を占める。
自分でも意味のない思考だと分かっているのだけれど
私の疲れきった頭からは、疲れきった言葉しか出ない。
私は、今まで、本当に、本気で、取り組んできたのか。
だらだらと流れる負の言葉を、心に苦いその言葉を
「うるさい、黙れ」
と幾度となく汚い言葉で打ち消してきた。

 左手首にまとわりつく違和感。眼を向けると安っぽい腕時計。
普段から腕時計をつける習慣のないからか、気になってしょうがない。
しばらく見ていると秒針が長針を追い抜き、そして短針も置いていく。
当たり前の光景を再確認。
時間を読むと目的の時間まではまだ大分ある。
気分転換になればいいと、十分間だけ席を立つことにした。
慣れない建物を歩き回るほど好奇心が強いわけではないので、
用も兼ねて手洗いに向かうことにした。

 果たして、私は人生を良く生きることが出来るのだろうか。
死ぬときは笑って、後悔もなく死ねるのだろうか。
そういった思考に陥るときがある。
それを思うと、これから次第であると思えると同時に、このままでは自分の人生は意味のないものになってしまうと恐れるのだ。
大事な人に出会って、愛を育み、子を産み、育て、幸せな家庭。
幸せな妄想をする。
どこか虚しい妄想をする。
最近の思考は明るいものが少ない。明るい思考にならない。

 手洗いが、とても清潔で新しいものだったので少しだけ気分が晴れた。
さっきまで座っていた部屋に向かう。
狭い部屋には先ほどよりも人がいるように思える。
心なしか、部屋の温度と湿度が上がっているように感じる。
時計を確認すると、十分のつもりが大幅に時間を浪費していた。
再び潜り込んでくる不安。
それに潰されてしまう前に自身に割り当てられた席に急いで向かう。
そこは聖域ではないが、今この部屋で私に味方する唯一の場所であるように思えるから。

 自分のことを棚にあげて、この世界に敵意をぶつけることもある。
過去や未来にあこがれて、自分が生きている今を無視する。
それは逃避だと分かっていながら、逃避を正当化しようとする。
自分の心を押しつぶすものを、自らのせいではなく他に求める。
小さい自分。その小ささを認める自分をまた、正当化する。

 落ち着かない。左手の腕時計の着脱を繰り返す。
友人が褒めてくれた落ち着きのある人は、どこにもいなくなった。
自らによって生まれた負の感情を、絶え間なく心にたたきつけて精神を孤立させる。
周りを見ても知り合いはいない。
見たことも無い顔、あの人たちは本当にこの世界にいた人なのだろうか。
頭の中ではカウントダウンが響く。
一時間は六十分、一分は六十秒、一秒の長さはどのくらいだったか。

 重い。とても重い。これは時の重さなのだろうか。

=暗闇の雲=

 私は今、受験会場という異界に小さく転がっている。

 受験というものは初めてではない。試験というものは何回も受けている。
高校受験、資格試験、中間テスト、期末テスト、模試。
なのに、今私は受験に怯えている。
何故怯えなくてはならないのか、そんなことは分かっている。
自分のせいだ。過去の自分がこの日の為にどれ程邁進したのか、それが自分の力の全てだったのか、疑問を挟む余地が少しでもあるからだ。
睡魔に負けて眠り込んでしまったことが何回あっただろうか。
毎日、どれ程勉学に集中できていただろうか。
自分に言い訳をして、楽なほうに流れていったことはなかっただろうか。
私はそれらの疑問に胸をはれない。
どれにも心当たりが少なからずある。
毎日の勉学は、学力を養う目的以上に、今日この日の精神の安定のためにあるのではないだろうか。
そう考えるならば、私は失敗している。
怯えている私は、打ち勝てるのだろうか。
「……ふぅ」
眼をつぶり意識的にため息をつく。受験が始まるあと数十分。
己の精神と格闘し、少しでも平定を求める。
この負にまみれた精神状態はいいものではない。
私は、勝つためにきたのだ。今更どこにも逃げ場のないところに立っている。
ならば、打ち勝つための努力を今この瞬間にも行うことこそ、するべき事だ。
受験開始五分前に筆記用具の最終確認を行う事にしよう。
自分を奮い立たせる。
大丈夫、言い訳は得意なのだから。

 そもそも、相手を強大なものにしすぎてはいないか。
それ以前に相手は誰なのか。
静かに眼に光を受け入れて周りを眺める。
複数の友人と共に受けに来たのだろうか、忙しく口を動かし引きつった笑いを見せている人がいる。会話をしていないと不安でしょうがないのだろう。
黙々と、持参の参考書を見つめる人もいる。見覚えのある参考書、私も使用したものだ。
鉛筆削りで、黙々と削っている人もいる。私も用具の最終確認の際は削っておこう。
「……」
見渡した後、視線を自分の指先に固定する。
違う、回りの人たちは敵ではない。私が影響を及ぼすことの出来ないものは敵と認識できない。彼らは彼らの道を進み、私は私の道を進む。この場所で交わることはない。
ならば、やはり敵は受験だ。問題と答案だ。
単純に考えるなら、問題を完全に解いて提出できたなら、周りの人がどれほど頑張ろうと私の負けはありえない。
そう、単純なことではないか。
満点は非現実的過ぎるかもしれないが八割だって大丈夫だと思う。
私の目的は受験に受かること、満点を取る必要はない。
どんなに、ぎりぎりでも合格ラインの点数以上であればいいのだ。
自分の苦手教科、不得意教科だって私は自覚している。
それならば、不得意教科の目標を少し下げて、得意教科で挽回しよう。
簡単じゃないか。全ての教科の基本には触ってきたのだ。
もし、解法が瞬時に浮かばない問題があったとしても、力押しで解けるかもしれない。
問題の一問二問間違えても大丈夫のはずなのだ。
そう、大丈夫だ。
私には、この戦いを、突破する、可能性が、存在する。
無理矢理作り上げた精神の安置所に腰を落ち着けた。
焦燥感がその裏でお尻を焦がしているのは自覚できている。

 私は今、不自然な安息という世界に小さく転がっている。

=土砂降り=

 ようやく理解する。今日という日は分岐点。

 心には決壊があると思う。
突然の感情の波を感じることがあるのだから、決壊という表現がとてもしっくりと来る。
決壊のきっかけは些細なものでいい。
今日この場合の私にはきっと小石でも十分だった。
一つの会話、一つの単語、一つの笑い声。
日常ではありふれていること、それでも今日この場では致命的なそれ。
真後ろに座る男子の言葉。
「…昼飯どうしようかな……」
その言葉は私の心臓に触れて、とくんと身震いさせた。

 これまで出会った幾人の人の顔を思い出せる。
とりわけ微笑んだ顔を私は忘れることが出来ない。
男子生徒の言葉を受け、今朝の食卓を思い出す。
受験ということで何時も早いけれど、いつも以上に早起きして朝食を準備してくれた母さん。
今日も仕事だというのに駅まで送ってくれた父さん。
妹からのお守りは今もバックにしまわれている。
私のお昼ご飯はお弁当。母さんと妹が作ってくれたもの。
ああ、不意に暖かい。
この、冷え冷えとした荒野のような世界に場違いな温かみ。
今すぐにでも駆け出して身をうずめたい暖かさ。
自分の不甲斐無さのために怯える私には暖かすぎる。
考えてしまう。
この今日という日がもたらした結果によって、私は彼らにどの様な表情をさせてしまうのか。
もし、万が一失敗してしまったなら、皆どんな表情をするだろう。
困ったように笑いながら、しょうがないと母さん。
駄目だったことはしょうがないが、これから先を考えるようにと父さん。
妹は気を使って夕飯に好物を出してくれるかもしれない。
そうだ、私の失敗は少なからず彼らを不幸にする。
そう考えると駄目だ。不安定な平定は簡単に傾く。
どうして、今日胸を脹れるまでの努力をしなかったのか。
彼らに報いるために私がやるべきだったのは、料理の仕方ではなかった。
父の将棋の相手でもなかった。
妹の買い物に付き合うことではなかった。
他に見向きもせず、唯一心に、一日が二十四時間であることを忘れるほど勉強することだったのではないか。
鼻の奥がつんと痺れる。
なにをしていた。なにがしたかった。本当に人生を考えていたのか。受験というものを理解していたのか。自分に言い訳ばかりついて、情けなくないのか。情けない。情けない。情けない。
私は幸せをくれた彼らを不幸にする。

 私の存在が、私の考えが、私の気持ちがこの世で一番醜いもの。
今まで聞こえないふりをしていた自らからの叱責が、ここぞとばかりに声を大きくする。
それは今更だけれど、真摯に受け入れるべき言葉で、
その言葉こそ私を救ってくれたかもしれない言葉だったのに私はそれを無視し続けていた。
それに対して私は謝るしか出来ない、ゆがみ始めた視界を隠すように頭を抱えて、必死に涙だけはこらえる。腕で頭を挟んで思い切り締め上げる。それでも押し寄せてこようとする涙は自分の弱さ。
頭を抱え込んで、自分だけの視界の中で、服から漂ういつもの洗剤の香り。
何かを考えるたびに涙の決壊を感じる。
今度こそ、耐えられない。呼吸が乱れる。雫がこぼれる。
周りの目が、声が怖くて、自分の殻に閉じこもるために、ぎゅっとぎゅっと目をつぶった。



そして聞こえるのは音。



 赤の混じった暗闇で、私はその音を聞いた。
自分に押しつぶされそうになる小さい私に、必死に語りかけてきていた声に気づいた。
自分の不甲斐無さに泣きそうになる私を、笑いもしないで絶えず包む気配に気づいた。
渦巻く暗い暗い思いを運び出すように響く音を聞いた。
私一人に聞こえるようささやく声。私だけのための声。
その左手首から聞こえてくる音の雨は、私のざわついた部分を一瞬にして静めてくれた。
それはどんな魔法か、私自身驚くほど劇的な心の変化だった。
「……」
そんな自分がおかしくて、自然に口元はほころんでしまう。
静かにまぶたを上げる。
そこに、私の心を黒に塗りつぶした世界は既にない。

 病は気から、という言葉とは少し違うかもしれないけれど。
心の持ち方によって世界は敵にも味方にもなるということを知った。
今、強大な敵がいる前で敵を増やしてどうするというのだ。

 落ち着いた心で考えると、何一つ恐れるものはなく、何一つ私を脅かすものはない。
それでも、敵を一つあげろというのならば、それは試験だけれど、それすらも私が望んだ相手なのだ。
この試験会場だって孤独の異界ではない。
列車に乗って何時間もすれば必ず我が家にたどり着ける。
海を挟んでいるわけでもない。私のなじみの世界であるのだ。
それに、眼に見える範囲にだって日常がある。
例えば目の前の紙には見慣れた文字、それは名前とよばれるもので、そして私につけられたものだ。
何時いかなるときも傍にいてくれているそいつは、今日も私の傍にいる。
例えば黒い筆入れ、あまり容量は大きくないが丈夫に作られている。
シンプルかつ無骨なデザインの彼とは、もう十年以上付き合っている。
例えばバック、コートを納めた彼は少し不恰好に膨れているが、私の愛用のバック。白を基調としているために汚れが目立つので大事に扱って五年たつ。
「……」
どうということは無い。私はここで、全ての知識を注ぎ込み、答案を埋めて、悠然と帰ればいいのだ。
そのための道具たちは、自らは万全であると語りかけてくる。
万全でなかったのは私だけだ。
一体なんだってあんなに後ろ向きな思考に陥ったのか……
自分でも馬鹿馬鹿しく思う。
お金を払ってまで試験を受けて、自分を追い詰めるだなんて。
「意味が不明……」

 ようやく理解する。今日という日は通過点。

=雨宿り=

 味方は周りの全て。

 気がつけば、教室の前にはスーツを着込んだ大人たちがいる。
試験用紙が入っているであろう黄土色の紙袋をがさがさと鳴らしていた。
教室の雰囲気が張り詰めたものに変わる。
左手の時計を見ると、試験開始まで数分も無い。
周りの人たちが筆記用具の最終確認をしているのを尻目に、私はじっと時計を見つめる。
この時計は腕時計を持っていない私に妹が貸してくれたもの。
よく観察すると小さな傷が多い。色合いもどこかくすんでいて古いものだとわかる。
ベルトの部分にいたっては修繕と補強の後があった。
これは妹の大切な時計だったことに今になって気づく。
時計を耳に当てると、矢張り聞こえる先ほどの音。
私に魔法をかけた静かな声。試験中もずっと語りかけていてくれるのだろう。
「…さっき、あなたのこと安っぽいとか思ったこと……ごめんね」
彼からの答えは無かったけど、なんとなくこれで、全力で試験に望めると分かった。
落ち着きのある私は、いつの間にか戻ってきている。
今なら、全てのものを味方に出来る。
家族の暖かい言葉はもちろん。
意地の悪い友人の皮肉めいた応援も、壊れやすい消しゴムも、机の汚れも、息苦しいこの部屋も、決して遊んでいたわけじゃない日々も。
何よりも私が私の味方になってくれている。
さあ、勝負。
「ちゃんと見届けてよ…」
軽く指先で時計を叩く。こつんと確かな感触を返してくれた。

 味方は思いの全て。

=虹の空=

 確かに聞こえた。思いの声。

 「ただいま」
列車に揺られて数時間。バスに揺られて数十分。自宅にたどり着くとどっと疲れを感じた。
手早く靴を揃えて家に上がると台所から妹が顔を出す。
こちらを伺うような表情。小動物のようだ。
「ただいま」
改めてそういうと愛嬌のある笑顔で返してくれる。
「おかえりっ」
人見知りの激しい妹は外でも、この笑顔を振りまけているのだろうか。
そうであるなら、友人も恋人も簡単に出来るのではないだろうか。
愛嬌のある笑顔というものと縁の遠い私としては少しうらやましい。
「……」
しばらくこちらを見続ける妹。どうやら、試験のことが気になるが言い出せないといったところか。
遠慮せずに聞けばいいのに、と思いながら、バックからお弁当の包みを取り出す。
「はい、空箱。ご馳走様」
「あ、うん……」
お弁当の包みを受け取りながら口ごもる。
妹は将来、言いたいことがいえなくて苦労するのだろう。
「それじゃあ、着替えてくる」
そう言って階段に向かう。私の部屋は二階の一番奥。
「あっ、お姉ちゃん」
階段に足をかけたところで妹の声。
「時計役に立ったかな、古いから遅れていたりしなかったかな」
妹の声を受けて、左手をさする。妹の時計はまだ腕に巻かれている。
「うん。役に立った。ありがとう」
そういいながら時計を外すと妹の手に落とす。
「……今日、その時計が何よりも心強かった」
その言葉を聞いた妹は笑顔を見せる。
「その時計から勇気の声が聞こえたんだよ」
「……」
「……」
「だっ大丈夫だよ。お姉ちゃん頑張ってたしっ」
きっと大丈夫と鼻息荒く私に言って、たたたたと駆け出して台所に飛び込む。
母に今日の料理を豪華にするように頼み込む妹の声を聞きながら階段を上る。
へんに想像力のある妹は、私の言葉から何を想像してくれているのだろうか。
「あははははは」
思わず笑いがこぼれる。
実家に帰ってきて家族の声を聞いて安心したのだろうか。
自分でもよく分からない。それでも後ろ向きではありえない感情におされて。
今日必死でこらえた涙を、今度は抵抗せず受け入れることにした。
心地の良い開放感と、頬に感じるくすぐったさ。
「あははははっ」
早く着替えて、家族に今日の報告をしなくてはいけない。
けれど、この泣き顔では誤解されてしまうかもしれない。
そうそうに涙を止めて顔を洗わなければいけない。
私の報告は笑顔でするべきものなのだから。

 確かに聞こえた。勇気の声。


おわり