武隈の里 
歴史
風土
 陸奥国府 「武隈」 芭蕉一宿の地 エコロジー計画 里山の生活
リンク2 リンク3 リンク4 リンク5 リンク6 リンク7

竹駒神社



武隈の里 


                     封内風土記から 

竹駒神社 縁起略いわく 

仁明帝の頃 、承和9年小野篁が陸奥守になるため赴任するとき。城州紀伊郡伊奈利山に詣でる。稲荷明神に国府鎮護を恭請する。 --神明、その懇願の情けが神に通じ、白狐を現す。篁は之を函にいれる。

赴任途中、名取郡南長谷村橋を過ぎる時、狐八回を出して啼く。篁怪しんで函をあけると白狐が走り出て
武隈の茂林のどこかに入っていった。篁はその地に神社を造営した。以来、その橋は八聲橋を言われる。
後世、訛って弥五郎橋と言われるようになった。

後冷泉帝の頃、能因法師 
永承年間、奥州にくる。篁の造営した明神社がどこにあるか尋ねていくうち武隈に到着した。そこで竹馬にのった童子に遭う。法師は明神鎮座の位置はどこかと尋ねると、童は西林を指差すだけで答えはない。童は竹馬に
のり霊区へ走りさった。能因法師は神の教えを悟り、そこに寺社を建てる。「竹馬に騎ることから」竹駒寺」と号した。
 その後、荒廃し、これを治めるものはいなかった。後奈良帝の頃、天文六年、当家十四世植宗公が神祠と寺を再興する。かつ名取郡小豆島村を寄付した。後光明帝の頃、寛永二十一年。十八世忠宗君謀っていわくこの社は開闢以来、甲乙相続、900年の昔、我門の跡なり、  名取郡押分と南長谷村の四十八石の地を寄付し、祭礼の費用とした。
中御門帝、享保七年、二十一世吉村公。柴田郡の二十石の地を与え、宮社の修理にあてた。
毎年二月初午日、祭りあり式を行う。 当初、奥州国司源重之、俊房等、皆、神馬を献上。伯楽群れとなし、市が百日続いた。その間牧馬を貿易し、初午祭は賑わった。

「名古跡」いわく

稲荷明神を祀り、その名伝わり久しい。社辺に八幡、雷神、愛宕社及び大悲小堂あり。社後に寶窟と言われる地あり、その断崖の中腹に狐窟あり。この石窟を稲荷の神室となす。その真体は封狐の精なり。今も窟の中に棲息していると。
 太古、童が竹馬に騎ってきたことより武隈の文字は竹駒になった。訓音が合い通じる。能因が開いた所の武隈は旧号。竹駒を今の寺号とする。
 岩沼界隈では旧号(武隈)が落廃し、新しい名前(竹駒)を使うようになった。そして、野狐を神のごとく崇めるようになった。毎年、仲春午日、祭りをなす時、祭礼を行う。饌(そなえ)と生?を窟の前に盛る。すなわち、狐が出てきてこれを悉く食べる。人皆これを信じる。

 稲荷者は、神書を考えると「倉稲魂神うかのみたま」である。なのに何故封弧をもってこれを祭るのか?
封弧は妖獣というだけでその神に当るのか? 諸州は本質を論じていない。 老狐の精とする。?革無き者。
大成経また惑いを残す。俘屠役徒の言。???
太古社を建てる。倉稲魂神を祀って以来、久しい。あるいは祭りを廃止、あるいは社地を失う。 一般凡庸愚味者が先の旧説を聞き、復興しようとする。但し、その人文盲無知、ゆえに古伝をみず、旧居問わず。俗間の説を謾用する。封狐の偽説を信じる。かつ、この狐窟あるを幸いとして神のところとして社を建てる。訓音が地名の旧号を彷彿するをもって竹駒明神と号した。本号を変え、旧名を失う者なり。神道をなす者、俘屠雷同に委ね、その偽説を質すること無し 神明、この淫号を駆逐せんか? 竹駒の説をあげると後人を迷わす。卑俗な字をもって太古神号に変えよう。郷里の小人、竹馬を信用して長い。竹馬は童子の玩具、幼い子は戯れる。この卑な説が神を永謾し。 
今、これが載っている歌書等の中をや事実をこによく考える。この地名を挙げるものまだ一言、古人旧説だけ。しかし、後人凡庸、妄りに附会する。---省略---

寺院相伝  能因開くところは武隈寺と称す。 その地名の美称によるものである。能因、すなわち橘諸兄後胤
-----途中 中断-----



武隈の里