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鵜ヶ崎城址 古昔、源重之朝臣が築く

  google map


 
2006/4/23 鵜ヶ崎城址 枝垂桜

「陸前国名取郡地誌 下  宮城県」を見ると
「 鵜崎城趾、あるいは武隈館、あるいは岩沼城と称す」とあり

「封内風土記巻之五 郡邑」 によると古跡ひとつ、
          鵜崎城(うかさき)と号する、または武隈館と称する
伝にいわく、古昔、源重之朝臣が築く

岩沼七崎のひとつ、鵜ヶ崎はどこかな?
 まず、昔の地図をみて思いついたが、鵜ヶ崎神社のある南側の岬だ。
実際あるいてみると、宅地造成や道路建設で往年の面影はたどりにくい。地図をみていくと
その岬は細く突き出た形をしている、まさに鵜の首のようではないか?これこそ鵜ヶ崎だ。
鼻輪崎とは相対する場所にある。また土ヶ崎は鵜ヶ崎の北側になっている。


このホームページでの解析では
  鵜崎城趾、
  武隈館
  岩沼城 
は、千貫山から朝日山公園、鵜ヶ崎までの舌状の丘陵地帯に含まれるが、
各々は別な場所。
  鵜崎城趾、-- 鵜ヶ崎 今の栄町
  武隈館 -----鼻輪、朝日山公園 --土ケ崎から朝日
  岩沼城 -----現 岩沼駅

鵜ヶ崎 鵜の首のような岬

教育委員会の案内によると「鵜ヶ崎城趾」は岩沼駅北西、小高い丘で、鵜ヶ崎公園にある。
いわゆる岩沼城址とはちょっと場所がちがう。低地にあり沼と堀に囲まれた岩沼城址とはちがって、鵜ヶ崎城址丘陵の高台にあり、山城という雰囲気だ。

訪れてみたところ
 丘の上で展望がきき、住むに最適な場所のように思えた。昭和39年当時の地図では
「鵜ヶ崎神社」も書かれているが、神社はどこか探したけれど発見できず。
わずか「鵜ヶ崎城址」の標識のみ。

  昔の地図と比べてみると「鵜ヶ崎」と呼ばれた高台のほとんどは削られて宅地になっている。
今いう鵜ヶ崎公園あたりは残存しているけれど、細く突き出た鵜の首あたりは宅地と道路になって
しまっている。


ちょうどこのあたりが往古の「鵜ヶ崎」の先端あたり。(土ヶ崎2丁目付近)
この畑とかは宅地に造成されず、昔の面影を伝える。稲わらが積み上げられ、
緑に見えるは彼岸花の葉で、懐かしい風景かも。 右手奥の林が鵜ヶ崎城址。
 ここから東に目を転じれば、ちょうど「岩沼城」の方向になる。

(1)
鵜ヶ崎
 「鵜ヶ崎城」と呼ばれる「鵜ヶ崎」の意味を考えてみよう。昔の地図を見ると
鵜ヶ崎は鵜の首のように細く突き出た岬になっている。それを形容したのであろう。 
だから鵜ヶ崎城はこの首のように突き出た岬にあったと考える 。
(2)
宇賀崎
  宇賀崎としたら? 「宇賀」とはウガノミタマの「宇賀」に当るのかな? 竹駒稲荷大神にも
 通じる名称だが、、。

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鵜ヶ崎城址へ登る


岩沼駅西口から大きな道路を少し歩いて、畑のところで右へ曲がる。

向こうの小高い丘 鵜ヶ崎公園。
このあたりも昔の風景のままであろう。また右に曲がって行くと「土ヶ崎横穴古墳群」
「土ヶ崎横穴古墳群」
このあたりは往古の姿!!


右手に鵜ヶ崎公園があり、桜が見事みたいだ。鵜ヶ崎城址はこの崖、左方向


右手 鵜ヶ崎公園 造成された切どおしを境に
町名でいくと、左は土ヶ崎2丁目、右は栄町1丁目に分かれている。
このあたりに鵜ヶ崎神社があったのかな?




崖を上がる。道路と民家で寸断されてはいるが、往古の鵜ヶ崎方面



上がりきると平らな面、「鵜ヶ崎城址」の標識あり。
樹木だけでなんの手がかりもない。ただ、コンクリートで固めた一筋の道が
神社の境内であったのかなと思わせるだけだ。
ただ、この高台の高さだけが往古の鵜ヶ崎城を物語るのかも。
岩沼城も岩沼駅建設でなくなってしまったし、往古を語る空間はここくらいしか残っていない。

 

鵜ヶ崎城址 しだれ桜 桜の季節が恋しいね。
 

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 陸前国名取郡地誌 下  宮城県 より

古跡 
  鵜崎城趾、あるいは武隈館、あるいは岩沼城と称す。岩沼郷の中央にあり、東西1町24間3尺
南北10町40間、石壁、なお残っている。 伝にいわく、古昔、源重之朝臣が築く。源満仲、藤原元良等
この館にいた。それ以降、天正の時代まで誰がいたかは定かではない。天正の初めより伊達氏の臣、
泉田安藝重光がおり、その後、石田将藍、大木不休、遠藤兵部、屋代勘解 、齋藤真蔵、安久津新右エ門、
奥山出羽、同隼人、同大学、伊達兵部少輔、古内肥後、田村左京太夫、古内造酒助等。
貞享4年甲子以来、古内民部子孫相継ぐ。明治元年戊辰12月伊達慶邦の時代、故あって召し上げられる。
同8年7月から古内廣直の町有地となり、ことごとく開墾して田んぼとなる。  
  
(天正十年代(1582~1592))



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