武隈の里 
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貞観大津波 多賀城は壊滅 武隈の館

 多賀城碑によれば神亀元年=724年)に多賀城創建された。国府多賀城の前は、名取川と広瀬川の合流地点、「仙台市郡山」に国府はあった。仙台この郡山に国府があったのは、大化の改新(645年)からは50年ばかりで、短期間で多賀城に移っている。 その理由として、この郡山あたりは名取川と広瀬川の合流地点で洪水氾濫とか自然災害が多いところで立地条件に無理。

 869年貞観の大津波で多賀国府は壊滅的な被害を受ける。それまでの仙台郡山も名取川と広瀬川の合流地点で浸水しやすい地点だし、郡山もかなりの被害を受けたろう。 (多賀城は10世紀半ば廃絶され、その後の陸奥国府は不明とされる)

 陸奥国府を襲った貞観年津波は仙台平野を水浸しにする被害をもたらしたようです。日本三代実録(日本紀略、類聚国史171)の貞観11年5月26日(西暦869年7月13日)の記録にあります。地震の規模hはマグニッチュード8.3 「次いで押し寄せた津波は平野の奥深くまで侵入して陸奥国府の城下まで達し」とある。これは最近の発掘調査でも裏付けられています。 例、「多賀城市埋蔵文化財調査センターにより、市川橋遺跡から9世紀後葉の大規模な津波災害 の跡が発掘された」とか。また東北大学大学院理学研究科箕浦教授による最近の科学的な解析の結果、貞観津波の数値的復元に成功したとの報告もあります。まなびの杜 No.16を見ると(津波災害は繰り返す 
             東北大学大学院理学研究科教授 箕浦 幸治教授)
陸奥国府を襲った貞観年津波津波被害の警鐘は以前から叫ばれていたのです。

津波被害は繰り返す
☆ 2011年版『理科年表』の記事(「日本付近のおもな被害地震年代表」)
               869 7 13 (貞観11 5 26) M8.3
                 三陸沿岸:城郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰するもの無数。津波が
               多賀城下を襲い、溺死約1千。流光昼のごとく隠映すという。三陸沖の巨大地
               震とみられる。 
そうは言っても、ほとんどの人はそんなことはないと。天はまたもや我らの試練を与えた。2011年3月11日、貞観大津波を超える巨大津波が襲った。東日本大震災だ。1000年の時空を超えて、貞観大津波は再来したのだ。東日本大震災の地震規模はマグニチュード9.0 で貞観を上回る最大規模だった。

      貞観三陸地震

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 外部リンク
----------資料−1----------------------------------


日本三大実録では以下のように。原文のまま。

廿六日癸未。陸奧國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城倉庫。門櫓墻壁。落顛覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚涛涌潮。泝漲長。忽至城下。去海數十百里。々不弁其涯。原野道路。惣爲滄溟。乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。
日本書紀 697年まで。720年完成。
続日本紀 697年から791年まで。797年完成。
日本後紀 792年から833年まで。840年完成。
続日本後紀 833年から850年まで。869年完成。
日本文徳天皇実録 文徳実録。850年から858年まで。879年完成。
日本三代実録 858年から887年まで。901年完成。

------------資料ー2---------------------------------------------------

藤原清輔 奥義抄

 うえしときちぎりやしけむたけくまの松をふたたびあひみつるかな

武隈の松はいづれのよよりありけるものとは知らぬ人は、うえしときとよまれたればおぼつかなくもや思うとて書きいでて侍るなり。この松はり昔よりあるにはあらず。宮内卿藤原元善といいける人の任に、たちの前にはじめてうえたる松なり。みちのくにの館はたけくまというところにあり。この人ふたたびかの国になりて後のたびよめる歌なり。たけくまのはなわの松ともよめり。重之歌にいう。

たけくまのはなはにたてる松だにもわがごとひとりありとやはきく 

たけくまのはなはとて山のさしいでたる所のあるなりとぞ近くみたる人は申しし。この松、野火やけければ、源満仲が任にまた植う。その後うせたるを橘道貞が任に植う。その後、孝義きりて橋につくり、後たえにけり。うたてかりかける人なり。なくてもよむべし。

----------資料ー3--------------------------------------------------

大化前代に陸奥には亘理、伊具以南の宮城県南部、福島県に10の國造が置かれていたという。(先代旧旧事本紀)
この解釈では阿武隈川以南は既に国造がおり、蝦夷の領域は阿武隈川以北で、最初に蝦夷と対峙するのは岩沼あたり。

陸奥国が建国されたのは大化改新まもない650年頃といわれている。陸奥国とは「みちのおく」であり、このみちとは「東山道」のことである。
おくとはその道の最前線をいう。また7世紀後半からの陸奥国は宮城南部と福島のみならず山形の最上、置賜をも管轄していた。

だから陸奥国府の条件としては
  (東山道)東街道沿いにある。  山形への行きやすい地理 
 山形への交通路を見ると、東山道は「柴田」から分かれて川崎、笹屋峠を越えて最上へでた。東山道は柴田から玉前へ、そして千貫山山麓沿いに北上する。最前線は常に変動するものと思う。

陸奥国府にからんで
   仙台 名取川と広瀬川の合流地点 郡山遺跡
   宮城県北部大崎平野 江合川の南岸 名生館遺跡) 
が注目されている。
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