武隈の里 
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-----武隈松の変遷


(1)武隈松 誕生 歌枕の時代

(初代、2代目松)

     794年 平安遷都
     802年 征夷大将軍坂上田村麻呂 東征 
     842年 小野篁 武隈に稲荷明神
     869年 貞観の大津波

 初代、2代目の武隈の松がいつ頃だったのか?
 
武隈の松が歌に詠まれたのは、藤原元善が最初です。 陸奧守として赴任の時、武隈の松が枯れていたので、小松を植え継いだとあります。任期が終わって再び、
陸奧にやって来たとき、以前、植え継いだ武隈の松を見て、感慨深げに歌を詠んでいます。植え継いだ松が2代目となります。記録では、藤原元善が陸奧守として赴任したのは926年(延長7年)で、陸奧に10年間滞在しました。歌を詠んだのは926年頃となります。記録を見ると藤j原元善の赴任は1回きりです。初代の松がいつ頃植えられたか定かではありませんが、、武隈の松が陸奧守によって歌われたのは、貞観大津波以降となります。   

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 後選和歌集巻17雑三 1241番
   
「陸奥守にまかりくだれりけるに、武隈の松の枯れて侍りけるを見て、小松を植え継がせて侍りて
、任果てて後、また同じ国にまかりなりて、かの前の任に植えし松を見侍りて

 うえしとき契りやしけん武隈の松をふたたびあひ見つるかな
承平・天慶の乱 935年ー940年 常陸 平将門乱 
           939−−941年 藤原純友の乱 西国でおこした反乱。

  一般的には藤原経清は平将門乱を平定した関東武士 藤原秀郷の子孫、有力な見方。将門謀反の密告をしたのは源経基--清和源氏の祖とされる。
 
源満仲は藤原純友の征討に功あった経基の子で清和源氏の嫡流。

宮内卿藤原元善  後選和歌集 951年 源順(みなもとのしたごう)、清原元輔(もとすけ)ら撰。

三代目松 

(1)  時期は?10世紀半ばか?
源満仲が植える。( 913〜997)とあるが、陸奧守として、満仲の名はない。
承平・天慶の乱以降として、10世紀半ば以降 源氏は武隈へ進出!!!!
源満仲は清和源氏の二代目
彼の長男 頼光は摂津源氏の祖、次男 頼親  大和源氏の祖、三男の源頼信(968-1048)は河内源氏の祖 --甲斐守在任時に平忠常の乱を平定 関東に地盤を広げる。頼朝の時代に鎌倉幕府を開く。この頃はまだ歌枕の時代だが、「清和源氏」の嫡流が陸奥にもやってきていることを見れば源氏は古くから陸奥の広大な土地を狙っていた。
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(この満仲のあと、995(長徳元年)年には藤原実方、陸奥守に任じられ、998年(長徳4年) 当地で不慮の死を遂げる。四十歳前後。光源氏のモデルの一人。歌人でありながら、藤原実方は武隈松を詠んでいない。陸奥守在任期間が短いせいか?。実方と同行した源重之の歌は数ある。

藤原実方 百人一首
   かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
源 重之 清和天皇のひ孫。。安時代中期の歌人。
   百人一首
    風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思うころかな
「長徳元年(995)以後、陸奥守藤原実方に随行して陸奥に下り、同地で没した。没年は長保二年(1000)頃、六十余歳かという」とか? 父は源兼信、 重之の父は陸奥に土着していたとか。この土着地が「武隈」ではないか? 彼は歌人でもあり、父の土着地へ来たのであろうし、陸奥守でもない。彼が築城したとかの「鵜ヶ崎城」 
後捨遺和歌集 
   武隈の 松もひともと 枯れにけり 風に傾く 声のさびしさ
   武隈や 鼻端に立てる 松だにも 我がこと独り ありとかやきく          
   年を経て 誰を待つとか 武隈の 鼻端にのみは いでたてるらん 


(4代松)
 橘道貞
が植える。 陸奧守 1004年 (寛弘元年) 11世紀初
 和泉式部の初めての夫 - 道貞は陸奥守の任期を済ませて都へ戻り、1016年に亡くなる。 

 その後、陸奥守、孝義陸奧守1023年(治安3年) 伐採、名取川の橋とするとある。これで武隈松は断絶してしまう。以降 武隈の松は跡形無し 
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(2)武隈松 跡もなし 忘却の彼方へ 

能因法師(平安中期歌人 988-1058)  竹駒寺創建
能因が一度目の陸奥では武隈松をみたようだが、2度目の時は武隈松は見られず。 いずれも、前九年役の以前で、戦いの前哨だ。
能因法師 陸奥に再び来たとき
          
   陸奥国にふたたび下りてのちのたび、武隈の松も侍らざりければよみ侍る
   「武隈の松はこのたびあともなし千歳をへてやわれは来つらん
                後拾遺和歌集巻18 雑4  1042番
竹駒寺開基は永承年間(1046〜1053)。 武隈松は伐採されたあとである。前九年役(1051--1062年)の前かな?合戦の前の軍馬の調達としたら1050年くらい?。もう一度来てる時期はもっと若い時期だ。出家は1013年で、平孝義が伐採したのは1023年頃。この間かな?。
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橘 季通 (すえみち)
父の則光朝臣のお供で陸奥国の行った際に見た、この二木の松について次のように歌っている。
(時期はさだかではないが、前九年合戦以前)

武隈の松はふた木を都人いかがと問はばみきとこたへむ 後拾遺和歌集 1086年

武隈の松は二木をみきと云うはよく読めるにはあらぬなりけり 僧正深覚

        981年 清少納言が橘則光(たちばなののりみつ)と結婚
        橘 季通 (すえみち)は則光と清少納言の子供

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  前九年、後三年合戦     陸奥はもう歌枕の地とかの優雅なもでなく、軍事力で圧殺される陸奥に変貌する。陸奥守は歌人から軍人に変身するのだ。
       前九年 1051--1062年  
     勝利者側
        源頼義朝臣----貞任、宗任を攻める間、陸奥に12年間  生没年:988-1075
        源太郎義家 
        源次郎義綱
        清原武則
     敗者
      1063年2月 安倍貞任(安倍頼良(頼時)の子)
                、藤原経清(藤原清衡の父)、
                 安倍重任(安倍貞任、宗任の弟) の首  京へ
    、-------------------------------------------------------------
       1067年 源頼俊 陸奥守
       1076年 橘為仲 陸奥守に任じられる
       1083年 橘為仲 帰京 -----合戦の合間に陸奥守になったようだ。少しは歌ごころあり。
橘為仲家集 「為仲集」 
武隈にて国の人いできたりていわく、「いにしえは松侍りけり。うせて久しうなりたれど、国の司いらせ給う時、かならず松の枝もとめて。かくたて侍るなり。さきざきのものの心しらせ給える人は、ここにて歌をなんよませ給う」といえば

たけくまにあとを尋ねて引きううる松や千とせのはじめなるらん

      このあと陸奥守は源義家、義家の在任中 1083--1087年 後三年合戦。以降は陸奥は歌枕の土地では軍刀が支配する土地となり、歌枕も断絶、   
    

西行法師

     能因の跡を偲んで陸奥へ  時は1186年 合戦終結後、100年後 
    一回目 陸奥 1144-50年頃  26才から30歳ごろ
    二回目 陸奥 1186年頃  69歳 東大寺再建のための勧進
    西行は武隈へ行くが、武隈松は見られず、跡形だけ。

西行 (1118〜1190) 
西行法師  山家集 
      たけくまの松は昔になりたりけれども、跡をだにとて見にまかりてよめる
      「枯れにける松なき宿のたけくまはみきと云ひてもかひなからまし」  

(3) 武隈松 二木の松として 蘇生の時代

五代目松


(5代松)
武隈松は、西行の時代から500年間の断絶後、歴史に再び登場する。
西行没後500年
 芭蕉は武隈松を二木の松として再生させた。元禄2年5月(1689年)、武隈松は「鼻輪崎」から竹駒大明神の近く、別当寺武駒寺の後ろ、「二木」の方にある。 芭蕉が詠んだのは5代目とされる。 4代目以降、500年以上も間隔があいている。つまり、その間は無かったと考えてもよい。例え、断絶しても、再び植え継がれて蘇生するのは、皆の心に残っているということで素晴らしいことだ。
奥の細道 芭蕉 元禄2年 1689年
 岩沼に宿る。武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ餞別したりければ、

「桜より松は二木を三月越し」
三月越し?
 三月越しとは、あしかけ3月の意味。芭蕉は3月27日(旧暦)千住を旅立ち、5月4日(旧暦)(新暦では6月20日)岩沼を訪れる。3月末から、4月、5月初めと3月にかかる。実際の期間は

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六代目 
六代目は天明(1780)、仙台藩主伊達重村公が植え継がせる。だが、1862年(文久二年)に烈風で倒伏
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七代目  現在の武隈松!!!

七代目の武隈松は、呉服屋作間屋万吉が植え継いだ。玉浦村二ノ倉浜から取り寄せたようだ。それから150年ばかり、、、。。
東日本大震災で海岸部の黒松はほとんど壊滅した。巨大津波に生き残った黒松を8代目にしてはどうか? 

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