芭蕉の夢

確かに、奥の細道は純粋な紀行文でなくて、フィクションで芭蕉の心を凝縮したものです。西行没後500年を期して旅立ったし、西行の跡を尋ねるのが目的の1つだったはず。西行の歌にある「形見のススキ」を見たかったはずだ。でも、当時の芭蕉は、飯坂温泉あたりから持病が再発。残念ながら、体力もなく、笠嶋は途中断念。仙台、塩竃、石巻でも句を詠めず。やっと、平泉あたりで回復したか? 西行の形見のススキを見ることができなかったのは、芭蕉最大の悔恨ではなかったか?
江戸に帰ったあと、その思いで、芭蕉が本当に行きたかった夢を綴ったのだと思います。ここでは芭蕉が追い求めた夢を再現してみようと思います。


(1)曾良と芭蕉の行程

曽良」日記によると 元禄2年 
 5月2日  飯坂温泉 泊まる
 5月3日  飯坂から白石へ  白石泊り
 5月4日  白石から岩沼経由(奥州街道) 仙台へ 仙台泊まり

奥の細道 芭蕉の行路
 5月1日 飯坂温泉 泊まる 
 5月2日 飯坂から笠島へ
     (玉崎から分かれて東街道) 途中断念  岩沼へ引き返し 岩沼に泊まる
 5月3日  武隈松をみて 岩沼から仙台へ(奥州街道)  仙台へ泊まる

各の記述を素直に解釈すれば、芭蕉は1日先行


★松尾芭蕉 -奥のほそ道
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鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、道祖神の社・かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、  笠嶋はいづこさ月のぬかり道
岩沼に宿る

★曾良旅日記
一 四日 雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折々日ノ光見ル。 岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。
  ○笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、左ノ方一里計有、三ノ輪・笠島と村並テ有由、行過テ不レ見 。
  ○名取川、中田出口ニ有。大橋・小橋二ツ有。左ヨリ右ヘ流也。
  ○若林川、長町ノ出口也。此川一ツ隔テ仙台町入口也。夕方仙台ニ着。其夜、宿国分町大崎庄左衛門 。

(2)芭蕉の夢 西行の跡を尋ねて 東街道を歩く 

 
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芭蕉は山沿い東街道を歩き、途中引き返し、岩沼に宿る。
曾良は町中の奥州街道を歩く

 奥の細道では
   「鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば」

 これの意味は? 白石からきて、南長谷の分岐点で「岩沼の町に入らず」に山麓沿いの東街道を歩いて笠嶋へ向かった。 これは往古の街道で、この街道先に道祖神社や実方中将のお墓がある。

 玉前から千貫神社のある山麓へ、山麓沿いに北の名取川まで、北上一直線 東街道である。奥州街道が開発されるまでの古代の街道。現在でも岩沼から山麓沿いで茂庭とか仙台の南に出る最短の道である。県道39号線

折々日の光り見る南長谷からは山麓ぞいの道で歩きやすいはずだが、五月雨のため道大変悪く疲れ果ててしまった。 西行の跡を訪ねるも「笠島はいずこさ月のぬかり道」と断念した。





  
(3)芭蕉の夢 俳句を詠んだ場所は蓮華寺

志賀沢川の畔にある真言宗のお寺 蓮華寺















地元の蓮華寺の世話人が立てた立て札は、やや詠みにくいが、に地元の人の芭蕉への思いが込められている。 「芭蕉はここを通ったとも言われ、旧愛島村北目切通を経由して仙台へ向かった」と書かれている。地元の人達の間でも、俳聖松尾芭蕉が通ったことを言い伝えているのだろう。

「是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云道祖神の社・かた見の薄」と詠んだのは何処だろうか。笠島方面が右に見えるところは? 東街道を歩いてみると、おそらくここだろうと思うのが、志賀沢川を渡るあたりである。ここらあたりは、地名でも、小川と呼ばれ、上河原、下河原と地名も残っている

写真の場所は 「下河原」付近 石碑、
川は右の方に周りながら流れていく左側は切通に続く里山で、右手、遠く、低く見えるのが、笠島の方向だ。ここが一番ぴったりの場所だ。

笠嶋はいづこさ月のぬかり道

ここから、笠島へは北目・切通を通って行くけれど、山道にはなるが、歩きやすい。道で難渋するのは、志賀沢川あたりだと思う。

蓮華寺という真言宗のお寺 ここには岩沼では最古と言われる地蔵尊がある。
左側地蔵尊 寛延4年(1751年)、次の右側地蔵尊 天明3年(1781年)
芭蕉が訪れたのは元禄2年(1689年)だから、芭蕉が訪れたと、60年ばかり後だ。













近くに貴船神社があるが、この神社の神様は水源の神様である。貴船神社の石碑にも古いのがあり、享保7年(1722年)のものが最古だ。

(4)芭蕉の夢 岩沼に宿る


岩沼に宿る。
 武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
  「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ  餞別したりければ、
 桜より松は二木を三月越し

 

三月越し :
深川を旅立ち 旧暦:3月27日(曾良日記では3月20日)  新暦:5月16日
岩沼訪問    旧暦:5月 4日   新暦:6月20日
 3月末に出発し、5月の初めだから、3,4,5月と三月にまたがっているが、実質の期間は1ヶ月半しかありません。3ヶ月かけてと書いてあるのは間違いです。 三月越しにしたのは、二木の松の二木(ふたき)にかけて、三月(みつき)とする技巧的なものか? 

植え継がれ、伐採されたりして、跡形もないと思っていた武隈松を目にすることができて、感動の極み。挙白の餞別にあったように、歌枕の地で武隈の松を見ることができた喜びを表す。ただ、芭蕉の句としてはどうか? 

其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に筵を敷て、あやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入斗になん。

 芭蕉は飯坂で泊まった時は、宿は粗末で土間に寝て、雨漏りはするし、虱や蚊にやられて、おまけに持病も悪化。飯坂以降、岩沼から仙台、塩竃、石巻と体力も落ちて不調ではなかったのか? あこがれの松島でも詠んでいない。やっと平泉になると回復したのか、句の感動も深くなります。
「夏草や兵どもが夢の跡」「五月雨の降のこしてや光堂」

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(4)  実際はどう歩いたのか? 曽良日記  何処で「行き過ぎて見ず」?  

5月3日 飯坂から白石へ宿
5月4日 白石を立ったあと、「岩沼入口の左の方に竹駒明神という神社有リ
「笠島(名取郡の内)、岩沼と増田の間、左の方一里ばかりに有り。箕輪と笠島の村、並んで有るというが、行き過ぎて見ず」、

この記述は奥州街道から、岩沼と増田の間で左手、4kmあたりが箕輪、笠島といううから地理的には正しい。 この表現では岩沼から仙台へ北上、途中から左の箕輪笠島へ行こうしている。曾良は岩沼を通り過ぎただけで岩沼には泊まっていない。4日には仙台へ着いている。

「行き過ぎて見ず」  の場所 岩沼と増田の間  館腰駅の手前、植松付近
「道祖神路」の石碑 安政3年(1856年)、仙台の小西利兵衛によって立てられてとある。
    
岩沼以降、 
仙台にて 旅宿をもとめて四五日逗留す

名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す。爰に画工加右衛門と云ものあり。聊心ある者と聞て知る人になる。この者、年比さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるゝ。玉田・よこ野・つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松嶋・塩がまの所々、画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。
  あやめ草足に結ん草鞋の緒
 かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。

武隈の里