武隈の里 
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雙根古松あるいは武隈松 

藤原元善朝臣

    後撰和歌集

みちのくにの守にまかり下れりけるにたけくまの松の枯れて侍りけるを見て小松を植ゑつがせ侍りて任果てゝ後又同じ國にまかりなりて彼のさきの任に植ゑし松を見侍りて

植ゑし時契りや志けむたけぐまの松を二たび逢見つる哉

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武隈の里 

(1)
「名跡志いわく」
  雙根古松あるいは武隈松という。
社を去ること2町、岩沼駅 西5町余り

 場所は竹駒神社の北、約200m、岩沼駅(これは岩沼宿のこと)の西約500m。
歩いてみるに、これは現在の「二木の松」とぴったりの場所。 
そこは「二木」とはいうが、二本の木があるわけでなく、ひとつの根から二つの幹が分かれて
いるさまだ。 「旧時の伝説と違うので怪しむ」とあるように、この作者も旧時の伝説、すなわち、相並ぶ松と違うので怪しんでいる。 

「封内風土記巻之五 郡邑」 によると 「 雙根古松」(ふたきのこまつ)あるいは「武隈松」という。「雙根」という表現からすると、「二つの根」は「二株松」のはず 。しかし、今の二木松は
根はひとつで、根元から二又に幹が分かれている姿なので、二つの根にはならない。
 古書のなかでは「二木」という漢字はないのだ。

芭蕉が見たのは、「根は土際より二木にわかれて」の表現では、根はひとつでも土際から二つの木にわかれているので二木松、今あるところの松を見たのだろう。

(2)
「清輔奥儀抄」藤原清輔 歌論書「奥義抄」)

 こでは「宮内卿藤原元善太守の時、館の前に始めて植える」とある。
 武隈館は現在の岩沼駅付近であり、二木松とは離れすぎである。
 
「清輔奥儀抄」藤原清輔によれば  「宮内卿藤原元善太守の時、館の前に始めて植える。」
館の前に植えたという。現在の二木松の場所は武隈稲荷に近く、武隈館とは離れすぎて、古書の記述とは会わない。武隈松は今ある「二木松」とは別な松ではと思う。


(3)鼻輪松はどうなったか?
   これは「鼻輪」と呼ばれるように「二株松」である。雙根古松の漢字ではこの鼻輪松のように「相並ぶ松」のほうがぴったりではないか?鼻輪松は枯れてしまったようだが、往古は鼻輪松すなわち武隈松だった。

 封内風土記でも紹介されているが、古書の中では「「鼻輪松」と「二木松」とを別な木としたり、同じ木とみたりして混乱している。 二木にずうと 古書でも「鼻輪」と「二木」の混同あり、決着つかず。 何故、二木と鼻輪を同じ松のように思うのだろうか?
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根は土際より二木にわかれて今の二木松  


これは二本松  竹駒神社の門前にある。 


考察 

平安の頃の武隈松と江戸時代の頃の武隈松は植えられている場所が違う。

平安の頃 初代から4代目までは鼻輪松で武隈館の前にあった。
古書によると「館の前」に植えたとあるからだ。 
4代目までは鼻輪崎の高台にあった武隈館の前の鼻輪松!!!
4代目は名取川の橋の材料にされてしまい、ここで断絶。


 4代目と五代目の間は500年間くらい開く。 500年後、江戸時代、
五代目が植えられたのは今の二木で、植えられた場所は竹駒神社の近い二木になった。
二木の意味は「根は一つでも二つの木」に変わった。  
雙根古松とかいて「フタキ」と詠ませるのは往古の姿を知っているからか? 

 この二木に移ってから、二木の松が新しい武隈松となり、かっての古い武隈松は
「鼻輪松」と呼ばれるようになった。フタキという呼び名はかっての古い武隈松の
「相並ぶ」二本の松を踏襲している。

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以下 参考資料
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後拾遺和歌抄 第十八 雑四 五十八首 

則光朝臣のともにみちのくににくだりて、たけくまの松をよみ
はべりける 橘季通
一〇四一 竹隈松 たけくまのまつはふたきをみやこ人いかがととはばみきとこたへむ

みちのくににふたたびくだりてのちのたび、たけくまのまつも
はべらざりければよみはべりける 能因法師
一〇四二 たけくまのまつはこのたびあともなしちとせをへてやわれはきつらん

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(7)

参考資料「封内風土記」は明和九年(安永元年、1772年)に、仙台藩の儒学者田邊希文が、藩主の命令によって撰述した、仙台領内の地誌である
---------------封内風土記から-------------------------------
雙根古松

「名跡志いわく」
  雙根古松(フタキノマツ)あるいは武隈松という。社を去ること2町、岩沼駅西5町餘を阻て、今、その地に望む。
 ( 注)位置からいうと、現在の二木松あたりか) 
ひとつの松が翠を交えて、馬の? 枝を垂れる。旧時の伝説と違うので怪しむ。
土地の人に聞いてみると、これを「武隈二木松」という。(注)旧時の伝説とは? 二つの根、すなわち
雙根古松、松が相並ぶ姿をいうか )


「清輔奥儀抄」藤原清輔 歌論書「奥義抄」)
 この松、古くからあらず。宮内卿藤原元善太守の時、館の前に始めて植える。
後、野火にあう。源満仲、赴任の時植える。その後、また失う。橘道貞の赴任時、これを植える。
その後、孝義の任のとき、これを伐採、橋を造る。ついに鳥の住みかとなる、世の中の人は彼を
殺風景な人という。
 
(注) (館の前だから、すくなくともこの松は、今の「二木松」ではない。


「袖中抄顕昭説」
また然り。今あるところに後人継ぎ足して植える。古いのはそのまま枯れる。
すなわち、復栽して名勝となった。
今、元善朝臣再任時詠んだ和歌序詞によると古いものが枯れて、故、継いで植栽したとある。

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鼻輪松 

「名跡志いわく」
館西5町余り、小坂を上がり、その地に入る
。雙松相並ぶ。枝葉はよく茂り。

「奥儀抄」では二株松、あるいはいわく鼻輪松とも言う。 混じって一所に同樹となす。

ただ、源重之の歌の意味は「鼻輪松」と「二株松」は別な樹とする。
夫志趣はまた両株の意味か? 
「歌林良材説」によれば 両方の地が混ってひとつの場所としている。

 今、その木を点検してみると実際、別な樹木なり。重之の説を正説か?

「観迹聞老志」いわく  古から武隈雙株(フタキ)松と言われた。
一日、その地に臨む。二つの樹あるも一株なり。それはその名称と合致しない。
 
それで重之の和歌を考えると、すなわち、鼻輪と称するものはひとつの樹木なり。 
往昔、二木と名づけるは二つの株である。 今、あるところ松が実際、鼻輪
と称するものなんだが、そのうち、旧地をうしなってしまい、二木松と呼ばれるように。
 

「名寄裡書及び歌人Sついわく
武隈二木松は館の前にある。古松は年を経るにつれ枯れてしまった。
新松を古いものに継ぎたした。

また「古書」の中に見ると
今、松あるところに二つの樹木があった。一株が枯れたが、ひとつの根が残った。

「二木」か「「鼻輪」か?  古書は前人の説、異議いろいろあり、落着せず。
だから諸説を上げるに留める。

藻藍草 奥儀抄を引用、始めは「武隈鼻輪松」という。末篇では「二木」と混同。
「色葉集」また同じ。
「歌林良材」 はじめ二木といっているが、後では「鼻輪」と混同し、、また最後では二木のことと
している。

「袖中抄」はもっぱら二木の一事だけ。
 能因、季通、深學の歌もまた同様に二木の一事。唯、重之だけが別な樹としている。
かつ、歌意では「鼻輪」と「二木」は一松樹のように詠んでいる。

二木は「袖中抄」の意味をとり、鼻輪は「重之の説」を信じて。

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(2)
橘為仲家集 
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武隈の 跡をたずねて ひきううる 松や千歳の 初めなるらん
                                            橘 為仲
故郷へ 我は帰りぬ 武隈の まつとはたれに つげよかと思ふ
                                      詞花和歌集 橘 為仲
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