武隈の里 
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笠嶋道祖神社 



祭神は 猿田彦大神と天鈿女命    google map
 毎年4月20日を祭日

----古代の記録

猿田彦は古事記ならびに日本書紀 神代下 第九段  「 ある書第一」に登場する。

  日本書紀ある書第一は「高麗系」 天孫降臨では半島から初めての集団。
この道祖神社のある丘陵は古墳遺跡も多く、古代から生活が営まれているようだ。
 まさに天孫降臨集団の最前線にあたるか!!!

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古事記 
  邇邇芸命 猿田毘古神
          「天の八街にいて、上は高天原を光り、下は葦原中国を光る神」
    同じように天つ神の御子天下降ると聞いて、先導役として登場する。

日本書紀
 神代下 第九段
        「 ある書第一」  

天津彦彦火瓊瓊杵尊がすでに天下る時、先駆からの報告では「天八達之たに一人の神
あり  鼻の長さ七咫、背の長さが七尺あまり、まさに七尋。また口尻明るく輝る。眼は八咫鏡のようで、
 照り輝くことほうずきのようだ。」、従神を遣わすが眼力に負けて何も問えず。

そこで天照は天鈿女に勅して派遣。天鈿女は胸乳を露にして、裳紐を臍の下におさえてあざ笑って向かう。
 衢の神に何故、ここにいるかと問えば、天照大神の子、今、降行くと聞いた。故、出迎えに待つ」 名前は
猿田彦大神!!!
  猿田が先導するという。「天神の子は筑紫日向高千穂くし触峰に! 吾は伊勢の狭長田五十鈴川上に行きます」

ここに天磐座を押しはなし、天八重雲を押しわけて、いつの道別の道別きて天降りる。


----藤中将実方------------------------------------

光源氏のモデルともされる藤原中将実方の不慮の死にまつわる話。


 長徳元年(995年)正月陸奥守---「歌枕見てまいれ」と左遷

 長徳4年(998年)12月、実方は赴任先で不慮の死

 藤中将実方朝臣はこの神社に通りかかった時、土地の人のいさめも聴かず、
「この神は下品な女神ではないか。下馬して再拝するに及ばず」と、拝せず通り過ぎたため、
道祖神により蹴り殺されたという。もしくは馬が暴れて落馬、それがもとで一命を落したとか。

 百人一首の歌 藤中将実方朝臣
         「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」

 西行、芭蕉が後代、実方朝臣を偲んで訪れる。 
  西行の歌
         「朽もせぬ 其名ばかりを とゞめをきて かれのゝ薄 かたみにぞみる]

だが、芭蕉は途中で断念。 [笠嶋はいづこさ月のぬかり道]


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