from 2007年1月12日
  (1)武隈の松は失せて、二木の松として蘇生


 武隈の松を語るには大化の改新645年、さらに、869年の貞観大津波まで遡ることが必要です。

大化の改新(645年)の頃、陸奥国府は「仙台郡山」にあり、724年 多賀城に移りました。仙台郡山は名取川と広瀬川の合流地点の中州にありました。
 問題は仙台郡山以前、岩沼に国府があったのか?どうかです。
 蝦夷に遭遇する阿武隈川以北の第一の上陸地点は岩沼なのだから、ここにも何かの前進基地があったと思われるのです。
 それを裏付けるかのように、 陸奧にやってきた陸奧守が、、「武隈館の前」にあった武隈の松を詠んでいます。

一体、いつ頃から詠まれて、どんな変遷を経てきたのかを調べてみました。結果、次の3段階あることに気がつきました。

1)武隈松の誕生 歌枕の時代
2)武隈松 跡形もなく 忘却の時代
3)武隈松 二木の松として蘇生

 1)武隈松の誕生 歌枕の時代
武隈の松が詠まれているのは藤原元善が最初に歌った926年頃(2代目)、源満仲が植え継いだ3代目、橘道貞が植え継いだ1004年頃4代目、その4代目は平孝義によって伐採される1023年頃(4代目)まで。その間、能因法師が,前九年役の前にやってきます。まだまだ、歌枕の平和な時代です。歌は貞観大津波以降です。

2)武隈松 跡形もなく 忘却の時代
その後は伐採されたりして、合戦の時代に突入。前九年役(1051−1062年)の前には能因、後三年役のあとには西行が訪れて、武隈松を詠みますが、「跡形もなく」と詠まれ、500年ほど世の中から忘却されます。 

3)武隈松 二木の松として蘇生
それを蘇生させたのは、1689年、奥の細道の芭蕉です。西行没500回忌の時です。時に5代目、竹駒神社の近くに二木の松として蘇生。次いで、6代、7代と植え継がれて、現在は7代目で、二木の松史跡公園として保存されています。

 2013年には東日本大震災に遭遇。海岸の黒松はほとんど壊滅してしまいました。8代目とされる松はすでに公園内に準備されていますが、海岸にわずかに残る黒松を植え継いではどうか?

武隈松 変遷の記録
貞観大津波

(2)芭蕉 歌枕の夢 


これは、江戸時代の岩沼の絵図
芭蕉は 元禄2年5月4日(新暦6月20日)、岩沼を訪れる(曾良日記)。前夜は白石に泊まっています。
ところが、奥の細道では、前日、笠嶋を目指すが、途中断念、その日は岩沼に宿るとされる。明くる日4日、武隈松を訪れています。この違いはなんだろう? 

 確かに、奥の細道は純粋な紀行文でなくて、フィクションで芭蕉の心を凝縮したものです。西行没後500年を期して旅立ったし、西行の跡を尋ねるのが目的の1つだったはず。
朽ちもせぬ其名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る 西行

でも、当時の芭蕉は残念ながら、持病も再発し、体力もなく途中断念。江戸に帰ったあと、その悔しさの思いで、芭蕉が本当に行きたかった夢を綴ったのだと思います。
 -----
 玉崎から東街道を北上、笠島に向かうも途中で断念
引き返し岩沼に泊まった。明くる日、武隈松を見て、奥州街道で仙台へ向かう。
 笠嶋はいずこ五月の抜かり道 

それでも、植え継がれ、伐採されたりして、跡形もないと思っていた武隈松を目にすることができて、感動の極み。挙白の餞別にあったように、歌枕の地で、武隈の松を見ることができた喜びを表しています。ただ、芭蕉の体調も悪かった性もあるのか、芭蕉の句としてはもうひとつですね。

 桜より松は二木を三月越し

飯坂温泉に泊まった時は、粗末な家で、雨漏りはするし、虱や蚊にさいなまれ、持病の痔も再発し最低の体調。岩沼のあと、仙台、塩竃と石巻でも句を詠まず。一関、平泉まで来ると、芭蕉も元気回復したかのよう。


芭蕉の夢 
西行 おもはくの橋 再考 

道祖神社で不虞の死を遂げた「籐中将実方」の帰路は?


Guide

(3) 武隈の館はどこに?


 私の「武隈の松に関する歌」からの考察では 869年貞観大津波以降、前九年役(1051−1062年)が発生するまで、奥州の平和な期間、約二百年ばかり、陸奧守の滞在した武隈の館は武隈にあったようです。

 貞観大津波が襲ってきても生き残れる場所はどこか?岩沼で言えば、千貫丘陵、それから舌状に伸びる朝日山公園の高台であろうか? この丘陵は朝日山公園、鵜ヶ崎城址、岩沼要害跡から今の竹駒神社のある「丸山古墳」あたりまで続いていたようだが、 

  武隈館は今の朝日山公園あたりの高台にあったのでは? そう考えていくと、朝日山公園の白山古墳あたりは、その可能性は濃厚だが、、。

大化の改新以前はどうかな?
 多賀城が貞観大津波で壊滅的被害を受けたあと、「国府」を急遽、武隈に置いたとしても、急に移転できるわけはない。武隈には古代からはそれなりの素地があったと考える。大化の改新以前は「武隈」に彼らの拠点があったと考えたい。

 阿武隈川以南にはすでにある集団が住み着き、阿武隈川以北は蝦夷の里でした。大和からの集団が蝦夷の里で真っ先に遭遇するのは、阿武隈川河口にある「武隈」では? 陸奥国府 「武隈」再考
Guide

(4)武隈から竹駒へ


 「武隈」は土着的な名前なのだ。 前九年、後三年合戦を境に武隈は廃れる。
武隈は土着的な名前? 武隈の名前は11世紀末には廃れてしまい、馬市の開かれる「竹駒」に、、。

 竹駒神社 創建したのは小野篁(たかむら)だが、当初は「武隈明神」    (仁明帝の頃 、承和9年 842年 八聲橋伝説) 武隈とは「大きく曲がりくねって川のアウトコース」を意味する。 大きな川の氾濫原だ。
   
 武隈寺を開いたのは能因法師だが、この頃より「武隈」から「竹駒」へ変身( 永承年間(1046〜1053);の頃) 

武隈から竹駒へと変遷  竹駒寺と竹駒神社 
 

(5)岩沼の自然


 古墳には松がそびえていたのだが、いまや木の根っこが往時を偲ぶだけだ。いまだ発掘もされておらず、古墳時代からのタイムカプセルのまま、。
  貴重な古墳だけど、学術調査もされていない。以前から、なんとかと行政にも働きかけていますが、、、。
東街道沿いの古墳 
岩沼の沼と
堀                    
東街道を歩く  

 七堤
 
岩沼郷の西は「里山」、千貫、志賀  
山麓沿いには古代、東街道が走る。千貫神社

志賀の里には山寺立石寺、松島瑞巌寺や平泉中尊寺と同じ頃、西暦860年、天台宗慈覚大師が創建した「巖蔵寺」がひっそりと残る。 
日本武尊東征 岩沼の玉浦
   遠望浦  古くは岩沼以東、大洋のごとく悠遠
玉浦八景    遠望浦
名取熊野三山      
高館山古墳 東北最古の前方後方墳   
Links

ぼちぼち健康エコライフ

岩沼の里山散歩 
オミナエシの自生地 グリーンピア岩沼の自然

「四季の山野草」 グリーンピア岩沼自然散策ガイド(1)
を片手に持って歩いて下さいね。行けば、管理室でもらえますよ。

グリーンピア岩沼自然散策マップ
  グリーんピアには準絶滅危惧種「ヒメボタル」が棲んでます。
森に棲むヒメボタル   
宮城県の山散歩里山散歩

エコロジー計画
 CO2の少なくなる生活をしよう!!
太陽光発電!!
雨水利用 --雨水は貯めて、庭のビオトープの池に利用
家庭の生ごみはダンボール堆肥にして、家庭菜園の野菜に!!ミニ水田 ビオトープ作り

  武隈の里 トップ
Links