武隈の里 
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武隈古舘  武隈の松

「鵜崎城趾、あるいは武隈館、あるいは岩沼城と称す」、
これらはいずれも朝日山公園から鵜ヶ崎までの舌状の丘陵地帯に含まれる。
  
  武隈館 -----鼻輪 --、朝日山公園 --土ヶ崎から朝日
  鵜崎城趾、-- 鵜ヶ崎 今の栄町
  岩沼城 -----現 岩沼駅あたり

これらを時代的に推測すると

  武隈館   鼻輪崎   平安の頃 陸奥国府 源満仲、藤原元良等 
  
  鵜ヶ崎城   鵜ヶ崎  源重之 平安の頃  -
                      -----貞観大津波から前九年、後三年役あたり
  岩沼城    長沼、丸山の中  ---- 天正年間以降、
                          

鼻輪崎はどこ?


 源重之は陸奥守藤原実方に随行してやってきた。当地に没したとかいう。
だから、鵜ヶ崎城は「武隈館」とは別にあったと考えたい。
鵜ヶ崎に鵜ヶ崎城があったことは確かであろうが、鵜ヶ崎のどのあたりか?

 考えれば、源重之の歌だけが「武隈や鼻輪の松」とかの表現を使っている。これは彼が陸奥守ではなく、鵜ヶ崎にいて鵜ヶ崎から鼻輪崎の松をみて歌ったためではないか?歌のなかでは「鼻端」となっているが同じである。だから、鼻輪松もよく見えるところでないと?

鵜ヶ崎は鼻輪崎とは相対するところにある。鵜ヶ崎もそうだが、鼻輪松のあった鼻輪崎も宅地造成の結果、削られて消滅している。
 

    後捨遺和歌集 源重之

   「武隈の松もひともと枯れにけり風に傾く声のさびしさ」

   武隈や 鼻端に立てる 松だにも 我がこと独り ありとかやきく                                        
   年を経て 誰を待つとか 武隈の 鼻端にのみは いでたてるらん 


武隈松は館の前に

 鼻輪松の場所がわかったとして、もうひとつ陸奥国府との関係だが?
 平安の頃、「館の前」に植えたとして、問題を解くかぎは武隈松である。
武隈松の変遷の解析でも判ったが、
 

武隈松の変遷は
 

平安の頃の武隈松と江戸時代の頃の武隈松は植えられている場所が違う。

平安の頃 初代から4代目までは鼻輪松で武隈館の前にあった。古書によると「館の前」に植えたとあるからだ。 4代目までは鼻輪崎の高台にあった武隈館の前の鼻輪松!!!
4代目は名取川の橋の材料にされてしまい、ここで断絶。


 4代目と五代目の間は500年間くらい開く。 500年後、江戸時代、五代目が植えられたのは今の二木で、植えられた場所は竹駒神社の近い二木になった。二木の意味は「根は一つでも二つの木」に変わった。  雙根古松とかいて「フタキ」と詠ませるのは往古の姿を知っているからか? 

 この二木に移ってから、二木の松が新しい武隈松となり、かっての古い武隈松は「鼻輪松」と呼ばれるようになった。フタキという呼び名はかっての古い武隈松の「相並ぶ」二本の松を踏襲している。

 武隈館の頃の武隈松は「鼻輪松」なのだ。
すると、この鼻輪崎の高台に陸奥国府があったことになる。


 



鼻輪崎の突端の名残。 今では路面よりやや高くなっており、畑になって
いるが、往古の姿のままだ。
この向こうに小高い丘が往古はあったが、それは宅地造成で削られてなくなる。
そこに鼻輪松があったけれど、、、、。



削られてなくなった鼻輪崎であるが、残存している崖まで歩く。

高台に上る



 削られた鼻輪崎であるが、残存している崖から上へ登る。




(南東方向)残っている岡の上から市街地を見る。正面の森は竹駒神社



(東方向)正面の森は鵜ヶ崎城址 、左の森は法常寺


名残の雑木林

陸奥国府跡はどこ?

  鼻輪崎に武隈松ががあったとしたら、陸奥国府はどのあたりに?
今の朝日山公園の高台では?

(1)
平安の頃、大洪水のあとだから、そんな低地は敬遠されるし、高台に設置した。
「仙台平野の海岸で最大で9mに達する到達波が、7・8分間隔で繰り返し襲来したと推定」される
のだから。

(2)
もともと平安の頃、街道は山麓沿いの東街道。まだ奥州街道はない。そんあときにはやはり
陸奥の館は高台、いわゆる東街道に近いところ。

朝日山公園 白山古墳 松ヶ丘


朝日山公園 荒井池



 陸前国名取郡地誌 下  宮城県 より

古跡 
  鵜崎城趾、あるいは武隈館、あるいは岩沼城と称す。岩沼郷の中央にあり、東西1町24間3尺
南北10町40間、石壁、なお残っている。 伝にいわく、古昔、源重之朝臣が築く。源満仲、藤原元良等
この館にいた。それ以降、天正の時代まで誰がいたかは定かではない。天正の初めより伊達氏の臣、
泉田安藝重光がおり、その後、石田将藍、大木不休、遠藤兵部、屋代勘解 、齋藤真蔵、安久津新右エ門、
奥山出羽、同隼人、同大学、伊達兵部少輔、古内肥後、田村左京太夫、古内造酒助等。
貞享4年甲子以来、古内民部子孫相継ぐ。明治元年戊辰12月伊達慶邦の時代、故あって召し上げられる。
同8年7月から古内廣直の町有地となり、ことごとく開墾して田んぼとなる。  
  
(天正十年代(1582~1592))

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鴨は多く渡ってくるけれど、何故か白鳥は来ないのだ??



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