武隈の里 
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小野篁(おのたかむら)のルーツ 八声橋

竹駒神社は小野篁が武隈に勧進したという。だが、ここ武隈でも小野篁の実像は定かではない。竹駒神社縁起略には書いてあったとしても、歴史を紐解くと武隈での小野篁は希薄。

 仁明帝の頃 、承和9年 842年 八聲橋伝説

山城国伏見稲荷神社の分霊を勧請したとされる小野篁 (延暦21年(802年) - 仁寿2年(853年))  小野小町と関係ありだけど百人一首にも登場。 小野篁は830年隠岐に流されるが、2年後帰京、その後、陸奥守へ赴任する。 その赴任途中、八聲橋で白狐が八回泣く。小野篁怪しんで箱を開けると白狐は箱から飛び出し、武隈の林に消える。 八聲橋(やごえ橋)が訛って 後世は「弥五郎橋」と呼ばれた。

 武隈稲荷明神の起源 
は「小野篁(おののたかむら)伝説にある八聲橋は今の竹駒神社とはちょっと離れたところにある。 伝説地はスポットのところ 八声橋の北東2.5kmに竹駒神社


岩沼市南長谷にある石碑

 現在は八声橋はないけれど、この石碑は八声橋の遺跡を残すため、橋の石を元とに建立された。八声橋跡はこの石碑の南西75m、竹駒神社は東北2.5kmにあたる。
この写真は西方を望む。






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竹駒神社 縁起略いわく 

仁明帝の頃 、承和9年小野篁が陸奥守になるため赴任するとき。城州紀伊郡伊奈利山に詣でる。稲荷明神に国府鎮護を恭請する。 --神明、その懇願の情けが神に通じ、白狐を現す。篁は之を函にいれる。

赴任途中、名取郡南長谷村橋を過ぎる時、狐八回を出して啼く。篁怪しんで函をあけると白狐が走り出て
武隈の茂林のどこかに入っていった。篁はその地に神社を造営した。以来、その橋は八聲橋を言われる。
後世、訛って弥五郎橋と言われるようになった。
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(1) 小野篁は晩年、武隈にやってきたのだろうか?

 隠岐に流された逸話のほうが有名で、武隈稲荷はどうかな? 隠岐に流されて、帰ったあとはまた陸奥とは非情なものか。もう高齢であったろうに、、。 左遷続きなのだ。 古書を読むと、当時、小野篁が陸奥守になって来たことは書いていない。842年には「從五位下藤原朝臣大津爲陸奧守」となっている。 
ただ、福島にかけて小野篁にかかる伝説は多そうだ。
 小野小町伝説
小野篁の伝説は阿武隈川の向こう、亘理にもあり、また福島方面にもあり、
   。尊久老稲荷神社(そんくろういなりじんじゃ 

実像はつかみ難いが、ここ武隈には小野氏の生活はあったのは確かか?

(2)
小野篁の生まれたとされる延暦二十一年(802)は大きな事件があった。坂上田村麻呂の蝦夷征討、
当時は小野篁の父、小野岑守の時代だ。 蝦夷征討のあとに小野篁は武隈に!!
父岑守が陸奥の守として奥州に赴任するのに同行 815年  多賀城へ赴任 ?
すなわち、都側が蝦夷征討したあとの役人として陸奥に出かけた。

 百人一首にもある小野篁、あれほどの歌人にしては陸奥でひとつも詠んでいないのは不思議なことだ。

   百人一首 小野篁の歌
       「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海女の釣舟」 

 小野篁は少年時代、父の赴任で陸奥へきたらしい。だが、晩年の842年に再度、陸奥にやってきたのか? 歴史を紐解いても、彼が晩年 武隈にやってきたとの確証はない。

何故、小野篁なのかという疑問が残るが、そこはおいといて八声橋の地理的な意味を考えてみよう。
. 

八聲橋伝説発祥の地 低地稲作へへの進出

 八声橋はちょうど山麓沿いに北上する「東街道」と平地へ向かい北上する「奥州街道」の分岐点にある。
武隈の低地は本来は阿武隈川の氾濫原で、この地図の白い部分は低湿地であったろう。竹駒神社はこのスポットの北東2.5km 


この場所は阿武隈川が山を割って平野に出て行くところでもあり、武隈の入り口にあたる。近くには多賀城と同じ時期に創建された千貫神社や東平王古墳(前方後円墳)もある。
これらの地理を考えるに
この小野篁伝説は、ここから低地へ進出した集団の祖先信仰にあたるのではないか?
かっては阿武隈川はもっと蛇行していて、タイヤ会社や製紙会社の北側を流れていた。

低湿地の開発としても、竹駒神社あたりは「茂林」という表現のように小高い丘になっていたのだろうし、稲荷明神鎮座はやはり山上とは言えるだろう。 

  北長谷からみた竹駒の鎮守の森



 

三大勢力の共生 
  

    小野篁に代表される集団が武隈の低地を開発に乗り出したとしても、そこに何故、稲荷の三柱があるのだろうか?
 これは 加耶古代史観の分析は必要 
竹駒神社の神は?
     倉稲魂神うかのみたまのかみ、宇迦之御魂神---加羅系 北方 遊牧民族
     保食神うけもちのかみ、-             ----南方呉系 
     稚産霊神わくむすびのかみ和久産巣日神-- --コムナリ加耶系  呉系が半島で北方系と融合

小野篁と伏見稲荷の関係はどうか?

稲荷の本家の伏見稲荷大社(京都市伏見区)
   「稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅四年(711)2月初午の日」 
  「太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟 秦伊呂巨(具)が稲荷社を祀った」

秦氏の系統は応神の頃 コムナリ加耶からの大移動だから、稲荷はどうも三大勢力のコムナリ加耶と関係ありそう。半島のコムナリからやってきた小野氏集団も秦氏と同じルーツを持つのでは? 
一方、小野氏は奈良天理の本拠をもっていた「和邇臣」の分派rという? またルーツは敏達天皇にもつながるとかの説も。 
  加羅系ーー源氏
  南方呉系ーー和邇---小野
  コムナリ加耶ーー秦


さらにこの三柱が合祀されるのは、この三集団が共生してきたことをも意味すするのではと。

  ここでは武隈の源流で三大勢力を考えたけれどどうも一致する。

    倉稲魂神うかのみたまのかみ、宇迦之御魂神---加羅系 
    保食神うけもちのかみ、-             ----南方呉系 
    稚産霊神わくむすびのかみ和久産巣日神-- --コムナリ加耶系  

稲荷は加羅系を中心として、コムナリ加耶や南方呉が共生している姿?



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封土記から竹駒神社 縁起略いわく 

仁明帝の頃 、承和9年小野篁が陸奥守になるため赴任するとき。城州紀伊郡伊奈利山に詣でる。稲荷明神に国府鎮護を恭請する。 --神明、その懇願の情けが神に通じ、白狐を現す。篁は之を函にいれる。

赴任途中、名取郡南長谷村橋を過ぎる時、狐八回を出して啼く。篁怪しんで函をあけると白狐が走り出て
武隈の茂林のどこかに入っていった。篁はその地に神社を造営した。以来、その橋は八聲橋を言われる。
後世、訛って弥五郎橋と言われるようになっ

   


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cf。
外部資料

『日本後紀』巻九逸文(『類聚国史』一九〇俘囚)(『日本紀略』)延暦十九年(八〇〇)十一月庚子六

庚子。遣征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守府将軍坂上大宿祢田村麻呂、検校諸国夷

『日本後紀』巻卅六逸文(『類聚国史』・『日本紀略』)天長五年(八二八)閏三月甲
右兵衛督従四位下勳七等坂上大宿祢広野卒。大納言贈従二位田村麻呂第二子也。弘仁初叙従五位下、任右兵衛佐、遭父喪罷職、更任右衛門佐、遷任右近衛少将、兼伊勢守、出陸奥守、秩満任右兵衛督。少以武勇聞。無他才芸、執尚不□、節操可嘉。飲酒過度、病発而卒。時年四十二

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『続日本後紀』巻八承和六年(八三九)四月丁丑 
陸奧守正五位下良岑朝臣木連
『続日本後紀』巻十承和八年(八四一)正月甲申
正五位下良岑朝臣高行爲陸奧守
『続日本後紀』巻十二承和九年(八四二)八月壬申
從五位下藤原朝臣大津爲陸奧守
『続日本後紀』巻十六承和十三年(八四六)正月乙夘
從五位下小野朝臣興道爲陸奧守
『続日本後紀』巻十六承和十三年(八四六)七月丙寅
從五位下御長眞人近人爲陸奧守
『続日本後紀』巻十九嘉祥二年(八四九)六月庚戌
越前守從四位下良岑朝臣木連卒。



『三代実録』巻二貞観元年(八五九)正月十三日
從五位下守左近衛少將兼行備前權介坂上大宿祢當道爲陸奧守
『三代実録』巻二貞観元年(八五九)正月十六日癸酉
從五位下行陸奧守坂上大宿祢當道爲鎭守府將軍。
『三代実録』巻十四貞観九年(八六七)正月十二日癸丑
從五位上行少納言兼侍從良岑朝臣經世爲陸奧守
『三代実録』巻十四貞観九年(八六七)三月九日己酉
九日己酉。前陸奧守從五位上坂上大宿祢當道卒
『三代実録』巻二二貞観十四年(八七二)七月十三日辛巳
正三位下行陸奧守安倍朝臣貞行詣闕拜辞
『三代実録』巻二九貞観十八年(八七六)八月乙巳朔
正五位下行陸奧守源朝臣謹奏請改名恭。詔許之


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岑守
 『日本後紀』巻廿四弘仁六年(八一五)正月陸奧守
『日本後紀』巻卅八逸文(『日本紀略』)天長七年(八三〇)四月壬戌十九
壬戌。参議従四位上小野朝臣岑守卒。年五十三

小野篁
 天長九年(八三二)正月辛丑正六位上 日本後紀


『続日本後紀』巻三承和元年(八三四)正月庚午小野朝臣篁爲副使
『続日本後紀』巻四承和二年(八三五)正月從五位上小野朝臣篁爲備前權守


『続日本後紀』巻七承和五年(八三八)四月乙夘
勅遣唐大使藤原朝臣常嗣。副使小野朝臣篁
『続日本後紀』巻七承和五年(八三八)六月戊申副使小野朝臣篁依病不能進發。
『続日本後紀』巻七承和五年(八三八)十二月是日。
。』▼是日。勅曰。小野篁。内含綸旨。出使外境。空稱病故。不遂國命。准據律條。可處絞刑。宜降死一等。處之遠流。仍配流隱岐國。初造舶使造舶之日。先自定其次第名之。非古例也。使等任之。各駕而去。一漂廻後。大使上奏。更復卜定。換其次第。第二舶改爲第一。大使駕之。於是副使篁怨■。陽病而留。遂懷幽憤。作西道謠。以刺遣唐之役也。其詞牽興多犯忌諱。嵯峨太上天皇覽之。大怒令論其罪。故有此竄謫。

『続日本後紀』巻九承和七年(八四〇)二月辛酉辛酉。召流人小野篁
『続日本後紀』巻九承和七年(八四〇)六月辛酉流人小野篁入京

『続日本後紀』巻十承和八年(八四一)十月辛巳正五位下小野朝臣篁爲刑部少輔
『続日本後紀』巻十二承和九年(八四二)八月正五位下小野朝臣篁爲學士
『続日本後紀』巻十二承和九年(八四二)八月壬申
正五位下小野朝臣篁爲兼式部少輔
從五位下藤原朝臣大津爲陸奧守

『続日本後紀』巻十五承和十二年(八四五)正月甲寅從四位下
『続日本後紀』巻十六承和十三年(八四六)五月癸亥從四位下東宮學士小野朝臣篁爲兼權右中弁


『文徳実録』巻一嘉祥三年(八五〇)四月甲子 從四位上
『文徳実録』巻三仁寿元年(八五一)正月甲申 參議正四位下小野朝臣篁爲近江守
『文徳実録』巻四仁寿二年(八五二)十二月庚辰加左大弁正四位下小野朝臣篁從三位
『文徳実録』巻四仁寿二年(八五二)十二月癸未廿二

癸未。參議左大弁從三位小野朝臣篁薨。篁。參議正四位下岑守長子也。岑守。弘仁之初爲陸奧守。篁随父客遊。便於據鞍。後歸京師。不事學業。嵯峨天皇聞之。歎曰。既爲其人之子。何還爲弓馬之士乎。篁由是慚悔。乃始志學。十三年春奉文章生試及第。天長元年拜巡察彈正。二年爲彈正少忠。五年遷爲大内記。七年爲式部少丞。九年授從五位下。拜大宰少貳。有詔不許之官。其夏喪父。哀毀過礼。十年爲東宮學士。俄拜彈正少弼。承和元年爲聘唐副使。明年春授從五位上。兼備前權守。數月拜刑部大輔。三年授正五位下。五年春。聘唐使等四舶。次第泛海。而大使參議從四位上藤原常嗣所駕第一舶。水漏穿缺。有詔以副使第二舶。改爲大使第一舶。篁抗論曰。朝議不定。再三其事。亦初定舶次第之日。擇取最者爲第一舶。分配之後。再經漂廻。今一朝改易。配當危器。以己福利代他害損。論之人情。是爲逆施。既無面目。何以率下。篁家貧親老。身亦■■。是篁汲水採薪。當致匹夫之孝耳。執論■乎。不復駕舶。近者。太宰鴻臚舘。有唐人沈道古者。聞篁有才思。數以詩賦唱之。毎視其和。常美艶藻。六年春正月遂以捍詔。除名爲庶人。配流隱岐國。在路賦謫行吟七言十韻。文章奇麗。興味優遠。知文之輩。莫不吟誦。凡當時文章。天下無雙。草隷之工。古二王之倫。後生習之者。皆爲師摸。七年夏四月。有詔特徴。八年秋閏九月叙本位。十月任刑部大輔。九年夏六月爲陸奧太守。秋八月入拜東宮學士。其月兼式部少輔。十二年春正月授從四位下。于時法隆寺僧


九月遷左中弁。十四年春正月爲參議。四月兼彈正大弼。十五年春正月轉左大弁兼信濃守。夏四月又兼勘解由長官。「仁壽二年春正月轉左大弁餘皆如故」明年春正月加從四位上。夏五月以病辞官歸家。三年四月加正四位下。仁壽元年春正月遥授近江守。明年春病■。復爲左大弁。後又病發不朝。天皇深爲矜憐。數遣使者。趁視病根。賚賜錢穀。冬十二月就家。叙從三位。及困篤。命諸子曰。氣絶則■。莫令人知。薨時年五十一。篁身長六尺二寸。家素清貧。事母至孝。公俸所當。皆施親友。


         

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