武隈の里 
歴史
風土
 陸奥国府 「武隈」 芭蕉一宿の地 エコロジー計画 里山の生活
リンク2 リンク3 リンク4 リンク5 リンク6 リンク7


 能因法師--竹馬   「竹駒寺」

明治以降、廃寺となった竹駒寺!!
現在では復活はしたが、4号線バイパス傍の小さなお寺で往年の偉大さはない。
かっての栄華の残りは竹駒神社が受け継いでいるのだ。

    
     竹駒寺は能因法師を開祖とする。 能因とは平安時代中期の歌人で、能因法師は
    東奥を訪れ、名跡を訪ね、精舎を建立したという。
          
      後世、馬市が立ちにぎやかになったが、改号されて「竹駒寺」と呼ばれるようになった。
     能因法師が武隈を訪れた時、「童が竹馬に騎って現れた」ことや「竹駒」と「武隈」の訓読みが
     よく似ている事などから、後世、岩沼界隈の人は旧号の武隈というな名をやめて「竹駒」という
     新しい名前を使い出したという。


     白河で秋風絶唱を詠んだ能因法師ではあるが、あれも陸奥には出かけず詠んだとかとかの
     説もある。  「竹馬に乗った童子」の伝説ではどうか? 
     これは「竹駒」という名に転化したいわくを語るだけで内容は風情はない。 
   
  


        みちの国にふたたび下りて後のたびたけくまの松も侍らざりければよみ侍りける 
           「武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てやわれは来つらむ」

--------------------------------------------------
     能因法師の歌でもっとも有名なのは「白河絶唱」
みちのくににまかり下りけるに、白川の関にてよみ侍りける
   都をば霞とともにたちしかど秋風ぞふく白河の関(後拾遺518)
能因法師(平安中期歌人 988-1058)   陸奥に再び来たとき
   「後拾遺和歌集」 能因法師   


1013 年以降、出家 各地遍歴 、
  陸奥には2回訪問、最初の時、武隈松をみたようだが、二回目の時は名取川の橋にされて伐採されたか、能因法師は武隈松を見ることができなかった。
---------------------------------------------------------------
後冷泉帝の頃、能因法師 
永承年間、奥州にくる。篁の造営した明神社がどこにあるか尋ねていくうち武隈に到着した。そこで竹馬にのった童子に遭う。法師は明神鎮座の位置はどこかと尋ねると、童は西林を指差すだけで答えはない。童は竹馬に
のり霊区へ走りさった。能因法師は神の教えを悟り、そこに寺社を建てる。「竹馬に騎ることから」竹駒寺」と号した。
 その後、荒廃し、これを治めるものはいなかった。後奈良帝の頃、天文六年、当家十四世植宗公が神祠と寺を再興する。かつ名取郡小豆島村を寄付した。後光明帝の頃、寛永二十一年。十八世忠宗君謀っていわくこの社は開闢以来、甲乙相続、900年の昔、我門の跡なり、  名取郡押分と南長谷村の四十八石の地を寄付し、祭礼の費用とした。
中御門帝、享保七年、二十一世吉村公。柴田郡の二十石の地を与え、宮社の修理にあてた。
毎年二月初午日、祭りあり式を行う。 当初、奥州国司源重之、俊房等、皆、神馬を献上。伯楽群れとなし、市が百日続いた。その間牧馬を貿易し、初午祭は賑わった。
武隈の里