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◆2004年4月の日記◆

040401 桜。

ここ数日、わたしの住んでいる場所周辺では桜が満開です。昨日は、買い物の帰りに、少し遠回りをして川辺を通り、10分ばかり花見をしてきました。平日昼間であるにも関わらず、ビニールシートを敷いて花見をしている人たちが多く見受けられました。

昨日の時点でほぼ満開、でもまだ、桜吹雪には至ってはいませんでした。今は大雨が降っていますから、きっとあらかた散ってしまっていることでしょう。

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桜の花が好きです。桜の季節にはつとめて、桜並木の下を歩きます。当たり前のように存在している桜が好きです。いつも通りの通行人、いつも通りにベンチで昼寝をする年老いた男性、いつも通りに犬を散歩させる老婦人、そういう人がふと足を止める程度の注目度で咲いている桜を、好ましく思います。背景となる空が蒼ければなおよいです。

反面、桜を見ながら外で宴会をするというのは非常に苦手です。昼に弁当を食べるだけの花見でも、できれば避けたいと切に思います。缶入りの飲み物を、歩きながら一本消費する程度であれば、楽しめるかもしれないと思うのですけれど。

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040402 知性の定義。

賢いなあ、と思わず仰ぎ見てしまう人たちの一群、というものが存在します。賢さにもいろいろあるのですけれど、今回話題にしたいのは、わたしの持っている能力では推し量れないほどの、圧倒的な知性を持っている人たちです。

そういう人を、オフラインで2人、オンラインで2人知っています。オフラインの人たちにはそれぞれ、幸運な偶然で一度ずつお会いすることができました。オンラインの人たちにかんしては、彼らの書く文章からその能力を推し量っております。

どうやったってかなわないと思う、その背景に何があるのだろうと考えてみました。たぶん、自分の感覚に対する強い自信と、その感覚に沿って集められた、文字化されているものも文字化されていないものも含んだ膨大な知識が、わたしを圧倒するのだと思います。「これがおもしろくて仕方ないんだ」そういう単純な原理が一番強いのですね。きっと。そして彼らは、自分を信じているが故にぐらつかず、そのために寛容です。たぶん、自分が脅かされる心配がないから、なのでしょう。

自分の感覚を信じ切れず、「こうあるべき・・・だったっけ?」と、あっちにふらふら、こっちにふらふらしているわたしには、彼らのことがとてもまぶしいのです。

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040404 犬神家の一族。

昨夜、テレビで『犬神家の一族』を放映していました。お茶を飲みながら、ドラマならではの安そうなセットを眺めているうちに、そういえばそんな文庫本を父の本棚で見た気がする、と思い出し、探し出してきました。押し入れの中の、わたしの字で『文庫本』と書かれたミカン箱の中から、『犬神家の一族』は発見されました。その段ボール箱は、、引っ越してきて以来15年間一度も開封されたことがないと思われました。

怖い話だと聞いていたので、布団にくるまって読んだりしたら、これから2、3日は電気をつけっぱなしで寝る羽目になるのは間違いないと思い、テレビで『犬神家の一族』をやっているのを横目で見ながら、居間で読むことにしました。テレビから流れてくる会話や悲鳴をできるだけ耳に入れないように集中力を高めつつ、顔を上げたときにもテレビ画面が目に入らないように身体の向きを考えつつ、テレビに追いつけ追い越せと読んでいたわけです。できるだけ耳に入れないようにするくらいなら居間で読まなければいいのですけれど、両親とも居間にいましたので、そのほかの場所に移動すると一人になる=怖くなって途中で読めなくなる可能性が高いと計算したのでした。 結局、ドラマ終了後十分くらいで読み終わりました。

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推理小説ですから、ネタバレにつながる感想は控えます。代わりに、トリックに関わらないところで一言二言。

ここ一週間ほど、安部公房全集を読み続けていた身には、すべての事象が故意あるいは偶然で説明可能である推理小説という世界は、表面的にはおどろおどろしくても、ひどく爽快に感じられました。話の背景となる社会はずいぶん古風ですけれど、「それはないだろ!」とつっこみを入れる余地がなかった点、おそらく上質の推理小説なのだと思います。

安部公房はつっかえつっかえ読み進み、しばしば100ページも読まないうちに寝てしまったりしていたのですけれど、この『犬神家の一族』は2時間程度で一気に読めてしまいました。インテリのふりをしようとしても、エンターテイメント系のほうがおもしろいことは否定できない、ということなのでしょうか。

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040407 多少は治ってきたらしい。

春休みの間、精神的にちゃんと力が入らないような感じで過ごしてきました。春は少し苦手な季節ではあるのですけれど、今年の状態はいつもにましてひどいものでした。倦怠感で何もできない感じでしたから、本当に何もせずに過ごしていました。いつもは焦燥感に悩まされるのですけれど、焦る元気もありませんでした。

そんな1ヶ月を過ごして、やっと、だいぶやる気とか前向きとかそういう言葉が似合う感じになってきました。それに伴い、ちくっと焦る瞬間も出てきましたけれど、やり過ごせないほど苦しいわけではありません。ずいぶん元気になりました。

しかし、元気になったからといって特に生活が活動的になったわけではありません。コップの水が、コップが一杯になるまであふれてこないのと同じように、少しエネルギーをためてやらないと、動き出せないのだろうと思っています。やっと、先行きについてそれほど心配しなくてもよくなりました。一時はいろいろ疑心暗鬼になったものです。慢性疲労症候群じゃないかとか人格障害だったらどうしようとか。まさに医学生症候群でした。

もうすこし、エネルギーみたいなものを自分の中にため込んで、そうしたら、うまく動けるようになるんじゃないかなと思っています。

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040410 ジムに通い始めました。

身体を鍛えようと思って、ジムに入会しました。学生割引を使うとずいぶん安くすんだのです。スタジオとトレーニングルームとプールがあります。入会にあたっては丸2日悩みました。通うのは今日で3日目でした。

自己評価を上げるために有効な気がしたのです。体力をつけようだとか、やせようだとかいう目的ももちろんあります。

走るとか泳ぐとか筋トレするとか、一人でできる運動は今までいろいろ試してみました。でも、続きませんでした。「行きさえすれば」やるのならば、多少は続くのではないかと期待しています。また、定額制ですので、通うたびにお金を払わなくていいのは、敷居を低くする上で非常に有効でしょう。

トレーニングルームの前に体脂肪計付き体重計があります。体脂肪計が、予測はしていたとはいえなかなかショッキングな値をはじき出しました。しばらくはなるべく頻繁に通わなければと思っております。今年は5月半ばから臨床実習に入りますから、どれだけ通えるか未知数なのですけれど、とりあえず夏休みまで、できるだけがんばるつもりです。

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040411 飲み会にて。

昨日は飲み会がありました。ドクターストップで酒が飲めなかったため、日頃は考えもしないようなことをいろいろと考えるよい機会になりました。日頃はアルコールのために判断力・短期記憶が障害されており、たいしたことを考えることができませんから。

飲み会の席で、自分のことを話せといわれるととても困ってしまうことに気づきました。目の前の「この人」にとって興味深い話題なんて提供できるわけがないという思いがあるから、話してくれればどんな話だって聞くから、あなたが話してくださいという気持ちになるのでしょう。人見知りという言葉に集約することはできるのかもしれません。

身近な人に対しては、聞いてほしいことが浮かんできます。求められなくとも聞いてほしいからと話すことがしばしばあります。でも、身近でない人に対しては聞いてほしいことなんて浮かんできません。貴重な時間を割いて聞いていただきたいことなんてないのです。何か話さなければと思うとますます焦ります。

人の話を聞けとはちまたでよく言われることです。けれど、聞く一方で話さないというのもそんなにいいことではないのかもしれないなあと、思ったのでした。相手だって話題に困っているかもしれないのです。次からは、話題を提供すべくもう少し努力してみましょうか。

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040414 文句を言ってしまうタイミングの問題。

相手の落ち度によって被害を受けることがあります。被害が明るみに出たときにとるべき正しい行動は、これからどうするのがいいか考えることです。これまで受けた被害について文句を言うことではありません。しかし、実際には、文句を言ってしまうことがしばしばあります。問題が解決に向かおうとしているまさにそのタイミングで、これから改善に向かうのはわかっていながら、言ってしまうのです。

そういうときの自分の気持ちを分析すると、「つらかったっていうのをわかってほしい」ということになるようです。「こんなにつらかったのに、そのことを相手が知りもしないままこの話が終わってしまうなんて納得できない」と言えばより正確であるかもしれません。だからどうしてほしいというわけでは、ないのです。

しかしそういう、つらかったという事実を伝えられた方は、少なくとも一般的には不愉快ですよね。つらかったと伝えなくても自分の中で処理できるだけの強さみたいなものが求められているのでしょうか。それとも、上手な伝え方がどこかにあるのでしょうか。

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040417 責められていると感じるのは。

このところ、人前に出るとその場にいる人たちから非難されているような感じがしていました。そのような感じは不愉快なものですから、誰にも会いたくないと思っておりました。

ここ数日、たまたま学校が休みだったので暇な時間に、何か言われたのかと考えていました。何も、言われていませんでした。自分で自分にいらだっていて、そのいらだちのために自分を責めていて、それゆえに他人の言動がことごとく、自分を責めているように聞こえていたようです。

自分を責めても何も産み出さない、それはわかっているはずなのですけれど。責めてしまうのは、ひょっとしたら、現実を受け入れがたいと感じているから、なのかもしれません。

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