淡々としていなくもない日常。>日記・雑記目次 >2004年1月の日記

◆2004年1月の日記◆

040101 年賀状、初詣、そしておみくじ。

意外な人から届いた年賀状だとか年賀メールだとかに、ふと感動してしまいました。そうやってさりげなく送られるメッセージによって、誰かが自分のことを思いだしてくれていることを思い出して、危ないところを救われた人というのは、特に今日なんて日には、きっと少なくないのだろうと思います。

そんなことを思いながらも実はまだ、はがきの年賀状を一通も出していないのです。明日には投函せねばなりません。

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数年ぶりに初詣に行きました。行かなければ、という気がなんとなくしたのです。

祖母宅で年始の挨拶をしたあと一人で電車に乗って、少し遠くの神社へ行きました。6時で神社が閉まると小耳に挟み、走ってみたりしたのですけれど、そこまで急ぐ必要は、なかったみたいです。バイトの人たちは帰りつつありましたけれど、特に支障なく建物内に入れてもらえました。あくせくしなくてもだいじょうぶだよ、というメッセージなのかもしれません。

引いたおみくじは「向吉」で、いろいろたいへんだろうけど誠心誠意がんばってればいいことあるよ、という趣旨の本文が書かれてありました。新年のスタートに贈られる言葉としては、なかなかいいんじゃないかと思います。

行かなきゃ、という気がして行ったからには何か特別なことが起こるのかもしれない、と、心の隅で期待していたのですけれど、特筆すべき事件は起こりませんでした。今年・来年あたりが何かと節目の年になりそうなので、ここは一つ神頼みでもして、シャキッとしてきなさい、そういうことだったのでしょう。

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そんなわけで2004年です。今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

040102 裏日記、表日記。

時々、裏日記として綴られた日記を見かけます。裏日記と名乗っている日記のうち半分くらいは、表日記へのリンクが張ってあります。表から裏へは行けないけれど、裏から表へは行けるのですね。

表だっては言えないけど、「自分の意見」「自分の思い」としては知っておいてほしい、ということなのかな、と、想像しています。オフレコ発言を報道するような感じ、と言ってもいいでしょう。表で作った「顔」があって、作ろうと思って作ってるんだからそれでいいんだけど、そこに出てこない、あるいはそういう表の「顔」と相反するような側面ももちろんあって、時々、「こういう側面もあるのよ」と主張したくなる、その気持ちは、わかるような気がします。誰かにわかってほしいという気持ちは、たとえばわたしがこのサイトを続けている原動力の、一つでもありますから。

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わたし自身も、裏日記を、書こうと思ったことがあります。

裏日記を、このNokoが書いているとばれないようにするには、たとえば、ここで使っている「Noko」以外のハンドルネームで、できれば文体も、サイトデザインも変えて、このサイトのどこからもリンクを張ることなく、全くの別人として、書いてしまえばいいのでしょう。そういう手だては、探せばいくらでもあります。

しかし、「Noko」と切り離してそれを書いても、きっとそれは、わたしにとっては、面白くないだろうとも思うのです。今のわたしにとって、「Noko」と切り離してネット上に文章を書くことは、公開しないこととほぼ等価である、そう言ってもいいように感じています。

結局、裏日記は今のところ、作っていません。

040103 印象派展。

県立美術館の印象派展に行ってきました。11月からずっとやっている注目の展覧会なのに、まだ行っていなかったのです。

印象派の絵は、光を描いていると言われます。本当に画面が、明るいです。白っぽいものもありますけれど、白っぽくないものも、光がきらきらしているように見えます。あ、ここも光ってる、ここもだ、と、光に注目して描いていったら、そういう絵に、なるのでしょうか。

ほーら、世界はこんなに明るいんだよ、と、言われているような気がしました。

ルノワールの描く女性の幸せそうな顔も、よいですね。あの、握ったらずっしりと重そうな、まるまるとした腕の質感が、どうやったら出せるのか、本人が生きていてしかもわたしにフランス語が話せたとしたら、ぜひ尋ねてみたいところです。

帰りにふとミュージアムショップをのぞくと、よく目立つところに福袋がおいてありました。こういう店でも、初売りセール、なのですね。

040104 「いつでも、どこでも」ではなくて。

ちはるのblog研究の、とある過去ログを、MLで紹介してくれた人がいました。

「まあ、こういうことは、いつでもできるんだし、せっかくこんなにまとまった時間がとれるこのときに、無理してやる必要はないんだよね」なんて、ことあるごとに思ってしまうのですけれど、そういうことも、いつかはやらなければ、いつまでたっても片付かないのですよね。たとえば勉強とか。

気が向いたときにまとめノートを作る、というのを、去年の6月から続けているのです。先日3冊埋まって、今使っているのが4冊目だと、今日勉強していて唐突に気づきました。去年の成果としてカウントしていいかもしれないと、ささやかに喜んでおりました。いつだってできることの集合だけど、今すぐ全部書けるかと言われて書けるようなものではないよね、と。

040105 二人称の問題。

学校でわたしは、Nokoさんだの名字+さん付けだので呼ばれております。比率としては半々くらいでしょうか。

同級生から名字+さん付けで呼ばれると、『距離があるんだな』と、悲しくなります。名前の響きが気に入っているせいか、自分の名字が気に入っていないせいか、それともほかに理由があるのか、「名字+さん付け」というのが、ひどくさみしいのです。

わたしを「名字+さん付け」で呼ぶ人に対しては、心理的距離が縮まりません。そういう呼び方をする、というだけで、その人はわたしの中で自動的に、「遠い人」と位置づけられてしまうのです。

頼んで回ってはいるのですが、なかなか変えてくれない人は多いです。やっぱり距離があるのかもしれませんし、今さら変えるのが難しいという面もあるのでしょう。ネットではほぼ間違いなく「Nokoさん」なので、その点は非常に楽です。ちなみにNokoは本名です。

040106 変身願望に取り憑かれる。

先日から毎日化粧をするようになりました。下地を塗ってファンデーションを塗ってパウダーをはたくようになりました。まつげをビューラーでカールしてマスカラを塗ってまつげの間を埋めるようにアイラインを入れるようになりました。リップライナーで輪郭を取って口紅を塗ってその上からグロスをつけるようになりました。

髪にワックスをつけて整えるようになりました。明日にはたぶん、どうしてもはねてしまう襟足の髪を切ってくるでしょう。

昨日、メガネを変えるべく眼鏡屋に行き、ふちなしメガネを注文してきました。本当はコンタクトレンズにするのがいいのかもしれないのですけれど、ちょっとそれはわたしにとって目に優しくないので保留中です。そしてたぶん今月中に、服装だって変えてしまうでしょう。

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努力に見合っているかどうかはわからないけれど、それなりに効果は出ているのです。少なくとも自分の目には、今までよりはずいぶんましに見えます。

きちんとした格好をしていれば、「どうせ美しくないしそれはいいかげんな格好をしているからで自業自得だし」といういじけた根性の出番がなくなります。せっかくぴしっとした格好をしているのだからと、背筋も伸びます。

きっとそれはいいことなのです。でも、そうやって、いいことなんだよね、向上してるんだよねと、自分に常に、言い聞かせています。確認し続けずにはいられない気持ちがどこかにあるのでしょう。何かがどこかでひっかかっています。

行動に、気持ちがついてこれていないのかもしれません。それとも単に、ハイテンションに疲れてしまっているのでしょうか。

030107 もしも、金正日が。

夕食時、ニュースで北朝鮮の動向を放映していました。それを見ていた弟が、「この金正日が、もし、『冬のソナタ』の主演俳優、ペ・ヨンジュンみたいなものすごい美男子だったら、北朝鮮の状況は変わってたかなあ?」とつぶやきました。

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変わっていただろうと思います。金正日氏はちょっと、美男子とは言えません。独裁者として民衆の上に君臨している、あまり美しくない金正日というのは、不条理の象徴として外から見られていると、わたしは考えます。

これが、金正日が超美男子だったとしたらどうでしょうか。きっと、女性ファンがたくさん現われるでしょう。ファンクラブや、追っかけも出現するでしょう。おそばに仕えたいと望む女性も増えるでしょう。さらに、たとえば天使のような風貌だったとしたら、彼の理不尽さとか、よくない行動だとかが覆い隠されて、「そんな素敵な風貌の人が、こんなひどいことをするはずがない」という感情すら、見るものの中に呼び起こされるかもしれません。

どんなときだって行動だけで判断する、というほど、多くの人は、冷静でも何でもないと思うのです。アメリカの陪審員制度による裁判でも、身なりがよくてハンサムな人は、無罪になる確率が高いといいます。

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「でもさ、そんなに美男子だったら、金正日もちょっと人格変わったかもしれないよね」弟が言いました。なるほどそうかもしれません。しかしそもそも、歴史に「もし」はないのでした。

030108 民間療法の現実。

正月に、母方の叔父に会いました。彼は、肝硬変を患っています。

「Nokoちゃん、おじちゃんの肝臓のぉ、最近はいい薬があるんじゃけぇ。」

詳しく聞いてみました。「肝機能検査の数値がよくなる」漢方薬なのだそうです。1日3回、5粒ずつ。1年当たり18000円を銀行振込で支払うと、1000粒ずつ小瓶に入って毎月送られてきます。肝硬変の患者同士の口コミで広がっているといいます。担当の医者には、「もちろん」内緒です。飲むと、肝臓のダメージを示す数値の、GPTとかGOTとかが、劇的に下がるといいます。彼自身ももちろんですし、重度の肝硬変患者さんにおいても、それらの数値が劇的に下がったのだそうです。

「3桁が2桁になったんじゃ。結局病状を示すのは数値じゃけえ、数値がようなるということは効いたゆうことじゃろ?」

「ふーん、で、数値数値ゆうけどさぁ、体調はどうなん?数値がようなるにつれて劇的にようなったん?」

「いや、体調はようならん。でも、数値がようなるんじゃ」

「体調はようならんの?」

「ようならんねえ」

「でも、数値がようなるからええのん?」

「そりゃぁそうじゃ。数値だけでもようなりゃあの。そういうもんよぉ、Nokoちゃん」

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数値がよくなったら気分がよくなってそれにつられて体調がよくなる、という効果は期待できるのかもしれません。でも、少し不安が残ります。医者に「もちろん」内緒、というのも気がかりです。

「副作用とかだいじょうぶなん?なんか説明書とかついとらんの?」

「ついとるけど中国語で書いてあるけんようわからん。そういやあ、『劇毒物』という文字が書いてあったのぉ」

ますます心配になりました。今のところ、突如状態が悪くなった仲間はいないようなので、おそらくそんなに劇的に悪いことは起こらない、そう信じたいところですけれども。

「まあ、もし体調が逆に悪うなるようなことがあったら、すぐに医者に、その薬の件も含めて全部白状しんさいよ」

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叔父および周りの仲間たちが、不必要な健康被害を受けないことを祈るばかりです。数値というのは効果が目に見えてわかりやすいですから、あまり劇的な変化が期待できない慢性肝疾患の患者さんが、そういう「数値を改善する薬」に飛びつくのも、無理はないように思えます。体調がよくならないのに、と思うのはたぶん、わたしが当事者ではないからという面があるのでしょう。

それにしても。あと2年ちょっとしたら、わたしも、こういう「医者に『もちろん』内緒の『劇毒物』」との闘いを始めざるを得ない、ということなのでしょうね。なかなか、たいへんそうな仕事ではあります。

030111 コスメの魔法と部屋の掃除。

「コスメの魔法」というマンガがあります。年末、化粧品を揃えた帰り道にふと立ち寄ったコンビニで総集編を見つけました。冬休み中、弟とわたしの間に一大ブームを巻き起こしたマンガです。先週から、TBS系の昼ドラとしてテレビ放映もされています。

どういう漫画かというと、要するに、「人生がうまくいっていない女性が、主人公高樹礼子の勤める化粧品売場に現れ、高樹礼子のメイクレッスンを2週間受ける。その結果、女性はキレイになり、それをきっかけとして彼女の人生も好転する」というものです。メイクレッスンにはしばしば、たとえば部屋の掃除をしなさいといった、生活指導も含まれます。

一話完結のマンガですから、「いやそれはいくらなんでもうまくいきすぎではなかろうか」という話が多いわけですけれど、どこかで、「でも、そういうことってあるかもしれない」とわたしは思ってしまっています。「キレイになろう」という気持ちはそれ自体ずいぶん前向きなものです。そのために投資したり生活を整えたりするのはきっとよいことでしょう。そしてその結果、多少でも効果が出て、達成感や満足感、自信が得られたとしたら、人生が多少好転することがあったとしても、おかしくはないかもしれません。

先日から、高樹礼子のアドバイスに従って部屋の掃除に取り組んでおります。乗せられてるなあとちょっと恥ずかしいのですが、どっちにしても、掃除自体はよいことですから、まあ、かまわないということにしておきましょう。

030113 本を読む人・読まない人。

昔、中学入試の会場で、友人がいいました。「お母さんがね、本を読む人と読まない人とでは話の内容が全然違う、って言ってたの。本を読まない人の話は面白くないから、もう、本を読む人とだけ話をするようにするんだって」わたしが結局通うことになった中学校の、門を入って校舎に向かう途中、だったように思います。背景に、コンクリートの渡り廊下があったのを覚えていますから。

本を読む人の方が内面世界が深い。ずっとそう思ってきました。それは、読書にたいへん多くの時間を費やした自分への、自己弁護でもありましたし、たとえば本を読むわたしの両親・弟と、まったく読まない親戚一同を比べたときの、率直な感想でもありました。

しかし、最近会う人の中には、本を読むという習慣は持ち合わせていなくても、十分に深い世界を持っている人がいるように思います。何が彼・彼女をそのように育てたのか、と思い話を聞いてみると、どうも、彼らの生活には、他人に読ませる文章を書く、という作業が深く組み込まれているようでありました。

書くには、読むのとは比べものにならない集中が要求されます。公開する文章はとくにそうです。集中は学習効率を高めます。また、書くには緻密であらねばありません。そういえば、書くことで思考は鍛えられると書いている人がいました。そういうものかもしれませんね。

030114 臨床実習の目標。

臨床実習の目標を立てろという宿題があったのです。明日提出なのを、忘れていました。

「臨床実習が終了するまでに、自分がしておきたいこと・こうなっていたいということを、裁定5項目挙げてください。」と、プリント上部に書いてあります。

どうも、このプリントが返却されることはないようです。書いた目標を達成したかどうかを問われることはまずないでしょう。こういうときには、誰からも文句を言われようのない、当たり障りのない美辞麗句を並べておけば丸く収まるというのはよくわかっているのですけれど、せっかくの機会ですから、少しまじめに考えてみました。

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結局、考えついたのは、「教わることが上手になる」「毎日記録を残す、そのときポイントをはずさないためのフォーマットを作る」でした。

前者は、前々から思っていたことです。わたしは、好き嫌いが顔と態度にでてしまいやすく、つまり、嫌いな先生と敵対関係に入る可能性が非常に高いので、そこをなんとかコントロールして、あまりそりの合わない先生にも、できるだけ気持ちよく、多くのことを教えていただける、態度のよい学生にならねばならないと思っているのです。正しい表裏の使い方を身につける、と言ってもいいでしょう。

後者はつまり、せっかくやるのだからきちんと記録を取って保存しようということです。ただ、時と場合によってはかなり疲労困憊している・体調がよくない・時間がないという状況が考えられますので、短時間で、要点だけを記録する方法を手に入れねばなりません。長く書くのはいつだって得意ですけれど、多くのことが起こったときに書ききれないのではこの場合、ちょっと意味がありませんから。

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残り3つは無難に、「個々の患者さんについて、プロブレムリストが構築できるようになる」「基本的な検査所見の意味が分かり、また、説明できるようになる」「患者さんへの適切な態度がいかなるものかを理解し、実践できるようになる」といったところでまとめておきました。

040116 縫合の練習。

今日の午後は外科実習でした。

縫合の練習ということで、あちこちに糸が結わえ付けられたぼろぼろのスポンジを縫いました。わたしの脳は立体把握に問題があるため、長机の向かい側に座っていらっしゃる先生の縫合を一生懸命見ても自分の手でその動作を再現することができず、先生の隣に行って1度デモンストレーションをしてもらったあと自分が縫うのを見てもらい、再びわからなくなって隣の同級生に教えてもらってさらに彼の手元を横目で観察しながら自分でやってみて、もう一度先生に方法を聞いて、やっと普通の縫合を再現できるようになりました。

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帰ったら昼寝をしようと楽しみにしていたのですけれど、このまま寝ると手技を全部忘れてしまう自信があったので、台所の引き出しからタコ糸を取り出してマグカップの取っ手で糸結びの練習をし、それでも忘れそうな気がしたのでノートに方法を全部図解しました。

残念ながら「身体で覚える才能」には恵まれていないので、「手が覚えている」なんてことは期待できないと、身にしみてよくわかっているのです。その日のうちに絵を描いて再現するだけのマメさがあれば、きっとだいじょうぶ、でしょうか?

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外科にはたぶん進まないけれど、「あまり機械に頼らずに一人で何でもやってしまえるお医者さん」を目指しているわたしとしては、縫合くらいは自信を持ってできるようでありたいのです。

縫合の実技を含むテストが1ヶ月後にあります。それまでに練習する機会は、もう、おそらく一度も与えられません。しばらく、糸結びの練習を続けなければならないでしょうね。

040117 唐突に気づいたこと。

昨日の夜中、唐突にひらめきました。「そうか、変えられないことについて思い悩むから、しんどくなるんだ」と。そして、なんとなく、深く納得できた気がしました。

学校のカリキュラムが理想と程遠いからといって、文句を言っても始まらないし、その学校を選んだ自分を呪ってもどうしようもありません。あと10cm脚が長かったらといっても今さら伸びる可能性はありません。各種の才能にもう少し恵まれていたら、といっても、ないものはどうしようもありません。抹消したい過去を抹消することはできません。過去を今さら、色とりどりの美しい思い出で飾ることもできません。他人に変われと要請するなんて愚の骨頂です。

変えられないことがあるというのは昔からわかっていたのですけれど、それについて文句を言っても仕方ない、文句を言うな、という教訓を受け入れることがどうしてもできなかったのです。文句すら言わせてもらえないというのが、ひどく惨めに思えていました。ままならない現実を前に、「こんなの受け入れないから」と意地を張ることで、抵抗した気になっていたのでしょう。でも、見なかったことにしたからといって、現にそこにあるものが、消えてなくなってくれるわけではないのですね。あると認めた上で、対策を立てねばなりません。

文句を言うなんてのは、まったくもって、時間とエネルギーの無駄です。学校が頼りにならないなら学校以外に学べる場を探せばよいのですし、スタイルに問題があるならそのぶん服装などで工夫すればよいのですし、才能がないことは、自分にとってどうしても必要な分野に関しては、納得するまで努力すればよいのです。いつかは、自分の求めているレベルに達することができるかもしれませんし、そうはならないとしても、それなりに満足できる別の方法を見つけることができるでしょう。過去は受け入れるしかありません。他人は、遠ざかるか受け入れるかのどちらかを選ぶしかないでしょう。

たぶんひどくあたりまえのことなのでしょうけれど、わたしにとっては重要な気づきであったように感じます。これで少しはポジティブに、なれるでしょうか。

040118 一つの壁を越えたかもしれない。

いわゆる身なりを整えることに関して、ずっと引っかかっていたことがありました。声に出して自分以外の人に聞いてもらって、やっと、引っかかっているという事実を、認めることができるようになりました。

そうだ、身なりをきちんとしよう、そう決意する発端となった事象が、自業自得ではあるのですけれどそれでも、わたしにとってはずいぶんとショックなことで、たとえば化粧をするたびにそのことを思い出してしまって、化粧はした方がいいと鏡を見て納得していながらもそれでもなんだかポジティブになりきれなくて、きっといいことなんだ、なんだけど、ね、と、口ごもっていたのです。

そのいわゆるきっかけというものは、きっと忘れた方がいいのでしょうけれど、しばらくは忘れることができそうにありません。でも、いつかそう遠くない未来には、忘れることができそうだと思えるようになりました。そして忘れたころには、「だって当然でしょう?」と、迷いも葛藤もなく、自分なりにきちんとした格好ができるようになるのでしょう。昨日はこんなこと言えませんでした。聞いてもらう、頭ごなしの否定抜きに受け止めてもらうというのは、ずいぶんと心強いことなのだなと、あらためて感じています。

いずれにしても、ああまで「身なりをかまわない」ままではいられなかった、そう思えば、多少ショッキングでも、きっかけが与えられたというのはきっと、わたしのためになることだったのでしょう。

いろいろなことをきちんとするということが、「何も考えなくても自動的にできる」というほどに習慣化するまでには、まだしばらくかかりそうです。がんばります。

040119 スーパーお医者さんごっこ。

学校で、診察法の実習が行われています。できるだけ痩せた男性陣に患者役になってもらい、代わる代わる診察するさまは、「お医者さんごっこ」と言ってもいいものだと思います。聴診器など、使う道具は本物ですし、ちゃんと音を聞いたりさわった感じを確かめたりしていますから、「スーパーお医者さんごっこ」と、しておきましょうか。

例えば胸の診察では、まず上半身裸になっていただいて、それから、視診・打診・触診・聴診を行います。視診では手術痕やできものなどを探します。打診では、左手中指を患者さんの身体にぴったり当ててその指を右手の中指で叩き、音を聞きます。たとえば、直下が空気である肺の領域と、直下にずっしりした肝臓が入っている領域では、音が違います。ですから、肺と肝臓の境界がどの辺にあるか、打診で調べることができます。触診では、患者さんに「ひとーつ、ひとーつ」と唱えていただいているあいだに、背中に手を当てます。肺の、本来空気がある場所が例えば肺炎などで、液体その他で詰まっていると、背中に響く感じが違ってくるのです。そして聴診は、聴診器を当てて、呼吸の音と心臓の音を聞きます。

「聴診くらいならあるけどさ、打診とか触診って、病院でされたことある?」「ないない、だいたい、普通に医者行っても、されるのって聴診くらいだよね」「ここまでしてもらったら感動するかもね」マニュアル化されてはいても丁寧な診察法にいちいち感心していたら、現役のお医者さんに、「でも今はエコーとか、便利な道具がたくさんあるから、ここまではめったにしないよねえ」と、いわれてしまいました。

後日テストがあります。例えば、「胸の診察をしてください」と言われて、制限時間5分で上記+αの診察を行うのです。慣れればたった5分でできる、というのなら、本物の医者になっても、できるだけ毎回、ちゃんと所見をとりたいものだと考えています。そういう意味で腕の立つ医者になりたいなあと、わたしは思っているのです。

週末、よっしゃ修行だ、と、父を診察させてもらいました。「なんだか医者みたいじゃね」「だから医者になるための練習なんだってばさ」いい加減くすぐったがられて、なかなかたいへんでした。

040120 学校の授業で『Dr.コトー診療所』を観る。

今日は『医療管理学演習』と銘打った授業がありました。『Dr.コトー診療所』のビデオを見て、『医師に求められるコミュニケーション能力とは』を話し合うというのが課題でした。ビデオは、年始のスペシャル版を録画したもので、その中にでてくるDr.コトーともう一人の医師である三上医師を比べて、どこが違うのかを述べ、望ましい医師の対応を考えるのです。

Dr.コトーがよい医師の例で、三上医師はよくない医師の例でした。Dr.コトーは、どんな難しい医療行為でも奇跡的に成功させてしまいますし、積極的に島民の中に入っていってずいぶん仲良くなっていますし、なにより、ひたむきで素朴でいい感じの人です。それに対して三上医師は、島に赴任したばかりで自信もなく、うまくとけ込むことができずさらに自信を失うという悪循環で、引きこもりがちになっています。

たぶん、Dr.コトーが絶対的に正しい、でも、わたし自身はたぶん、三上医師のようなステージを少なくとも一時期は経験して、それから気を取り直して成長することになるでしょう。ああ、他人事ではないな、と直感して、どちらかというと三上医師を応援したくなってしまいました。そうして気がつくと、「そうだよ、三上先生診療所がひまなんだったら、ゆっくり話を聞いて、身体の隅々まで打診とか聴診とかしてあげれば、きっと仲良くなれるよ」とか、ずいぶん一生懸命考えていました。

040121 急進的禁煙運動。

今日の昼ご飯直後、学生の眠気がピークに達したころ現れた特別講師は、うちの大学の一期生でした。御年75歳、「老骨にむち打って」いらしたのだそうです。彼の話のタイトルは「医師としての心構え」で、タイトルから想像されるとおり、たぶん誰もがわかっている精神論を、90分間たっぷりとしゃべっておられました。しゃべり方が、引退勧告後の中曽根元総理に似ていたように感じました。

まあね、そりゃ真実だけど、言われなくてもわかることだよね、とぼんやり聞いていると、話は禁煙の話題にさしかかりました。彼は、各種の禁煙推進委員会の委員長をしているのだそうです。たばこは非常に健康に悪い、たばこで身体を悪くしている患者さんはたくさんいて医師は禁煙を勧めなければならない立場にあるのだから医師は絶対禁煙すべきだ、という内容でした。特に妊婦さんは絶対禁煙、喫煙なんて密室の殺人行為だとも、おっしゃっていました。

聞いているうちに話はどんどんエスカレートし、しまいには、「非行・犯罪に走る子どもの母親を調べるとほとんどが喫煙者で、母の喫煙が子どもを非行に走らせていると言える」という統計グラフが登場しました。「これはわたしが一般の方々に対して行った講演で使ったスライドなのですが」と誇らしげでした。「非行・犯罪に走る子どもの母親を調べるとほとんどが喫煙者」というところまではひょっとしたら事実かもしれませんけれど、「母の喫煙が子どもを非行に走らせている」なんてことは言えないはずです。禁煙、特に妊婦・母親の禁煙を推進したい気持ちは分かるのですけれど、だからといって根拠があるかどうか分からない話を持ち出して、喫煙者を不当に中傷するのは、ちょっと受け入れがたいものがあります。

彼は、「アメリカに行ったとき喫煙の害を説かれて納得して禁煙した」そうです。禁煙に成功した人は喫煙者に対して非常に厳しくなるといいます。今日の話は、その一例であっただけかもしれません。

040122 お医者さんごっこその2──眼底検査編──。

今日の午後は眼底検査の実習でした。眼底検査とは、瞳孔から光を入れて目の中をのぞき込んで、網膜の様子とか血管の様子とかを観察する診察方法です。眼科などで、丸いオレンジ色の写真を撮られたことがある方がおられると思います。それが、眼底の写真です。

といっても今日の実習は、眼底写真を撮る実習ではなく、眼底鏡という器具を使って、眼底を直接のぞき込む実習でした。薄暗い部屋に集まって二人で一本の眼底鏡を借り、練習開始です。医者役の目と眼底鏡の間が数センチ、患者役の目と眼底鏡の間も数センチ。端から見ていると、なかなか迫力のある検査です。

眼科で眼底を見るときには、多くの場合、目薬で瞳孔を広げ、のぞき込みやすくします。しかし今回は、「外来でちょっと見せてもらうだけのときには、目薬とか使わないよ」とのことで、目薬はさしませんでした。そういう目薬をさすと、目の焦点が合いづらくなるので、医者役と患者役が交代したときに練習にならない、という事情もあったのでしょう。しかしそうなると、光を当てることで瞳孔が小さくなりますから、まずそもそも、光が瞳孔にうまく入りません。3回交代の後やっと光が入るようになっても、今度はピントが合いません。さらに3回交代して、いいかげん目が疲れてきたころに、やっと血管が一本見えました。「先生、血管って、一本しか見えないものなんですか?この眼底鏡、視野狭いですし」「いいえ、見る場所を変えれば、いっぺんにいっぱい見えますよ」眼底鏡の責任ではありませんでした。結局、『いっぺんにいっぱい』は見えないまま、時間切れとなってしまいました。

患者役からすると、目の中に直接光を当てられ、暗いはずの瞳孔がオレンジ色になるほど照らされるるわけですから、非常にまぶしいです。一生懸命目を開いているので、目が乾きます。しかも医者役が慣れていないため、各動作にやたらと時間がかかります。というわけで、あきらめるなりしかるべき像が見えるなりして医者役が検査を終了するころには、患者役は、強烈な光の残像と即席ドライアイで、目に強烈なダメージを受けてしまっているのでした。

「こんなにしんどい検査だとは思わなかったよ」「手早くやればきっとそうでもないんだよ」「あぁ所見覚えなきゃだね」「見えたって喜んでてもしょうがないからね」「そういえば眼科以外でやってるの見たことないよ」「でも重要だとか言うよねえ」「やってるところもあるんだろうけどね」「あぁでもなあ、やっぱ自分で見えるに越したことはないよねえ」なかなか、修行の道は険しいようであります。

040123 精神状態と認知のゆがみ。

最近、手帳に、その日の精神状態を簡単に記録しています。何らかの規則的な変動が見られるならば、それ相応の対処ができるのではないかと考えてのことです。

20日ほどつけてみたら、プラスマイナスゼロの点を、ずいぶん躁状態寄りにとっていることがわかりました。『よろしくない』が非常に多いのですね。今まで「やや不安定」とか思っていた点が、たぶんゼロポイントなのでしょう。でも、そういう日でも、ちょっとよくないこととかあると少し機嫌が悪くなるくらいのことで、いいことがあればちゃんと喜べますし、友人や両親の前では、それなりに快活にふるまうことができます。

「まだまだこんなんじゃダメなんだよぉ」と、現状を否認していた面があるのでしょう。「明るくならなきゃ」みたいなプレッシャーがあって、「『ほんとうのわたし』は、もっと朗らかですばらしい人物のはずだ」と思いこもうとしていたのかもしれません。しかし、記録でいうところの『やや鬱』くらいなところが、たぶんわたしのスタンダード、なのですね。

その中で、できるだけ心穏やかに過ごすべく、たとえばやり残しをなくすとか、気づいたことはその場でできるだけやっておくとか、どうしようもないことはあきらめるとか、人にはできるだけ親切にするとか、そういうことを心がけながら生活していけばいいのだと思います。

040124 代理母について、わたしが今思っていること。

世の中は代理母出産の話で盛り上がっているようであります。代理母出産では、妊娠・出産は別の女性が行います。『遺伝上は血のつながった子ども』が、ほかの女性によって生み出されるのです。妊娠中、胎児と母親は胎盤およびへその緒(臍帯)でつながっていますから、ついつい、「血がつながっているのは代理母のほうじゃないのか」と言いたくなってしまいますけれども。

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男性は、子どもが生まれたあと、「自分はこの子の父親なんだよね」と、少しずつ確認していって、徐々に、「この子は自分の子だと、確信していくのだと聞いています。奥さんの産んだ子どもであることは間違いないにしても、「自分の子ども」なのかどうかは、今は鑑定とかいろいろありますけれどそれでも、なかなか確かめることができないからです。これに対して、女性は、「この子は自分の産んだ子よ」というのを、比較的確信しやすいです。取り違え事件が、過去には数件起こってしまったわけですけれども、それでも、基本的には、「お腹を痛めて」産んだ子だ、という実感は、あるのだと思います。

代理母に出産をお願いしたら、たとえばつわりだとか、お腹が重くて不便だとか、そういうことを自分で体験することはありません。妊娠経過は見守っているでしょうけれど、いわゆる自分が妊娠するというプロセスなしに子どもが出現してしまうというのは、女性にとっても、いわゆる『父親になる』のと同じような感覚で、子どもと対面するということなのかな、と思います。

世の中の父親の多くは立派に子どもを愛しているようですし、そうでなくても、養子という制度はこれまでほんとうに長い間行われてきて、ちゃんとうまくいっているわけですから、別に妊娠・出産というプロセスを経なくても、母親は子どもを愛することができるとは思います。

でもそれなら、養子でもいい、ようにも思います。自分の子どもだという確信が、お腹にいるとかそういう直接的なものではないにせよスタートにあるというのは、やっぱり、大きな違いなのでしょうか。そうであるかもしれないと、想像しようとするのですけれど、まだ、「わかる」ところまで来てはいません。

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子供を産みたいという気持ちは、わたしにもあります。出産経験はありませんので、実は産めない身体かもしれないという可能性も、もちろんあります。ほんとうに産めないとなったら、わたしはどうするでしょう。 子どもを持つということのオプションには現在、

というものがあります。どのオプションなら、ゆずってもいい、という気になるでしょうか?今は、「自分の卵子とパートナーの精子で、自分が妊娠するという条件のうち、一つでも満たされないならあきらめて、子育てしたいなら養子をもらう」ことを希望していますけれど、時間がたち、また、状況が変われば、考えが変わるかもしれません。だってたぶん、非配偶者間人工受精や代理母出産を行った人だって、それがほんとうに必要となるまでは、「それはちょっと」と思っていたのだろうと、考えているのです。せっぱ詰まっていない人にはなかなかわからない心の動きが、きっとあるのだと思っています。

「なった人じゃないとわからないよね」なんて言っていたら医者は務まらないわけですけれども、それでも、あんまり簡単に言い切るのも、少し危険な気がしているのです。

040125 螺旋階段のように。

昨年の4月から、とあるケーススタディー本を使って、同級生6人で勉強会をしています。ケーススタディーというのは、この場合、患者さんが外来にやってくるところから、診断をつけて治療を行うまでの経緯をなぞりつつ、診断の方法や病気の詳細を学ぶ、という意味です。担当者が予習をしてきて、患者役として医師役の問診や検査を受け付け、ほかのメンバーが医師役として、診断や治療を考えるという方法をとっています。たまに、担当者によるミニレクチャーや、テストが行われることもあります。

担当は6回に1回しか回ってこないので、自分が担当しなかった症例については、あとでケーススタディー本を読んでわからないことを調べるようにしています。

扱った症例が70を越え、そろそろ本の終わりが見えてきたところで、はじめから復習し直すことにしました。すると、数ヶ月のブランクがあるだけあって、当時情景が想像つかなかった診察方法や、何のためにやっているのか不明だった検査、わかんないけどもういいやと放り出した病態生理が、ほとんどわかるようになっていました。

一回勉強してよくわからなくても、しばらくしてもう一度見直すとよく理解できることがあります。もともとわかっていたつもりでも、はじめは見えていなかったつながりが見えてきて、さらによくわかる、ということもあります。

心がひかれるのならばいくらでも調べたり突き詰めたりすればいいのですけれど、そこまでできないときは、気楽にほっておいても、あとで戻ってくる限り、だいたいだいじょうぶなのだろうなと、少し気が軽くなりました。

040126 MRI体験。

今日は一日放射線科の授業でした。去年までは週一回の授業が半年間続いたという話ですけれど、今年は幸か不幸か、今日一日で終了です。最初で最後の、放射線授業でした。

午前中は放射線科の教官が入れ替わり立ち替わり、各種検査方法・治療方法の説明に現れました。X線、CT、MRI、エコー、血管造影およびその応用としての血管治療、放射線治療。各30分程度で、パソコンによるデモンストレーションを駆使しながらの授業でした。「えー、講義で一度聞いたと思うのですが」「先生、講義は一度も受けていません」「そうだったっけねえ、持ってきたスライドが高級すぎたかな、でもいまさらどうしようもないし」一度一通り授業を受けるなり教科書を読むなりして十分な予備知識があれば、まとめとして有用な講義であったのでしょうけれど、ほとんど真っ白なところにいきなり次々詰め込まれるというのは思いのほかしんどい体験でした。

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午後は実習と称し、大学病院の放射線科を訪れました。CTの説明と各種血管造影の説明、MRI体験がその内容でした。CTと血管造影については、器具をちらっと見て写真を次々見せられ、これがどの病気でどういう撮影方法、と聞いているだけだったのですが、MRIは少し違いました。

MRIは磁場を使います。使っている磁場は、MRIのスイッチが入っていないときも部屋の中に充満しています。金属製のもの、例えば聴診器を、機械に近づけると、ものすごい力で引っ張られます。聴診器のベルの部分を持ったまま近づけたら、それでも引っ張られて、ゴムの部分がピンと張りました。聴診器を白衣のポケットに入れたまま、患者さんをMRI室に連れてきたりすると、MRIの機械に入った患者さんめがけて聴診器が飛んでいき、傷害事件に発展することがあるのだそうです。さらにまずいのは点滴台やふつうの(MRI用ではない)ストレッチャー、車椅子、酸素ボンベで、患者さんが外傷で死亡したり、機械が修復不能なまでに破壊されたりするといいます。ちなみに機械の値段は数億円です。

「MRIはCTに比べ、被爆がないから安全、といいますよね。でも実際には、MRIのほうが断然危険です。CTで患者さんがけがをしたり、そこで亡くなったりということはまずありえませんけれど、MRI室で飛んできた酸素ボンベにぶつかって亡くなった患者さんは実在します」

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学生が一人、頭部のMRIを撮ってもらえるということだったので、迷わず立候補しました。うるさいですからと、耳栓を渡されました。横になると顔に、格子のようなものが下りてきました。動くな、というメッセージなのでしょう。ナースコールめいた物体を渡されました。ベッドがスライドして機械の中に入りました。ドンドンとかガチャンとかジーッとか、この機械壊れているんじゃなかろうかと不安にさせる音に取り囲まれました。目の前に鏡があり、ほかの学生の姿が見えました。彼らは、しばらくすると去っていきました。身動きできないってしんどいなあ、いい加減瞬きしたけど大丈夫かなあ、ほかの学生にはわたしの姿が見えてるんだっけ、と考えているうちに、再びベッドがスライドして、わたしは機械から出てきました。隣の部屋で、拡大表示された画像を見る限りでは、わたしの頭の中には、今のところ特に問題となる病変は存在していないようです。入っている時間は意外と短かったです、と先生に告げると、今日の検査は解像度を落としてるから早いんだよ、だいたい4分くらいだね、という答えが返ってきました。病気の方を診断するときには、だいたい10分から15分はかかるのだそうです。

解剖学からこのかた、人間の内部構造についてずいぶん学習してきました。でも、自分の中に同様の形の脳その他が詰まっているというのはどうしても実感がわかなかったのです。今回写真を撮られて、脳のしわなど内部構造を確認して、はじめて「わたしの中身も今まで習ってきた解剖学の知識に沿ったものなんだ」ということが実感できた気がします。なかなかおもしろい体験でした。

040127 迷うってしんどい。

4月いっぱい、基礎配属実習という期間になります。基礎系の研究室に所属して、実験なり手伝いなりを体験してみる期間です。研究室によっては「週休6日」だと、聞いたことがあります。

それぞれの研究室には定員があります。すべての研究室の定員を足しても、なぜか医学科4年生の数より少ないのですけれど、そこは個別に頼み込めということでした。

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というわけで、どこの研究室に行くか、選ばねばなりません。ここ数日の医学科4年は、基礎配属実習=通称「基礎配」の話題で持ちきりです。

各種のことをさくさく決めていってしまうわたしなのですが、今回は少し迷っています。いわゆる「実験室で精密実験」の研究室にするか、「標本を染色して切り出して写真を撮ってスケッチ」の研究室にするか。前者は、理学部時代やっていたことに近いです。近いからやるのか、近いからやらないのかはなかなか難しい問題ですけれど。「とても楽しかった」という先輩の言葉を思い出し、前者にして希望を出したら、メンバーが気の合う人たちのようでした。ですから、「縁があるのだろう」ということでそのままそこに決めようかと思っていますけれど、まだ決めかねています。

迷うってしんどいですね。迷い出すと無限ループです。キリがありません。「某研究室以外なら、まあ、きっとやっていけるよね」なんて公言していますけれど、それも一つの本音ではありますけれど、やっぱり迷っています。決定が出る=他動的に決められるのを待っているような状態です。たぶんそのまま、今一応の希望を出している研究室に決めてしまうのでしょうけれど。

040128 やってしまった。

風邪のためかぼーっとした頭で、実習に向かいました。ちょっとしたことが気に障って、担当の先生にかなり失礼な態度をとってしまいました。まずいな、と、その直後に思ったのですけれど、気づいたときには時すでに遅しで、どうしようもありませんでした。まずいな、と思ったまま実習が終わってしまいました。答えられるはずのない質問ばかりわたしに回ってきたのは、きっと彼を怒らせたからだったのでしょう。

悪いのは100%わたしだ、というのはよくわかった、つもりです。しばらくはしんどい思いをすることになるのでしょう。何かが気に障ったとき、気が合いそうにないと直感したときに、口をつぐむ練習を積まねばなりません。少しはできるようになったと思ったのに、調子が悪くなったとたんにこれでは、ほんとうに困るのです。頭ではわかっているつもりなのですけれども、まだまだ、身についてはいない、ということになるのでしょうね。

・・・自分を責めて無限ループに入ってもまったくもって仕方がないので、今日の件と教訓を手帳に書き付けて、これ以上はなるべく悩まないことにします。今日から気をつければ、これからはきっとマシになっていくでしょうから。

040129 お医者さんごっこその3――医療面接その1――。

今日の午後は、模擬患者さんとの医療面接でした。模擬患者さんを相手に、医者見習いとして、初診の設定でお話をする、というのが内容です。制限時間は5分。「では、○○さん、どうぞ」とドアを開け、迎え入れるところからはじめます。

はじめの模擬患者さんは男性で、朝から寒気と吐き気がする、とのことでいらっしゃいました。経過が短く、「いつもはこのくらいなら病院に来ないけど」ということだったので、早々と話が終わってしまいました。仕事がフリーライターだというのも聞いたし、明日が久々の休みだということで旅行に行くから薬がほしいというのもわかったし、昨日飲み過ぎたというのも聞いたし、朝ご飯は食べることができたみたいだし、吐き気だけで実際に吐いてはいないようだし・・・話をまとめて繰り返して、何か言い残したことはないですか、と聞いて、なさそうだし、さてどうしようかな、と思っているうちに終了、でした。「5分は短い」はずなのに、です。後から考えれば、寒気がしているのなら熱がでているかもしれないとか、吐き気があるのなら腹痛や下痢などもあるかもしれないとか、聞くべき症状はたくさんありました。薬を出してほしいというのなら、薬のアレルギーも聞くべきでした。いざ自分が医者役になると、これまで勉強したはずの知識が全部どこかへ飛んでいってしまっていたのでした。他人の医療面接を聞いていると、考えられる疾患やこれ以降聞かなければならないことが、次々浮かぶのですけれど。

「流れもよく、話しやすかった。清潔感があってよろしい」とのことだったのですけれど、早口だったとか相槌が過剰だったとかいう意見も出ました。自分自身の反省としては、どのような病気があるのかを含めた、患者さんの状況を想像する努力が必要だな、というものがあります。流れに沿って聞きさえすればいい、というものではないからです。

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うちのグループでは一人欠席者がいたので、枠が余ってしまいました。なので、志願して、もう一度やらせていただきました。しかしその話は長くなるので、明日に回します。

040130 お医者さんごっこその4――医療面接その2――。

うちのグループでは一人欠席者がいたので、枠が余ってしまいました。なので、志願して、もう一度やらせていただきました。今度は、腹痛を訴えている女性の患者さんでした。腹痛の起こる間隔がだんだん短くなっているので、受診を勧められて来た、とのことでした。

まず座っていただいて、ドアを閉めて、今も痛いですかと聞いて、横にならなくていいですかと気遣って、よしよし、なかなかうまくいっているぞ、と、はじめは調子がよかったのです。病気は、痛む場所、痛み方、食事との関係から考えて、胆石であると思われました。おっ、早々と、診断までついてしまった。すばらしい、と、一人で内心喜んでいました。

ここまではよかったのです。

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おぉそういえば日常生活にどの程度支障がでているか聞かなくては、と思って、仕事をしているかどうかたずね、仕事はしていないが家事ができなくて困る、家族も心配していますしね、との答えを得ました。「そうですよね、ご家族に病院行けって言われたんですよね」これがまずかったです。「いえ、家族じゃないんです」しまった、と思いました。こういう決めつけは危険です。何気なくこちらの「当たり前」という「思いこみ」が伝わって、患者さんを不当に追いつめる可能性があります。それはわかっていた、はずなのに。

真相は、いとこが胃ガンになって、その初期症状がこの方の症状と似たようなものだったので、そのいとこに精密検査を勧められた、とのことでした。あー、さっき胆石って思ったのも決めつけだったかもしれないなー、胆石だという前提で質問組み立てたかなー、一瞬のうちに、「まずかったかもしれないコール」が頭の中をぐるぐる回りました。一度気にし出すとあっちもこっちも気になって、「あぁ、『それは心配ですね』ってこれが何回目だっけ?よけい不安にさせてるかも」「なんだか心配そうだよ、表情暗いよ、どうしよう」「えっと、胆石以外の可能性で聞き忘れたことは?そんな可能性なんてあるのか?」すっかりパニックです。パニックから回復する前に、5分間は終わってしまいました。

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わたしは日頃普通に会話しているときでも、相手の言葉を先回りしてしまうことがしばしばあります。勝手にストーリーを組み立てて、「こういうことでしょう?」と、やってしまうのですね。せりふをとってしまう、ともいいます。

こんなところで、いや、こんなところだからこそ、日頃の癖が出てしまうのでしょう。これは日頃の態度の方を、まず直さなくてはいけません。考えてみれば、日頃から、人の話をきちんと聞いているとはとても言えなかったり、するのでした。

「こんなところで」気づけたことはきっとよかったのでしょうけれど、それにしてもけっこう憂鬱です。

040131 言葉が軽いということ。

医療面接実習の前に、グループディスカッションの時間が設けられました。「診療の際に、医者として目指すべき目標を立てなさい」というものでした。斑ごとに、キャッチフレーズも作るのだそうです。担当の先生はこの形式がお好みのようです。

当然、患者さんの話をよく聴くだとか身なりをきちんとするだとか患者さんを人間として尊重するだとか、耳に心地よい言葉が並びます。少なくとも先生の耳には、心地よいと思われます。

「どの言葉も、軽いよね」クラスメイトの一人が言いました。「だって俺ら臨床に出たことってないわけだから想像で言うしかないじゃん、だからじゃない?」後ろに座っていた男の子が言いました。

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臨床に出た経験がなかったら即軽い言葉になるかというと、そういうものではないだろう、と疑っているのです。それまでの人生において考えたこととか、体験したことは20数年分蓄積されているはずで、それをこまやかに織り上げることさえできれば、きっと軽くはならないでしょう。

結局、とりあえず形だけ整えればなんとかなるわけで、その結果、耳障りがよいから、当たり障りがないから、不正解になりようがないからという理由だけで、言葉が選ばれています。だから軽いのでしょう。そのレベルしか求められていないのですから、そうなるのは当然なのですけれども。


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