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◆2003年10月の日記◆

031002 はり・きゅう・マッサージ。

友人の誘いに乗って、マッサージに行きました。

どこも、困るほど凝ってはいなかったのですけれど、すごく効くよ、と再三言われて、どんなところか気になったので、ついていってみたのです。わたしの家から、歩いて3分もかからないところにあるのです。外から見ると、看板があることを除いては、普通の家にみえました。

入って、問診票を書きました。カルテ形式になっていました。どうされましたか、と聞かれて、肩が凝ってます、と答えました。パソコンの使いすぎが原因なことは百も承知で。

じゃ、そこに寝てください、といわれた台には、縦にスリットが入っていました。そこに鼻を入れて、うつぶせに寝るのです。うつ伏せから横向きになって、それから仰向けになりました。この順番なら、気まずさが少ないですね。たぶん、マッサージの理論にしたがって、順番は決まっているのでしょうけれど、世間話をしながら、だんだんリラックスして、という意味でも、なかなか理にかなっていると思いました。

首の右側と左肩と右の腰が、凝っているといわれました。からだがバランスを取ろうとして、交互に凝るのだそうです。確かにわたしは、しばしば傾いて座っています。

全部で、1時間くらいだったでしょうか?肩も腰も、軽くなりました。マッサージ理論がどうとかよりもむしろ、「手を当てる」ことに、治療効果があるのかもしれません。「手当て」の語源は手を当てることだと、聞いたことがあります。時間をかけて話をして、触る、なんていうのは、現代医学にはなかなか登場しない場面ですけれど、そういうのも、優しくて、いいなあと、思ったのでした。

031003 理想化と尊重と許すということと。

昔は、他人をもう少し理想化していました。「いろいろままならないわたし」と「何でもそつなくこなして常に正しい他人」という対比が、わたしの中で標準になっていました。他人というのは、わたし自身以外の人間一般をさします。

このように書くと、いかにも他人を尊敬しているかのごとくに聞こえます。しかし、実際は、決してそんなことはありませんでした。他人に完璧であることを当然のこととして求めていたのです。そして、完璧ではないことが発覚すると、その事実を無視してみたりヒステリックに怒ったみたり、よくわからない理屈で自分が悪いせいにしてみたりして、「完璧である他人」のイメージを保とうとしていました。そういうのを尊敬・尊重とはいいません。わたし自身、他人を尊敬しているのだと、勘違いしていましたけれど。

わたし自身だって、正しくあるのが、とても難しいことがあります。たぶん、他人にとっても、正しくあるのが難しいときはあるのです。抽象的な他人、どこかの誰かを、想像の中で許すことは簡単で、目の前の他人を許すことはときに難しいけれど、それでも、許せるようになりたい、そう思いました。

031004 進歩の確認。

学校の授業で、症例を検討する機会がありました。「これこれこういう患者さんがこういう事情で病院に来ました」という内容のプリントをもらって、そのプリントに書かれている患者さんの病名とか診断方法とか治療法とかを、考えたり調べたりするのです。

考えたり調べたりしたことについて、レポートを書きました。提出義務はありません。書けといわれたわけでもありません。でも、ちゃんと形にしないと、せっかく考えたり調べたりしたことが、頭からいつのまにか跡形もなく消えてなくなってしまいそうなので、たいていは、書くことにしています。

そう言えば昔扱った症例の中に、似たような病気があったなあ、と思って、レポートを閉じてあるバインダーを引っ張り出しました。約一年前に書いたレポートが発掘されました。これだこれだ、きっと何か参考になるだろう、と、中を見てみると、今のわたしにとっては、調べたり考えたりしなくても「当然」として頭に入っていることばかりが、得々として述べられているばかりでした。明らかなまちがいもいくつか、発見されました。

なーにやってんだか、とつぶやいて、でも、たぶん当時は、これが精一杯だったのだな、と思いなおしました。きっと、成長したということなのでしょう。

もちろん、単に講義を聴いたり教科書を読んだりするだけでも、それなりに知識や考え方というものは身につくのでしょう。けれど、こうやってレポートをほぼ毎回書いて来たことも、わたしが医学を学ぶ上において、きっと何らかの貢献をしてきたのだろうと思うのです。

知識を増やしたからってだからどうしたんだと、ときに思います。必要以上にかっちりと、いわゆる課題をこなしてしまう自分に、いや気がさすことはほんとうにしばしばあります。それでも、こういう積み重ねがあって成長してきたんだな、と思えるのは、やっぱりうれしいです。

031008 それがきまりというものかな。

わたしは現在、ほぼすべての授業に、遅刻・早退することなく出席しています。あたりまえだろう、とおっしゃる方は多いと存じますけれど、そんなにあたりまえではありません。出席をとらない講義では、とくに先生の評判がよいなどの事情がない限り、出席している人は6割程度です。もちろん、変動はあります。

ときに、きちんきちんと授業に出席してしまう自分が、ひどくつまらない人間のように思えてきます。授業に出てこない人たちが、授業より何倍も有意義な時間を過ごしているような気がするのです。焦ります。「こんなにきちんと授業なんかに出ているようでは、まともな医者にはなれない」なんて。でも、だからといって、なかなか、休むということもできないのです。なにより、授業時間に、授業以外の用事がありません。正当な理由なんて、転がっていないのです。

今日、ふと、これは自分が決めたことなんだから、他人のことはとりあえずいいじゃん、と思いつきました。もちろん、実家住まいだからそうそう学校は休めないとか、きっとだらだらしてしまうからとか、そういう理由もあるのですけれど、結局、行くというのは、前回の大学生活の反省を踏まえて、自分が決めたこと、なのですね。そういえば大学入学時に、授業はきちんと出るというきまりを、自分に課したのでした。

いまわたしは4年生です。これから何回講義があるのか、カリキュラム改革中でよくわからないのですけれど、きっと、そんなにたくさんの講義は残っていないでしょう。なるべく心穏やかに、過ごしたいものだと思っています。

031009 白い巨塔。

今日は、「白い巨塔」の第一回目でした。現代的な建物と旧態依然の中身が、同居している感じでした。原作が書かれたのが30年前ですからね。製作スタッフは、きっと苦労したことでしょう。

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今日の話のポイントは、「外科の、優秀な助教授である財前が、自分が手術すれば助かるとわかっていて、一度は引きうけた膵臓癌の患者を、医学部長の見落としにからんだケースだからと断った」ことにあるのでしょう。自分で告知して、手術すると宣言していながら、です。

この場合、誰が責められるのでしょうか。財前でしょうか。それとも、財前に、断ろうと判断させた、教授の皆さんがたでしょうか。見落とした医学部長がいけないのでしょうか。見つかったのがむしろ、ラッキーだった、という設定だったみたいですから、格別、ミスだミスだと騒ぎ立てるような事態ではなさそうです。

財前が悪い、と言い切るのがたぶんいちばん簡単なのですけれど、たとえば苦学生で、教授を目指してこれまでがんばってきたであるとか、教授にもしなれなかったら大学には多分非常に残りづらくて、となるとたぶんやりたい研究もままならなくなるかもしれないという事情とか、「来年は教授になるからね」と、田舎のお母さんに報告している姿とか、お母さんの喜んでいる姿とか、そんなものに思いをはせると、一概には、責められないような気も、してくるのです。ぜんぶ捨ててしまうことが、求められて、いるのでしょうか?そんなこと、患者さんの命に比べればどうだっていい、それはきっと正論なのです。だけど。

だったら悪いのは教授なのでしょうか。教授の人間性がいけないのでしょうか。それとも、いけないのは、医局というシステムなのでしょうか。

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こういう問題は、きっと、医学界でなくてもどこででも起こりうるはずです。

正論を貫いた人の中には、正論を貫こうとしたがゆえに追われてしまった人も、とてもたくさんいるのだろうと思います。正論を貫けなかった人も、やはりたくさんいることでしょう。そしてそういう中で、ぎりぎりの戦いをしている人は、今この瞬間にだって、きっとたくさんいることでしょう。でも理想を貫くのが当然だろ、と言うのは簡単、ですけれど、そういう戦いが存在することを、想像することくらいはできたほうが、強く、優しくなれる気がします。

このドラマが、「だから財前はいけない」「だから医者はいけない」「だから医局はいけない」じゃなくて、「そんなぎりぎりのところで戦っている人たちが、日本には、医療界だけじゃなくて、たくさんいるんだよ」というメッセージを、見ている人に伝えるようであればいいなあ、と、願っております。

031011 ダイエット心理。

週間文春に、中村うさぎによる「ショッピングの女王」という連載があります。10月9日付のタイトルは、「ダイエットは、快感だった」というものです。マイクロダイエットとやらを、試したのだそうです。

ダイエットを始めて一週間ほど経った頃から、女王様は、他人が目の前で食事するのを見て快感を覚えるようになった。自分は空腹なのに、他人が、いや、女友達が目の前で飯を食っていると、うっとりするほどの優越感に浸れるのだ。
「おまえは、食え。食って食って、太ってしまえ!」

このくだりを読んで、自分が摂食障害だった頃の精神状態を思い出しました。似たような心理を、抱いていた覚えがあります。どこか、ゆがんでいる気がします。自分が我慢していることを正当化するための、論理なのでしょうね。

太った女に対していちばん攻撃的なのは、ダイエットに成功した女だと、聞いたことがあります。これも、似たような心理なのでしょう。

我慢に我慢を重ねてがんばる、というのは、時としてとても尊いことです。でも、そうしない・そうできない人に対して、寛容さを失ってしまうというのは、見ていてあまり美しくはないものです。自分の価値観を外から振り返るくらいの余裕は、常に持っていたいものだ、と、願っております。

031012 智内兄助展。

智内兄助展に、行ってきました。坂東真砂子の小説(角川文庫版)の表紙や、宮尾登美子「蔵」の挿絵を、描いた人です。

初めて訪れる美術館でした。新しくてきれいな建物でした。受付で入場券を買うと、係の人が、今日は智内先生来られてますよ、図録を買えば、サインしていただくことが可能ですよ、と、教えてくれました。図録を買って、サインしていただいて、二言三言言葉を交わしました。「ずっとファンだったんです。見にくることができてうれしいです。」ラッキーでした。

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智内兄助の絵を、とある本で初めて見てから、もう、7年か、8年になります。しかし、実物を見るのは、今回が初めてでした。

非常に細かい絵です。緻密に緻密に、書き込まれています。基本的にはアクリル絵の具、しかし、鉛筆とアクリルの併用、また、コラージュの利用も、ときどきみられます。よく見たら何かの書類のきれはしで、羽幌なんて書いてあって、ちょっと笑ってしまいました。土らしきものが貼りつけてある絵も、ありました。

たとえば着物の模様だとか、たとえば曼荼羅だとかの細かさ・正確さよりも、もっと魅力的なのは、女性、とくに女の子の顔です。よくもまあこんなに神々しく描けるものだと感心します。

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ゆっくりゆっくり二周して、帰りにちょっと本屋に寄って、電車に乗って帰ってきました。よい休日でした。

031013 甲斐バンド。

テレビを見ていたら、甲斐よしひろが、「安奈」を歌っていました。

わたしは幼い頃、父の車に乗ると必ず、ラジオだかカセットテープだかに合わせて、甲斐バンドの「HERO」を歌っていたのだそうです。

ずっと後、中学生くらいになって初めて、甲斐バンドのCDを見かけました。そのときに、「甲斐バンド」の表記を知りました。それまでは、「怪ばんど」だと、信じていたのでした。「なんで甲斐なん、武田信玄?」と父に尋ねて初めて、ボーカルが甲斐よしひろという名前だと、知りました。

わたしの部屋のどこかに、その時ダビングしたテープが残っているはずです。三つ子の魂百まで、なのかどうかは知りませんけれど、「安奈」や「HERO」を聴くと、今でも、ひどく懐かしい気持ちに浸れるのです。

031015 敬語の使い方。

新聞に、某芸大某教室卒業生絵画展覧会の広告が載っていました。出品者は、卒業生とそこの教官です。

教官には、○○先生、と、敬称がついていました。卒業生には敬称がついていませんでした。

この広告は、卒業生が出したものなのでしょうか。とすると、ある意味身内である教官を、身内ではない新聞読者に向かって○○先生と紹介するのは、正しくないように思えます。外に対しては、へりくだるのが敬語の正しい用法ではないでしょうか。

新聞社あるいは画廊が出したものだとしましょう。作者に敬意を表すためならば、絵を書いた人間全員、つまり教官と卒業生の両方に、何らかの敬称をつけるのが妥当だと思われます。これでもやはり、正しくありません。

いずれにしても、何かがおかしいのです。おそらく、卒業生が、思わず絶対敬語で広告を出してしまったものでしょう。上下関係厳しいんだろうなあ、と、つい、想像してしまいました。

031016 夜中の手紙。

サイトを読んで共感して、管理人にメールを書くことがしばしばあります。そのとき、余計なことを書いてしまうことがあります。3度目くらいのメールに多いです。ちょっと慣れてきて、ちょっと込み入った話もする気になって、のあたりです。仲良くしたいと思っている相手に限って起こります。

送信したあと、たいていは次の日の夜に気づいて、訂正あるいは取り消しのメールを送るか否か、悩むことになります。重ねてのメールが恥の上塗りになる可能性は大いにあります。わたしが恥を重ねるだけならまだしも、失礼に失礼を重ねるのだけは避けたいです。その結果、数日間は悩むことになります。

問題のメールを削除することがあります。フォームメールで、送信内容のコピーが送られてこないことに安堵することがあります。臭いものに蓋の発想です。なんの解決にもなっていません。

いろいろ考えて結局たどり着いた結論は、「とりかえしは、つかない。」でした。これからは、せめて一晩寝かせてから送ることを、自分に義務付けることにします。

031017 タイミングがあわない。

いきつけの美容院になかなか行けません。

さあ時間が空いた、行ってこよう、と思ったら定休日、先週は担当の方が肩を骨折、今日電話をかけたら今日は早めに店をしまうとのこと、学校が終わってからでは、とても間に合わないのでした。

明日はスーツを着る用事があるので今日のうちに髪を切っておきたかったのですけれど、ここまで来て別の店に行くのもしゃくにさわるので、明日用事が終わってから電話で予約をとってそれから行こうと思います。

昔は店が家から歩いて3分の位置にありました。今では自転車で20分の位置に移転してしまいました。ほんとはそこまで義理立てしなくてもいいのかもな、と思いつつ、義理立てしないほどの理由もないので、通いつづけています。がんばって通ってるんだから、タイミングくらい合ってくれてもいいじゃない、と、理不尽なことをつぶやいてみますけれど、それはやっぱり、理不尽なつぶやきにすぎません。

明日もタイミングが合わなかったら。そうなったらさすがに、あきらめることにしましょうか。

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追記。031018に、髪は無事切ってきました。

031018 BCLSをマスターしよう。

今日の午前中は、消防署でBCLSを教えてもらってきました。BCLSとは、basic cardiac life supportの略で、一次救命処置のことです。運転免許をとる時に行う心臓マッサージと人工呼吸が、それにあたります。

土曜日にわざわざ出かけた理由は、11月にある学祭のためです。学祭の企画で、来訪者にBCLSをやってみてもらう、というものがあるのです。そこでインストラクターを務めるため、まずは自分たちが、ということで、講習を受けに行きました。

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BCLSというのは、こんな感じです↓

実習は、人形を使って行います。人形の名前はアンといいます。17才のフランス人女性なのだそうです。

人が倒れているとします。車などがこないことを確認した上で、「大丈夫ですか!」と声をかけ、肩をたたきます。最初は小声で、徐々に声を大きくします。

これで反応しない場合、まず、通行人に、「そこのあなた」と呼びかけます。だれか、ではだれも寄って来てくれないのだそうです。「倒れている人がいます。意識がありません。心肺停止の可能性があります。119番に連絡して、すぐに戻って来てください」と伝えます。

うつぶせになっている場合、仰向けにひっくり返します。首を必要以上に回さないのがポイントです。そして、できるだけ前をはだけます。顎を挙げて気道を確保します。確保できたら呼吸を確認して、なければ鼻をつまんで口から息を吹き込み人工呼吸2回。循環を確認して、なければ胸骨を圧迫する心臓マッサージ15回と人工呼吸2回を交互に4回繰り返し、再び循環を確認します。これを、救急車到着まで続けるわけです。

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今日は、わたしたちを連れてきてくださった先生の話では見学ということでしたけれど、インストラクターの方が、わたしたちも実習にまぜて下さいました。免許の時と合わせて3回目の講習で、さすがに覚えることができたような気がします。

しかしこれはまだまだ、「一般の方にもできるようになってほしいレベル」でしかないのです。プロへの道はまだまだ遠いのでした。

031019 伝言ゲーム。

友人Aと話していたとき、共通の友人Bの話になりました。

「Bって、結婚を焦ってる感じだよね」と、Aが言いました。わたしはびっくりしました。ぜんぜん知らなかったのです。わたしがそう伝えると、彼女は、わたしもその場にいたではないかと言います。あぁあのときか、とその場を思い出してみました。わたしが聞いたことを要約すると、「人生真面目に計画しなきゃいけないなあ」だったのでした。「結婚の話は、別の人の話じゃなかったっけか」「そうだったっけ?」B本人は、まったく違うことを思っているかもしれません。

これこれの場で誰々がこのように言っていたよ、という話が、本人のいない場で話題になることはよくあります。わたし自身もしばしば話に出します。しかしこれは、不正確である可能性が非常に高いのですね。まず、わたしの理解が正しいかどうかがわかりません。その場で正しく理解しても、正しく記憶しているかどうかはまた別の問題です。さらに、それを第三者に伝える際に、細かいニュアンスが抜け落ちる可能性は大きいです。

裁判の際にも、伝聞は証拠としての価値が少ないと判断されるのでした。できるだけ、おおもとの情報に接する労を惜しまない心がけが、必要であるようです。

031020 「30万人の遺伝子プロジェクト」。

今日のクローズアップ現代は、遺伝子診断の特集でした。

「30万人の遺伝子プロジェクト」とやらが、進められているのですね。同意の上で採血をして、遺伝子配列を調べます。同時に、その人の今までかかった病気や生活習慣、親兄弟のかかった病気などを尋ねます。遺伝子配列とその人の病気を関連付けることで、各種の病気にかかりやすい遺伝子配列が特定できるというしくみです。そして、各種の病気の発症にかかわる遺伝子を特定することで、より本質的な効き方をする薬を開発しようというのが、最終目的なのだそうです。

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番組でも指摘されていたように、遺伝子診断には、大きな問題がついて回ります。

たとえば、遺伝子診断の結果、Aさんは40才までに80%の確率で、「非常に進行が速く完治しにくいタイプの肺がん」にかかると判明したとしましょう。この情報が公表されると、Aさんはがん保険には入れません。おそらく、生命保険にも入れません。就職も難しくなるかもしれません。結婚話もまとまりにくくなるでしょう。逆に、Aさんだけがその事実を知っていたとすると、Aさんは自分の家族のために、故意に高額のがん保険・生命保険に加入し、高い確率で高額の保険金を手に入れることができます。それはそれで、不公平な話です。

遺伝子の違いに基づいて、その遺伝子型に合った薬を使おうじゃないか、という発想は正しいと思うのですけれど、上のような事情が深刻化した場合、薬を使うための遺伝子検査さえ、難しくなってしまう可能性があります。薬に関係する遺伝子の検査だけなら、問題は起こらないのかもしれませんけれど。

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データの安全性が心配です。ない情報をないとして扱うのは簡単ですけれど、ある情報をないとして隠しつづけるのは難しいからです。そして、各種の病気へのかかりやすさが診断できるということを、誰もが知るようになったとき、保険会社その他の要請によって、保険加入時などの遺伝子検査が義務化されはしないかという懸念もあります。

このプロジェクトに参加した人は、その辺のリスクも十分承知した上で参加しているのでしょうか。おそらく懇切丁寧な説明があるのでしょうけれど、たとえば10月20日の「最北医学生の日常」にあるように、懇切丁寧すぎてかえって要点がぼやけたりしていないことを祈っております。

031021 りんご丸ごと持参のこと。

耳鼻科の授業で、りんごを丸のまま持ってくるよう指示がありました。りんごの汁が飛び散る恐れがあるので、汚れては困る勝負服での参加を禁止する、とプリントに書いてあって、教室はしばし、騒がしくなりました。

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「まず、りんごをそのままかじってください」

「次に、二人一組になって、片方がもう一方に食べさせてあげてください」意外と難しいですね。そもそもりんごというもの自体が、まるかじりするには大きいのです。食べさせてもらうとなると、力の加減が難しくて、大きくかじるというわけには、なかなか行きません。

「さらに、食べさせてもらう人は、目を閉じてください」声などかけてみます。しかし、正確にいつりんごが来るかわからず、ひょっとしたら食物以外のものが来るかも知れず、なかなか怖いものがありました。かじりとったりんごのサイズはさらに小さくなりました。

「では、食べさせてあげる人は、相手の後頭部を押さえて固定して、それから食べさせてあげて下さい」こうすると、意外と食べやすいのです。向かってくるりんごとりんごに向かう自分のタイミングが合いやすく、また、りんごにかみついたときに、りんごと自分との密着度が高くなるのです。

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「食事介助に入ることが、みなさんもあるかもしれません。食事介助を必要とする人の多くが、食べ物が近づいてきていることをあまり素早くは察知できません。みなさんが目を閉じた時と同じような状態なのです。少し工夫すれば、ずいぶん楽に食べていただくことができるのですよ」

なかなか面白い授業でした。残ったりんごをおやつにしたら、おなかいっぱいになりました。

031022 鬱あるいは憂鬱について。

いまのわたしは、自分に欠けているものを、いつのまにか数え上げています。聞くもの見るもの、ほとんどすべてが、わたしの至らなさを糾弾しているように思えるのです。

でも、人前では明るく振舞えますから、きっとまだ、大丈夫なのでしょう。病名をつけて病気のせいにして、自分から責任を取り除いて少しだけ安心するという、便利な手段を採用したくなりますけれど、いまはまだそのときではないのだと思われます。

こういうときには、つい焦ってしまって、今やっていないことばかりが気になり、あちらこちらに手を出して結局すべてを中途半端にしてしまいがちです。こういう時こそ、いつもやっていることをきちんとこなして、やるべきことは最後まで片付けるようにせねばなりません。そしてそれなりのことをこなしたら、本当は他にやるべきことがあったのではないかという疑念がたとえわいたとしても、実際にやったことのそのぶんだけは、よくやったということに、しておきましょう。

わたしの場合、こういう精神状態には、早晩終わりが来るのです。これまで何度も繰り返した中で、それだけは学んだのです。頭の空回りするひまをできるだけ作らないようにしつつ、いつのまにか精神状態が改善するのを、待つことにします。

031023 白い巨塔における学生の生態。

バイト先の塾で、中学生数名に、「せんせー、医学部だったら先生も白い巨塔目指すの?」と聞かれました。「白い巨塔を目指す」というのはよく意味がわかりません。登場人物のような医者になりたい、という意味でしょうか。大学病院で働く、という意味でしょうか。それとも、教授になりたい、という意味でしょうか。「ん、まだ決めてないけど、内科かなあ?」と、答えておきました。答えになってないですね。

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医学部および附属病院を、そんなにも有名にしてくれている白い巨塔、今日も見ました。 気づいたことをひとつだけ。

白衣集団が大講義室に集合して講義を受ける、というのが、医学部のスタンダードなのでしょうか。少なくともうちの大学の医学部では、白衣で講義を受けたりはしません。大講義室での講義は、どんどん減る傾向にあります。ちなみに、食堂は白衣厳禁です。

わかりやすく、という意図なのでしょうけれど、まったく見慣れない風景にちょっと、ぎょっとしてしまいました。

031024 慇懃無礼という問題。

学校の一部の人から怖がられているみたいなのです。先日、理由らしきものを発見しました。

チュートリアルという授業があります。先生の監視下で行う小人数の症例検討だと思ってください。この授業のとき、わたしはたいてい、苛立っているのですね。ひとつには朝早いということがあります。寝起きで機嫌が悪かったり、遅刻するまいと自転車を飛ばしてその余波で焦っていたりします。そしてそのほかに、症例提示の方法がおかしい、進め方が本来のものからどんどん外れてきている、グループによっては先生が来ない、学生にも遅刻するものがいる、なぜか遅刻者が来るまで待っている、各種役回りが押し付け合いになる、司会が稚拙な進め方をする、○○がわからないので調べたいと思います、というありきたりのコメントしか出てこない、そしておそらく誰も調べてこない、その他諸々、腹を立てようと思えばいくらでも、材料は転がっています。

そうやって生じたイライラをそのまま表に出してしまっているのです。やたらと攻撃的です。わたしの場合、イライラしている時には、話し方が慇懃無礼になります。「○○を考えたらそれはとてもありえないことのようにわたしには思えるのですけれど、どうしてそのように考えるのか、わたしにわかるように順序だてて説明していただけませんか?」たいていの場合、このセリフを向けられた相手に対して腹を立てているのではありません。イライラしているだけです。こういうのをやつあたりといいます。逆の立場でこれをやられたら、おそらくわたしは逆上します。

チュートリアルではなくとも、イライラしている時に話しかけられるとやつあたりをはじめることが多いです。イライラの誘因としては、自分の間違いを指摘される、先生など目上の人にまったく認めてもらえない、単に機嫌が悪い、などがあります。

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このやつあたりを向ける相手は決まっています。どのようにくくろうか迷ったのですけれど、結局は、逆襲されなさそうな相手、ということになるのでしょう。チュートリアルで目立つのは、そういう相手と接する機会が多いからのようです。いつも話している相手には起こりません。一目も二目も、置いているからでしょう。

自分の優位を、何とかして保とうとしているのだと思います。最悪です。そうやって優位を示したって、なんにもならないことくらい、わかっているはずなのに。

こうやって気づいて言語化したら、あとはこれをやめるだけなのです。

今日は少しは、マシになっていた気がします。来週は、いらいらしている限りできるだけ口を閉じることができるように。最終的にはあまりいらいらせずに済むように、ですね。たぶん、条件反射のたぐいだと思うので、習慣として改善するのが大事、なのでしょう。

031025 ストレスと言われると腹が立つ理由。

体調崩して病院に行って、ストレスですねと言い切られると、腹が立ちませんか?学校で雑談をしていたとき、そんな話題になりました。確かに腹が立つ、と、すぐに合意が成立し、それはなぜなのだろうかと、話が続きました。

ひとつには、安易だ、ということがあります。テレビには毎日、リストラ・不景気・失業などなど、いわゆる暗い世相を表現するキーワードがあふれています。「ストレスが原因で体調が悪化する」というメッセージも、繰り返し繰り返し語られます。そんな中で、医者に「ストレスですね」と言われると、ちゃんと診ずに適当なことを言っているのではないかと疑いたくなるかもしれません。軽く扱われていると勘ぐる人もいるでしょう。そんな原因で病院に来てよかったのかと思う人も、いるかもしれません。せっかくわざわざ病院にまで来たのだから、それなりにちゃんとした病名なり何なりをつけてほしい、という気持ちはおそらくあります。

もう一つには、たとえストレスだとしても、だからどうしろと言うんだ、ということがあります。たとえば仕事がストレスになっているとして、たいていの人は仕事を休んだりやめたりすることはできません。ひょっとしたらできるのかもしれないけれど、できればそれは選択したくない。薬などの治療できれいに治るのならそのほうがありがたい、と、思う人は多いのではないかと思います。それは必ずしも怠けているということでも、身体のことなどどうでもいいということでもないでしょう。できれば生活はそっくりそのままで、身体の不調だけすぱっと取り除いてほしいというのが、わたしを含めた患者さんが、医療に求めていることだと思うのです。

さて、実際に「ストレスが原因だ」と確信したとして、どのように伝えるか。もしできるようでしたら生活の改善を、と、控えめにお願いすることくらいしか思いつきませんでした。おそらく、誰にでも適用可能なマニュアルなんて、存在しない領域なのでしょうね。

031026 信心深くない13回忌。

遠縁の親戚の13回忌がありました。親類縁者が20人、近所の寺に集まりました。平均年齢は70歳くらいでしょうか。知らない人のほうが多かったです。

時間になると住職が出てきて経典を配り、焼香のしかたを教えてくださいました。住職が和讃という、やまと言葉で書かれたお経のようなものを読んでいる間に焼香が行われました。焼香は正座で行うのですが、立ちあがるときに、転倒しそうになった方がいました。お年寄りが多かったので、立ったり座ったりしなくても焼香ができたらよかったのかもしれません。和讃が終わるとほんの二言三言、法話らしきものがありました。この法事は追善供養ではなくて生きているものが仏法に思いをはせるためにある、という内容でした。それで法事は終了です。きっかり30分。最近はみなさん忙しいのでしょう。

それから場所をかえて、食事会でした。コーヒーが出てくるまでに1時間、それから1時間の、計2時間でした。本日の法事の主催者たちは、お金と学歴と容姿の話に花を咲かせていました。すべてを阿弥陀様に御任せして、俗事に心を煩わせず、清く正しく生きていきましょうというのが、今日の法事のメッセージだと思っていたのですが。

031028 裏表があるということ。

裏表のある人というのがいます。

たとえば誰かのことが嫌いだとして、まさかそれをそのまま公にするわけに行かない場合は多くあります。ですから、「ほんとはイヤなんだけど、顔には出さない」ということは、ほとんど誰にでもあるのだと思います。それは、当然のことですし、むしろ、できないと困るたぐいのことでありましょう。

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問題は、中途半端な裏表です。たとえば学校のクラスの中で、本人の前ではよい顔をしておいて、本人以外のクラスメイトの前で悪口の言いたい放題、という図は、ちょっと困ります。間接的に本人に伝わると、非常に感じが悪いです。腹の探り合いになりかねません。

悪口も文句もぜんぜんかまわないのです。ただ、できれば披露する相手を、部外者に限っておきたいものだと思います。せめて、秘密は常に守るように。

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そんなことを考えていて、わかっているはずなのに、今日、とあるクラスメートに関する文句を、別のクラスメートに愚痴ってしまいました。いろいろと頭に来ているのは事実なのですけれど、それでもあんまり、いいことではありません。聞いているほうも困ったでしょう。一応謝ってはおきましたけれど、それでも。

時にひとを安易に否定してしまうのですけれど、そういうことに限って、ほとんど同じことを自分でもしてしまっている気がします。他人を責めている場合じゃ、ないということなのでしょう。

031029 それ、本当にほしいの?

いろいろなものを欲しがってきました。名誉でも好意でも賞賛でも贈り物でも信頼でも役割でも、なんでも。実は過去形ではなくて現在形だったりします。

でも、よく考えてみれば、その中で常にほしいと思っているものはほんのわずかで、あとは誰か他人が手に入れているのを見てにわかにほしくなったものばかりなのでした。

ほしがること自体がいけないとは思っていません。欲求がないと行動はありません。向上もないでしょう。誰かの持っているもので思いついて、新たな世界を見つけることも、きっとあるでしょう。

でも、そうやってにわかにわきおこった欲求が満たされないからといって不愉快な気分になって自分が劣っていると嘆くのは、どこか間違っていると、ふと思いました。だって今思いついただけなのですし、その希望をかなえるために今までとくに何かしてきたというわけでもないのです。それなのに何かを手に入れた他人をうらやましがるというのはやっぱりどこか、おかしいです。

だからだから、結局は、わたしが何を望んでいるのか、ということになるのだと思うのです。どの方向を向いて人生歩いていくかくらいのイメージは持ち始めています。その方向と照らし合わせて、本当にそれがほしいの?と自分に問いかけ、もしも答えがイエスならば本当にそれを手に入れるべく行動を開始すれば、いいのですね。なんだか意外とシンプルで、少しくやしい感じです。

031030 尊重されていない、と感じるとき。

尊重されていない、と感じることがあります。たとえば、頼まれた仕事をこなすために必要なはずの連絡が来ないとき。たとえば、大幅な遅刻が繰り返されるとき。たとえば、呼ばれて出向いているのに、まったく存在を無視されるとき。

それなりに尊敬するべき点を持った相手であると思っているから、それなりに対応をし、理解しよう、仲良くしようと、努力してきました。忙しいのはわかるし、だからしかたがないのだろうと。わたしよりずっとずっとがんばっているのだろうから、わたしが多少犠牲になるのはしかたがないのだろうと。でも、上に書いたようなことが起こるたびに、わたしの中ではその人たちの存在が、少しずつ少しずつ、どうでもよくなってきました。抗議したことはありますけれど、きっと、覚えてもいないのでしょう。

前にも一度、別の相手について、同じようなことがありました。そのときも今回も、わたしは優れた友人を失っているのかもしれないと、少し怖い気もするのです。でも、これ以上自分をすり減らさないためには、「ただの知人」としてつきあっていくのが、きっといちばんいいのでしょう。それでも親しい友人として、とは、今のわたしには無理みたいですから。

嫉妬だとかやっかみだとかそういう気持ちが、わたしの中にあるから、このように思うのでしょうか。絶対ないとは言い切れないけれど、それだけでは到底、説明がつかないような気がします。

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これまでに数人、わたしに突然絶交を申し渡した人がいます。彼女たちも、こんな気持ちだったかもしれません。

どうすればよかったのでしょう。どうしようもなかったのかもしれません。


淡々としていなくもない日常。>日記・雑記目次 >2003年10月の日記