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◆2003年7月の日記◆

030701 岡目八目の原理。

自分がいちばん困っていることって、自分では見えづらいような気がします。

二番目、三番目に困っていることは、それなりによく見えるのですけれど。二番目、三番目が見えているだけに、いちばん困っていることも見えるはずだと思いこんで、わかっているつもりになってしまう傾向が、あるように思います。見えているつもりで実は見えていないから、その辺に解決策が転がっていても、誰か親切な人がこうしたらいいよと示してくれても、なかなか気づくことができません。

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「それは確かに真実だろうね、でも、わたしのケースには当てはまらないなあ、残念ながら」当てはまっているのですけれどもね。岡目八目。

「確かにそうかもしれないけれども、わたしは、わたしのこの前提を守らねばならないので、あなたの提案に従うことはできないのです、残念ながら」そういう前提に限って、問い直されたことがなかったりします。意外と訂正可能かもしれません。試してみれば。

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問題が何であるか、特定することができれば、その問題の80%は解決されたも同然だ、と聞いたことがあります。「特定して、80%解決されなかったら、どうするんですか?」「それは特定に失敗しているんだよ」なるほど。

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精神分析理論によると、わたしたちの精神は、広大な無意識と、氷山の一角の意識からなるのだそうです。そして、少ない意識の領域さえも、自分ではりめぐらせた壁のために、ずいぶん見通しが悪くなっているように感じます。

せめて、意識の領域くらいは、把握していられるとよいなあ、と、思うのです。岡目八目、ということは、自分の中に、『自分を見つめるもう一人の他者の視点』を導入すれば、少しは見通しが、よくなるでしょうか。どうやって導入するのかが、問題ですけれど。

030703 読書週間あるいは活字中毒。

ここ1週間ほど、読書量が増えています。これまでほとんど読んでいなかったぶんを、取り返すような勢いです。

題名を書き写そうと、これらの本をパソコン机に積んでおいたら、父に、そして母に、「その本何」と聞かれました。月曜日から今日(木曜日)までの4日間に、読みきった本です。これだけ読んでいると、『本を読むのはいいことだ』と誰かに言ってほしくなり、「読書力」(齋藤孝、岩波新書)まで読んでしまいました。

学校がある期間に、学校にきちんと出席しながら、こんなに多くの活字を摂取したのは、ずいぶんと久しぶりの経験です。他の、急ぎでない活動はすべてストップして、本ばかり読んでいます。読み終わって、図書館なり本屋なりの本棚の前に立つと、次に読みたい本が視線を捉えるのです。『探しているものが光って見える』という表現をときに見かけます。そんな感じです。

一体何をしているんだろう、と思う瞬間があります。本ばかり読んでいるというのもずいぶん非生産的な話だなと。でも、読まずにはいられない気分なのです。理由は、わたしにもわかりませんけれど。

読みたくてしかたのないうちは、状況が許すかぎり読んでいようと思います。ここまで気持ちが募るというのは、きっと何か必然性があってのことなのでしょう。

030704 元気になってきたからこその、ちょっとした焦燥感について。

そろそろ、こんなことじゃいけないと思えるくらいに元気になってきました。ここしばらく、エネルギーが枯渇していて、日常の最低限の義務をこなすので精一杯な日々を送っていたのです。

やっと元気になってきて、周りを見まわすと、いつのまにか置いてけぼりにされてしまったような感じがしました。多くのことをせずにきたから(「できなかった」と言い換えても、同じことです──同じこと、なのかな?)、当然なのですけれど。

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話は変わります。わたし、自分と人とを比べて、その差に一喜一憂しているんだ、ということに、ついこないだ、気づきました。「ひとのことなんか必要以上に気にしない独立独歩の個性的人間」のはずだったんですけれどもねえ(半分くらいは冗談ですが半分くらいは本気です)。おそらく、周りには見ぬかれていたのでしょうけれど、自分で、まるで悟りを開くように明確に自覚したのは、先日がはじめてでした。

「周りと比べて」焦っているだけなら、自分のことながら、そんなに真剣に取り上げなくてもいいのかもしれません。これまでも、だいたい年に2、3度は、「信じられないくらいひまな時期」が来ていて、こんなことじゃおいていかれる」(誰に?そして、おいて行かれるというのはほんとにそんなにいけないことでしょうか)と焦って、手当たりしだいに「何か有用そうなこと」を始めていました。だいたい、そういう「手当たりしだいにはじめたこと」というのは、あとで負担になったものでした。とくにやりたいわけでもその必要があるわけでもないのに、ただ、『何かしている』と、自分と他人とに証明するため、忙しいふりをするために、引きうけた用事たちでしたから。

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上に書いたことは、ひょっとしたら、ただ、変化を恐れるが故のいいわけなのかもしれません。変化はいつだって、意識するにせよしないにせよ、少し面倒です。

自分が納得するように生きていくのがいちばんだと思ってはいますけれど、自分が納得する、って、どうしたらいいのでしょう。まずは、ピンときた活動に従事してみることでしょうか。すこし、夏休みの予定を詰めてみましょうかね。

030705 悩む能力と人間的成長。

きょうは、普段話さない人とずいぶん久しぶりに話す機会がありました。話は、面白くないわけではないのだけれど、そして、わたしを面白がらせようという意図は認めるのですけれど、なんだかずいぶん薄っぺらな感じを受けました。単なるエンターテイメントとして外から眺めるならともかく、一対一で向き合うのはちょっとしんどかったです。

学歴の話・自慢話・昔の話、同じ話を繰り返してどうして飽きないのでしょう。わたしよりずいぶんと人生経験を積んでいるはずなのに、どうしてこうなってしまうのかなぁ、と、話を聞きながら考えていました。

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悩む能力があるかないか、かもしれないと思います。

悩むというのは非生産的活動の代表格でありましょう。でも、『悩むことができない』となると、それはそれで問題なのかもしれません。わが身を省みて、自分と語る、そんな時間が、なかなか自覚として現れることのない、深みみたいなものを作り出すのかな、と、考えています。

悩む、というのは一般的によくないこととされています。『悩むことを止められなくて悩む』みたいなことも、ありがちでしょう。でも、その一方で、うまく悩めないひとも、いるように感じています。上手に思考停止できるひとなのかもしれません。そういうひとはおそらく、生産的な人生を送ることができるでしょう。でも──なんとなく浅いかもしれないとも、思うのです。悩みに足を取られてばかりのわたしの、やっかみあるいは負け惜しみかもしれませんけれど。

もちろん、悩めばいいってものではありません。少なくともわたしは、悩む時間を少し減らしたほうがいいみたいです。

030706 セルフ・コントロールをあきらめるということ。

『自分の言うことを聞かない自分自身』というものを、意識せざるをえないときがあります。どうしても〜してしまう、どうしても〜できない、などなど、です。恋愛など、感情が深くからむと、しばしば起こります。理性が感情に負けているのだろうと、推測しています。

自分自身がどうやっても制御できないときがあるのだ、と、気づいたのは、18のころだったでしょうか。それまでは、『コントロールできるはずなのに、それをしない』自分を、責めるだけでした。

『コントロールできるはず』が、『ひょっとしたらコントロールできないかもしれない』に変わったのは、ずいぶんと大きなできごとでした。『ひょっとしたらコントロールできないかもしれない』からといって、自分を責める癖は、なかなか治りませんでしたけれど、その後わたしが少しずつ楽になっていったそのはじまりには、この気づきがあったものと考えています。

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そんなことを考えていて、ふと、アルコール依存から脱却しようとする人たちのグループ −AA(アルコホリックス・アノニマス)− の12ステップの、第1ステップを、思い出しました。

われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。

とんでもなく弱気な出だしです。初めて目にしたときは、なんじゃこりゃ、と思いました。でも、どうしようもないことはどうしようもないわけで(トートロジー)、それならそのように対処を考えるほうが、賢いかもしれない、と、今は思います。

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望ましくない状態の自分自身を認めない、というのは、とても毅然とした態度に見えるときがあります。それに対して、そこにあるものをあるように認めるというのは、ときにとても怠惰に見えます。そんな現状を甘受するなんて、とかなんとか。

でも、自分自身をコントロールしきれていない現状をまっすぐ見て、ため息のひとつもついて、さて、どうしますかね(あるいは、ほっときますかね)とつぶやくのは、なかなか、潔くてすがすがしいんじゃないかと、今のわたしは思うのです。

030708 教育の根本にある矛盾みたいなものについて。

ちはるの多次元尺度構成法の、7月7日の日記において、面白い記述をみつけました。

教えることはいかに教えないかということに収束していく。

と、いうものです。

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長年学生をやっていると、自分の受けている教育の質に、関心が向いてきます。同じ時間を費やすなら、なるべく有意義なことに費やしたいからです。「あの先生の授業は…」「ああいうテストって…」「いやそもそも講義っていう形態がさあ…」「チュートリも正しく行われなければ意味がないし…」たいていの場合、語られるのは、『いかに効率的に知識を伝達してもらうか』ということになります。

『伝達してもらう』と書きました。わざとです。そういうのって、ひょっとしたら、ずいぶん受け身な態度かもしれないなあと、思ったからです。そもそも自分で学習しなければ始まらないという危機感が、少ないなあと。

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『教える』という形態が存在するのには、いくつかの理由があると思います。

いちばん大事なのは、自分で何とかしようとあがくのは、たいていの場合、膨大なエネルギーロスにつながるから、そのロスを少しでも減らすために、ということでしょう。それ以外にも、とりあえず分かったつもりになって安心すること(不安と戦うのはたいへんです)、最低限学ばなくてはならないことを明示すること、特殊な場面を設定することで学んだことを印象付けること、少しは人生観みたいなものを伝えてみようとすること、などが、理由として、考えられるでしょう。

きっと、それはそれでとても貴重なことなのです。でも、一つ間違えると、容易に過保護になってしまうようにも、感じます。そして過保護は、学習する人の中にある何か、エネルギーみたいなものを、確実に蝕んでいくのではないでしょうか。

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独学が、ときとしてたいへん効率が悪くなるということは、知っているつもりです。効率が悪いだけならいいけれど、大事なことが抜け落ちてしまうことすら、しばしばあります。

たぶん、独学において際立っているのは、『自ら求める』という姿勢だと思うのですね。『叩けよ、さらば開かれん』くらいがちょうどいい。

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与えられているという楽な状況には、どうしても容易に慣れてしまいます。これで十分だろう、と思いたがっている自分が、確かに存在します。『こんなことしてていいのか』という不安とつきあっていくことも含めて、『結局、自分がやっただけのものしか得られないし、だから結局、重要なのは、自分自身の姿勢なのだ』ということを、折に触れ思い出さないと、きっと流されてしまうでしょう。

もちろん、教える側の姿勢及びシステムが向上することは、『教わる側の姿勢が大事』であるにしても、常にたいへんありがたいこと、です。それぞれベストを尽くしましょうよ、という、柄にもない理想論を、つぶやいてみたりして。

030709 双子姉妹分離手術について。

イラン人双子姉妹、ラレー・ビジャニさんとラダン・ビジャニさん(29)の側頭部分離手術で、結局、姉妹二人とも死亡してしまったと、新聞及びネットで知りました。

十分準備の時間はあったわけだし、世界でもっとも優れたたぐいの医者がかかわったんだろうし、お金だってふんだんに使えただろうし、きっと成功するんだろうな、と、漠然と信じていたわたしは、『現代で最高水準の医療』とをもってしても、できないことがあるんだなあと、いまさらながらにびっくりしました。手を尽くしさえすればなんとかなる、それだけの技術が、今の世界には蓄えられているはずだと、いつのまにか、思いこんでいたみたいです。

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この二人、ビジャンさん姉妹は、もし手術を受けなければ、あと数十年は、元気に生きられる可能性が大きかったと思います。不便なことはもちろんあったでしょうけれど、少なくとも、健康で、日常生活を送ることは、十分にできたでしょう。それが、もう、できなくなってしまいました。

前例のない手術ということで、リスクは予測されていたようです。そして、ビジャンさん姉妹も、リスクについては承知していたと、報道されています。わたしが彼女たちの片方だったとしても、手術ができるものならと、願ったかなあと思います。勝手な感情移入は、とても危険ですけれどもね。

親のもとで、娘をやっている間は、二人そろってできることを二人でやっていっても、そこまで決定的な不都合はないかもしれません。けれど、この先、仕事をして、結婚をして、子供を産んで、もろもろの課題にぶつかって、それぞれの死を迎えて、というとき、二人が必ず物理的にセットであるというのは、それまでよりもずっと、重荷になってくるのではないでしょうか。

もう少し待てば、もっと素晴らしい技術が開発されて、死ぬようなことはなかったかもしれません。それはそうだけれども、彼女たちの、29歳という年齢は、『そろそろ二人、別々の人生を歩まなきゃ』と思うのに、十分な年齢だったのかもしれないなあと、思います。

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手術が失敗だったと判明したとき、彼女たちは、後悔したでしょうか。しなかったでしょうと書けば美しいのかもしれないけれど、わたしにはよくわかりません。

冥福を、祈っております。

030711 死体検案書。

今週は、法医学の週でした。法医学=死体を扱う医学、ではない(親子鑑定とか、怪我の鑑定とか、いろいろあるのです)、というのは、法医学の書物でしばしば強調されるところですけれど、やっぱり印象に残るのは、死体を扱う分野です。

昨日の夜は、夜中に起き出して、死体検案書(死亡診断書と同じような書類で、死体で発見された人などに対して書くものです)を作成するレポートに取り組んでおりました。溺死の所見とか、傷が生前に生じたものか死後に生じたものかの区別とか、死亡時刻の推定とか、そういうもろもろを、調べていたわけです。なかなか凄まじい写真が、教科書には掲載されています。眺めながら、イングリッシュマフィンを焼いて食べてました。

イングリッシュマフィンを食べながら思ったことは、死体検案書なんてものは、書かれる側にとっては、一生に一度の、それこそ一大イベントなんだなあ、ということでした。たぶんわたしは、何枚となく死体検案書及び死亡検案書を書くのでしょうけれど。

うまく言えないのですが、医者って、一生に一度のイベントに日常的に立ち会ってしまう、そういう職業なのだなあと、思ったのです。

030712 12歳のころ。

「おとなしい」「入学以来欠席はゼロ」「成績はトップクラス」なのだそうですね。長崎で補導された生徒の話です(逮捕じゃなくて補導、ちょっと違和感がありますね)。

わたしも、そういう言葉で形容される、12歳でした。

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〜なのにどうして、といわれますけれど、どんな子供だったら、このような事件を起こしても無理はないと、納得できるというのでしょう。12歳のころ、何かと鬱屈を抱えていた、そして、今でもその記憶を消し去ることができないわたしは、どちらかというと、「おとなしい」「入学以来欠席はゼロ」「成績はトップクラス」な生徒のほうが、いろんなものを抱え込んでいそうだという考えを、振り払うことができずにいます。あぁでも、そのように考えてしまうのは、わたしが、そういう子どもだった、それだけのことかもしれません。そうでない子も、そうなりたくてなれない子も、きっと何かを抱え込んでいる、そんなふうにも、思えてきます。

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「おとなしい」「入学以来欠席はゼロ」「成績はトップクラス」な生徒は、こういう、〜なのにどうして、という報道を見て、また何かを抱え込むのかもしれないなと、少し心配です。そういう犯罪を犯してしまうのは、ほんの一部の人たちなのにね。

そう、〜なのに、という言い方は、、「〜」に何を代入するにしても、たぶん成り立たないのです。「〜」に何を代入したとしても、ただ、深く驚き、悲しんでしまう、ただ、それだけ。

030713 写実主義展覧会。

某ギャラリーで行われている、写実主義の展覧会に、大雨の中、バスに乗って、行ってきました。久々に、『当たり』の展覧会でした。

徹底した写実主義でした。写真より細かいとかそういうレベルでした。出品されている絵を写真にとって縮小してしまうと、まさに写真に見えるだろう、そんな絵たちでした。

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写真みたいに精巧に描くことに対して、だったら写真を撮ればいいじゃないかという批判は当然あると思います。そしてわたしも、もしあそこまで精巧に描けるとして、描くとしたら、描いているうちに、おそらくそういう疑問をもってしまうでしょうけれど、それでもなお、そうやって精巧に描かれた絵は、魅力的でした。

わたしも、それだけの技量があるならば、是非描いてみたいです。たぶん、とても楽しいと思うのです。目の前にあるものを写し取る、その行動は、なぜかとても楽しい。わたしはそう感じています。

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究極のところ、写真とは違うのではないかと、思っています。モデルをみていないので、よくわからないのですけれど、たぶん何かが違うのです。描いた対象を、いくら写真に撮ったとしても、同じ世界は作り出せないような気がするのです。それは、描いているうちにどうしても過ぎていってしまう時間のせいかもしれません。瞬間をとどめようとしても、描いているうちに、どうしても時間が経ってしまいますから。

そう思うのは、わたしが、写真とは違うものであってほしいと、願っているにすぎないのかもしれませんけれど。

030715 小児科週間と卒後の進路。

今週は小児科です。

講義に来られる先生のなかに、「かくありたし」と思わされる方がおられます。おおらかで、元気で、あったかくて、ちゃんと知識があって、わかりやすく話すことに長けていて、見ていて危なげがないのです。その先生を見ていると、小児科医もいいかも、なんていう考えが、(先週まではどこにもなかったはずなのに)どこからかわいてきました。わたしが小児科に進んだところで、その先生のようになれるという保証はどこにもない、そんなことはわかっちゃいるのですけれど。

そんな思いを抱えたままバイト先の塾に行くと、先日しばらく入院していた高校生に、「先生、医者になるんなら小児科がいいよ!子どもめちゃくちゃかわいかった!」と、元気に勧められました。「もう、となりのベッドの子がかわいくてね、3歳なんだけどね、見ているだけで幸せな気分になれたよ!」

こうして、迷いは増えていくのでした。そもそもは精神科医になろうと思って医学部に入りました。こないだは病理がいいなあと思っていました。救急ってかっこいいと思ったのはつい先日のこととして記憶しています。あぁでもやっぱり内科なのかなあ。道は一本であると信じていた、あのころがずいぶんなつかしいです。

030718 必要なのは。

「できることをする勇気と、できないことに耐える忍耐と、そして、できることとできないことを区別する賢さを、わたしに与えてください」

そんな主旨の祈りの言葉が、キリスト教に、あったように記憶しています。ちょっとうろ覚えですけれど。

うろ覚え、といいつつ、立ち止まるごとにこの言葉を心の中で唱える毎日です。

先日読んだ本によれば、「ひとは同時に二つのことを考えることはできない」のだそうです。たしかに、頭の中を占めようとする「余計な考え」を追い出すためにも、この言葉は有効です。

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たぶん、限りなく平坦な道でつまづきかけているのです。そして、道の平坦さを嘆き、そこでつまづいてしまう自分を、責めてしまっている。平坦な道でつまづくとはなんて愚かなのかと、また、平坦でなければ、つまづいたとしても仕方ないとあきらめられたかもしれないのにと。たぶん、必要なのは、あきらめること、絶望すること、認めること、そして、できることを探して、ひとつずつ片付けていくこと。

今日で学校はおしまいです。ある日突然状況が変わるなんて奇跡を期待するのは止めましょう。ほんのわずかずつでも、前に進まなければ、ですね。


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