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◆2003年6月の日記◆

030601 精神科と言葉狩り。

これまでに3日間、精神科の授業が行われました。あと5日、残っています。

思ったのは、「なんでこんなに疲れるんだろう」、でした。講義が続いて体力的にしんどいとか、内容が多すぎて混乱しているとか、そういうわけではないのです。講義がもっと詰まっている科、内容がもっと多い科はほかにもありました。もっと面白くない科は、特定は避けますけれど、それはもう、たくさんありました。

「なんか、どよーんと重くない?気分がさぁ」周りの人に、尋ねてみました。「確かに」と、返ってきました。

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なぜなんだろう、と考えて、ひとつ思いつきました。言葉にいちいち、引っかかってしまうのです。たとえば、「精神分裂病」という有名な病気が、「統合失調症」に改名されました。言葉のイメージがよろしくない、というのが、改名の動機の、少なくとも一部であったと思います。

「精神が分裂する」なんて、ずいぶん失礼な話だと思います。でも、これと同レベルのことばは、精神科の教科書に、後から後から出てきます。人格障害、異常性格、感情鈍麻、支離滅裂、人格変化、人格解体……言葉に、価値判断が入ってしまっているのですね。圧迫感を感じます。わけわかんないよ、怖いよ、と、記述者自身が思っていて、そう思うことがあたりまえであった時代の、なごりでしょうか。わたしも、もしそういう病気にかかったら、こんな言葉で記述されてしまうのかなあ、と思うと、かなり憂鬱です。もうちょっと、優しい言葉に換えられないものかなあと、換えてほしいなあと、しみじみ思います。

もうちょっと、優しい言葉に換えようよ、これって、言葉狩り、なのでしょうか。言葉だけを変えても、たぶん問題は解決しないことはわかっています。わかっては、いるのですけれど。

030603 精神科講義にて。

精神科講義まっただなかです。

「ねえねえ、自分の精神状態がさ、心配になってこない?ありがちな病気も多いわけだし、人格障害なんてこともあるわけだしさ」

「まあね。検査結果でさっくり否定というわけにはいかないものが多いし」

「なんかさ、あてはまるんだよね、いろいろと」

「わたしも、人格障害、三つくらい当てはまりそうな気がする」

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いくら精神を扱うといっても、ヒトという生物の中のことです。「大多数の人はこんな感じだよね」「これは、多くの人にみられるとは言えない状況だよね」とは言えても、すべての人を、正常と異常のいずれかに振り分けることはできません。限りなく黒に近い灰色とか、限りなく白に近い灰色とか、灰色としか言いようのない灰色とか、いろいろ出てきてしまいます。各病気・症状に、核はあるけれども、境界はない、と、ある教科書に書いてあって、なるほどそれは素敵な表現だ、と、感心したのでした。

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自他ともに、特筆するほど困ってないかぎりは、そんなに心配しなくてもいいのだと、思うのです。でもなんとなく過敏に反応してしまうのは、精神の病気というと、自分というもの自体が脅かされるような気がするから、なのでしょうか。

030608 わかりあう、わかりあえない、わかったつもり。

あるひとに、会ってきました。どうしても会わねばならないような気がしたからです。わたしのなかに、わだかまりが、積み重なってきていました。何とかしなければならないと、思っていました。

で、会ってみて、徐々にわかってきたことは、表現方法が違うのかもしれない、と、いうことでした。同じことを表現しようとしていたとしても、選ぶ言葉も、それどころか、言うか言わないか、態度であらわすとしたらどうするのかも、わたしとそのひととでは、異なるのです。「自分だったら、こういうことをする陰にはこういう気持ちがある、ということは……」と、不安になっていたけれど、その必要は、なかったのかもしれません。そして、わたしが、伝わっていると思っていたことのなかには、実は伝わっていなかったことが、いくつかは、含まれていたのでしょう。

わかったつもりで何もわかってなかったというのは、こういう状況を指すのでしょうか。

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わかるように表現すること、なんとかわかろうとすること、自分と同じ表現方法を採用することを強要しないこと。自明だと思っていることを、立ち止まって疑ってみること、と言いかえても、いいかもしれません。わかっているのだと、思い上がらないこと、とも、言いかえられるでしょう。きっと、そんなに簡単じゃないのです。

わからないと認めること、でもわかろうとすること、わかろうとするだけで満足してしまわないこと。難しい、けど、それだけの価値はあるだろうと、感じています。

030609 両価性と感情の機微。

両価性という言葉があります。英語でambivalence(アンビバレントという横文字を、聞いたことがある人もいるでしょう)、相反する感情・気持が、ほぼ同時に存在することを指します。標準精神医学(精神科の普通の教科書)には、「精神分裂病や境界性人格障害でよく認められる」と書いてあります。

この教科書の記述を見るかぎり、「普通」あるいは「正常」の人は、いちどきに相反する感情をいっぺんに持ったりはしないもののようです。ほんとうにそうなんだろうか、わたしは疑っています。それとも、わたしが、いわゆる「正常」から、はずれているのでしょうか?

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自分が何をどう感じているのか、なるべく細かいところまで正確に確かめようとしたら、ひとつの対象に対して相反する感情を抱いていることが、少なくないように思うのです。対象が自分にとって大事であるほど、自分の中で大きな容積を占めているほど、揺れは、激しい。おおまかな傾向を語ることは常に可能でも、ある部分を拡大してのぞき込むと、相容れないはずの感情が、互いに隣り合ってひしめいていたりするのです。

たぶん、巨視的にみたときの「こう思ってる」も、微視的にみたときの「こう思っているところもあるし、こう思っているところもある、そして…」も、どちらも本当なのです。

そして、さまざまな感情のなかには、互いに矛盾するもの、都合の悪いものもあるのですけれど、否定しようとしたところで消えてなくなるものでもないみたいですから、そう感じているんだなあと、さらっとあきらめてしまうほうが、精神衛生上いいみたいです。こんなことも思っていて、あんなことも感じていて、でも全体としては、こんな感じ、そんな理解で、よいのではないかなあと。

030610 問題を共有するということ。

ちりんの部屋」の中の、6月8日付の日記に、「二人以上の人間が共同で何かをしようとする場合には、問題が起こることは必然であること、また、その場合、問題を共有することが、解決の第一歩であること」が、記されています。

問題が解決するには、問題が共有されねばなりません。自明です。でも、実際には、共有すらままならないことがとても多くあります。どうしてなのでしょうね。

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二人の間で生じた問題を、相手に直接言うことなしに、第三者に相談する、というのは、しばしば見られる構図です。友人とのこと、恋人とのこと、いわゆる「女の子」の間には、そういう相談が、とくに多くみられるように思います。そういえば、「女同士の友情は、秘密の共有によって維持発展が図られる」と、どこかで読んだのを思い出しました。

第三者に話しても、問題が当事者間で共有されることはありえません。よって、気は軽くなるにせよ、多少は余裕を取り戻せるにせよ、問題の解決には向かいません。たぶんそのことには、みんな気づいているのです。

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それでも言いだせない原因は、やっぱり、関係を壊したくないからなのかなあ、と、思ってしまいます。壊したくない、が、あまりに消極的に聞こえるならば、できれば温めたい、と、言い換えてもいいかもしれません。

関係が大事であればあるだけ、問題だよ、と、相手に提示する前に、まてよ、わたしの中の問題かもしれないぞ、と、立ち止まり、振り返ってしまいます。

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ふと相手の立場に自分を置いてみれば、相手が心を開くことを、願っています。何か問題があれば、遠慮することなく伝えてほしいと、望んでいます。抱え込まないでね、怖がらなくていいよと、きっと呼びかけるでしょう。

そうなんですよね。いいことも悪いこともどうでもいいことも、受け容れるつもりなら、相手にも多少はその用意があると、想定してみても、いいかもしれません。

030612 感情について。

持ってはならない感情があると、いわれています。理由もなしに腹を立ててはいけない。嫌ってもいけない。相手ががんばっているときに、もっと、と望んではいけない。

思ってはならないとは分かっていても、思ってしまうことはあるのです。見なかったことにして、適宜埋葬して、知らないふりで日々過ごしていますけれど、生き埋めにした感情に、ときに復讐されそうになります。

そんな感情を持ってしまうのは、わたしの努力がたらないせいなのでしょうか?何も産み出さないし、持っててもしんどいし、表現したら他人を傷つけてしまう。

それでもいいんだよと、言ってほしくて仕方ないけれど、それでいいわけないじゃん、そんな気もします。

自分を甘やかしすぎているのかもしれません。もうちょっと、忙しくしてみようかな。

030613 フランス象徴派展。

授業が予想外に早く終わったので、市内の美術館に、フランス象徴派展を見に行きました。市内で行われる洋画の展覧会は、できるだけ行くように心がけています。

「象徴派」というだけあって、天使や悪魔や神話や聖書を題材とした絵がほとんどを占めていました。通常の西洋絵画展と異なり、パステルや鉛筆で、繊細に書いたものが多くありました。

いつもの展覧会に比して、一枚一枚の差が、少なかったように感じました。人間が、想像力で作り出すもののパターンなんて、目の前に広がる現実ほどには、幅広くないのかもしれません。

ただ、パステルと鉛筆で繰り広げられる細密描写には、心底感心しました。パステルも鉛筆も、細密描写になってくると、おいそれとは消したり描きなおしたりできないのです。しかも、パステルは粉でできていて、そもそも細かい書き込みには向いていない、それなのに。

描きこんだ「つもり」になっていた、自分の絵を思い出して、まだまだだなあ、と、改めて思い知らされたのでした。

030615 自信と圧迫と離見の見。

自分は正しい、と、一抹の不安も見せることなく、主張するひとがいます。

そういうひとをみかけると、後ずさりしたくなります。一抹の不安も抱いていない、というわけではないのかもしれません。ポーズなのかもしれません。でも。

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自分が正しいと信じて疑わないときの、快さは知っています。そうやって振舞ってきた過去も自覚しています。少し油断すると、「わたしは正しいのよ、あなたは間違っているわ」といわんばかりの態度を、いつでもとってしまうだろうことも、知っています。「わたしは自分を常に疑っている、故にわたしは正しい」と思いこんでしまう可能性─陥穽かもしれません─にも、気づいています。

そう、批判する権利は、ないのかもしれないのですけれど。そして、自信を持つことは、人生にとっておそらくプラスであるだろうと、感じているのですけれど。

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わたしがこのように感じる理由の少なくとも一部は、「自分が常に正しい」ということになれば、都合の悪いことが起こった場合には、常に、「他人が悪い」ということになってしまうということです。それはその通りなのかもしれません。でも、そういう態度に出られると、なんとなく、責められているような、いまは責められていなくてもいずれ責められるような、そんな気がしてしまいます。ちょっと自意識過剰ぎみでしょうか?

そして、「自分が正しい」ひとには、わたしの言葉はたぶん届かない、そんなふうに感じてしまいます。言えば聞いてくれるのかもしれないけれど、それだけのエネルギーを捻出できないときがあります。

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ひとのことを言えるほど、自分が立派ではないような気がしてきました。わたしも他人を、圧迫しているのかもしれません。離見の見(他人のまなざしで自分を客観的に見ること、by世阿弥)が必要、ですね。

030616 サイトを匿名で公開するということについて。

個人サイトを運営している場合、匿名を貫くか否かが、しばしば問題になります。物騒な世の中だから個人情報は載せない、という考え方もあるでしょうし、身近な人にばれたらたいへんだから、自分を特定できるような情報は載せない、という考え方もあるでしょう。今日は、このうちの後者、「身近な人にばれるかどうか」について、考えてみます。

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たとえ氏名や所属を明らかにしないにせよ、身近な人にとっては、そのサイトを運営しているのが誰であるか特定することは、あまり難しくない場合が多いのではないかと推測します。日記を含むサイトでは、とくにそうです。例えば、このサイト、わたしの学校の同級生ならば、内容から、これを書いているのがうちの学校の4年生であることは、容易に推測可能でしょう。そしてそれが、わたしであることも。

リンクされる先も問題ですね。「うちの○○(サークル、研究室など)の、△△くんのホームページです」なんて書かれてしまえば、人物の特定は非常に簡単になります。

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多くの場合、個人サイトは、周囲の人には秘密で運営されます。「このサイトの存在が周囲の人にばれたら、閉鎖あるいは引っ越しします」と書いてある個人サイトをしばしば見かけます。(このサイトは周囲に知られていますしだからといってなくなりませんのでご安心を)

周囲に知られて何が困るのか、と考えました。言いたいことが言えなくなる可能性がある・照れくさいという理由が、主流でしょうか。身近な人に聞かれて困ることを、全世界に発信していいのかどうかは難しい問題ですけれど、考えを発表することで生じるかもしれない、リアルなごたごたをできるだけ避けたいという気持ちは、わたしにもあります。

わたし自身、このサイトの存在を積極的に宣伝することはしていません。訊ねられたら正直に教えますけれど。何らやましいことをは書いていないし、公開を旨としている、それでも、です。

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本当に秘密にしたいのならば、自分のHDのなかにしまい込んで、インターネット上に公開しないという方法が、いつでも利用可能です。

それでも公開するということは、誰かに見てほしいと思っているから、ですよね。自分の知っている誰かに、ではなく、自分の知らない誰かに、(オフラインで生活する)自分自身とは切り離して、サイトを見てほしいと、思っているのでしょうか。わたし自身も含めて。

コミュニケーション不全症候群」という本を思い出しました。ひょっとすると、他人の心の中に、できれば摩擦を起こすことなしに自分の居場所を見いだしたいという気持ちが、不特定多数へのアピールという方法を、わたしたちにとらせているのかもしれません。

030622 部屋の片付け/情報にアクセスできるということ。

しばらくぶりに、部屋を片付けました。

なかなかはじめられないのに、いざはじめると徹底的に片付けようとしてしまいます。その結果、疲労困憊してしまい、二度とやりたくないなあとため息をついております。こういうのを、悪循環といいます。

昼の12時半にとりかかりました。一段落して台所に行き、「あぁもう疲れたよ、限界だよ。わたしがんばったよ。そろそろ夕ごはんかなあ?」と母に声をかけました。「あのね、疲れたって、2時間くらいしか経ってないわよ。」時計をみると二時半でした。時間の流れって不思議です。

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わたしの部屋で、常に問題を起こすのが、本・プリント・ノートを中心とした紙類です。とくに教科書は、増える一方です。部屋の広さ・本棚のスペースは有限ですから、当然いっぱいになります。いっぱいになると、あふれます。あふれた教科書は、ダンボールに立て、床の上に放置していました。

本が多いから仕方ないのかな、と思ってあらためて本棚を見ると、もっとも取り出しやすい貴重な場所を、ごみ同然のノート・書籍が占めていることに気づきました。使いかけのノートをまとめてダンボール箱に放り込み、二度と見ない教科書をクローゼットに叩き込んだら、日頃愛用している教科書は、すべて本棚に収まってしまいました。

背表紙が見渡せるようになりました。解くつもりで挫折しかけていた問題集の存在を、思い出しました。

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こないだから、3年生のころのプリントを探しては挫折することを、繰り返していました。要はばらばらに、使った時にいちばん手近にあったスペースに放り込んでいるから、見つからなくなるのですね。テーマごとにまとめて封筒に入れて、封筒をダンボール箱に立て、クローゼットにしまいました。あることが分かっていても探し出せない書類は、ないも同然です。しかもスペースを食いますから、紛失するより害が大きいです。

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紐でくくったノート・プリント・旧版の教科書を捨て、それなりに足の踏み場が形成された部屋に立ち、思ったことは、「今部屋にあるこれらの紙類は、いつまでわたしに必要とされるのであろうか」でした。

みんな頭に入ったら、いらなくなるのでしょうか?それって、素敵ですね。

030624 立体造形を見て芸術の意味を考える。

午後、時間が空いたので美術館に行きました。

メインの展覧会が、あまりに現代的すぎてよくわからず、なんとなくもやもやしたものが残ったので、そのまま、常設展も見て帰ることにしました。常設展は立体とのこと。西洋絵画なら、迷わず見て帰るんだけどなあ、まあ、行っても行かなくても、値段一緒だからね、と、勝手なことをつぶやきつつ、カウンターに向かいました。

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怪しげなオブジェが乱立していました。薄暗い照明の下、黒・褐色・金色・白という、無彩色に近い世界が、広がっていました。

一つ一つの作品をのぞきこんでみます。手間がかかっているのはよくわかります。しかし、見ていて心地よいいものばかりではありません。正直なところ、何が言いたいのか、何を表わそうと思ったのか、想像もつかないもののほうが多いです。カウンターで渡された紙には、各作品の解説が書いてあります。作者の意図らしきものも、記されています。でも、その文章と目の前の作品が、結びつきません。

中ほどまで歩いてくると、藤椅子に足を組んで腰掛けている女性の白い像が、目に入りました。えらくリアルだなあ、わけのわからない抽象物体の中で、これはひときわ燦然と輝いている、などと感心して眺めていると、右手の壁に、解説が書いてありました。モデルに直接石膏を塗りつけて型をとって、そこに粘土を流し込んで作ったのだそうです。モデルが石膏で不愉快になって感情をあらわにするから、よいのだそうです。……なんてことを。

最後の部屋には、大きい作品が集められていました。引き取り手がなかったらどこに置くつもりだったのか、畳3畳分の鉄板なんてものが、床にじかに置かれていました。

何が言いたくてこんなものを、と、つぶやきかけて、そういえば、わたしは、何が言いたくて絵を描いてるんだっけ、と、ふと、わが身に思いをはせました。

ひょっとしたら彼らは、材料を目の前に、いろいろ手を加えながら作業に没頭していて、そのうちに、こんなものができてしまって、それが気分に思いのほかぴったりで、そうだよこれがおれの表現したかったものなんだよ、とか、思っているのかもしれません。そんなことを想像していると、しいんとした展示室に置かれた、むしろ陰鬱なオブジェたちが、なんとなくうきうきしているように見えてきました。

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美術館にいる間、係の人以外には誰にも会いませんでした。ぜいたくな時間を過ごしたように思います。

030627 女はアサハカ、クラブはアカサカ

……いや、『クラブはアカサカ』かどうかは、地方在住のわたしには、よくわからないのですけれども。題名の言葉、山口洋子のエッセイで見かけたと記憶しています。

女はアサハカ、なんて言ったら、「おまえと一緒にするんじゃない」と、女性の方々から怒られてしまうでしょうか。怒られそうな気がします。でも、わたしは、あえてそう言います。

一人の女性のすべてがアサハカであるというつもりはないのです。どの女性をとってみても、賢いところ、強いところ、その他、賞賛すべき点はたくさんあると思います。男性と同等以上の能力を持つ女性はたくさんいるし、わたしも、かくあろうとしている一人です。

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では、なぜ、『女はアサハカ』なんて言い出したのか。 わたしのアサハカさというものは、わたしが『女』として振舞うときに、とくに前面に押し出されてくるように感じるからです。くだらない意地を張る、優先順位を間違える、あとから振りかえると考えられないような行動を、少なくともその時には何の疑いもなくとってしまう。どうしてそうなるんだと過去の自分の肩をつかんでがくがくゆすぶってみたいような記憶、それらはほとんど、『女』であることに関連しています。

反対に、わたしが必ずしも『女』である必要がないとき─学校とかバイトとか、その他、おもに『自分の能力』で戦っているとき─には、自分が日頃そうありたいと願っているように、振舞うことができます。

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そんなことを考えていると、男と女の関係においては、男尊女卑でもいいかもしれないな、と、わたしには感じられてきます。それとも、男性には、『男』なりのダメさ加減が、(わたしが気づいていないだけで)実はあるのでしょうか?もちろん、本来性別が関係ない場所(学校とか、仕事とか)では、平等であってほしいですけれど。

030629 『10人に1人 ショック症状』

朝起きると居間で父が新聞を読んでいました。このへんによくある地方紙です。

「わし、これにかかったんじゃないかと思うんじゃがねえ」

「突発性の食物アレルギー」「10人に1人 ショック症状」「原因上位は卵・小麦・魚」「厚労省研究班が調査」という見出しが、一面トップを飾っていました。ショック?ショック症状というのは、急に血圧が下がることで、身体の隅々まで血がいかなくなることです。手足が冷たくなったり青白くなったりして、重症の場合は意識を失ったり各種臓器に障害が出る、という症状をさします。軽いものは、湯あたりでも経験できます。血管が広がるからです。しかし、食物アレルギーでショックを起こしたとなるとおおごとです。

ちなみに、ご存知の方も多いとは思いますが、食物アレルギーでいちばんありがちなのは、いわゆるジンマシンです。『さばを食べるとジンマシンが…』とかいう人、多いのではないでしょうか。あと、ぜいぜいいったりせきこむなどの、呼吸器症状が出ることもあります。まれに、上記のショック症状を起こす人がいます。

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10人に1人がショック症状を起こすなんて、日本人は一体どうなってるんだ、それとも、何かとんでもない食べ物が流行しているのか、と思って本文をよく読むと、厚労省研究班が全国の医者に協力を要請して、3840人分の症例を集め、年代・原因食品・症状を調べた、と書いてありました。『医者にかかって、突発性の食物アレルギーであると考えられた症例の10%に』ショック症状がみられた、ということだったのですね。病院にかかるのは重症なひとが多いでしょうから、そういう『10人に1人』なら、理解できます。

説明を読めば、『10人に1人』の意味はわかるにしても、見出しにいきなり『10人に1人』と書いてしまうのはいただけません。国民の10人に1人、あるいは、ある食物を食べた人の10人に1人みたいに聞こえます。でもそれは誤解です。この記事から読み取れる重要な結果は、意外と成人に食物アレルギーが多いこと、原因食物が、成人と子供では異なること、そして、重症なアレルギーを起こす人は、ものすごくまれというわけではなさそうなこと、くらいであるように、わたしには思えました。

しかも、ショック症状という名前は、医学用語の中で、わかりにくいもののひとつです。わたしだって、つい最近まで、正確な定義を知りませんでした。へたに日常生活に入りこんでいるせいで、かえってわかりにくいのです。

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「わしもこれかと思った」「あぁ、じんましん?突発性の食物アレルギーっていうんならそうかもしれんね」「いや、ショックが」「ショックだったらおおごとじゃん、ショックって湯あたりみたいに倒れちゃうことなんよ」「突然ジンマシンがいっぱい出ることがショックかと思うた」「一応説明は書いてあるけどね、ぱっと読んだらそう思うじゃろうね」

見出しで興味を引かざるを得ない新聞記者もたいへんだ、と、かすかに同情してみました。興味を引いてしかも正確な情報を伝達するというのは、なかなか難しいみたいです。わかってもらうというのも意外にたいへんだ、というのを、思い知らされた気がします。わかる説明のできる医者を目指して、精進しなきゃですね。

淡々としていなくもない日常。>日記・雑記目次 >2003年6月の日記