淡々としていなくもない日常。>日記・雑記目次 >2003年5月の日記

◆2003年5月の日記◆

030504 さきまわり。

頭がちゃんと回らないときはしゃべるのがむつかしいです。

頭が回りすぎて─おそらくは間違った方向なのでしょう─しゃべるのがむつかしいときも、あります。次の次の次のセリフまでいちいち予測して、その予測がはたして正しいかどうかを検証して、やっぱりこれは言わないほうがいいのかな、なんてことをやっていたら、いつまでたっても何もしゃべれません。予測なんてしてもきっと無駄なんだからやめときなよ、と、自分に忠告するのですけれど、予測はわたしの意思と無関係に立ち現れてきて、わたしの思考を途切れさせるのです。わたしは、立ち止まらされてしまいます。無視は、しづらい。

こんな日は、情報の入力に徹するのです。というわけで、ひたすら活字を読んで過ごしております。ひょっとしたらこの状況は、金曜の夜に飲みすぎたことに起因する消化器症状─とくに食欲不振─を真の原因とするのかもしれませんけれど、そこには触れない方向で。

030505 どんな風景が好きですか。

晴れた日は蜘蛛の糸ををたどって、というサイトで、一万ヒット企画としてアンケートをやっていました。その中に、「どんな風景が好きですか?」という質問がありました。その一問のために、あらかたの質問に答えてしまいました。

◆◇◆◇◆

好きな風景は、あまり色数の豊富でないそれです。

雪景色が好きです。葉を落とした樹が、紫色の影を、平らに積もった雪の上に投げかけている絵が好きです。

海もいいですね。岩と波と空しか見えない景色がいいです。さらわれてしまいそうな冬の日本海、能登半島の先端で見た風景が、とても深く印象に残っています。どこまでも蒼い、夏のオホーツク海も好きです。

緑も悪くないですね。緑なら、濃いほどよいです。南九州の、温暖湿潤な気候で、もうもうとしげる森もいいし、 北日本で、寒さに負けまいとりんと伸びる針葉樹林もいいです。盛岡の、街なかの緑が、よかったです。とても。

◆◇◆◇◆

なんだか、遠いところばかりですね。いま、近くにある風景では、真っ白なつつじがいっぱいに咲いている、近くの道が、気に入っています。

030507 切り絵・貼り絵。

配色の勉強をしようと思い立ち、「色彩と配色」という本を買ってきました。

この本は、白黒印刷です。『ふろく』として、『色票』が98枚、ついています。色票というのは、B6サイズの色紙です。98枚=98色あります。裏に方眼が印刷されています。色が正確なのが、特色なのだそうです。

『本という制限の中では、豊富で正確な色はなかなかだせません。それがこれまでの色彩学習書の限界なのです。』そんな気負った前書きは、1976年初版のゆえ、なのでしょうか。

で、この色票、どうするかというと、切って貼るのです。テキストに枠と、色を示す記号が記されていますので、それに従って作業をします。1cmx1cmの正方形だとか、対角線2cmx3.5cmのひし形だとか。カッターとはさみで切って、両面テープで貼っています。

切る・貼るの、手先を使う、細かいけれど単調な作業を続けていると、なんとなく、気が落ち着いてくるのを感じます。手を使って、少しずつ、目の前の光景を完成させていく作業は、ひょっとしたら、つかみどころのない不安という状態の、対極に位置するのかもしれません。

030508 奇跡の救出と迷える羊。

さっきテレビで、『奇跡の救出劇』なるドキュメンタリーを放映していました。熱意と善意と、助けた人・助けられた人たちの笑顔とが、映っていました。いい話でした。

ふと、聖書の言葉を思い出しました。ルカの福音書 15章です。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」

ほんとうはね、『大変なことがあって、奇跡的に助かった』よりも、はじめから健康で何もない─無病息災っていいますね─のが、きっと、いいことなのです。だけど、いったん失った、あるいは失いかけたほうが、たとえ失ったときの悲しみは大きいとしても、その分、喜べてしまうものなのですよね。幸福は、ひょっとしたら、絶対値ではなく、変化の割合(微分)で、測られるのかもしれません。

◆◇◆◇◆

医学部の授業においては、「こんなたいへんな病状が、技術革新とスタッフの熱意によって、こんなに回復するようになったんです。すごいでしょう。」と、しばしば語られます。

「こんなたいへんな病状」にあるひとが救われるのはいいことです。それが可能になったと、スタッフや研究者が喜ぶのも、当然です。きっとやりがいがあるだろうなあ、「こんなことがあったんだよ」と、年月が経ってから、揺り椅子に座ってパイプをくわえて(ステレオタイプですね)、誇らしげに語るのだろうなあと、暖かい気持ちで想像します。

でも、やっぱり、はじめから何もないほうが本当は幸せなのですよね。もし防げるものならば、防いだほうがいい。気になって、治った、というほうが、きっと医者は感謝されるし、仕事したぞ、というやりがいも、感じやすいのでしょうけれど。

はじめから何も起こらなかったとしたら、そのことにこそ、感謝できる、そんなふうでありたいと思います。

◆◇◆◇◆

ちなみに、上に挙げた聖書の言葉は、イエスの話されたたとえ話です。この話を最後まで掲げておきますね。新共同訳より、でした。

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

030509 けちょんけちょん。

今日は、絵の日でした。

しばらく前に描いた絵を、持って行きました。構図がよくない、面白くない、迫力がない、奥行きがない、描かれているものが小さすぎる、イチゴがおいしくなさそう、と、先生は十分間、悪いところを挙げつづけました。せっかくがんばってグラスを描き込んだし、色使いも工夫したし、少しはほめてもらえると思っていたのですけれどもねえ。それどころじゃないほど、構図がダメだったんでしょう。しょんぼりです。

◆◇◆◇◆

今日から20号(A2くらいかな)の製作にとりかかりました。牛の頭蓋骨(?)と、石膏でできた足および球を描きます。まずは木炭でデッサンです。

「その角はちょっと位置がおかしくないですか」「あ、ほんとだ、左右対称はへんですね」消して、描きなおします。キャンバス上の木炭は、消しゴムできれいに消せるのです。

「その足ははみださないほうがいいですねえ」「ひとまわり小さくしましょうか」小さくしてみました。パソコン上なら『縮小と拡大』でおしまいなのですけれど、キャンバス上なので、足は消して描き直しです。「迫力がいまいちですね」「傾きを変えて入れたほうがいいんでしょうか、やってみます」再び描き直しです。

「だいたいこんな感じですかね」「うーん、左右に比べて、上がちょっと詰まってますね」「あの、この牛、縮めるんですか」「いや、全部消して、描きなおしてください」「あ、あの、いちおう完成したつもりなんですけれど、全部ですか」「色をつけるとますます直しにくくなりますよ」「本当に全部消すんですか」「あとから直そうと思っても難しいですからね。さあさあ」消しゴムで全部消しました。はじめから、描きなおしました。

「あの、今度こそこれでいいですよね」「何度も描けば、よく見るようになるでしょう。それが練習なんですよ」

たしかに、これまでになくしっかりしたデッサンであるような気はします。単なる下書きなので輪郭線しかないのですけれど、それなのに、やたらと立体的に見えます。さんざん苦労させられたゆえの、ひいき目なのかもしれませんけれどもね。

030510 知識を増やすことと、考えること。

現在わたしの学校ではチュートリアルなる教育方法が行われています。

チュートリアルにおいては、7〜8人がグループを作ります。メンバーはランダムに選ばれます。メンバーは、教官であるチューターのもとに集められます。そこで、症例の記されたシナリオが配られます。

シナリオを読んで、何がわかるか、何がわからないかを話し合います。このとき、教科書を見るのは禁止です。うまく行く時にはそれなりに盛り上がりますけれど、多くの場合、必要な項目の学習は済んでいないので、話し合いは進みません。でも、話し合いへの『貢献度』が、評価になります。

話し合った内容に沿ってか沿わずか、やる気のある人は調べものをします。調べものの結果を持ちより、『発表準備』をします。たいていは、グループで4枚程度のOHP(透明なシート。A4サイズで、スライドみたいに壁に映すことができます)を作成します。発表に当たればそのOHPを使って発表するし、当たらなければOHPを提出します。時には、レポートが『グループで』1通課されますけれど、課されないほうが多いです。

個人でのレポート提出はありません。テストはあったりなかったり、あってもせいぜい5択x20問です。知識を試される場所は、どこにもありません。

なんだか違和感があるのです。これって正しい姿なんでしょうか?

知識の増殖を目指すことなく『純粋培養』で、問題解決能力とやらの増進を図っているようにみえるのです。知識と『疑問をもつ事』が、対立概念として捉えられているように思えます。

知識が一番大事、というのは違うと思います。でも、知識なんか要らない、いつでもそんなもんなんとかなる、というのも、何かが違うように思うのです。違わないのかなあ?

030514 「おまえなんか、いらない。」

ここ数日、雨が降っているからか五月だからか、憂鬱な気分で日々を過ごしておりました。

何をしてもあるいはしなくても、それが正しい選択だと思えない。それどころか、自分のしたこと一つ一つに、あまり美しくない動機を見出してしまってさらに落ち込む。最近、精神と身体の結びつきが強まっているのか、体調までおかしい。なんだか、自分の所属するどのような居場所にも、いる権利がないように感じる。これまで自分がやってきたことさえも、全部否定してしまって、やればやるだけ悪い方向に行っているような、無力感に陥る。

なに、やってんだかなあ、と、ぼけっとしていて、「おまえなんか、いらない」とわたしに告げているのは、ほかならぬ自分だ、と、気づきました。仮にほめられたとしても、「自分はよくやったんだなあ」と、少なくとも漠然と感じていないことには、受け止めることができないのですね。

あんまさあ、いじめるのやめようよね、と、つぶやいてみました。落ち込んでもみっともなくても、わたしがわたし自身をやめることは(たぶん)できない。だったら、「おまえなんか、いらない」よりは、「ま、そういうときも、あるよね」くらいのほうが、幸せに生きていけそうな気がします。せめて自分くらいは、ね。

030515 逃げないように。

kaoruさんのBE ANGELに、こんなことが書いてありました;

自分のことを駄目なヤツだと思いこむ事程 楽な事はない。
駄目だと決め付ければ努力しなくて済むから。

どきっとしました。

逃げていました。「だってやってもできないんだもん、はじめからできる人には、わたしがどんなにがんばったってかなわないし、その間に相手は別のことをしてどんどん先に進んでしまって、わたしは取り残されてしまうんだもの」と、だって、だって、を、繰り返していました。

◆◇◆◇◆

たいした労力をかけていないのに自分より多くの結果を手にしている(ように見える)ひとを前にすると、自分がやっと積み上げてきたものすら、ひどくつまらなく見えてしまうことがあるのです。でも、わたしはそれ以外の方法では、多分ここまで来ることはできなかった。それ以外の方法を、思いつくことはできなかった。

自分がかくありたいというほどの成果は、ひょっとしたら出ていないのかもしれないけれど、それでも、だからといって、自分のやってきたことを否定する権利は、たぶんわたし自身にすら、ないのだと、今は思います。

それに、まだ、がんばれるはずです、わたしは。せめて目の前にあるものだけでも、確実にしていかねば、ですね。

◆◇◆◇◆

人は、自分をやる他ないです。

そう書いてあったのは、吉本ばななの、サンクチュアリ、だったでしょうか。

030516 ある朝の風景。

今朝は、朝からチュートリアルコアタイムでした。チュートリアルコアタイムというのは、チュートリアル室に、7人〜8人で集まり、先生の監視のもとに、その日配られる症例についてディスカッションする場であると、仮に定義しておきます。定義上、出席が採られます。ですから、遅刻するわけにはいきません。

一コマは、8時30分開始です。チュートリアル室は、わたしの家から見て、学校内で一番遠いところにあります。普通、自転車+降りてからの歩きで、20分かかります。

◆◇◆◇◆

今朝起きたら、7時30分から8時まで母がつけているはずの、テレビの音が聞こえませんでした。8時10分でした。携帯目覚ましは、目覚まし画面のまま止まっていました。通常画面を表示させると、マナーモードのままで寝ていたことが判明しました。

「なにっ」とだけ叫んで着替えて水筒にお茶を詰めてリュックに筆箱を放り込んで顔を洗って、時計を見ると8時16分でした。「鍵閉めといて!」母に声をかけて自転車に飛び乗りました。

自転車ってスピード出るんだなあ、と、感心しつつ学校に着き、掃除のおじさんをニアミスでよけつつ廊下を走り、担当の先生がプリントを配り終わるか終わらないかの所で教室に到着しました。

◆◇◆◇◆

アドレナリンの血中濃度が上がるのを実感できた稀有な朝でした。

030517 プチ整形について。

高額納税者が、発表されました。美容整形の医師が、4人入っているのだそうです。プチ整形(メスを使わずに注射や糸などによって行う整形)がブームだからね、と書いてあります。

◆◇◆◇◆

「美容整形?病気でもないのにいじるの、顔とか」と、わたしたちはしばしば言います。でも、例えば、先天的にあざがあったり、顔の一部が欠けていたりしてしたら、それは何とかしようとするでしょう。それは治療といわれます。たぶん、誰もが認める医療行為です。

線引きは、『疾患にかかわりがあるかどうか』なのでしょうか。

◆◇◆◇◆

『見栄えだけを追い求めるのはよくないよ』と、しばしば聞きます。

『エンジェル伝説』という、マンガがあったのを、ご存知ですか。すごく素敵な性格の男の子が、顔だけ凶悪犯人みたいで、それゆえにそのよさがわかってもらえずいろいろとトラブルに巻き込まれる話です。

やっぱり、見栄えで左右される部分が、ゼロとは言えないなあ、と思います。

◆◇◆◇◆

20才くらいまでは、自分で稼いだお金が十分にあって、安全が保証されるならば、整形したいと思っていました。今よりもっと、『もって生まれた容姿』に、こだわっていました。

とくに10代のころは、男女ともども、少なくとも容姿に関して、残酷です。他人に対しても、そして、おそらくは、自分に対しても。やっぱかわいくないとダメなのかなあ、と、日々少しずつ絶望を蓄積していました。そして、例えば化粧とか、服装とか、表情とか態度とか、カバーする方法を、多くは知りませんでした。「これこれの方法でカバーしてみれば」とアドバイスされても、「だってもとが悪いのに悪あがきするなんてなおさらみっともないじゃん」と、素直に従うことが非常に難しかったのを覚えています。

その反面、『容姿にこだわる自分』が、許せませんでした。超然として生きたい、と、願っていました。

◆◇◆◇◆

今思っているのは、何らかの不満があるのなら、整形に伴う金銭的・時間的費用と、危険性(手技の危険性だけでなく、やってみて気に入らないなども含む)を考慮してつりあうと判断するかぎり、やってもいいのかなあ、というところです。えらく月並みで、申し訳ないのですけれど。

ひょっとしたら、整形に対する反発の一部は、『楽してきれいになってしまうことへの反発』なのかな、なんて思ってみたり。でもそれって、余計なお世話ですよね、きっと。

ただ、変えると決めてから、少し時間を置いたほうがいいのかな、とは思います。しばらくたつと、「ま、これも悪くないかな」と、思えるようにならないとも限らないですから。

030521 『まれ』な病気の定義。

今日からは眼科の授業です。昨日までは耳鼻咽喉科でした。

耳鼻科では2例、症例が配られました。今日1例、眼科の症例をもらってきました。(症例というのは、患者さんの訴え・検査所見などが書かれた紙のことです。これをもとにグループ自習するというのが、最近の、うちの大学の授業スタイルです。)

◆◇◆◇◆

耳鼻科の症例のうちひとつは、「標準耳鼻咽喉科・頭頚部外科学」という、学生が使うテキストの中ではもっとも分厚くていろいろ載っているたぐいのテキストにも病名さえ載っていない疾患の患者さんでした。つまり、非常にまれな疾患の患者さんだった、ということですね。学生は教科書を隅々まで検索して当てはまるものがないことに驚いて、いろいろ無理な説明を試みました。結果、誰かがネットで『この疾患がぴったり当てはまる』ことを見つけました。次の日には『そうだそうだ』とその病名がクラス中に広まりました。結局、すべてのグループがその診断をつけました。先生曰く、正解でした。見つけるとは思わなかったと、ほめられました。

さて、この症例を『学習』して、学生の間で話題になったのは、『こんなまれな(しかも原因不明で他の基礎医学とも関連させづらく、診断名が出てきたらそれで話が終わってしまうような)疾患は、耳鼻科に進むごく僅かな人間が耳鼻科に進んでから勉強すればいいことで、今のうちはもうちょっと頻度の高い、いわゆる『重要な』疾患について学んだほうがいいのではないか』ということでした。もちろん、まれな病気もその患者さんにとっては一大事です。それはわかっていますけれど、使えるエネルギーは有限ですから、まずは頻度の高い疾患から、と思うわけです。

◆◇◆◇◆

さて、今回の疾患も、「標準眼科学」に、ほんのわずかしか記述のない病気でした。しかも、クラスの誰も、聞いたことのない疾患です。「耳鼻科に続いて眼科もこんなまれな疾患を…」

ところが、ネットで検索してみると、(アメリカで、ですが)1000人に3人はかかる疾患、とありました。知らないだけで、結構多い。全人口にしめる医者の数並み、あるいは、脳卒中年間発症率なみです。なんと、知らなかっただけでしたか。しょんぼり。

「この疾患って、まれだよね」しばしば不用意に口にするのですけれど、それって単に、「聞いたことない」だけだったりします。まれだ、と言い切る前に、発生頻度を確認しないといけませんね。疾患名だけでなく、いろいろなところで同種の問題を起こしていそうな気がします。

030522 『ノルウェイの森』を引っ張り出す気分。

「私が求めているのは単なるわがままなのよ。完璧なわがまま。例えば今私があなたに向かって苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放り出して走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて『はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ』ってさしだすでしょ。すると私は『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ』って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの」

「私は相手の男のひとにこう言ってほしいのよ。『わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のショート・ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレート・ムース、それともチーズ・ケーキ?』」
「するとどうなる?」
「私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの」

村上春樹、『ノルウェイの森』の一節でした。

このくだりが今日一日頭から離れませんでした。別に何をしてほしいというわけではないのです。単に、わがままを聞いてほしいような気分なのです。でも、じゃあ言ってみろと言われても、何も言えない。何をしてほしいのか、自分でもわからない。扱いに、困りますね。だから、そんな気分は、自分の中で転がして、遊んでいます。ああ、いまわたしはそんなふうに思っているんだなあ、って。

「女の子にはね、そういうのがものすごく大切な時があるのよ」と言うミドリに、賛成の意を伝えたい。もうわたしは、『女の子』ではないかもしれませんけれど。

こんなことはめったにない──と言いたいところですけれど、さて、どうなんでしょう。都合の悪い記憶として、自動的・かつすみやかに消去してしまったのではないかとも疑っています。まま、今日のところは、いわゆる急性上気道炎による咽頭痛(註。のどがいたいです。たぶんかぜです。)が原因であるということにしておきましょう。

学校から帰って『ノルウェイの森』を─たぶん一年ぶりくらいですね─二冊とも取り出してぺらぺらめくって、このシーンが、話の、ずいぶんとはじめにあったことに驚きました。すでにページの端が折られていました。以前にも一度や二度は、同じような気分でいた日があったものと思われます。

030524 サイト鑑定。

サイトをはじめて、だいたい2年半になります。

はじめの頃は、迷走していました。文章も書きなれてなくて、サイトなんてどうしたらいいかわかってなくて、自分が何がしたいか、何が得意なのか見えてこなくて。

で、当時のわたしは、「そうだ、鑑定してもらおう」と、思いつきました。2つのサイトで、鑑定を申し込みました。そのうちの1つはずいぶん混んでいて、しばらくは、いつ評価してもらえるかなと、ちょくちょく見に行っていたのですけれど、ここ1年ばかりは、すっかり足が遠のいていました。

◆◇◆◇◆

先日、アクセス解析を見ていると、見なれないリンク元が目にとまりました。なんだろう?とクリックしてみると、2年半前に申し込んだ鑑定の、結果が出ていました。ホームページはこちらです→ぺグちちの虫干し屋

鑑定申し込みの書きこみがコピーされていました。その文体は、なんとなくいまのそれとは違うように感じました。

すこしは、成長したでしょうか。そういえば、最近は、鑑定サイトを探さなくなりました。

030525 色を勉強する/学問に王道なし。

最近、「色彩と配色」というテキスト用いて、配色の勉強をしています。正確に言うと、色票(「正確な」色の色紙)を、指定の枠に、カッターで切って貼りつける作業をしています。色票は96枚=96色あります。

◆◇◆◇◆

使える色は、こんなにあるんだなあ、と、驚いています。テキストに示されている記号に沿って従順に切り貼りをしていると、「そういえばこんな色、使おうと思ったことすらなかった」という色が多く出てくるのです。各色の存在はもちろん知っていました。見たことない色なんてありません。ほとんどの色は、色鉛筆としても、持っています。でも、やっぱり、改めて、驚いたのです。日頃、絵を描いたり、ノートに図を書いたりする際、様々な色を用います。でも、使っている色は、限られているのですね。

◆◇◆◇◆

今日切り貼りしたページには、自由課題がありました。3個並んだ正方形に、好きな色票を貼るというものです。色彩感覚が向上したとか、配色センスがよくなったとか、そういう変化は全く実感できないのですけれど、少なくとも、使おうと思いつける色は増えたんだなあと思いました。そして、それに伴って、色で表現できると信じられるイメージの幅が、広がったように思います。

◆◇◆◇◆

ちまちま切り貼りなんていう方法をこの本が採っているのは、発行が1970年代だから、というのが理由の一つでしょう。印刷品質がいまいちで、正確な色を出すには、色票を添付するしか方法がなかったのだと思います。

いまは、きれいなカラー印刷の本が安く出回っています。そっちを眺めるほうが早いのかなあ、と思ったことは一度ならずあります。でも、切り貼りという手作業は、一つ一つの色を印象づけるという意味において、有効であるかもしれません。眺めているだけでは、わたしは、「いつも使っている色の使い方」しか、学べなかったかもしれないと思うのです。

色は身の回りにあふれているけれど、使えるほどに慣れ親しむことができるのはほんの一部です。相当意識しないと、いま自分の選択肢に存在しない色を、「新たに」とりこむことは難しい。色票をカッターで切って両面テープ(あるいはスティック糊)で貼りつける、くらいの手間は、必要なのでしょう。「学問に王道なし」の格言は、ここでも有効であるようです。

030526 風邪と病院、疾病利得。

先週前半から続いているいわゆる感冒(かぜ)症状が、1週間続いておさまらないどころか逆に悪化しつつある気がしてきたので、とうとう近くの内科に行ってきました。けっこうしんどかったのに延ばし延ばしにしていた主な理由は、「なんともなかったらかっこわるい」、からです。いつもそんなことを言っては、病院に行かない傾向があります。たまにこじらせます。

で、1コマ目だけ授業に出て、その後自習であるのをいいことに帰ってきて、内科に行きました。熱を測ったらちゃんと熱がありました。心配するどころか「気のせいじゃなかった、よかった」と、内心ほっとしました。薬をもらって帰ってきて、飲んで寝ました。

6時間ほど昼間に寝たので、いまは目がさえています。だいぶ楽になりました。プラセボ効果なのか否かについては、いまのところは問わないことにします。

◆◇◆◇◆

病気(というほどのものではありませんけれど)を理由にして、さぼったりかまってもらったりしたい、と、思っているところがあります。「それなのに」がんばっていると、思ってほしいのかもしれません。真剣に闘病なさっている方々、ごめんなさい。

そう、わたしは、ただ、かまってほしいだけなのかも、しれません。

◆◇◆◇◆

熱も下がったところで、明日の、眼科のテスト勉強に、とりかかることにします。

淡々としていなくもない日常。>日記・雑記目次 >2003年5月の日記