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◆2003年4月の日記◆

030401 芸術の価値。

芸術の価値とは、ある作品が、ある人に呼び起こす、共感の大きさの総和である、わたしはそう定義しています。

音楽でも絵画でもあるいは小説などの文章でもかまいません。創るときには、やむにやまれぬ動機があって、創るのでしょう。何か表現したいものがある、感情や想いがあって、それをかたちにしたい、そういう衝動を、「創る」という中に、感じます。常に創らざるを得ないひとが、芸術家なのだとも、思います。

その作品に触れる他の人に、その作品を作る契機となったのと重なる感情・想いがあった場合、共感が起こります。ここで問題なのは、その感情が、共感を起こすことができるくらい明らかに示されているかどうか、また、どれだけ多くの人に、共有されているか、でしょう。

ある人がある作品に大いに共感した場合、彼あるいは彼女は、「この作品はわたしにとって価値が高い」と言うことができます。でも、だからといって、「この作品はすべての人にとって価値が高い」とは、直ちには言えません。ただ、人間の持つ感情は、深いものであればあるほど、他の人と共有されている可能性が高いという精神分析的考え方を採用すると、呼び起こされる感情の質と表現方法の巧拙によっては、「この作品はすべての人にとって価値が高いのではないか」と想定することも、不可能ではないかもしれません。

030402 人間の盾と『誰かのため』ということ。

ある人間の盾参加者のコメント要旨(要約 by Noko);「わたしは、イラクの人々のために、人間の盾に参加した。イラクの人達は、戦争反対に違いないと、確かめたわけでもないのに確信していた。しかし、イラクの人々は、フセイン政権打倒を目指す今回の戦争を歓迎していた。ということは、わたしたちは、結局、何をしていたのだろうか」

人間の盾で戦争が防げるという考え方は、ここでは問わないことにしましょう。ここで問いたいのは、その動機です。

「わたしはこの地球上に戦争が存在していることに我慢できない」あるいは「イラクの人達は戦争がないほうがいいと思っていると『わたしは』信じている」という理由で、反戦活動に携わるのは筋が通っているけれど、「イラクの人々のために」という理由ならそれはちょっと違う、とわたしは思います。たとえその行動がほんとうに、イラクの人々の利益につながったとしても、たぶんそれはちょっと危ない。

「自分」が何かを望み、あるいは望まずに、行動したあるいはしなかった、それを自覚するのが、自分の行動に責任を持つということだと思うのです。その「自分」の存在をあいまいにして、「誰かのため」を前面に出すと、間違っても訂正できなかったり、間違いに気づくのが遅れたり、そもそもほんとうに「ため」になっているかどうか確認することすら思いつかなくなったりします。

世の中の大半のことにはいい面と悪い面の両方があります。誰の視点から見ても100%正しいことなんて、なかなかありません。そんな中、日々、何もしないことを含めて、選択を繰り返しながら生活しているわけです。せめて、ほかならぬ自分が選んだことなのだという、自覚を持っていたいものだと思っています。

030403 その文章は誰のためのものか?

ヘイ・ブルドッグを眺めていたら、ちはるの多次元尺度構成法、2001年11月21日の日記について言及してありました。書いてあったことはつまり、「ある文章が難解なのは、自分のために書いているからなのだろう。」ということです。そんな文章って他人にとっては意味がないだろう、と言っているように、わたしには思えました。

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このサイトの文章って、じゃあ、誰のために書いているんだろう、と、思いました。「わからない」と言われたことが、過去、一度ならずあり、「じゃあ、読まなくていいよ」とは開き直れず、かといって「わかるように」内容を変えることもできないまま、今日に至っている、そんなことを思い出し、これは、まずいかもしれない、と、ちょっとどきどきしました。

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正直なところ、わたしのため、の割合が、ずいぶん高い気がします。誰かのため、なんて、ちょっとおこがましいかな、と首をすくめるような気持ちも含めて。

まずは、(1)自分のための考えをはっきりさせるために書く、という目的があるのです。それに次いで、(2)できれば他の人とも共有したいなあ、という思いがあって、なるべく多くの人にわかるような文章を心がけようと試みています。でも、たぶん、あくまで、(1)があってこその(2)なんだろうなあと。

そんな中お付き合いしてくださる方々には、ほんと感謝しています。ぺこり。

030404 「かんじんなことは、目には見えないんだよ」

例えば、何かをすることで防げるはずだったトラブルが起こったとします。「あのとき〜していれば、〜は起こらなかっただろうに」仮定法過去完了、ですね。

じゃあ、その「何か」をしていたとしたらどうなるか。トラブルは起こりません。その「何か」が、果たして、何かの役に立ったのかどうかさえ、わからないことが多いでしょう。本人は、徒労だと、感じるかもしれません。

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忙しそうにしていることと目標が達成されていることは違います。エネルギーを使ったことが重要なのではなく、目標に近づいたことが重要なはずなのに、「何もしていない」という自覚は時としてあまりにしんどいから、とりあえず何かの活動に従事して安心を得ようとしてしまうというのは、案外ありがちなことのように思います。

目標方向に向かっていない作業をしないと決めたら、実はそんなに忙しくないことに気づいて、愕然とするかもしれません。

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そう、実は、ぱっと見でわかることの下には、いろいろなことが隠れているのですね。見えなくさせているのは、わたしの臆病さと、怠慢と、想像力の足らなさ、でしょうか。

何とかしてのぞき込んで見えてくるもので、救われることもかえってつらくなることもあるけれど、そうやって見えてくるものをよりどころとして、自分を律したり許したりできるといいなあ、と思います。

030406 気づいたこと。

本屋にいました。なんとなく新書の棚を眺めていました。

たくさんの本がありました。いろいろな人が、それぞれの欲求や環境に応じて自分の周りの事態を整理していて、扱った題材も扱い方も違って、だからこんなにたくさんあるのでしょう。

ふと、わたしも、わたしの正しいと思うことを、自由に追求していいのかもしれない、と、思いつきました。他人からの「それは正しい」という傍証は、あったほうがいいのかもしれないけれど、なくてもいいんだろうなと。

なんだか、いい気分でした。

030407 選挙と民主主義の成熟度について。

統一地方選挙が、これから行われます。

わたしの住む地域からも、選挙に出る人がいるらしく、母は呼ばれて、集会に出かけていきました。近所に住む年配の女性が、呼びに来て、その上、出席をとっていたと聞きました。

で、どういう話だったの、投票したくなるような話だった?と問うと、近所という「縁故」=「理由」があるから、ぜひわたしに投票してくれ、という主旨だった、と、返事が返ってきました。そういう理由で集まった人が相手だから、仕方ないのかもしれません。「今年なんかマシなほうよ。前回なんか、選挙のお手伝いをさせられたわ」

年配の方々にしてみれば、「近所なんじゃけえ応援するのは当然じゃろう」ということなんでしょう。便宜を図ってもらえるかもしれないという気持ちも、あるいはあるのかもしれません。「近所のよしみで」とかなんとか。

もちろん、「近所だから」と集会に呼ばれて出かけていっても、そのひとに投票する義務はないし、もちろん、投票したかどうかを確認する手立てもないわけなのですけれど、「近所だから」といって集会に呼び出されたりして、しかも語られるのは縁故の話だということは、それによって票が見こめるという現実を表わしていると思われます。

行政においてよくわからないことがたくさん起こってしまうのは、必ずしも政治家の質が悪いわけではないかもしれません。票を盾にいろいろなことを期待している、いわゆる選挙民が、今の状況を作り出しているのだろうなあと、いまさらながらに実感したのでした。

030408 新年度ですから。

今日は、春休み最終日でした。じつは2ヶ月も休みだったのですね。病理に通って顕微鏡をのぞいて、日本各地あちこち行って、その中でいろいろあって、自分のあり方を反省して──全体として、いい春休みだったと思います。

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いま思うことは、自分自身を含めて、ものごとを、ありのままに見ることができるようになりたいなあ、ということです。いいわけとか、なかったことにしたいという衝動とか、そういうのはいったん脇にどけて、自分の周りあるいは自分の中で、何が起こっているのか、感じられるようになりたいです。

そして、生活を、シンプルにしたいです。やりたいことと、どうしてもしなきゃいけないこと以外のことを、できるだけ削りたい。「やらなければいけないと思いこんでいるけれど、実はしなくてもよくて、しかもやりたくないこと」の一掃を、はかります。週末にはせめて、デッサンの一枚は描けるように。

あと、ささやかな具体的計画。ラジオ英会話・レッツスピークを、毎日聞きます。今日は、二日目でした。

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明日から、学校が始まります。

ある意味、「こうしよう」と思っているわたしの計画が、試される日々になるのでしょう。

前向きな人たちに刺激されて、ちょっとやる気です。

030411 もう一度落ち着いて周りを見渡してみる。

水・木・金と、3日間学校に行きました。久々に日常の人間関係に復帰して思ったことは、少しは周りが見えるようになったのかもしれないということでした。

これまで、「ダメなところだらけなわたしとびっくりするほど完璧な周りの人々」というのが、自分の周りに対する、わたしのイメージでした。はっきりと意識することは少なかったけれど、そういう思考の流れは、確かにありました。

でも、周りの人たちにも、人の話が聞けなくなったり、何とかして自分を周りに認めさせようと虚勢を張ってみたり、そのためについつい他人を否定してしまったり、する時があるのですね。そしてときに、そんな自分に気づいて、何とかしなければ、と、じたばたしている。そういうのってわたしだけなんだと、どこかで思っていました。

もちろん、「みんながやっているから」わたしもそれでいい、というわけでは、ありません。ただ、なんとなく、「あのひと完璧だよね」というより、「それでもあのひと、なんだか、いいよね」「そういうとこもあってさ、それをなんとかしようとがんばってるんだよね」というほうが、気持ちとして地に足がついているような、優しいような感じで、そういう気持ちを他人に対して抱きながら、日々生活していけたらいいなあと、思ったのでした。

030412 選挙について。

明日は統一地方選挙です。日中ずっと、選挙カーの声が響いていました。これまでになく感情のこもった、抑揚のある声で候補者の名前を連呼しています。県議・市議合わせて17名が入れ代わり立ち代り現れるので、誰が誰かわかりません。車に乗っているほうもたいへんだろうなあ、仕事だし仕方ないんだろうけど、と、苦笑してしまいます。

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母が、インターホンで呼ばれました。「何だって?」「候補者がうちの前の道路を通るから、降りてきんさい、だって」「通るって何。手ぇ振るん?」「そう、これも近所づきあいだから」

日本の選挙は秘密投票で、誰が誰に投票したか、本人以外は知ることができません。例えばうちの母が玄関に出て某候補者に手を振ったからと言って、彼女がその候補者に投票するかどうかは誰にもわからないわけです。

選挙候補者は、選挙に当選するか否かで、180度生活が変わるといいます。そんな中、できるかぎり自分に投票してくれる人を集めるのが、選挙運動です。でも、例えば街頭で手を振ったからと言って、選挙を手伝っているからといって、自分に投票してくれる確証はないわけです。そうでなくてはいけないんだけれど、それってすごいことだなあと、感心してしまいました。

030413 「市民」ははたして、善意で無力な被害者なのか。

今日、夕食時に、ぼけっとテレビを見ていたら、イラクのバクダッドで、市民数千人がイラク国立博物館に押し入り、展示物を略奪して去っていった、というニュースをやっていました。なんでも、メソポタミア文明の資料を含む、17万点にものぼる石像や宝石やなんやかやが、みんな持って行かれてしまったんだそうです。博物館はただの箱のようになってしまっていました。床には、不穏な感じの破片がたくさん落ちていました。

この報道が真実であると仮定します。

戦争に乗じて、外部のもの、とくに軍隊が(事故を含む)破壊活動あるいは略奪を行ったというのならば、「だから戦争っていうのは」「だから軍隊っていうのは」ということで、なんとなく安心できるような気がしませんか。

でも、そうではありません。戦争が終わって、無政府状態になったからといって、「無辜」であるはずの、多くの場合単なる「犠牲者」であるはずの「市民」が、人類全体の遺産であるところの貴重な資料を略奪していったのです。 一人でいたら、やらなかった、そんな人が多いのではないかと想像します。周りの人達がわれさきに略奪に走っていれば、わたしだって、つい流されてしまうかもしれない、と思います。そうしなければ損だ、みたいな感情に流されて。

戦争をはじめとする大きなできごとにおいては、「彼ら無慈悲で強力な、加害者であるところの上層部」と、「我々善意で無力な、被害者である一般市民」の二分法が流行します。自分と切り離して自分は悪くないと言い切るのは気分がいいですから。

でも、きっと、わたしたちは、そんなに安全な場所にいるわけではないのです。「彼ら」と「わたし」の境界は、くっきりと引かれているわけではなくて、立場が変わればきっと容易に入れかわってしまうくらいのものなのでしょう。居心地は悪いけれど、これはたぶん、必要な認識だろうと、考えています。

030414 春なので。

リュックに荷物を詰めて背負い、学校に歩いていきました。

帰り、いつもは通らない川沿いを通ることにしました。散った桜で、地面が半分くらい桜色になっていました。川にかかる橋はどれも、ずいぶん車通りが多いのですけれど、橋と橋のまんなかにいると、ずいぶん静かなことに気づきました。背もたれのないベンチに腰を下ろして、リュックからお茶を出して、飲みました。

もう散ったと思った桜が、木によってはまだ、ずいぶんたくさん咲いているのに気づきました。さすがに、どの桜の木にも多少は葉が出ていましたけれど、視界を狭くしてじいっと花を眺めていると、なかなか絵になる、よい感じでした。遠くから見ると、桜の色って結構白っぽくて、背景となる空の色によってはさみしく感じることもあるのですけれど、近くで見ると、かわいいもんですね。

ああそういえば、こんな近くで桜を眺めたことなんて、ここしばらく、ありませんでした。

030415 自己分析の要点。

ここ一か月あまり、ノートに、自己分析っぽい日記をつけてみて思ったことは、「起こったことに比してあまりに大きい感情の揺れが起こった場合には、その下に必ず何か、今まで明瞭に意識することを避けてきたものが隠れている」ということです。

その、隠れているものを、言語化する作業を続けています。「精神的な問題は、意識の光のもとにひっぱり出せば=言語化あるいは他の手段で表現することができれば、解決する」と、考えるからです。これは、精神分析の基本精神でもあると、わたしは理解しています。

すべてを言語化することができると、信じているのではないかと、ある人に問われました。それは、言葉の力を過信していることになるのではないかとも、言われました。どうでしょうね、と、そのときは答えました。今思うに、やっぱり、言語化できるはずだと、信じているのでしょうね。

030418 敵は自分自身。

優先順位をつける、ある行動をとるかとらないか決定する、さまざまな場面において、適切な判断ができないことが多いように感じていました。ある時点で、道筋がおかしくなってしまいます。あるいは、考えることを放棄してしまいます。

意志決定のプロセスに問題があると感じました。正しい意志決定=論理であろうと考え、論理的な考え方を学ぼうと、何冊か本をぱらぱらめくってみました。

方法を学ぶこと、そのトレーニングを積むことは、これからはじめます。

しかしそれだけでは十分ではないようです。同時に、「自分の考えたい方向に考えてしまう」傾向を除かねばなりません。わたしがひどく非論理的になるのは、問題が自分にかかわるときです。せめて自分の頭の中では自分の都合のいいようにものごとを進めたいと、どこかで思っているのでしょう。

自分はどの方向を向いてしまいがちなのか。何を避けようとしているのか。自分の傾向を知り、それを常に意識にのぼらせておく必要があります。

行動を変えるときにはいつも、「汝自身を知れ」という命令がついてまわる、そんな印象を持っています。

030419 名前で検索。

日頃わたしは、署名に、Nokoを使用しています。オフラインでもです。

アクセス解析を眺めていると、Nokoで検索して、このページにたどり着いている人がいることがわかりました。「わたしの名前」で検索してくる人の存在を思うと、ちょっとどきどきしました。友人知人親戚などに見られてもよいページをうたっているはずなのに、です。「自分の知らないところで」検索されるとは、予測していなかったのです。甘かったです。まったくもって。

わたしをオフラインで知っている人が、わたしだと知った上でこのページを見ていて、しかもわたしはそのことを知らない、そんなことが十分ありうるようになったのだなあと、改めて思いました。

一瞬、HNをNokoにしていることを後悔しました。でもまあ、いつかばれるのならば、わかりやすいHNで、堂々としていたほうがいいかもな、と、思いなおしました。この名前、気に入っていますしね。

さてさて、これからは、今まで以上に「不慮に知り合いに見られても困らないサイト」の構築を、心がけねばならないようです。

030424 増える病気、減る病気。

わたしの在籍する医学部の授業では、それぞれの病気がどういうしくみで起こって、どのような症状をもち、どのように治療するのか、だけでなく、疫学的側面─どのくらいありがちなのか、どんな人がかかるのか、増えているのか減っているのか─もとりあげます。

「乳癌が今、増えてきています」というプリントの大見出しを見て、ふとこれまでの授業をふりかえりました。すると、「この病気は今日本でも急増していてその対応が急がれているのです」という主旨の言葉ばかりが思い出されます。減っている病気もあるのですけれど、減っているという事実を公言する先生はあまりいません。「(減っているかもしれないが、それでも)この病気の重要性は変わりません」とおっしゃいます。カッコ内はなかなか言語化されません。

講義をする先生方はそれぞれ、テーマとなる疾患の専門家です。自分の扱っている対象が重要でないと思わないと、きっとしんどいでしょうから、病気の増加が強調され、減少が強調されないのは、仕方ないと思います。でも、そんな、ひょっとしたら無意識かもしれない操作に気づくたびに、ほほえましいなあと、くすっと笑ってしまうのでした。

030426 不妊治療・親子関係・そして法律。

代理母・精子提供・卵子提供の場合の、実の親の定義について、法務省が法案を発表したとの記事を読みました。

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母親については、(代理母、卵子提供を問わず)妊娠・出産した女性が実母となります。代理母の場合は、「受精卵を植え付けられて実際に妊娠する人」が実母となり、「卵を渡して頼んだ人」は、産んだ人=「実母」に頼んで、子供を養子にすることになります。卵子提供で妊娠する場合も、妊娠した人が実母です。

卵子が誰のものかよりも、誰がその子をお腹に持っていたかが、実の母親を決める上では重要である、ということになるのでしょう。遺伝子は確かに、ヒトの本体であるかもしれません。だけど、目に見えない「遺伝子」と、実感と、目に見える変化を伴う、妊娠・出産というできごとの、どちらをわたしが優先したいかというと、妊娠・出産を優先したい気がします。お腹に持っている間に、実の母親であるという確信を持つ、というのは、ありそうな気がするのです。わたしが、代理母を頼んだ側ならば、そんなこと言っていられないでしょうけれど。

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父親については、提供精子で妊娠した場合も、(承諾さえしていれば)妊娠した女性の夫が実父です。(代理母に頼んだ場合の父親は、どうなのでしょう?頼んだ夫婦の夫が、実父なのだろうと思うのですけれど)

父親の場合は、民法772条に、「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」とあります。まず母親が決まっいて、それをもとに父親が決まるのです。

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男女平等、男女同権の世の中なのですけれど、妊娠・出産に関しては、(平等をうたう)法律の上でさえ、役割が違います。あらためて、気づいたのでした。

030427 自分についての、都合の悪い発見。

わたしは、他人の不幸は願っていないかもしれないけれど、だからといって、必ずしも幸福を願っているわけでもないようだ、と、気づきました。

それはなかなか情けない発見でした。できれば気づかずに過ごしたかった。なかったことにしておきたかった。でも、気づいてしまいました。いや、そんなことは、と、否定しかけたけれど、でも、その表現は、否定するにはあまりに、しっくりきてしまったのでした。いつもではないかもしれません。でも、確実に、そういうときはあるのです。

それは結局、わたしがいま十分には幸せでないということなのでしょう。そして、何かを成し遂げるためには、必ず犠牲がついてまわるのだからと、未来のためにいつも、現在を犠牲にしてきた、その積み重ねのせいでもあるように思います。

面白い逆説なのですが、私が自分のあるがままを受け入れることができたとき、私は変わっていくのです。私たちは、自分の現実の、そのあるがままの姿を十分に受け入れることができるまでは、決して変わることはできません。(Rogers、1961、と、諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』にありました。孫引きです。)

ずっとずっと見なかったことにしてきて、見えたときもそんなんじゃいけないと自分を叱りつけてきました。問題は解決しませんでした。

否定しても、叱りつけてもだめなのだから、今度は、受け容れることで変わることができる、と、信じてみようと思います。そういう自分自身から目をそらさずに、しばらく過ごそうと思います。ロジャーズも、この連休に、読んでみましょうかね。

030430 分娩のビデオを見たのでした。

今日の一時間目は産科の授業でした。分娩ビデオの上映会でした。

臨月の妊婦さんが、もうすぐ子供が産まれる、ってことで分娩室に入ってから、各種処置があって、子供が産まれて、身二つになって、後産が出てきて、母子ともに処置が終わって、おくるみにくるまれた赤ちゃんがお母さんのもとに届けられるまでの一部始終でした。

産むほうも産まれる方もたいへんそうでした。お母さんはほとんど泣いてました。赤ちゃんの頭はゆがんでいて、顔は灰色のような青いような色をしていました。教室中、しーんとしました。

頭が出てきて、肩が出てきて、あとはつるんと出てきました。自分の肩に力が入っていたことに、そのとき気づきました。

助産婦さんが赤ちゃんの顔を拭き、口と鼻をちょっと吸引すると、それまでフリーズしていた赤ちゃんがフギャッと泣き出しました。「おつかれさまでした」ちょっと頭を下げました。ビデオ画面が相手なんですけどね。

「あんな思いして産んでさ、でも、たいていの人は、もう一人二人と産もうって思うんだよね」「すぐ思うらしいよ」「強いねえ・・・」「まあね、人間の数だけ繰り返されてるんだもんね」「いやあ、俺、絶対女の人には勝てないって今日思った」「母親を改めて尊敬する気になったよ」

実を言うと、あのビデオを見たわたしの感想は、「一度はやってみたいかも」なのです。女ってそんなものなのでしょうか。一年くらい前まではなかなかそうは、思えなかったんですけどね。そう思えるようになった自分のことは、けっこう気に入っています。


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