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◆2003年3月の日記◆

030312 しばらくぶりです。

ここ2週間ほど、予告もなしに更新を止めていました。予告はしておくべきだったと反省しきりの管理人、Nokoです。

しばらく、家を空けていました。平和で穏やかな日々でした。昨日、帰ってきました。帰ってくるなり、置き去りにしていた問題の大群に襲われてしまいました。ずいぶんと感情を乱し、なんとなく手に取った本のページをめくり、朝といわれる時間になってから眠りにつきました。

今朝遅くに目覚めてみると、気持ちはすっきりと晴れていました。わたしはまだまだ大丈夫なのでしょう。日頃はなかなか、こうは行きません。とするとわたしはずいぶんと、エネルギーをもらってきたのかもしれません。

先送りにして逃げ出したい気持ちがないわけではないけれど、漏れのないように逃げないように、片付けていこうと思っています。楽しいことを前払いで味わってきたのだから、これからしばらくはその記憶を糧に。

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ちょっとしたトラブルが持ちあがっています。この手のトラブルは初めてではありません。この手の問題が起こるたびにわたしは必要以上に混乱していつも以上に稚拙な対処を行っているように感じます。

午後、混乱がひどく、このままでは事態を悪化させる可能性が高かったので、昔買ったまま放置してあったノートを開き、左ページにあったこと言ったこと言われたこと、右ページに感じたこと思ったこと考えることを書き出してみました。あつらえたように机の上に転がっていた、さらさらと書き味のよいペンを使って。

久々に手書きで延々と文章をつづり、見えてきたことは、わたしは、自分の抱えるある種の問題からずっと目をそむけてきたということでした。怖いからという理由で逃げつづけてきました。そして、怖いという感情もずっと、なかったことにしてきました。ひょっとしたら、今となっては、その恐ろしさは幻想かもしれず、問題と思っているものさえ、実在しないかもしれないのに。

今は春休みで、時間が自由になります。その時間を、自分の気持ちを洗い出すことに使ってもいいかな、と思いました。今ならちゃんと、向き合える気がするのです。できるだけのことをして、解決するならそれでよし、しないならそれはそれで、心を離してもいいのかなと。

一歩踏み出しました。卒業への準備です。

030313 歩くことの効用と内面的近況報告。

ふと思いついて、普段ならきっと自転車を使うだろう距離にある場所に、歩いて行きました。片道1時間、往復2時間かかりました。なんとなく、頭がすっきりしたように感じました。

遍路を思い出しました。もう一度、歩いたほうがいいのかもしれません。

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このところ、自分が何をどう感じているのかがよくわからなくなっているのです。もっと正確に言うと、少なくともそういう自分を自覚した、ということになるのでしょうか。

わたしが抱えているのはわたし固有の問題です。本を読んだり人と話したりしたけれど、結局のところどうすればいいかは、わたしにしかわからないのかもしれないと、今になってようやく、思い始めています。まずは、自分の話を聞いてやろうかなと。それが先決かなと。

たくさんたくさん遠回りをして、知っているはずの答えをさんざん苦労してもう一度見つけて、なるほどと腑に落ちてそのあたりまえさに愕然として、そんなことの繰り返しは、ものすごい徒労に見えるときがあります。どうしてわたしだけ、と思ったりもします。でも、いかにあたりまえでも、自分が腑に落ちていないことはやっぱり、それ相応の努力をして、身につけるしかないのでしょう。ないものはごまかしてもやっぱりないんだしなあと、現実直視を学びつつあります。

なんやかや気持ちがざわつくこともありますけれど、元気にしています。

030314 自画像完成しました。

冬休みに描き始め、今日まで地味に描き続けていた自画像が、今日完成しました。今日で、今年度の絵画教室はおしまいだったので、区切りとしてもよかったと思います。

毎週、「これでずいぶんいい感じ」と筆を置き、次の週、「先週のわたしの目は節穴だったのか、それとも一週間でわたしの顔が変わったのか、一体何なんだ」と首をかしげる、そんなことをかれこれ3ヶ月も続けたことになります。やっと完成して、たいへん嬉しく思っております。これなら、わたしの顔だと、自信を持って言えます。

今回の作品では、「妥協しない」がテーマでした。前回の作品は、おおむね丁寧に仕上げたものの、ところどころに投げやりになってしかもそれを修正すらしなかったという見ようによってはずいぶん痛々しい個所がそこかしこに散らばっていたのです。家の壁にかかっているので目にする機会は多く、そのたびにわたしの心はちくっと痛むのでした。

今回の作品は、家に飾られるでしょうか、どうでしょうか。自画像なので気恥ずかしいから、やっぱりしばらくしまっておきましょうか。そして、年月が経ち、すがたかたちが変わったころに出してくると、面白いかもしれません。

030315 案外捨てたもんでもないかなと。

素直と正直は、昔からいいことだったんですけどね。それは、いざという時には嘘をつける能力も自制心もあった上のことでね。(神の汚れた手、曽野綾子)

この言葉を時に反芻しながら、いつもよりは素直かつ正直に、過ごしています。あえて素直になっているのか単にとりつくろう余裕がないのか、そこは自分でもよくわからないのですけれど。

ああでも、たんに取り繕うだけのエネルギーがないのかもしれません。内面的にはかなり忙しい生活を送っていますから。このところ、おもに自分の感情について、発見の連続なのです。そして、発見されたものによって感情が不安定になっていて、ものが食べられなかったり泣いたり笑ったり、けっこういっぱいいっぱいなのです。

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そうやってあまりクールでないところをあちこちで見せて回っていると、わたしの気の持ちようの問題でしょうか、周りがずいぶん暖かいような気がします。ひょっとしたら単に同情されているのかもしれないけれど、その部分を差し引いても、相手の気持ちがストレートに入ってくるように感じています。

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いまのわたしは、パソコンでいうと、デフラグ中、という感じなのでしょうか。これを抜けたら、前よりすっきりとした世界が開けていることを、望んでいます。なんとなく、そうなる気がするので、きっとそうなるでしょう。

030316 ヒトの能力の、限界について。

「Nokoはね、自分にできることは他人にもできると、思っているでしょう。例えば相手が、Nokoの言っていることを理解できなかったとき、あの手この手で理解させようとはする。でも、どうやったって理解できない人もいるのかもしれないとは、考えないんだよね。だから、表現は易しくするかもしれないけれど、内容を妥協するってことが、ないんだよ。でもそれって、どうしても、無理があるんだよな。」

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他人にできて自分にできないことがあることはわかっているはずなのに、その逆がまったく見えていなかったというのは、ずいぶんと理不尽な話です。でも、わたしは本気で、自分にわかることは誰にでもわかるし、自分ができることは誰にでもできると、信じ込んでいた気がします。少なくとも、意識の上では、やればできるはずなのにどうして、と思っていました。そして、その考えに矛盾しない事実を優先的に、脳に刻み込んできました。

1年ほど前の日記で、昔、合気道部において、主観的には一生懸命練習していたのに、まったく上達せず、努力しているのかどうかさえ疑われたことがある、と書きました。それはとてもしんどい経験だったのですけれど、ひょっとしたらわたしは、同じような態度を、他の人に対して取っていたのかもしれません。

善意ややる気があったとしても、できるだけのことをしたとしても、あることができない人というものはいる、そんなことは、わが身をふりかえれば、すぐにでも分かりそうなものなのに。

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ここ数日、集中的に考え事をしていて、これまでの考え方ではどうにも処理できない過去の記憶に出会い、しばらくその周辺をぐるぐる回って、「ああでも、できない人っているよな」、そう思いました。何かが足らなかったとき、その人はベストを尽くしたということまで、否定しなければいけないような気がしていたのですけれど、そうではないのかもしれません。できるだけのことはしたけれど、彼あるいは彼女の能力として、そこまでしかできなかった、そういうことも、時としてあるのでしょう。

そしてそれはわたしにも当てはまることです。いまさらながらだけど、気づけてよかった気がします。

030318 それでいいんだろうと。

ここ一週間ほど、一体自分は何をどう感じているのか、ノートに書き出しながら「聞き出そうと」努めていました。そうして見えてきたものは、わたしはほんと、他人から拒絶されるのが怖いということ、そして、拒絶されて当然だろうと思っていたこと、でした。ずいぶんびくびくしているみたいです。

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幼いころ、無条件で受け入れられているとは感じられませんでした。だったらいいもん、と自分から壁を築きました。その壁で、周りの人をずいぶんはねのけてしまいました。遠ざかっていく人達を感じて、さらに壁を厚くしました。はじめから期待しなければ、裏切られないからと。

でも認めてほしくて、そうか、優れていればいいのかな、と、社会的に必要とされていそうな能力の獲得に力を注ぎました。なんとなく、そうやって努力することで、安心できました。優越を感じて、ちょっといい気分を感じました。そして、自分が向上しているような、少なくとも向上しようとしているような気がして、その間は、比較的自分を責めずにいられました。

わたしがここにいることを、誰かに許可してほしい、誰かのためになっているならば存在しても許されるのではないかと、必要とされていることを必要としていました。嫌われないために自分を抑えて他人に尽くして、でもそれは人のためじゃないから、他人のことなんて見てなくてだから的外れで。

笑っちゃいます。何やってるんだか。漠然とは気づきかけていたけど、意識には上ってなかったんです、これらのこと全部。

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結構惨憺たる話ですけど、ここまでの惨状だとしみじみ認めたら、意外なことに、そこまでひどいならとことんつきあったげよっか、わたしくらいは味方の方向で、と、受け入れる気持ちすら出てきました。

とりあえず、第一歩、なのかなあ、なんて考えています。

030324 九州に行っておりました。

日記が、5日ほどあきました。その間、九州に行っておりました。

晴れていてほしいところではちゃんと晴れていて、緑がきれいで、あったかくて、食べ物がおいしくて(結局「食い倒れツアー」だった気もします)、みなさんに親切にしていただいて、いっぱいにこにこして、素敵な旅になりました。ポイントだけ並べると;

中でもインパクトが強かったのは、大分県の「青の洞門」と、鹿児島県の「白熊」です。白熊は、出てきたものの大きさにも驚きましたけれど、それを食べきった自分に、さらにびっくり、でした。

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鹿児島でたいへんお世話になったY先生ご夫妻はとても素敵な方々でした。あんな感じで客をもてなせる人になりたいです。そして、人の好意って、わたしが今まで思っていたより素直に受け取っても大丈夫なのかもしれない、なんて思いました。

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全体を通して思ったことは、満面の笑みをうかべたり、「不束者」である自分を、まあいいか、と肯定できるくらいリラックスできる状況というのが実際に存在して、それはとても心地よいということでした。つくっている部分を全部取り去ってしまったあと残る「わたし」とやらは、えらく幼いです。でも、たぶんそれがわたしの本体みたいなもので、その部分を外に出してそれでもそれでいいと思える状況を、ずっと求めていたように思います。

030328 セルフ・カウンセリング。

ここしばらく、ノートを相手に、カウンセリングめいた作業にいそしんでおります。

書くと、思い出すんですね。書いたことをきっかけとして、いろんなことを思い出します。かなり幼いころのことから、ごく最近のことまで。もう出てこないよね、と思っても、次の日にはまた新たな何かを思い出しています。自分のことながらなかなか面白いです。

そうしてわたしにしてはかなり根気よく書いたり考えたり思い出したりしていると、さまざまな問題が、ある線の上に並ぶような、なるほど、という瞬間を経験することがあります。

今日見つけたこと;たぶん、共感してほしかったのだろうと、思うのです。よかったね、とか、つらかったね、とか、がんばったね、とか、そういう言葉を、かけてほしかったんだなあと。結果ではなく過程を、意図を、見てほしかったんだなあと。うまく行った結果ばかり拾い集めて、見て見て、とかざしていたけれど、見てほしかったのはたぶん、そこに至るまでにわたしがたどってきた道のほうだったのでしょう。

まだまだ、わたしの半ば気づいていて半ば気づいていない欲求や物語や思いこみが、掘り出されてきそうな感じです。春休みいっぱいくらいは、続けてみようと思っています。


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