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◆2003年2月の日記◆

030202 己の欲する所を人に施せ?

聖書には「己の欲する所を人に施せ」とあります。しかし、バーナード・ショウは、「自分のして欲しいように人にしてはいけない。人の好みは同じでないから」と言いました。(参照;英語ことわざ教訓事典

「自分だったら」と考えて、おそらくこうしてほしいだろうとあたりをつけてやってみて、うまくいかないことはしばしばあります。

そもそも状況把握が間違っているのかもしれません。似たようなシチュエーションを思い出したつもりでうまく思い出せていないのかもしれません。同じような状況は思い出しても、特に他人にしてほしいことなんて思いつかないかもしれません。そして、たとえ状況把握が完璧で、まったく同じシチュエーションが記憶の中に見つかって、どうしてほしいかクリアーに思いついたとしても、としても、そこにおける自分のリクエストが、相手のそれと一致しているとは限りません。

他人の思っていることを読み取ることができたら、少しでも力になれるんだろうか、なんて思ってみたりするのです。何とか読み取りたいと、もっと強く願えば、あるいは、何らかの技術において向上すれば、読み取れるようになるのでしょうか。

何かしてあげたいという善意さえ伝わればいいかなと一瞬思って、でもそれってなんか怠けて、というか甘えているのではないかな、と、あわてて取り消しました。そういういいわけは、なしの方向で。

030203 作文の記憶とサイト継続。

弟に言わせると、わたしが、文章主体のサイトをこんなに長く運営しているってのは意外なんだそうです。いわれてみればわたしは、このサイトをはじめるまで、さほど積極的・自発的に文章を書いていたわけではありませんでした。書くとしてもそれは、授業の一環か自分のためのメモ、あるいは個人宛ての手紙であり、不特定多数に読んでもらうための文章など書くことはありませんでした。

自分の書いたものを多くの人に読んでもらいたいという気持ちは、おそらくあったのです。でも、手段がありませんでした。コンクールに出して認められれば、多くの人に読んでもらう機会はあったかもしれません。でも、それはあまりに狭き門に感じられました。紙媒体で多くの人に読んでもらうほどの手をかける気にも、なれませんでした。

サイトという手段があり、読んでくださる人、何かしら反応を返してくださる方がいるからこそ、わたしは文章を書きつづけられるのだと思います。そして文章を書くことは、誰かに何かを伝えるだけでなく、わたしがわたし自身の考えを組み立てる、とても強力なツールになっています。

ほんとうに、ありがとうございます。

030204 大衆化。

その昔、文字がなかった時代がありました。

文字が誕生しました。しかしそれは、特権階級のものでした。

印刷が登場しました。手で写さなくても、文章が複製できるようになりました。書物は高価なものではなくなりました。書生という言葉が、死語になりました。

コピー機が開発されました。個人単位で、必要な文献を必要な枚数、複写することが可能になりました。

インターネットが出現しました。個人の書いたものが簡単に、多くの人の目に触れることが可能になりました。

受信も発信も特権階級だけのものだった時代がありました。そして、まず受信が誰にでもできるようになり、発信も、誰にでもできるようになりつつあります。それは技術発展の歴史であると同時に、個人あるいはヒト全体の、意識や知性や思考のありかたの歴史でもあるのだろうと考えています。

外側あるいは目に見えるものが変わることで、内側あるいは目に見えないものも変わっていくみたいなことは、意外なくらいありがちなのではないかと思うのです。マルクスの言うところの、上部構造(思想とか)と下部構造(経済とか)の関係に近いかもしれません。

030211 部屋の片付け。

久しぶりに部屋を片付けました。出しっぱなしのイーゼルをたたみ、こないだ描いた絵の題材となったマネキンを箱にしまい、散乱していたプリントを封筒に入れてラベルを書きました。

持っていたことすら忘れていたようなペンがざらざら出てきて、筆立てがいっぱいになりました。そして、読みかけの教科書や開いてすらいない文庫本や使いかけのノートが、たくさんあることが判明しました。

ひとつひとつ、片付けていくことにします。やりかけのことのうち、今でも必要性を認めるものは完了させます。認めないものは、「ここでやめる」ということを意識して封印します。完了させたという体験を積み重ねることは、わたしにとってとても重要なことなのだろうと思っているのです。

030212 病理学教室にて。

ちょっと思うところがあって、今日から病理学教室に通っています。2週間の予定です。

はじめなのでどうしていいかわからず戸惑うことは多いです。でも、「はじめだからこんなもんだよね」と、意外にゆったりかまえている自分に気づき、少しは成長したかもしれないと思いました。いずれなんとかなるだろうと、思えるようになりました。たぶん、大丈夫なのです。これまでの経験から言って。

机をいただきました。プレパラートはたくさんあります。スケッチ用のノートも準備しました。解剖その他、病理診断の各ステップで呼び出してくださいます。しばらくの間は、楽しめそうです。

030213 プレパラート。

約50枚のプレパラートを立て続けに観察して、そのうち10枚をスケッチしました。前半が消化器で、後半が呼吸器でした。まとめて見ると、診断能力が格段に向上したような錯覚が起きるということだけは、今日学びました。

明日は感染症のプレパラートに挑戦しようと思っています。

030214 よい医者・ヤブ医者・そのへんの医者

絵画教室で、医者についての世間話が耳に入りました。

その中で気になったのは、「儲け主義の医者はすぐレントゲンを撮るから」「安心したいなら複数の医者にかかるのがよく、できれば大病院に行くのがいい」の2点です。

レントゲンに関しては、気持ちは判らなくもありません。話をろくに聴きもせずにレントゲンを撮って、「肺には異常ないですね」だと、ふざけんな、という気持ちなのでしょう。話を聴いてもらえていない、説明もしてもらっていないという不満が表れているようです。他山の石としておきましょう。

でも、だからといって大病院に行ったら、レントゲンじゃすまないような気がするのです。徹底的に検査してもらって安心しようという目的にはかなっているでしょうけれども、お金と時間がかかります。

大病院の医者のほうが優秀だというのも、どうなんだか。少なくとも、診療所で頻繁に見られる病気(=そのへんでありがちな病気。風邪とか腹痛とか)については、診療所の医者のほうが経験が多くて優秀なのではないかと、わたしは考えます。

参考までに。レントゲンの保険点数は、正面1枚167点、正面側面2枚で260点、(フィルム代こみ)。1点=10円です。3割負担ならそれぞれ、501円、780円ですね。ちなみに、胸腹部CT(フィルム代別途)は1380点、MRI(フィルム代別途)は2230点です。より詳しくは、飯田高原診療所内の、医療費解説のページをご覧ください。

030215 恋の歌を聴くということについて。

宇多田ヒカルの「SAKURAドロップス」そして「Letters」を聴いています。

恋の歌は本当にたくさんあり、中でも多いのが片想い・失恋、つまり、なかなかうまくいかない想いを歌ったもののように思います。そして、別に片思い中でも失恋直後でもなかったとしても、そういう歌には容易に感情移入できるように感じています。

そういう歌にさらっと共感できるのは、類似の経験の記憶が、風化してほろほろと崩れ去りながらも、枠組だけはそれなりに鮮やかに、心に残っているからでしょうか。それとも、かすかなやりきれなさなんてものを、心のどこかに、常に抱え込んでいるからでしょうか。

030216 正解にとらわれるということ。

少し、『正解』を見つけることにこだわる傾向が出てきているようです。ほかにも、読書記録を書きたい本はあるのですけれど、今日は、「何が『正しい』解釈なんだろう?」という問いから、うまく抜け出せないみたいですから、ほかの本についての感想を書くのは、延期することにします。これだ、という答えを、自分で見つけ出せないから、外から与えられる根拠を求めてしまうのでしょうか。ともかく、そういう問いにとらわれる自分、というのが、新しい発見、というか、ちょっとした驚きだったことを、記しておきます。

030219 ICと納得診療、そしてカタカナ語の氾濫について。

カタカナ語の氾濫について語る、テレビを見ました。

国立国語研究所が、去年の12月に、「外来語」言い換え提案の中間発表を行っています。それを受けての、番組だったのでしょうか。

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確かに、わかったようなわからないようなカタカナ語は、そのへんに溢れています。最近ではカタカナを通り越して英語だったりアルファベット大文字でつづられた略号だったりもします。

ものの名前(例えばパソコンだのアルファベットだの)のカタカナよりも、抽象名詞のカタカナのほうが、わたしの気には障ります。文章の意味をぼやけさせるからです。

「やっぱさ、最近カタカナ多いよね。メリットとデメリットを天秤にかけてさ、使うかどうか決めないと」──すでにカタカナが入りこんでしまっています。文章を書くときにはある程度気をつけることができますけれど、話し言葉だとどうにも難しいです。

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番組で取り上げられていた例は、「インフォームド・コンセント」でした。確かに、わかったようなわからないような言葉です。ちなみに、プラグの相手のコンセントは和製英語で、対応する英語はありません。

英語のコンセントconsentは同意する、実行許可を与える、といった意味を持ちます。情報を与えられた上で、(ある医療行為に対して)実施を同意あるいは許可する、という意味になりますね。そのように始めから言えばいいような気もします。

題名にあげたICは、インフォームド・コンセントの略です。一般で通用しているのかどうかは知りませんけれど、学校の授業でしばしば用いられます。そして納得診療は、国立国語研究所が提案している、インフォームド・コンセントの言い換えです。ここまで言えば意味は明らかですね。「な、納得してもらえなかったらどうしよう」なんて、実を言うとちょっと心配になった、というのはもちろん秘密です。

030222 べてるの講演会と昨日の歓迎会。

今日、べてるの講演会に行ってきました。昨日は、近所の作業所で行われた、べてるメンバーの歓迎会に参加していました。

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べてるについては、は読んだことがありました。今日の講演の内容は、その本とだいたいかぶっていました。でも、だからといって、今回わたしがこの講演を聞いたことの意味は少しも減らないでしょう。何か、もっと豊かな、微妙なものがそこかしこに漂っていたと思うのです。空気、と言ったらいいのでしょうか?

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でも実は、昨日・今日を通していちばん印象に残ったのは、昨日の歓迎会で、べてるの方々が着く前に、作業所の方々に暖かく迎えていただいたことでした。

講演会担当の方にメールで予約する旨連絡したら、歓迎会があると教えてくださいました。ならば、と、わたしは、誰も知っている人がいない会場に突然お邪魔させていただきました。「座って座って」といわれてコップを渡され、きょろきょろしていると、「困ってますね?」と笑いかけられました。作業所とかそういう場所にいる人達とか、必要以上に美化する風潮は好きではありません。でも、少なくとも昨日に関しては、居心地がよかったのです。初対面の人に囲まれているとは思えないくらい。

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これって、本を読むより直接話を聞くほうが、話を聞くより体験したほうが、より深く印象付けられる、ということなのでしょうか。そんなものなのかもしれないなあ、と、くびをかしげてみたり、しています。


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