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◆2002年11月の日記◆

021107 フラッシュバック。

時々過去の忘れていたはずの場面がふとかなり鮮明によみがえることがあります。そんなとき、自分の記憶容量っていつもそうだと思っているよりずいぶん大きいのではないかと期待してみるのです。

しかしそれはひょっとしたらわずかな場面を繰り返し再生し、再生したことさえ忘れる、というのを繰り返しているだけなのかもしれません。なかなか検証が難しいところではあるのですけれども。

ともあれそうやって再生した場面の鮮明さには、特に予期せぬときにふとよみがえってきた記憶の場合は、どうしてもおどろいてしまうのです。しかし、驚きつつも、実をいうとその陰でおそらくたくさんの記憶がそれと知らぬ間に劣化していっているのだろうという根拠のない確信を抱き、それはそれでもったいないことだなあなどと矛盾した思いを抱いたりします。

何かしらの場面がよみがえるということはその場面に立ち会ったことでその場面からわたしが何らかの影響を受けていることの証拠に他ならず、そうやって積み重なった記憶の組み合わせは、たとえ一部を他人と共有するにせよわたしだけのものに違いなく、そんなことを考えると記憶こそがその人間のアイデンティティであるという説も何となく納得できるような気がしたりするのです。

021109 母性本能の存在。

「人形を奪い合って世話をしようとする息子二人」というのが、今朝の新聞の、子育てに関する連載記事のテーマでした。男の子なのに人形?と首をかしげる母親、の視点で描かれています。

添付のイラストがかわいかったのでその旨母に告げると、「Nokoは(女であるにもかかわらず)全く人形なんて見向きもしなかったのにねえ」とのことでした。

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母は少女時代、人形の世話が大好きだったらしいのですけれど、確かにわたしにはそんな記憶がほとんどありません。覚えているのは積み木にレゴブロック(初期にはダイヤブロック、って通じる人いるかしら)、クーピーの削りかすを水と混ぜる自称「実験」、砂場を占領して各種地形を構築して水を流してそこでウルトラマン人形を戦わせるいわゆるジオラマ、くらいのものです。

「人形が好きかラジコンが好きかというのは、純粋に好みの問題で、男の子・女の子は関係ないんだよ。あるいは多少関係あるかもしれないけれど、だからといって男の子なら、女の子なら、といえるほど相関関係は強くないと思うんだ。もし現在、おもちゃの好みに性差があるように見えるとすれば、それは、女の子だったら人形が、男の子だったら車が与えられて、そうでないとなんとなく非難されるとかそういう問題に過ぎないんだよ。全く自由にさせておいて女の子すべてが人形を好み、男の子すべてがラジコンを好むとすればそのほうが怖いじゃない。」えらく饒舌になりました。何か後ろめたかったのでしょうか。

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「母性本能っていうじゃない、そんなのあるのかしらねえ」と母は言いました。

存在はすると思います。でも、それは例えば妊娠して身体が変化するときに「この子はわたしの子なんだから」と実感してそういうときにはじめて備わるものではないんでしょうか。それ以前の問題、例えば子供・人形の世話をすることに魅力を感じるというのは、個人の好みの問題だし、個人差を超えるほどの性差はない、そう思います。

言いかえれば、女性だからといって生まれたときから母性本能を持っているわけではないということです。さらに言いかえれば「わたしだって子供を産めばたぶんちゃんと世話はできるから心配しなくていいよ、お母さん」ということなのかもしれません。

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ひょっとしたら、「人形が好きかラジコンが好きか」が、自然に決まらないからこそ、それを幼いころに周りから強制して学習させて、将来性別に応じた役割を担う助けにする、という生活の智恵みたいなものが働いているのかもしれません。そういう意味では、冒頭に挙げた新聞連載における母親のあせりも、そう的外れではない、とも言えそうです。

021110 学会に行く。

今日は学会でした。というとちょっとかっこいいように聞こえますか?しかし、現実はまったくかっこよくありません。うちの大学が主催している学会で、医学科3年生は全員出席が義務付けられていたのです。「襟のある服」着用で。今日は日曜、しかも金曜日には、病理学の試験が控えているというのに。

単位が人質なのでしかたがないのです。「人質であるところの、某科目の単位が某ホールに拉致監禁されているから奪還してくるよ」と朝ご飯を食べながらつぶやいたのは、そう言いでもしないとなかなかやってられないからだったのです。

発表は英語で行われていました。参加者は99%日本人だったので、ホールで同時通訳の機械を借りてアメリカ人とおぼしきみなさんに装着して頂けばいいのではないかと思ったりしました。

発表自体はそれなりに面白かったです。データがあってそこから推論して次の実験を組み立てて、という流れが見えるのはいいですね。臨床応用できそうなことを言っていましたけれどどうなんでしょう。考察には、希望的観測を述べるのが常かなあと思ったりもします。そういえば、先日特別講義にいらした先生が、「学会発表なんて三分の一はウソやからな、もしあんなんが全部本当だったら今ごろガンなんて世の中から消えてなくなっとるわ」とおっしゃっていたのを思い出しました。

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実は出席をとったあとしばらく発表を聞いてそれから抜け出して、ホールにひっそりと付属しているあまりにも静かな図書室で教科書を開き、勉強していたのです。最先端の学問も悪くはないですけれど、それよりは知っておかなければならないことをきちんと知りたい、というのが今の本音です。もちろんテスト勉強も問題ですけれど。

そういえば、発表についてレポートを書かねばなりません。そしてそれから、テスト勉強にとりかかるとしましょう。

021115 病理学試験終了。

今日は病理学の試験でした。10月頭から昨日までが病理学の授業(講義・実習・チュートリアル)で、その「締め」のテストだったわけです。

出来は、そうですねえ、期待したほどでもなかった、という感じでしょうか。チュートリアルを精力的にこなしすぎてしまったために「Nokoさんはトーゼン100点だよね?」みたいに周りに扱われてしまうのがしんどいところです。実はラストスパートがまったく効かない体質(?)をしていることにいったい何人のひとが気付いているのでしょう。

実を言うと、すでに2箇所は完全なまちがいを発見していまです。それ以上は怖いから見ないのです。テスト関連書類はしばらく封印です。

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テストが終わってぼけっと自転車をこいでいると前方に同級生の歩いている姿が見えたので自転車を降りてしばらく一緒に歩きました。

「Nokoさんは最近本当に楽しそうに学習などのやるべきことをこなしているよね」そんなふうに言ってくれました。とても嬉しかったです。確かに楽しみました。たいへんだったけど、自由度が高くて自分の興味を追求できましたし、「ここまでしか習ってないから」的なリミットがなかったので納得するまで調べたり考えたりすることができました。

テストの出来はともかくとして。楽しそうだと言ってもらえたこと、そしてわたし自身がそのコメントに納得できたことで、少なくともわたしにとっては、この病理学期間の学習は成功だったといえるのではないか、と思っています。

021122 引きこもりからの脱出と後ろめたさの関係について。

先日、ひきこもりの男性がひきこもりから脱出するまでのドキュメンタリーの一部を、テレビで放映していました。

二人兄弟で、引きこもっていたのは兄のほうです。弟がそこにビデオカメラを持って入って撮ったドキュメンタリーでした。兄は弟の介入をきっかけに、長い間の引きこもりから脱出しました。

「この場合、何が功を奏したのだと思いますか」

アナウンサーが、ゲストの精神科医に尋ねました。弟がビデオカメラを持ち込んだことで、兄にたいして後ろめたさを感じていたのがよかったのではないか、それが精神科医の答えでした。

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自分に自信がないとき、エネルギーが低下しているとき、よくない状況から抜け出そうとして抜け出せないときには、何も後ろ暗いところのない人がちょっとまぶしかったりしますよね。何となくしんどくなって避けてしまったりします。「あなたのためよ」とか何とかいって正論を押しつけられるとさらに事態は悪化します。

「でもひきこもりはよくないことなのだから認めるわけにはいかない、認めるからつけあがるんだろう」と言う、その気持ちも想像はつきます。わたし自身ももし当事者だったらそう思うかもしれません。でも、自分でよくないことだと分かっているところにさらに責められて、それでもきちんと対応しろだなんて、ちょっとしんどいんじゃないのかなと思うのです。

少しばかりの後ろめたさを抱えていることは決して悪いことではないのかもしれません。完璧なんて目指さなくていいのかな、そう思います。ついつい「誰からも後ろ指刺されないレベル」に到達しようと躍起になってしまうわけですけれども、そんなの到達しないほうがお互いのためなのかもしれません。

「わたしは何も悪くない、こんなにがんばっているのにどうしてあなたは」くらいなら、「まま、人のことなんていえないからね」と肩をすくめるくらいがいい、そこまで言うと、言い過ぎになるでしょうか。

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ここまで書いてふと思い出して「続・誰のために愛するか」(曽野綾子、新潮文庫)を開きました。

常日ごろ悪妻だという自覚のある妻のほうが、いざとなると、夫を立てねば罪ほろぼしができないような気がしているらしい。申しわけないという気持ちが、感謝に変る。

そうかそうだったのか、やっぱりそうなんじゃん、と大いに納得しました。おそらく、夫婦だけではなく、いろいろな人間関係について当てはまるよね、と。しかし文章はまだ続きます。

それならば、一般論として妻は好き勝手なことをしていいかというと、やはり自ら節度というものも大切で、このへんの呼吸を、わたしにもし娘があっても、とても、うまく説明してやる自信はない。

なかなか、むつかしいみたいです。いずれなんとか、習得できるといいのですが。

021123 カリキュラム問題。

今週は一週間、第三内科による授業が行われていました。うちの大学の第三内科とはすなわち神経内科です。扱う病気は、、脳卒中、頭痛、パーキンソン病、ALSなどです。脳・脊髄・神経(解剖すると実際、ひものように見えます)に、実際に眼に見える病変が証明できる病気、がメインターゲットです。精神科や心療内科とは異なります。

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一週間、と冒頭に書きました。一週間で終わってしまいました。テストも終了しました。

冷静にカウントすると、一コマ60分x一日6コマx5日=1800分です。90分授業を週一回、半年行ったとすると、だいたい16回くらいになりますから、90分x16回=1440分です。実は、一週間集中講義をするほうが、半年間週1コマずつ授業をするより多くの授業時間に相当するのです。そう考えると、かなりの時間を神経内科に費やしたといえるでしょう。

でも。「えらく駆け足だったよね」「結局なんだったんだろうね」「全然身についてないよね」、これまで通りのカリキュラムでもやはり同じような文句が出ていたのかもしれません。でも、少なくとも現行カリキュラムにおいて、「身についた」という達成感が得られていないのは事実です。何もわたしに限った話ではなく。

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何かが間違っているのではないかと思いました。ちりんの部屋の日記過去ログ「2002/01/02 (水) 縦割り学習法 」を読んでいて、「復習せずに新しいことをどんどんやっていって、労多くして結局は何も覚えていないパターン」にあてはまるのではないかと思いつきました。「わかった」という達成感を得ないままに次へ次へとベルトコンベアー的に押し出されてしまうのが問題だと思うのです。

解決する一つの方法は、上記ページにもあるように、ある期間ある特定の分野(例えば脳卒中)を掘り下げていってその分野についてきちんとマスターすることなのかな、と思います。最近はやりのチュートリアルあるいはケーススタディは、そういう効果も狙って作られているのかもしれません。

021124 マグリット展。

マグリット展に、行ってきました。

この美術館こんなに人がくることあったっけ、というほどたくさんの人が来ていました。手をつないでいるカップルがやたらと目に付いてちょっとうらやましかったりしたのですがそんなことは本題とは関係ありません。

かなりたくさんの絵が来ていました。代表作とされている絵も多かったように思います。

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わたしはマグリットの絵が大好きです。絵を描きはじめたとき、目標としたのはマグリットでした。くっきりした線も、なだらかなグラデーションも、ありそうなものをくみあわせて創り出されるありえない画面も、表面に凹凸の少ない画面も、まさにわたしの理想なのです。

今回実物を眺めて気付いたのは、質感が完璧に再現されているということでした。物の質感が確かにとらえられているから、組み合わせの不思議さが際立つのですね。古ぼけた木で床も壁も天井もテーブルも、皿もグラスもパンも作られているような絵がありました。形からそれぞれのものが何であるかは一目瞭然であるのにそれでも質感から木にしか見えないのです。文脈を無視してそこに存在するのにやっぱり何であるか見る者にわからせてしまう、そのくらいの力量がないとシュールレアリズムなんてできないんだろうけどやはりそれだけの力量というのはたいへんなものだと思ったのでした。

そしてもう一つ気付いたのは、ヨーロッパの画家にしてはとても青がきれいだということです。ピンク─バイオレット─コバルト─水色の系列に、混じりけがなくて、透明感があります。写真でもわからなくはないけど、比較的写真と実物の乖離が少ない画家だとは思いますけれど、それでも、実物と写真とでは色が違う、そう思いました。油絵というとどうしても、赤や茶色やオリーブ色で描かれているような気が(自分が描いていてさえ)するのですけれど、パステルや色鉛筆にも匹敵するような透明な色も出せるのですね。

絵を始めたそもそものスタート地点を思い出しました。これから少しでも、そのスタート地点を意識しつづけられるといいよね、と、ポスターを一枚買いました。

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外に出て顔を上げるとマグリットの絵の空とそっくりな空が広がっていました。

021125 ライフライン

昨日、マグリット展から帰ってくると、母が「メールソフトが動かないの」と言いました。

再起動すれば大丈夫だよ、とは言ってみたものの再起動してもダメ。safeモードで再起動してもダメ。アンインストール&再インストールでもダメ。棚の奥から各種マニュアルをひっぱりだしても何も書いていない。パソコン購入先の電気屋に電話したところ「サポートパックを購入したお客さんにしかお答えできません」との返事。それもそうか、と納得してその辺に買い物に行ったはずの父を電話で呼び出し、値段を確認するように依頼。父と担当者と相談の結果、コストに見合わないと断念。

ネットにはつながるのにどうしてだろう?と、格闘すること一時間半。無事だったIEからGoogleで検索、なんとか同じ症状を発見して復旧に成功したのでした。

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ソフトをかえるか、Windowsを再インストールするか、そこまで考えていたのです。ソフトをかえるとしたらこの大量の過去ログは引き継げるのであろうか、それがいちばんの気がかりでした。「いちばん困るのはNokoだものね」その通りなのです。

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もしもメールが使えなかったとして何日くらいなら我慢できるか考えました。旅先ならともかくここにいるかぎりは一日ともたなさそうな気もします。

021128 脳外科手術と想像力の射程。

今週の授業は脳神経外科です。外科、と名がつくだけあって、ここ2日は手術ビデオのオンパレードでした。脳神経外科、通称脳外科の守備範囲は中枢神経=脳と脊髄(背骨の中身)、とくに脳です。それを手術する、ということは、頭あるいは背中を開けるわけです。

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頭を開ける瞬間、メスを入れる瞬間をビデオで見ていると、麻酔がかかっているとわかってはいても、やはり痛いのではないかと心配してしまいます。これから頭を開けられて電極を埋め込まれるんだ、なんて手術前に思ったときにはやっぱり憂鬱だっただろうか、などと想像してしまったりもします。

でも、カメラが近づいて術野にフォーカスすると同時に、頭蓋骨の中で起こっていることに気をとられて、それが人、それも生きている人の一部分であることをうっかり失念しそうになります。「脳ってつるつるしていて、表面に赤と青の血管が走っていて、なんだかきれいだなあ」「ああこれが病変部か、確かにそれっぽい」「動脈が脈打っているなあ」「あ、出血した」そのときわたしは、脳を見ていた、そう言ってもいいと思います。

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手術時に、切開する部位以外を布で覆うのは、清潔を保つためであると同時に、術者の気が散るのを防ぐためでもあると聞きます。見えないものは意識から去りやすいのです。手術台の上の人についても、布で覆われてしまうと、脳だけがクローズアップされて見えてきます。

そこにあるものを、ただそれが見えないというだけの理由で、そんなにも簡単に意識から排除できるということ、それだけは覚えておこうと、思いました。

021129 始めさえすれば、半分終わったも同然。

始めさえすれば、半分終わったも同然だ、ということわざがハングルにあるそうです。父が教えてくれました。そういえばそんなことを、ヒルティも言っていたような。

わたしが日常遭遇する自業自得トラブルの多くは、単にはじめることを先延ばしにすることから発生することが多いようです。期限に追われているうちに、明らかな期限を持たないいろいろなことが少しずつ積み残されていきます。そして積み残されたものたちは、気がかり・引っ掛かりとなって気持ちのスペースを占領してしまいます。ちょうど部屋が少しずつ散らかっていくように。

ちょっとした仕事を一週間前に頼まれていて、勉強がとかなんとかいいながら延ばし延ばしにして、昨日やっと取りかかってみたら、何と一時間半ですべてが終了してしまったのでした。

書いておきたいメールやぜひ解きたいケーススタディや行くつもりで行っていない展覧会や読むつもりで部屋に積んでいる多くの本や、そんなもろもろを全部片付けたら、きっとこのそこはかとない憂鬱から抜け出せるのでしょう。憂鬱だからと他人に助けを求める前にそのくらいのことは自助努力としてやってみなければ、ですよね。

021130 合目的的な、あまりに合目的的な。

母のもとに、出身高校同窓会から往復はがきが届きました。彼女の出身高校の先輩(ここではO氏としておきましょう)を励ます会を開くのでぜひ出席してほしい、という趣旨でした。

で、O氏とは何者なのか。母と同じ高校出身であるとは書いてあります。夫人も同じ高校出身であるとも書いてあります。しかし、O氏は何をする人なのか、一言も書いてありません。母の言によれば「いつかの市長選に出ていたような気もするけれども記憶が定かでない」とのことでした。「励ます会」のお知らせがきていることからも、政治家の可能性が高いと思われます。でも、例えば何党に所属していて何がしたくて政治にかかわっていて、なんてことはどこにも書いてありません。

あのはがきを見て「励ます会」に来るような人はおそらく、O氏がその高校出身だから来るのであって彼がどのような人間であってどのような政治理念を持っているのかなんてことには興味がない、そういうことなのでしょう。一見ものすごく不合理に見えたけれど、きっとこれは、徹底的に合目的的なのです。


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