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◆2002年9月の日記◆

020905 数学によってシミュレーションしうる人生の一側面。

<おしらせ>ナンパ問題についての記述に、一部足らないところ、間違っているところがあります。「最北医学生の日常」の9月6日付で補足されていますのでもしよろしければごらんください。

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ある時は僕の存在が 君の無限大の可能性を奪うだろう
例えば理想的な もっと官能的な恋を見送ったりして
(Mr. Children "Hallelujah")

数学(離散数学?)の問題に、「ナンパ問題」なるものがあるそうです。なんて言いつつあまり記憶が正確ではないのですが、覚えているかぎりで書きます(無責任な!)。

20人の女性が映画館から順に出てきます。そのうちの1人をナンパするとします。ナンパできるのは1度だけで、成功率は100%です。その20人に、好みに合わせて順位がついているとして、できるだけよい順位の人をナンパできるためにはどういう戦略を立てる必要があるでしょうか。

解もうろ覚えのまま書きます。たしか、最初の5人は見送って、次の5人については「それまでで一番」ならば選んで、さらに次の5人までなら「それまでで2番以内」ならば選ぶのでした。最後の5人になってしまったら、どうするのだったかしら。ともあれ、だんだん基準がゆるくなってくるのです。あとがない、と焦るのは、根拠のないことではない、ということでしょうか。

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数学って、こんなことも考えるのですね。ナンパは趣味ではありませんけれども、これに似た選択を迫られることって、人生において、特に大事な局面において、少なくないのではないかと思っています。

もっとも、これから来る女性が20人であると限定できるようなことはなかなかないでしょう。1人見送ったらもう次が来ないかもしれないし、100人見送ってもまだ次があるかもしれない。現実のほうが幾分やっかいです。

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何かを選ぶということは、それ以外のもろもろを選ばないということと同義です。選ばないかぎり可能性は可能性のままとどまるけれど、可能性にとどまるかぎりは、いつまでたっても現実とはなりません。

そんなこんなを踏まえた上で、不断に選択をくりかえすのが、人生ってやつかなあ、と考えています。

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冒頭に引用した歌の続き。

だけどこれだけはずっと承知していてくれ 僕は君を不幸にはしない
生きているその理由を互いに見出すまで 迷って悩んでつかもう

「あなたにとって彼女(彼氏)とはどんな存在?」と聞かれたら、「生きる理由。」と答えられる、そういうのがいい、と「さんかくのしそう」なるサイトに書いてあったのを思い出しました。わたしも、そういうのがいいと思います。

020906 脱線の魅力。

先日友人がうちに飲みに来ていました。そこで、「どういう授業がもっとも楽しいか」という話になりました。

わたしの出した結論は、いろいろなところから材料を持ってきて、奇想天外な結び付け方を示してくれる授業、でした。さんざん脱線してあっち行ったりこっち行ったりしてそれでも最後に本題に戻ってくるような授業が、理想です。ストレートな理解は教科書を読めば得られますから。

で、そういう授業あるいは理解に到達するには、と考えると、たくさんの情報を集めること、特に、あるひとつのことを掘り下げる際にいろんなところにあたってみること、になるのではないかと思うのです。ここで何度か話題にしているインターネットチュートリアル=楽位置楽The Tutorialの魅力も、脱線を許してくれること、脱線に乗ってくれる人がいることだと思っています。さんざん脱線した結果やっぱりそこに戻ってしまうような結論のほうが、はじめからレールが用意されていてその向こうに当然のように存在する結論よりも、信用できる気がするのです。

一粒の砂から世界が見える、といったのは誰でしたっけ。座右の銘のひとつです。

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020908 結局、人は、自分をやる他ないです。

このところ体調があまりよくなくて、睡眠時間が長くなる一方で、やるべきことはもちろん進まなくて、やろうとしてもぜんぜんダメで、そういう自分を半ば呪っていたのです。

そんなんじゃダメなんだよう、と、思いました。実際の姿以上に自分を良くみせようといろいろ画策してみました。他人の目に映る自分をコントロールするにはそれなりのエネルギーが必要であり、エネルギー不足の身には無理な課題でした。その結果、ばっちり見破られてしまい、かえって気が楽になりました。

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季節の変わり目だからなあ、とか、ホルモンバランスが、とか、なんだかんだ考えているうちに、わたしってば意外と、身体にふりまわされているんだなあと気づきました。例えば薬の作用だとか言葉の意味だとか人生いかに生きるべきかとか、抽象的なことばかり考えていても、それを考えているわたし自身は生身の人間なんだなあ、なんて。そういえば、気分に作用する薬って、案外多いみたいですものね。

そういうところも含めてわたしだから、というのは、とても月並みなセリフなのだけれど、そういう生身の身体を持っているのがわたしで、それはほとんど前提で、ごちゃごちゃ言っても変えられない部分があって、しかたないねえとかなんとか言いながらでも放り出すわけにはいかないのでした。

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「結局、人は、自分をやる他ないです。」吉本ばななが、「サンクチュアリ」の中で、登場人物に言わせているせりふを思い出しました。そういうあきらめって、実は前向きなのかもしれませんね。

020909 ワードのイルカ/信じることと賭けること

Microsoft Wordを使いながら薬理学のノートを作っていました。「アシスタント」のイルカ(今調べたらカイル君というそうですね)が邪魔だったので右クリックして「表示しない」を選んだら2秒で小さくなって消えてしまいました。抵抗はありませんでした。パソコンのパソコンたるゆえんを見せつけられた気がしました。

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「第3の私」に、信じることと賭けることは違うと書いてありました。

賭けることイコール信じることであると、わたしは思っていたのです。なにがしかのもの、例えば感情なり時間なりエネルギーなりを賭け続けることが、信じることなのではないかと。

でも、ひょっとしたら信じていなくても賭けることはできるのかもしれなくて、そのひとがどんなひとか判断するには彼あるいは彼女が何を信じているかよりも何に賭けているかをみたほうがよくわかるのかもしれなくて、それは言ってみれば信じるのは気持ちの上でのことだけど賭けるのは行動に現れているぶん重みがあるというようなことなのかもしれません。

とすると。いかにして行動に移すかが、問われているということになりますかね?

020912 「ごたいせつ」

昔、日本にはじめてキリスト教が伝わってきたとき、宣教師と信者たちは、聖書を日本語に訳そうと思い立ちました。苦心惨憺しながら翻訳作業が進めていったものと想像されます。

なかでも彼らを悩ませたのは、今の日本語でいうところの『愛』にあたる言葉の訳語であったといいます。もちろん愛という言葉はあったのですけれど、当時の意味は不義とか心中とか傾城とか、とかくマイナスイメージの付きまとう言葉だったらしいのです。そんな高尚でない言葉は神にふさわしくない、なんていう議論が交わされたかもしれません。

でも『愛』にあたる単語は聖書においては頻出で、まさか訳さないわけにもいきません。結局彼らが採用したのは、『ごたいせつ』という言葉であったといいます。『基督のごたいせつ』とかなんとか。

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今の日本語において『愛』という言葉はべつにマイナスイメージをもって迎えられているわけではないでしょう。でも、いまひとつ生活に根付いてなくて、なんとなく日常から浮いているような気がします。文章においても、カッコでくくりでもしないかぎりなかなか使えません。『愛』ねえ、と、改めて考えこんでしまいそうになります。

そんな現状に想いをはせるとき、『ごたいせつ』っていいなあ、と思うのです。

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「とてもたいせつだと思ってるんだよね」

軽すぎなくて、なんだかしみじみとしているように感じます。『愛』という言葉で表わされるんだろうけどそうしてしまうとちょっと居心地の悪いような気のするそんな感情を、表わすのに使えないかなあと思っています。

020915 メタ認知。

ある人Aが別のある人Bに対して、ポジティブな感情を持ったと仮定しましょう。好きだ、でも、感謝している、でも、能力を評価している、でも、なんでもかまいません。ここでは例として、「AはBを評価している」を使いましょうか。

AはBを評価している─(1)

さて、このままでは(1)を知っているのはAだけなわけです。多くの場合、AはそのことをBに伝えたいと考えます。で、伝えたとします。Aが伝えたつもりでもBが伝わったと認識したかどうかは実はわからないのですけれど、伝わったと仮定しましょう。すると、下の(2)が成り立ちます。

Bは「AはBを評価している」と認識している─(2)

ここでは、伝わった、すなわち(2)が成立した、と仮定しました。でも、原理的には、(2)が成り立ったかどうかは、Aにはわからないんですよね。メールを送っても読んでいないかもしれないし、電話で言っても聞いていなかったかもしれないし、面と向かって言っても遠まわしすぎて理解できていなかったり、そんなことありえないと思っていて信じていないかもしれない。

だから、実はここでフィードバックが必要なのではなかろうかと考えているのです。(2)が成立したとして、BはそれをAに伝える。そうすることで、下の(3)が成り立ちます。

Aは「Bは『AはBを評価している』と認識している」と認識している─(3)

(3)が成立してはじめて、ひとつのコミュニケーションが完結するのではないでしょうか。何かを伝えて、伝わったと返して、それでやっと一回りだと、思うのです。

誰かが自分に対してポジティブな感情を抱いていて、それを伝えてきたとしましょう。せっかく伝えてくれたのに、それを認めない、という習慣は、多くの人が身につけていると思うのです。自信過剰だとか、もっと謙虚であらねばならないとか、そもそもお世辞かもしれないし、とか。

でも、上の例でいうAの立場に立ってみたら、(3)が成り立つってとても重要なことなのではないかと思うのです。自分の気持ちががまっすぐに受け取ってもらえるって、うれしいことですよね。だから。

ちなみに、上に挙げた(1)(2)(3)のうち、(2)と(3)をメタ認知といいます。人間にしかできない、高級な認知なのだそうです。

020922 変えられるものと変えられないもの。

キリスト教の祈りの中に、以下のものを与えてくださいという内容のものがあったのを思い出しました。

三つ目に上がっている、『知恵』を得るというのが大人になるということなのかもしれないと思っています。

変えられるものとはわたしたちの力の及ぶものであり、変えられないものとはわたしたちの力の及ばないところにあるものだといえるでしょう。ならば、変えられるものと変えられないものを見分けるということは、わたしたちの限界=力の及ぶ範囲、を知ることとイコールであることになります。

限界=力の及ぶ範囲、と書きました。もうこれ以上はできないという、消極的なイメージを持たれるかもしれません。でもそうではないのです。変えられないものを受けいれるのも大事だけど、変えられるものを誤って変えられないと思い込まないことも大事ですよね。なんとかなることも多いですから。ほんとうはなんとかなることを思い込みであきらめてしまうのはいかにももったいない。

限界を知るというのは、自分の力を再確認するということにもつながると思うのです。できることとできないことをはっきりさせることは、できないことを正しくあきらめることでもあり、できることを確認することでもあるのだと。

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その昔、自分にはなんでもできると思っていました。あるときから自分のいたらなさや弱さ、考えうるかぎり一生懸命やったつもりでもできないことがあるということに気づき始めました。

いや、そのずいぶん前から気づいてはいたのです。見なかったことにしていたのですね。見なかったことにして『かくあるべき自分』を想定して、現実の自分とのギャップを埋めようと日々たくさんのエネルギーを費やしていました。また、『かくあるべき自分』とイコールになれない自分自身を叱責することで、今の自分に満足していない自分を自分自身に対して演じ、まだそれでも理想は高いと、屈折した慰めを得ていました。得られるものがなかったとはいわないけれど代償があまりに大きかった、今のわたしはそう思います。

今は、『かくあるべき自分』と異なる自分を受け入れることがずいぶん上手になりました。『かくあるべき自分』の正当性を疑えるようにもなりました。自分を責めることも減って、十年前には考えられなかったくらい平穏な生活を送ることができるようになりました。

そして今思うことは、わたしはもうちょっとがんばれるんじゃないかということだったりするのです。『かくあるべき自分』とのギャップ、とは異なるモチベーションによって。

言い訳するのはやめようよ、変えられるものは変えようよ、変えられないと思っているものももう一度問い直そうよ、そんなことを自分に対して呼びかけてみたりするのでした。

020923 よくばり。

無事か否かはともかくテスト週間が終了しました。ついでに夏休みも終了です。明日から正規に学校が始まります。不規則を絵に描いたような生活をしていたので明日からの学校生活が非常に心配です。

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「這えば立て、立てば歩めの親心」という慣用句がありますね。

例えばうちの両親だって、わたしや弟が生まれたときは、『健康でありさえすれば』なんて思っていたわけです。そのように公言してはばからなかったわけです。でも、いざ生まれて健康であることが明らかになると、やっぱりいろいろ欲が出てくるんですよね。もしも、わたしや弟が健康でなかったとしたら?両親はきっと、『健康でありさえすれば』と願いつづけたでしょう。

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恋愛だってそうですよね。はじめは、言葉を交わせさえすればいいとか、メール出して返事が返ってきさえすればいいとか、そんなささやかなことを願っているだけなのに。

そういえば、片想いだとか両想いだとかいう言葉、あまり使わなくなりました。

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そういう、だんだん欲張りになっていく心の動きは決していけないことではないと思うのです。現状があって、現状を認めた上で、ほんの少し上を目指そうとする、そうでなければ、次の一歩なんて踏み出せない。一歩進んで、はじめて見えるようになることもたくさんあります。思いもよらなかった光景が、広がっているかもしれません。

でも、たまには、いちばんはじめのささやかな願いを思い出して、例えば『健康でありさえすれば』とか、『言葉を交わせさえすれば』とかいう願いがかなっていることを確認して、ああよかったなあ、なんて思ってみてもいいんじゃないでしょうか。

心地よい状態には、あまりに簡単に慣れてしまいます。あまりに安易に、当然だと思いこんでしまいます。そして、思うにまかせないことに対しては、それがどんなに些細なことであっても、あまりに敏感に反応してしまいます。実は明日すら、一瞬先すら、保証されてはいないのに。

だからこそ、たまには現状をふりかえろうかと思うのです。

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他者を変えることはできません。変わるかもしれないし、働きかけも可能かもしれないけれど、自分のいいように操作することは不可能だと思っています。自分にどうしようもできないことが少なくとも自分にとって好ましい状態にある、というのは、決して当たり前ではないですよね。

他者のかかわるあらゆることにおいて、自分の望みがかなうということは、たとえどんなにささやかなことでも、実はとても稀有なことではないかと思っているのです。

020930 ないものねだりは仕方なくても。

周りを見てつい自分と比べて焦ってしまう、そんな一日を過ごしました。いろんなことを手当たり次第にはじめようかと考えてふと足許を見たら、続けるつもりで立ち消えになりかかっていた複数の計画を発見しました。まずは、やりかけのもろもろのの復活からです。苦笑いの気分です。

ないものねだりは仕方ないのかもしれません。でも、ないものをほしがるだけならまだしも、自分の持っているものを価値がないと断定して悩むなんてことは、ちっとも生産的ではないししんどいばかりだし下手をすると他人にも悪影響を与えかねません。それってたぶん、決して謙虚な態度じゃない、そんな気がしています。

自分がやってきたことは正しい、むしろ自分がやってきたから正しい、そのくらいのほうがいいですね。少なくともわたしはそういう人のほうが好きです。ならば、わたしもそうすればいい、それだけのことですね。それでいきましょう。

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