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◆2002年7月の日記◆

020702 わたしの方法、あのひとの方法。

あるひとのある方法がとてもいいなあと思ったとしましょう。自分には自分のやり方があって、自分のやり方も、少なくとも自分にとっては評価できるとしましょう。そんなときに、無理してそのひとのやり方をまねる必要はないのですね。

相手のことを100%認めながらも、わたし自身は異なる方法を採る、そんな方法があることにいまさら気づきました。それでも共同作業をすることはできるでしょう。一人一人が異なる方法を持っていることが、プラスになることだってきっとあるでしょう。

だからわたしはわたしの方法を追求しようと。

ひとの方法には素直に感心しようと。

きっとそのほうが人生楽しいだろうと、思うのです。

020704 信じるということ─続き

信じると期待はちがうんだよ。
期待は見返りを期待すること。
かけたほうもかけられたほうもつらくなっちまう。
信じることはそうじゃない。
相手が幸せになるよう想ってあげることなのさ。
(「いいひと。」9巻、高橋しん、ビッグコミックス)

ある人からメールで、このフレーズの存在を教えてもらいました。

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信じることと期待することの違いを考えていたのです。わたしの言葉で言うと、リスクを受け入れるかどうか、ということになるでしょうか。

信じることも期待することも、エネルギーを投資するという意味では同じだと思います。投資するものは、お金かもしれないし時間かもしれないし体力かもしれないし単に精神的なエネルギーなのかもしれません。投資するものがなんであれ、それはまったく無目的になされるものではないでしょう。たとえ自分のためでないにしても、誰かのためになればいいなあと思って、投資する、そういうものでしょう。

でも、投資しただけのものが常に返ってくるとは限らない。予測が外れてしまうときはある。それがリスクではないでしょうか。返ってこなかったときに、誰も責めずにいられるか、当事者が誰であったにせよ、エネルギーを投資すると決めたのは自分なのだからと、穏やかでいられるか、それが信じているかどうかということなのだと思うのです。

もっといえば、返ってくるかなんてどうでもいいのかもしれません。

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じゃあどうしてそこまでして信じるなんて暴挙に出るのか。リスクを引き受けたからといって、見返りが大きくなるというものでもないでしょう。

安易に信じてはいけないと、言う人もいますね。

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ひょっとしたら信じるというのは、覚悟さえ決めてしまえば、とても穏やかな境地なのかもしれません。

少しでも気を抜くと、より安易な「期待」にすりかわってしまうでしょう。もしすりかわってしまえば、いずれ痛い目に会うでしょう。でも、信じているという状態が保てているかぎりにおいて、幸せでいられるようなものなのかもしれません。

だんだん、イメージが「愛する」という日頃使わない動詞に似てきた気もします。実はある部分で重なっているのかもしれませんね。はじめに挙げた「いいひと。」の一節みたいに。

020709 文は人なり?

テキストを読んでいると、そのひとの声が聞こえるような気がするときはありませんか。

テキストから、口調やトーンみたいなものを感じ取ってしまうときがあります。書いた人が実際のところどのように話すのか知らなくても、文字が音声となって、あるトーンをもって、頭の中で響くのです。

そのひとの気質なのかもしれないし、そのときの気分なのかもしれないし、単にわたしの気のせいなのかもしれません。でも、何かがただよってくるような気がするのです。

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「このレポート、Nokoさんの日頃の口調そのままじゃん」「こんなにオフィシャルな言葉で書いているのにかい?」「ほらほら、こういう言葉の端々がさぁ」

らしさみたいなものも、出てしまいますよね。

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動揺しているときにはあれだけ見直したはずなのに書き間違いがちゃっかり残っています。自分の願望に沿って勝手に読み間違いをしてその誤解に沿ったメールを送ってしまったりします。フロイトは正しかったみたいです。

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内容よりも、その文章がまとっている空気みたいなものが、読後感として残るときがあります。落ち着いていたりいらいらしていたり幸せそうだったり落ち込んでいたり、きちんとしていたりぼんやりしていたり好意が感じられたり敵意が感じられたり。そしてわたしも、ちょっとだけその雰囲気に感染するのです。次に書く文章は、ばっちり影響を受けていることでしょう。

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そう、そんなにもいろんなことを伝えるのだから文字って便利だなあ、なんて思うのです。そうやって確認せずにいられないのは、文字では伝わらないことがあることを感じているから、なのでしょうね。

020710 認めること。

「自分ができないってことを認めないとね、先には進めないのよ。」

バイト先の、補習塾の先生が言いました。

「そして、自分ができないってことを認められないのは、そのひとの弱さなのよ。どこかでわかっているのに目をそむけつづけるから、もっともっとつらくなってしまう。認めてしまえばなんとかすることはできるのに。」

何かができない、ってことを認めても、自分は大丈夫、そういうふうに思えるまでは、できないという事実を受け入れるのは難しいでしょう。

何かできないことがあったとして、おおそうか、できないんだなあ、と、ニュートラルに受け入れられるといいですね。自信があるというのは、そういう状態を指しているのかもしれません。

認めたって、大丈夫なのです。これまでにできるようになっておかなかったことを悔やむかもしれないけれど、過去は変えられない。だから、今できることは、それが必要だと思うかぎりにおいて、できるようになろうとすることだけなのです。今できないことを責めても仕方ないし、責めることで自分が誠実であると勘違いしてはいけない。

今日は、いろんなひとのいろんないいところに気づいた一日でした。これからそれらをとりいれていくべく気をつけてみます。

020718 言葉にできること、できないこと。

数学で、有理数と無理数って習いましたよね。有理数は1とか2とか−3とか、7分の1とか1.33とか、整数分の整数で表わすことができる数をさします。無理数はルート2とかπとか、分数で表わせない数のことです。

数直線があるとしましょう。有理数をどんどんプロットしていきましょう。どんなに細かい数でもかまいません。じゃんじゃんプロットしましょう。じゃんじゃんプロットしていけば、じきに線は点で埋まるでしょう。

さて。さんざんプロットして、線が見えなくなるほどになったとしましょう。これ以上どこに点を打てというんだ、というくらい、いっぱい点を打ったとしましょう。

でも、どれだけ細かく点を打ったとしても、点と点の間が見えないほどだったとしても、それらの点の間に、無理数を挿入することは可能です。無限個の点を打ったとしたらいくらなんでも隙間なんてないはずなのにそれでも無理数の入る余地があるのです。

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言葉にできること、できないことの関係は、有理数と無理数に近いのではないかと考えています。

言葉で表わせるもの、というのはそれこそ無限にあるのです。その辺に転がっている小説を手にとってぱらぱらとめくってみれば、それは容易に確認できるでしょう。行間を読む、という言葉がありますよね。言葉は、直接示すこと以上のことを伝えることさえできます。

言葉でないと伝わらないことはたくさんあります。言葉が足らないゆえのトラブルは、日々経験するところです。そして、言葉によって呼び起こされる感情の大きさを考えれば、「始めに言葉ありき」という聖書の言葉も、理解できるような気がします。

しかしそれでも、こぼれてしまうものがあるような気がします。なぜでしょう。

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「Nokoさん、すべてがすべて、言葉にできると思うのは間違いですよ。言葉に直すこと、直そうとすることで、かえって見えなくなるものもあるのです。」そんなことを言われたことがありました。

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隣の県に住む友人がいます。知り合って8年になるでしょうか。たまに電話したりメールを書いたりしています。

なんだかいつでも会える気がしていて、後回し後回しになってしまって、ずっと顔を見ていませんでした。電話はできるけど、メールも書けるけど、やっぱり顔を見てこよう、見に行こう、と思ったのは、言葉の限界みたいなものを感じているから、なのでしょうか。

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そんなことを感じるのは、今、わたしの周りに言葉がたくさんあるからなのでしょうか。足りないものが強く感じられるのは言葉が足りているからこそだとすれば、それはある意味で幸せなことなのかもしれません。

020720 占い。

さまざまな占いを試してしまう時期、というのは確かにあるように思います。

わたしには「科学者としてのわたし」みたいな側面があります。その「科学者としてのわたし」は、「それ、本気で信じる気なの?信じようとするキミが信じられないよ」などとぼやきます。それでも、さまざまな占いを試してしまうのです。

どんなときに占いに頼ってしまうのだろう、と考えると、結局、現状あるいは未来が見えないときなんですよね。亀甲占いの時代から、進歩していないように見受けられます。古代の彼らも、例えば戦の結果など、人知で予測不可能なことを、占いに頼ったのでした。

しかし、古代の「まつりごと」と一線を画している部分も確かにあります。意に添わない結果が出ると、他の占いを試したりもう一度占いなおしたりしてしまうのです。単に安心したいのかもしれませんね。大丈夫だよと、言ってほしいだけなのかもしれない。安心できたとしてもほんの一瞬で、よけい不安になってしまうことも多いのに。

未来を知りたい、見えないものを見えるようにしたいという欲求は、そんな「わら」にもしがみつこうとしてしまうくらいに、強いものなのでしょうか?

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どうなんだろうねえ、とつぶやきつついくつかの占いを試したりしてみます。

どういう結果が出たら満足するの?と自分に問い掛けてみます。

どこで、「そうかもしれないねえ」と納得するかで、自分がどう思っているのか、何を望んでいるのかを、推測することくらいは可能なのかもしれません。

020723 人生初手術とベラドンナについて。

学校が早く終わったので、メガネの処方箋を書いてもらいに眼科に行きました。

視力検査をして、先生の診察です。瞳孔を通して光を当てる、眼底検査です。ほぼルーティンワーク。

「えっ!?」「えっ、ってなんですか先生」「いや、医者の言うことじゃなかったですね。あの、網膜穿孔って習いました?」「いえ、眼科はまだ…」

左目の網膜に、穴が開いていたのです。強度の近視を持つ人には、たまに見られる病態なのだそうです。視覚には関係ないエリアの穴だったらしく、自覚症状はまったくありませんでした。ほうっておくとその穴から網膜がだんだんはがれて網膜剥離、となりかねないのだそうです。

「いやー、若い人は進行が速いですからねえ。よかったですねえ早く見つかって。今日もう一度よく診察して、穴が確認できれば手術してしまいましょう。メガネは後回しです」「手術?」「レーザーで焼くだけですから。焼いとけば広がることはないしとりあえずは安心です。ところで、生命保険って入ってます?」「生命保険?」「いや、結構お金がかかりますからね。生命保険から保険金が下りますよ」

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で、「よく診察する」ために、「瞳孔を開く目薬」を点眼しました。手術自体は5分程度でした。わたしの人生におけるはじめての手術でした。多少痛かったけど眼帯もしてないし別段生活上の注意もなく、こうして元気にパソコンに向かっております。しかし、この「瞳孔を開く目薬」の副作用には辟易しました。

まず、ピントが合わない。瞳孔を閉じる神経とレンズの厚みを調節する神経は、使っている伝達物質および受容体の組み合わせが同じで、片方をブロックすると両方ブロックされてしまうのですね。一点をじーっと見つめていればいいけど、ふと視線をはずすと、涙目になったときみたいに視界がぐらりとぼやけるのです。これには参りました。

そして、やたらとまぶしい。アスファルトの上の水たまりに反射する日光も、横断歩道の白ペンキも、何もかもまぶしい。世界がこんなに明るかったか、って、そんなわけはないのです。家に帰ってパソコンをつけると画面の白さに耐えられない。瞳孔の大きさを調節する理由って、目に入る光の量を調節することですものね。ここでもひとつ納得でした。今ふと思ったんですけど、対光反射って、「生きているかどうか」見るときに使う検査のひとつですよね。そんな根本的なレベルの反応を操作する目薬だったのか。

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瞳孔を開く薬として、古来、ベラドンナなる草の汁が用いられてきました。ベラドンナというのは、「美しい貴婦人」という意味なんだそうです。CDのジャケットでも、よく見ると、瞳孔を拡大するという修正が加えられているのがわかるときがあります。しかし実際のところ、瞳孔を開いておくのは楽じゃないです。実感しました。

でもせっかく瞳孔を拡大したのならば何か有効に使えばよかった←?

020724 好奇心と恋愛感情。

「あのひとのこととても気になるんだけどね、よく知らないから不安なんだよ」

なんて相談を受けることが時としてあります。他人に言うかどうかは別として、そんなことを思うこともたまにはあります。

で、そういう台詞について少し考えていました。そもそも始めから、「こいつは好意を持つに値する、とわたしは自信を持って言える」なんてことがありえるのだろうかと。ありえるとしてもそれは第六感とか女の勘だとか、それこそ信頼に値しない根拠ではないのかと。

いやいや、それまでに友人あるいは仲間あるいは同僚としての観察期間が長かったですからね、そんなこともあるかもしれません。しかし、恋愛対象となると関係は変わってきます。だとしてもわかってるし、って、そういう目で見ていたのならずいぶん前から好意を持っていたということになりますよね?

「気になるなあ、知りたいなあ」という感情は、言ってみればジグソーパズルの最初の1ピースみたいなものかもしれません。最初は不安定でも、あとからみるとそこにぱちっとはまっているみたいな。

そもそも、知ろうとしないと、何もわかりはしないのです。

言いたいことは、「まあ、やってみたら?」そういうことに集約されそうです。

020725 あたりまえのことかもしれないけれど。

早朝、外に出ました。

6時前なのにやたらと明るくて、景色は、夏休みであることを自己主張するかのようにくっきりしていました。

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大きな川に渡された橋のまんなかに立ってふと上流方向を見ると、その時間にしては妙に青々とした空も、よくわからない護岸工事を施されつつある川べりも、架けかけたままあと5メートル届いていない細い橋も、自転車のタイヤあとで進行方向にいくすじもの溝が入った道を大きな帽子をかぶって散歩する人も、みんな含めてなんだかまさにこの街決定版、という感じがしました。いつかわたしが「この街」として想い出すのは、こんな光景かもしれないと思いました。

そして、早朝から散歩する人も寝ている人もすでに働いている人も昨日の続きで徹夜している人も、みんなそれぞれに思うところがあって、自分の世界があって、好きな人がいて嫌いな人がいて、たとえわたしがその存在さえ知らなくても日々暮らしているのだなあなんてことに改めて気づいたのでした。

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空を見ながら歩いていて年配の男性におはようございますと声をかけられておはようございますと答えて慌てて笑顔を作りました。視線を水平に戻して1分半ほど歩いて家の玄関に到着しました。

020728 心の動きを把握する。

自分の心の動きを把握する能力というのはとても重要だと、思います。

見えちゃってしんどいこととか、見えてもどうしようもないこととか多いとは思うんだけど、そういう能力があるとないとでは、同じことが起こったときに受けとめるその深さが違うように思うのです。

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面倒だから結論だけ3行で述べてくれる?と、確かにわたしはしばしば言います。つまりどういうことなのか、要点はどこにあるのか、把握する能力も文句なく重要であることはよくわかっています。

しかし、どのようにしてその結論に到達したのか、なるべく正確に追跡できるようでありたいと思うのです。自分に都合のいいことも、よくないことも含めて。

迷う。ゆれる。そのへんを振り切る。

自信喪失。自信過剰。自意識過剰。

自己正当化。自己嫌悪。自己満足。

計算する。計算を間違える。そもそも計算しようと思いつかない。

運を天にまかせる。後悔する。振り返らないと決める。

筋を通す。直感にしたがう。身体で反応する。

誰にも言わなくていいのです。そんな感情、あるいは心の動きがあったということを、自分が知っているということが大事だと、わたしは考えています。

◆◇◆◇◆

わざわざ自分の中で言葉にしなくてもそんな感情が存在することには変わりがないでしょう。でも、ほかならぬ自分の中で起こっていること、自分の心の中のことなのですから、自分で把握しておいたほうがいいと思うのです。それが、自分が自分であることに責任を持つ、ということの、ひとつの形態であるとさえ、思います。自分自身の、都合の悪い姿からも、目をそらさないということは。

あらゆる誠実さの基本であると言ったら、言い過ぎになってしまうでしょうか。

020731 お知らせ。

このサイトの管理人でありますNokoは、本日7月31日から8月23日まで、旅に出ます。行き先は岡山・米子・北海道です。他の場所にも寄るかもしれません。

目的は、友人に会うこと・医ゼミに参加すること・単に旅行すること、そして、わたし自身にとって重要な、いくつかのことを確認することです。

不在時、このページの更新は行われません。そのような機能のついた端末を持っていかないからです。

それではまた。8月23日夜に戻ってきます。そのとき元気でお会いしましょう。


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