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◆2002年6月の日記◆

020608 生き方を反省してみる。

またまたお久しぶりです。Nokoです。

この前1週間、今回2週間、そういうふうに間が開いてしまうと、なんだか、日記を書くという感覚を忘れてしまいそうです。

このところ書いていなかったのは、やっぱり、書けなかったからということになるのでしょうね。テストがあと10日に迫っています。でも、時間や勉強に追われているというよりは、言葉が出てこなかったというほうが、正確であろうと思います。例えばメールを書いていても、ありきたりで表面的なことをしかも繰り返し書いてしまって。ほかにないのか、と、自分の中をのぞきこんでみても、なんだか霧がかかったように視界が悪くて、手を伸ばしても何も触れなくて。

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なんだかもやもやしていた、その原因の一つは、学校のことです。

あれ、学校って意外と、わたしたちに多くを求めているわけではないのだな、と、いまさらながらに気づきました。国家試験さえ全員通れば、それでいいのでしょうね。試験だって、一部を除いて、テスト前日に過去問を答えつきで入手して、丸暗記すれば通ります。いや、丸暗記しないと、ある意味、まともに勉強していたら絶対通らないような、教官の趣味に沿ったテストが作成されています。「勉強しなさい」と、先生方はいつもおっしゃるけれど、現実がこれだから今一つ空々しい。そんなことを考えると、あれ、わたしって今まで、どうして一生懸命やってたのかな、と、首を傾げてしまいました。

そして気づきました。最近いらいらしていたのは、結局、「こんなにがんばっているのに、どうして」なんて理不尽なことを、わたしが思っていたからだ、と。でもよく考えたら、学校が求めていることなんて、せいぜい留年せずにストレートで進むくらいのことなんですよね。それ以上のことは求められてはいない。それ以上のことをたとえわたしがこなしたからといって、彼らにそれを評価する義務はない。いやそもそも、勉強するのは、純粋に自分のためであって、それを評価してもらおうというほうがどうかしている。

そこまで考えて、何をあたりまえのことを、と、一人苦笑してしまいました。この歳になってそんなことをいまさら気づくようでは先が思いやられます。そのことにもう一回苦笑い。でもこれまで評価のために頑張ってきたんだよなあ、と思って、今度はさすがに笑えなくなりました。いいかげんに生き方を変えないと。

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勉強するのをやめようとかそういうわけではありません。そうではなくて、「学校が求めている」にすぎないことにかけるエネルギーを、徐々に減らしていこうと思いました。そのぶん、インターネットチュートリアルとか、そうでなくても自分で教科書を読むとか、自分でこれだ、と思った勉強にエネルギーを注げばいいんだなあと。もうちょっと、自分の判断を信じようと。

これで少しは、自由になれたでしょうか。

020610 テスト勉強週間。

来週、生理学と生化学のテストがあります。

3年くらい前までは、生理学・生化学は一年かけて学習する科目でした。去年までは、半年でした。今年は、2ヶ月半です。「再来年当たりには、生理学も生化学も、授業なくなってるんじゃない?」

神経の授業が合計で30コマくらいありました。どこにあるのかも定かでないイオンチャネルについて詳しくなりました。腎臓の授業は3コマで終わりました。消化器の授業はありませんでした。「消化って生理学の対象じゃないんだね」

去年のテストは、冬休み明けでした。今年は、今日まで授業、金曜まで実験です。「つまりテスト勉強はするなといいたいわけね」

いくら評価のためにやっているわけではないといっても、落ちたら困るのですが。さてさて、全部クリアできるかどうか自信がありません。「追試をいくつ減らせるか、スクリーニングって感じ?」「勉強はするからさ、落ち着いてさせてほしいよね」

教室中イライラが蔓延しています。しばらくは、胃の痛い日々が続きそうです。

020613 生理学実習報告。

今週は、生理学実験の週です。

明日、「ストレスとラットの血圧」という実験が行われます。ラットの動脈に針を差し込んで血圧を測定する実験です。ラットを手でつかんだりしてストレスを与え、ストレスと血圧の関係を調べる、と、マニュアルには書いてあります。

「ラット使うんだー。手術だよね。なかなか本格的じゃん」と、わたしたちは喜んでいました。

ところが。今日も別のグループがその実験をしていたのに、ラットの姿が見えません。声も聞こえません。友人に聞いてみました。「ラットどこであつかっとん?」

「ラット使わないんだよ。一匹3000円もするから、もったいないってさ。」「え、で、実験って何するの」「データだけ渡されるからそれを使って考察するだけ。すぐ終わるよ」「なんだかさあ、羊頭狗肉っていうかしょうがの入っていない生姜焼きというか肉の入っていない肉じゃがというか」「二生理って、やたらと実習費けちるよね」

そういえば前の生理学実習も、色覚検査・コンピュータシミュレーション・握力測定・英文解釈(!)といった驚異のラインナップだったと、思い出しました。

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さらに今日は脳波の測定もあったのですよね。

目を閉じて静かに横になると、本来α波(リラックスしているときに出る、周波数の低い波)が記録されます。しかしわたしの場合は、周波数が高い高い。すべてβ波で、実験になりませんでした。教科書を見ると、「intense mental activity」(激しい精神的活動)のときに観測される、とあります。

「全く頭が休まってないね」「いったいそんなに高速で何を考えてるの」「なんだか身体に悪そうな頭してるよね」

たぶん、測定者に対する警戒心が脳波に出てしまったのだろうと、わたしは思っています。だって、「やばいよ、α波出てないよ。どうする?」なんてひそひそ言われてたら、なかなかリラックスなんてできないじゃないですか。「羊数えて」とか言われても、ねえ。

脳波はてんかんの診断くらいにしか使えないと思っていたのですけれど、意外と使えるのかもしれません。情動解析?

020617 Mit dir.

タイトルはドイツ語で書いています。ドイツ語は、はきはきした響きがとても好きです。

ドイツ語には二人称が二種類あります。duとSieですね。duは親しい間柄、Sieは親しくない間柄に使うと、いわれています。ということはドイツの人達は、周りの人をduとSieに分類して生活しているのでしょう。

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昔、ドイツ語を学び始めていくらも経たないころ、本屋で立ち読みした本に、「もう一度、もう一度だけあなたを、duと呼ばせてください」とありました。その文章の題名も、本来の内容もすべて忘れてしまいましたけれど、ただその一文の響きだけが、頭のすみに空気のように残っています。漂っています。

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ふと、相手との距離が測りにくくなるときがあります。わたしがもしもドイツ語を母語とし、ドイツ語で構築されている世界に住んでいたならば、事態は少しは把握しやすくなったのだろうかと、想像してみたりするのです。

020624 大脳皮質以前の問題。

先週は、試験があったり外出したり飲み会に出たりと、わたしにしてはなにかと忙しかったです。よって今週は、少しお疲れ気味のスタートでした。すごろくでいうところの「一回休み」の感覚です。

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幼いころからわたしの思考というのは、文字ととても関係が深かったように思います。「わたしって、原稿用紙の桝目を埋めるようにしてものを考えているのだなあ」と、小学校低学年のころ、学校からの帰り道考えていた記憶があります。

しばらくたって「右脳・左脳」という言葉を覚え、言語中枢なるものが左脳に存在することを学習し、そうかわたしは左脳でもっぱら物事を考えているのだなあ、と思いました。潜在能力・特殊能力と称される能力が主に右脳に存在するという説を読み、なんだかつまんないなあと、すねていたことを思い出します。そういえば当時のわたしは、天才になりたくて仕方なかったのでした。

そしてわたしは今でもやはり、典型的な左脳人間であろうと自己分析しています。それはそれで悪くないと思うようになりました。

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たまにどう考えても左脳的ではない言動がみられるときがあります。丸太町⇔出町柳をを読んで、これって右脳と左脳の交代かな、と思ったのですけれど、どうも様子が違います。わたしの場合はおそらく右脳に切り替わるというよりは、大脳皮質全体に抑制がかかってしまっているのでしょう。脳幹で反応している。

そういえばわたしの中にそんな反応がみられるようになったのは、わりに最近のことです。そういう反応が見られないこと、いいかえれば、常に大脳皮質的コントロールのもとにあることを、誇りにしていた時期がありました。周りを警戒しすぎて、常に自分で自分をコントロールしつづけなければならないと、ぴりぴりしていたのでしょう。実際には居もしない敵を仮定して、つけこまれないように気を張って。自分の「意志」の通用しない、脳幹の出る幕はありませんでした。あのころ精神的にバランスを崩したのは、ひょっとしたら脳幹を抑圧しすぎた結果だったのかもしれません。

020625 Just feel.

When you can't think straight, stop thinking. Just feel.

ある本に書かれていた言葉です。座右の銘の、ひとつといっていいでしょう。

うまい方向に考えられない時ってある。考えれば考えるほど、袋小路に追い詰められている気がする時がある。考えれば考えるほど、自分がいったいどうしたいのか、見えなくなってしまうときがある。そういうときは自分の中の言葉を思いのままに操ろうとする努力を放棄して、自分の中にひとりでに出てくる言葉を、待てばいい。

信じて、待つ、ということが、教育の世界ではしばしば語られます。教育の世界だけじゃなくて、他人に対してだけじゃなくて、自分に対しても、そういう態度って必要なのかもしれないなあと、思ってみたりして。

信じて、待つ、というよりは、信じているから、待つことができるのかもしれませんね。そういえば。

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そんなことを考えながら、3コマ目終了後、学校を早退して家で寝てました。たまにはこういうのも、悪くないです。明日には、amazonで注文した、新しい教科書も届くことですし、明日からがんばろうっと。

020627 信じるということ。

「信じていたのに裏切られた、っていうのは、形容矛盾だと思うんだよね。裏切られるリスクも含めて請け負うのが、信じるってことだろ?まあこいつには裏切られてもいいかな、って思うのが、信頼ってことだと思うんだ」

これを聞いてわたしは、ルーレットに賭け金を置くシーンを想像しました。あるいは、宝くじが当たらなかったからといって宝くじに対して怒ってもしかたない、そんな感じなのかもしれません。

「わたしが誰々を信じる」と言うとしますね。それは、わたしと「誰々」の、二人の問題に見えるのですけれど、実はわたしだけの問題なのかもしれません。そうやって、「わたしの」問題として、信じる、という動詞をとらえなおすことは、他人を無視するとか拒絶するとか問題を抱え込むとかそういうことではなくて、自分の判断に自分で責任を持つ、そういう態度のひとつなのかもしれないと、思います。

だよね、あたしの問題だから、とうなずくときの、ほんの少しの緊張感が、好きです。

020629 他人に成り代わる。─宮部みゆき「火車」─

夜早く寝ようと思って、でもちょっと早すぎるかもしれないと思って、宮部みゆきの「火車」を読んでいたら眠れなくなりました。もう、何度読んだかわからないくらいなのに、それでも、途中で止められなくて。読んだ後も、怖くて眠れなくて、しばらく電気をつけたままぼんやりしていてとうとうパソコンをつけて何通かメールを書いてちょっと落ち着いて、吉本ばななの「アムリタ」の残りを読んで、やっと疲れて寝たのでした。

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「怖くってさ。」

「何が?いつ自分の身に降りかかるかわからないというところが?」

「いや、それだけなら、眠れなくはならないよ。殺しちゃうだけとかそういうのって単純じゃない。人殺しのあともいろいろ気をつけなければならないと思うんだけど、他人に成り代わるのってもっともっと周到な注意が必要でしょう。そんなエネルギーを捻出できるってのが、怖いんだよね。」

「成り代わったほうに感情移入しちゃう?」

「うん。いっしょになって緊張するよ。そういうふうにびくびくしながら暮らすって絶対ものすごくしんどい。でももういまさら、それやめてもとの自分に戻るのもやっぱりリスクでしょ。戻れないんだよね。ずっと、全速力で走りつづけなければいけない。そういう状況自体不幸だけどさ、そうせざるをえないってのはもっと不幸だよね。全部全部、捨てることができたってことだし。」

「誰かに心配してもらえるようなら他人になったりできないよね」

「でしょ。なんかね、小説なのに、そのしんどさだけほんの少し受け取っちゃった感じなんだよ。」

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なんだか、「アムリタ」に出てくる弟の口調がうつっているような気がしなくもないです。

020630 リアリティーについて。

このサイトを訪れている方の中には、いわゆるオフラインでわたしの姿を見たことがあるひとも、ないひともいると思います。実は見ていても、その像とわたしが結びついていない人も、ひょっとしたらいるかもしれませんね。わたしの姿を知っているとおっしゃる方の中にも、もう何年も、わたしの姿を見たことがない人も、いると思います。

で。リアリティーってなんなんだろうと。

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吉本ばななの「とかげ」には、時々、触って確かめないと、見えているものが本当にそこにあるのか不安になってしまう、という女性が出てきます。

視覚が簡単に欺かれうることは、おそらくわたしたちの共通認識であると思います。聴覚もそうですよね。空耳なんてものが、この世界には普通に存在している。

一つ一つの感覚で不安ならば、いくつもの感覚を動員すればいい。それだけのことなのでしょうか?

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「森をは逃げていく」と、哲学者の古東哲明は言います。あそこに森がある、と思う。実際に近づき、その中を歩いてみると、確かに森の中を歩いてはいるのだけれど、目の前にあるのは木でしかない。では、森はどこへ行ったのか。

花を見る。もっとよく見ようと思う。虫眼鏡を持ち出す。花びらもおしべもめしべも見えるけれど、ばらばらにしてまだ未成熟な種さえ見ることができるけれど、花ってその場合どこへ行ったのか。どんなに分解してパーツを正確に拾い集めても花のリアリティは再現できない。

その、どこかへいってしまった森とか花とかそういうものが、リアリティーであると、彼は言います。

ものはそこにあるのに、感覚をもって感じ取っているのに、リアリティーが感じられない、そんな状況を描いているのが、渡辺哲夫の、「知覚の呪縛」でしたっけ。病名はともかく、とてもつらそうでした。リアリティーを取り戻そうと、そこで描かれている彼女は回りつづける。それってひょっとして、逃げていった森を追いかけているのでしょうか。

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感覚なんて意外なまでにあいまいで。

記憶だって絶望できるほどにあいまいで。

それでもこれって現実なんだなあと思える感覚はどこから来るのだろうと。


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