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◆2002年5月の日記◆

020502 そこにいること、そこにいられること。

『「弱さ」のちから―ホスピタブルな光景』(鷲田清一)を、友人から借りました。読んでよかった、と思える本でした。連休前ですから、もう返してしまって、手元にはないのですけれど。明日あたり、街の本屋に行って、手に入れてこようと思います。

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むりやりわかろうとせずに、ただそこにいて、相手とシンクロする、ということが語られているのかなあと、思いました。わかんないと、不安でしょう。不安だと、沈黙に耐えられない。どうでもいい言葉を挟んでしまう。すると、せっかく近づいた距離が離れてしまう。語られるはずだった言葉は語られないままになってしまう。そしてその場は流れてしまう。何も解決しない。

不安なのは仕方ないかもしれないのです。状況がわからない。自分が果たして役に立っているのか邪魔になっているのかわからない。でも、不安を表出している相手に、自分の不安をぶつけてどうするんだと、思ってみたりもします。つい口を挟んでしまう、相手のセリフを奪ってしまうのは、頭の回転がよいからではなく、沈黙に耐えるほどの強さがないからに過ぎないのです。自戒を込めて、そう思います。

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慈悲っていう言葉は、何かをしてあげることじゃなくて、ともにいてともに悲しむことなんだよと、どこかで読みました。そんなことを、思い出しました。

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020503 まっとうな休日。

I went swimming in the pool in the morning. I cooked curry in the afternoon, then I made some doughnuts. I studied after dinner. (午前中、プールに行って泳いできました。午後、カレーを作って、そのあと、ドーナツを揚げました。夜は、勉強してました。)

しばしば、中学2年生あたりの英語の教科書に、上に挙げたような文章が見られます。そんな単純な休日を送る人がいるのだろうかと思っていました。そういう休日もあるのだと今日発見しました。

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ドーナツなんて、たぶん15年くらい前に作ったきりではなかったでしょうか。もっとも、15年前の「ドーナツ作り」におけるわたしの役目は、生地を型で抜くことと揚がったドーナツに砂糖をまぶすことくらいだったはずです。

今回は、すべて自分で作りました。「ドーナツ型」のドーナツはイカリングに、丸いドーナツはチキンナゲットに見えます。鍋の中で生地がねじれるというアクシデントが起こり、八の字型のドーナツがひとつ生産されました。甘さ控えめなので卵と牛乳の甘さが感じられます。外から砂糖を補うことにしました。バットにコーヒーシュガーを入れ、そのなかに揚げたてのドーナツを放り込みます。しかし、砂糖が定着しません。でこぼこが多すぎて凹面に砂糖が接触しないようです。あきらめて皿に盛ってあらためてレシピを見ると、「砂糖にはコーンスターチを混ぜるとよい」と、母のメモがありました。結局、コーヒーシュガーを皿に入れ、ドーナツの横に添えることにしました。

プールで消費したカロリーをドーナツでとりかえしてしまったので明日も泳ぎに行ってきます。

020505 虐待について。

図書館で、児童虐待の本を数冊読みました。

最近虐待に関する報道がたいへん多く、そのたびに「信じられない!」といった調子で、レポーターがヒステリックに解説しています。そうですか、鬼ですか。人間ではありませんか。でも。果たしてわたしに子供がいたとして、虐待してしまった親とまったく同じ状況にいたとして、それでもわたしは虐待に走らずにいられるでしょうか。

虐待するというのは、そんなに信じがたいことなのだろうか、と思います。虐待する・しないの差は、実は、運・不運にかなり左右されるのではないかと、考えています。

「また加害者側に同情している。被害者の気持ちを考えろ。」よく言われるのです。でも、別に、虐待がいいことだとはちっとも思っていません。やっていいってわけじゃないのです。被害者のケアをおろそかにしろというわけでもないのです。

思うのは、ひょっとして責めてもどうしようもないんじゃないかなあと、いうことです。虐待がいけないことだという認識がないのならこれは知っていただかなくてはならない。場合により、文化により、子育ての方法は違いますから。しかし、ほとんどの場合、やってる側は、いけないことだとわかっているのですよ。でもやってしまう、という時に、責めても効果があがるのでしょうかねえ。ある程度の罰は仕方ないけれど、こぞって批判して、責めて、人間じゃないと叫んで、それで何かいいことがあるのでしょうか。

「こんなにかわいい子どもを虐待するなんて、あいつらは人間じゃない」気持ちは分からなくもないんです。自分は絶対そんなことはしない、そう思いたい気持ちの現れですよね。けれど、これを言っていたら、「人間じゃないあいつらを撲滅する」くらいしか解決方法は出てこないんじゃないかと思います。

そうじゃないでしょう。普通の人、もしくは、少しだけ抵抗力の弱い人が、何らかのきっかけで、虐待をはじめてしまうのでしょう。わたしだって、その可能性がないわけではない。虐待をすることなく子育てを終えた人も、状況が違えばどうなっていたかわからない。ならば、話を聞いて、事情を調べて、危険因子を抽出して、「普通の」人が虐待なんてことに手を出さなくてすむような、予防方法を考案しなければいけないなあと思うのです。

020506 言葉の生存条件を考察する。

言葉は記号です。記号というのは、一定のものを指し示すために使われる、代用品ですよね。例えば、○を見て、マル、と言う。すると、○のイメージが、話す人と聞く人の、両方の頭に浮かびます。ここで片方が、マルと言われて何のことだかわからない、もしくは、△を思い浮かべてしまうと、話が成り立たない可能性が出てきます。この場合、できるだけ早く気付いて、あらためてマルという言葉を共有する必要があります。マルという言葉が何に対応するか、決めるわけですね。ルールを決める、といってもいいと思います。この二人の間でのみ、△を指してマルと言う、としても、それはそれでよろしい。

さて、マルという言葉が○を指すのか、△を指すのかにおいて、対立が生じたとしましょう。どちらかがどちらかを責めるというのは筋違いではないでしょうか。お互いの定義を確認し合いもせずに、「あいつは非常識だ」と言っても、はじまらないと思います。 でも、△はマルではない、という反論は予測されます。そうですね、わたしたちの社会ではおそらくそうなんだろうと思います。しかしそれは、わたしが所属している社会においては、という、留保がつくのです。相手がその社会に属していなかったらどうでしょう。その社会に属していないまさにそのことによって、相手は責められなければならないのですか?

会話をするためには、常に言葉の再定義がなされなければならないと思うのです。ずれたまま話を続けるから、それこそ話にならなくなるのだと思います。そしてお互いに非難しあう。わからないとはなんと『非常識』な人間だと言って。でも、その「常識」は、自分が属する社会にのみ通じる「常識」かもしれないという反省は、必要だと思います。

どこの国のものでもない、あなたと、わたしにしか通じない言葉で話している。すべての人どうしにそういう言葉がある。本当はね。あなたと誰か、あなたと奥さん、あなたと前に一緒にいた女、あなたと父親、あなたと友達、その人たちどうしのためのたった一種類の言葉が。(吉本ばなな、「新婚さん」)

ここでいう「たった一種類の言葉」こそ、今話している組み合わせの人々によって、定義されなおした言葉だと思うのです。

さて。先のマルの話を続けます。△をマルと呼ぶのはかまいません。マルという言葉は、○も△も指すのだ、それはそれでかまいません。しかし、マルと書かれたときに、○を指しているか△を指しているか場合によって異なるとしたらどうなるでしょう。マルという言葉は、○と△を見分けるという意味においては、意味を成さなくなりますね。そういう状況で、マルと言う。聞いたほうは、○なのか△なのか迷います。○ですか△ですか、と聞くかもしれません。○のつもりだ、△なわけはない、当然じゃないか、そういうことくらい察してくれなければ困る、なんて言われたら困りますよね。じゃあそのように言えよ、と思ってしまう。これは、約束違反です。 こうなってしまえば、何も伝わらないし、言うだけムダですよね。何もいわずに、雰囲気だけ読めばいい。これが、言葉が死んでいく、言葉をかえて言えば、言葉が意味を成さなくなるプロセスの基本だと思います。

言葉が死んでも、雰囲気読めばいいんでしょ、まさにその通りです。あうんの呼吸は、典型例です。 しかし、それが通じる範囲は、通常たいへん狭い。2、3人の中でのみ、話が通じればいいというならば、問題はないのでしょう。そういう人は、多くの人と関わりたいという気持ちはもたない方がいいと思います。お互いいらいらするばかりですから。このへんは、個人の好みの問題です。

020507 「常識」が「ヨソモノ」を排除する機構。

「それって常識でしょう」あなたの常識はわたしの非常識なんです。そういうあなたの「常識」こそが、わたしにとっては非常識だったりする。

「最近、不文律が守られていないので」守られていない不文律って、ほんとに不文律としての機能を今でも果たしているといえるのですか?

「言わなきゃわからないやつには、言ったってムダ」だったら、今分かってないひとは永遠に救われないと思います。ひょっとして、完全に切り捨てちゃってるのですか。

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常識とか不文律とかいうものは、自分と相手の持っているものが共通だという前提に立っているからこそ出てくる言葉なのだろうと思う。

しかし、たいていの場合、前提は、同じではない。常識、なんて言われても、わたしの常識ではそうじゃない。常識なんて言葉は、なかなか気軽には使えない。常識という言葉は、使われる場においてそれが常識として機能してこそ、意味がある。

「それって常識でしょう」この言葉は、たいていの場合、「これがこの集団内のルールであり、今からキミがこの集団に属するつもりがあるならば、キミはこのルールに従わなくてはならない」このように翻訳されうる。これなら、理解できる。

そして、ルールを知らないものを、いきなり責めるのはフェアではないと感じる。知らないのなら、教えればいいのだ。教えずにおいて知らないことを責めても、事態は改善しないだろう。まず言葉で指示してみること、話はそれからではないのか。

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ある集団内でどんなルールを作ろうとそれはかまわない。ルールを知らないやつはメンバーではないというルールがあってもいい。ルールを知らなきゃそいつが悪いというルールでもかまわない。しかしそのようなルールを設定する場合は、ルールを知らない人間を締め出しているという感覚をしっかり保ったまま設定してほしい。意識的によそ者を排除しているのなら、それはしかたがないことだ。ただ、よそ者を排除しているということを自覚してくれ、と願うのみである。

020508 言葉に責任をとる、沈黙に責任をとる。

「お茶、いれるけど、いる?」要らないと答えたとして、それでもお茶を出す人と、出さない人がいますね。わたしの家では、いらないと答えたらお茶は出てきません。答えなかったとしたらどうでしょうか。

例えば講演があったとしましょう。感想を求めると、「いやーとても役に立つお話でした」これが何十人も続くと、バカにされているのかと腹が立ちませんか?その場にいなくても言えるような感想は、言っても言わなくても同じだと思うのです。

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「どうする?」と聞かれて答えなかったら、提示された選択枝のなかでどれがつきつけられようと、文句をいってはいけないのだと思う。「気持ちを汲んで」善処してくれるだろう、という態度は、言葉のしゃべれない幼児をのぞいては、とってはならない態度だろう。何も言わずにいる、ということは、相手に判断をゆだねるということだ。AかBかと聞かれて答えずにおいて、Aが出てきたから文句を言うというのは、理不尽である。ならばはじめからBがいいと言え。

別に、沈黙がいけないといっているわけではない。言わなかったら、伝わらない、ということを、ちゃんと自覚して黙っているのならそれはかまわないのだ。伝わらないことで不利益が生じるかもしれないけれど、それによって生じた不利益は、それこそ黙って、甘んじて受ける、そこまでの覚悟があっての沈黙なら、別に何も言うことはない。

語ることにはリスクが伴う。言葉には責任がついてまわる。イエスでもノーでもどっちでもいいでも、それぞれに応じて結果が待っている。そして、沈黙も、やはりリスクを伴っている。その結果をひきうける覚悟のことを、誠実、というのだろうとわたしは思う。結果まで引き受ける覚悟があるから、言葉は、そして沈黙は、意味をなす。

ならば意味のあることばを発しもせず、かといって黙りもせず、あたり障りのない言葉で、リスクをさけるというのはどうか。それも確かに一法だ。おそらく、断定的な物言いに常に付随するリスクは避けられるだろう。しかし、中身のない言葉は沈黙と大差ない。語らないと同様、あるいはそれ以上のリスクを、実は負っているという意識を、いったいどれだけの人が持っているだろうか。

020509 DNAを肉眼で見る。

今日は生化学実験の日でした。子牛の胸腺15グラムを試料として、DNAを抽出しました。

胸腺細胞をこなごなにして核だけを取り出します。次に、界面活性剤(=セッケンみたいなもの)を放り込んでたんぱく質とDNAを分離します。そこにアルコールを入れると核酸(DNAとRNA)だけが析出するので、そこにガラス棒を入れてかきまぜると、長い長い糸状のDNAだけがガラス棒にからみつく、という寸法です。

析出したDNAの様子は、ざるに上げたそうめんを、100分の1に縮小して見ている感じでした。まさかあんなに大量に出てくるとは思いませんでした。精製する前は、もともとの胸腺より多そうに見えました。一度精製すると1000分の1に縮小したそうめんのようになり、ろ紙の上にとって水を切ると、今度はかんだあとのガムみたいになりました。

DNAなるものは世間でかなり話題になっています。二重らせんのCGもしばしば見かけます。わたしたちの体を作る細胞一つ一つの中に入っているはずでありながら実際に目にする機会はあまりありません。なんとなく、見えるはずのないもの、バーチャルリアリティーの一種として、とらえていた気がします。それが、実は簡単な操作で、ただの物質の顔をして、わたしたちの目の前に現れたのでした。

020510 五月病。

五月病の季節ですね。五月病は本来、新入生がかかるものと決まっているようです。しかし、わたしは毎年かかります。この季節は苦手です。最近はなぜかとても雨が多くて、状況はさらに悪いです。

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何か言おうとするとなぜか自分の中で突っ込みが入ってしまいます。その結果、言葉を口にするのにふだん以上のエネルギーが要ります。ふだん以上のエネルギーを使ってそれでも何か言うと、やっぱり言わなかったらよかったなあ、と思ってみたりするわけです。考えすぎてダメになっているのかもしれません。

そして、ひとの言うことが聞き流せない。いちいち「あら、わたしって間違ってるの」と考え込むから余計に疲れます。じきに、「頼むから今はわたしに文句を言わないで」と祈るような気持ちになります。そういうときに限って、信じられないようなミスをしてみたりあとからどうしても説明のつかないような行動をとったりしてしまいます。

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ひょっとして身体を整えれば気持ちもしゃんとするかと思いました。からだの中の気の流れかリンパの流れかそんなものが滞っているイメージがあるので、それをさらさら流してやれば解決するはずだと。そこで、昨日の午後は、プールに行って泳いできました。短期的には大いに効果があるみたいです。明日も泳ぎに行こうと思います。

五月病にはふて寝が効く、とも聞きました。延々と寝てみれば少しはマシになるのかしら。

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うまくいかないことは、うまくいかないことで解決するべきだと、できないこと自身と取っ組み合えと、友人に言われました。なるほどなあと、思ってみたり。それでこのようなテキストを書いてみたりするわけです。

020513 長期計画。

このところ、自分の力不足を痛感するような出来事が相次いでおりました。山で言えば、高さはさほど変わらなくても裾野の大きさがぜんぜん違う、そんなことが多くありました。

何が問題なのかと、しばらく悩んでみた結果、要するに努力不足だという結論に到達しました。あるレベルまで達する前に、「そこまでやらなくてもいいんじゃないか」と、立ち止まってしまうから、いつまでたっても100%に到達しないのです。7割・8割にとどまってしまうのですね。

問題はもうひとつあります。わたしの人生は基本的に、短距離全力ダッシュの積み重ねでできているのです。一話完結の集合体に過ぎず、なかなか長編にならない。でもそろそろ、もっと長期の計画を立ててもいいころだなあと、思うようになりました。通常月単位、長くて1年では、できることは限られてしまいます。

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こないだ、実験中に、級友と話していました。かなりよくできる人です。「先生に、生化学のミニマムって何か、聞いてみた」と、その彼は言いました。ミニマムかあ、と、なんとなく引っかかりました。

実験しながら考えていて、ひとつ気づきました。ミニマムを追求するのはひとつのあり方だけれど、ミニマムではなくできる限りを追求する、というやり方もあるな、と。それは、最小の努力で最大の効果をあげる方法、ではないかもしれません。でも、必要もないのに妥協するのも、なんだかおかしいなあと。

そして、思ったのです。行けるところまで行ってみようと。

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というわけで、手始めに、今までずっと気になっていて、それでも怠惰のためになんとなくほうっておいたことを一つ一つ完結させることにしました。まずは、英語をやり直します。ちゃんと辞書を引いて、読むことにします。そして、しっかりした本を読もうと思います。まずは昨日買った「学問のすすめ」あたりから。

今のうちに種まきしておいて、10年計画で刈り取ることにします。

020518 「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」

今日は実験が思いのほか早く終わったので、現代美術館で行われている奈良美智展に行ってきました。

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この展覧会、サブタイトルが「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」といいます。展示室に入ると、「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」という文字が、壁にかかっていました。左→前→右→後と、壁を順順に見ていってはじめて、「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」が完結するようになっています。文字はそんなに大きくありません。白い壁の余白のほうが大きいくらいでした。壁の余白に、圧迫されるくらい。

わたしは部屋のまんなかに立って文字を一つ一つたどり、「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME. Then, you don't mind, if I forget you?」と、つぶやきました。

さてその、「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」の文字は、透明アクリルでできています。中は空洞になっており、ボックスの中に、奈良美智独特のキャラを模したぬいぐるみがたくさん詰まっていました。あの目でにらんでいるのです。

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奈良美智の描く女の子の、目と頬は特筆に価すると思います。相手は絵なのに目が合ってしまいます。相手は二次元なのに頬をつねってみたくなります。ぷにっと。

かわいくないかもしれない。見ていて快いものでもないかもしれない。「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」忘れられても、気にしないもん!強がっているような気がします。最後まで強がっているでしょう。手なずけようと近づいても、こっちが根負けしそうな気がします。やっぱりかわいくない。

でも。ぱっと見て一瞬どきっとする、そんなエネルギーがあるというのはすごいことだなあと、思うのです。

020525「で、君はどうしたいんだい?」

えっと、おひさしぶりです。Nokoです。

結局1週間まるまる、サイトをほうっておいてしまいました。「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」なんて、一週間サイトをほうっておく前触れの日記にしては、できすぎなタイトルであったなあと思います。偶然なんですけどね。

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1週間更新が滞っていた理由は、結局、文章を書く気力がなかったということになるのでしょうか。

このところ、複数の件に関して、迷っていました。もう一歩踏み込むべきか今いるところにとどまるべきかそれとも退くべきかと。プレッシャーためなのか、思想的な問題なのか、単にさみしいのか、めんどうなだけなのか、身体的に不調なのか、それはわからないのですけれど。

誰かに相談するにしても状況の説明が面倒だったり答えが完璧なまでに予測できてしまったりプライドの問題が絡んだり柄にもなく遠慮してみたりして結局ほとんど誰にも何も言わないまま考えていました。

そうしてしばらく考えていて、ひとつ気づいたのが、とにかくわたしがどうしたいのか決めなければどこへも行けない、という、たいへん平凡な事実でした。どうしたらいいのか、の前に、どうしたいのか、なのだなあ、と。

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そうして、「で、君はどうしたいんだい?」と自らに問いかけてみると、その問いにきっちりと答えることは必ずしも容易ではないことに気づきました。それはそれで、「まだ決心できていない」ということだけでも、覚えておかなければならないということなのでしょう。


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