淡々としていなくもない日常。>日記・雑記目次 >2002年1月の日記

◆2002年1月の日記◆

020101 あけましておめでとうございます。/「魂の殺害者」

あけましておめでとうございます。年々地味になる、Nの年明けでございます。食事の種類以外はたいしてほかの日と変わらなかったりします。さて。淡々と、などとタイトルには掲げていますけれどもせっかくですから新年の抱負などを。

「余計なことを言う前に、一瞬なりとも考える」です。地味に、これでいきます。

昨年わたしは、いろいろな人にいろいろな名目でケンカをたくさん売りました。相手の寛容さのおかげで、ある程度実りのある議論になったこともある、それはそれでよかったのだとは思います。でも、相手のメンツや立場をわきまえずに、たとえ敬語は使っていてもほとんど対等の立場としてケンカを売ってしまい、せっかくきちんとした話し合いができるチャンスをみすみす失ってしまったことも、少なくはないのですよ。

そして、言わずもがなのひとことの、なんと多かったことか。それさえ言わなければ美しく終わることも不可能ではなかったのに、どうしてそれを言ってしまうかなあ、そんな思いを何度繰り返したことでしょう。

さらに、「正しいからといってなんでもかんでもストレートに言えばいいというものではない」ということを、ようやく学びつつあるこのごろなのです。正しくても相手の気持ちをおもんばかって言わない方がいいこともあるのかなあ、と。いずれ言うにしても、相手の受け入れやすい言い方を工夫するくらいの余裕があったほうがいいなあ、と。

もっと言えば、「相手に勝つ」を目的としたコミュニケーションから脱却しようということなのかもしれません。自分が相手よりえらいということを主張したとして、それで何がえられるのかと。ゲームならばよいのです。双方が同意した上で、知的スポーツとして議論を楽しむというのはとてもわくわくすることであり、そういう相手がいるというのはとても望ましい状態なのだなあと思います。でも。相手がそういうつもりなのかどうか確認しないまま、勝手にゲームをはじめてはいけない。勝手に走り出して勝手に勝ったと、宣言してはいけない。

少しは、年相応に大人になろうと、いうことなのでした。

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さすがに大晦日と一月一日、できることなら一月二日も含めて三日くらいは「完全休業」にしようと、だらだらしております。よって本を読む時間も増えるというわけで、新年早々新年らしくない本の話を。

この、「魂の殺害者」を読みながら、以前紹介した「カルトの正体」なんて思い出しました。「魂の殺害者」にも「カルトの正体」にも、「服従か、死か。そして選ぶのは本人であり、そうはいいつつ実質的に選択の余地はない」という状況が描かれています。「カルトの正体」では、二元論を適用される側に注目しているのに対し、「魂の殺害者」では、適用する側に注目しているようにも思えます。

今度は、二元論から逃れる術だけでなく、他人に二元論を適用しなくてすむ術をだれか述べてくれていないか、見つかるといいなあと思います。被害者になるのもたいへん困りますけれども、加害者になってしまうのもとても怖いことですから。→魂の殺害者(モートン・シャッツマン著、岸田秀訳、草思社、020101)

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020102 「引きこもり」から、どうぬけだすか©富田富士也

正月だ、という実感は今ひとつないものの、正月だ、ということを盾にしてコタツに刺さった生活を送っております、Nです。コタツに入るということは本を読むもしくは寝るということを意味していまして、一日中、本を読んだり寝たりしていました。なんと優雅な生活。

このところあまり本を読んでいなかったせいか、難しい本を読むとくらくらします。よって、哲学三昧でいこうという当初の予定はあっさり放棄し、気の向くままに読書することにしました。

最近わたしが引きこもっているから、というだけではないのですけれども、今回は引きこもりについて、です。→「引きこもり」から、どうぬけだすか(富田富士也、講談社+α文庫、020102)

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020103 タイムリミット/新婚さん©吉本ばなな

今日から勉強を再開しました。

「最北医学生の日常」で、matzn氏が、試験において重要なのは、実は丸暗記より理解したか否かだ、という内容のことを書いておられます。そのとおりだ、というか、そうあってほしい、ということで、一から理解するべく、こつこつやっていこうと思います。

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なんて、かっこいいことを言いましたけれども、実はこれから一ヶ月間、休まずに勉強に精を出して、それでも間に合うかどうかというレベルであることが判明したのです。ちなみに判明したのは今日です。特に新しい情報が外から入ってきたわけではありません。目前の(一月七日に試験のある)神経解剖学に気をとられていて、二月四日の組織学、二月七日の解剖学総合試問の存在を、これまですっかり忘れていたのでした。

これほどまでにきれいさっぱり忘れることができるというのは、つまり逃避しているに違いありません。そういえばいつになく部屋がかたづいています。これも逃避の成果に違いありません。読書記録も書いてあります。やはり逃避の産物に違いないでしょう。

でも逃避の産物であろうとなかろうと、読書記録に差はないので本日の読書記録。単なるあらすじ紹介からの脱却を試みてみました。「考える」ための小論文(西研・森下育彦、ちくま新書)を読み返した結果影響を受けたのです。しかしその成果は、というと、日記のついでに本を引用したみたいになってしまいました。難しいものです。

020104 少なくとも理解したつもりになれるまでの経緯。

今日は免疫にかかわる組織をまとめてさらってしまうべく、机に向かっていました。臓器をあげると、胸腺に脾臓にリンパ節、です。何をしているのか、どのような細胞で構成されているのか。予備知識は、存在場所くらいでした。

え、授業でやったはずなのに…一応復習のつもりなのに…

授業で、何も分かっていなかったことがわかりました。ノートはただ書いてあるだけ。わかっていなかったから記憶に残っていないのか、と、あまりありがたくない事実を再確認しました。

わかってしまえば、あんな簡単なこと、というレベルなのに、わかるまでがたいへん、ということは多いですね。今日もそんな感じでした。何度教科書を読んでも意味がわからない。数度読んで、はじめて読み飛ばしていたところに気づいたりしました。はじめからそれをいってちょうだいよう、って、はじめから言われてもわからないのにね。そこまで積み重ねたからこそ、やっとわかるということだってあるのかな、と自己弁護してみたりします。効率ばかり追求していては見逃すものもあるかもしれないから、とまで言ってしまうといいわけかもしれませんけれども。

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なんてことを言いつつ。勉強を中断して「死神くん」を12冊読みました。もちろんはじめは1冊でやめるつもりでした。止まらなくなりました。泣けました。簡単に泣けてしまう自分はあまり高く評価できないのですけれども、しかたありません。もうちょっとで「MIND ASSASIN」全5冊にも手を出すところでしたけれどそれはなんとか押しとどめて、勉強に戻りました。

020105 クローン豚の存在意義。

最北医学生の日常で、クローン豚について書かれていたのでわたしも思うところなどを。

なんでも、豚の臓器を人間に移植する際の拒絶反応に関連する遺伝子が働かないようにする遺伝子操作を行った細胞から、クローン豚ができたそうですね。つまり、豚から人間への、臓器移植が可能になるかもしれない、その第一歩だというわけです。

豚からヒトへ、臓器移植。人工物を入れるのとどちらが自然なのかといわれると、悩むところです。プラスチックよりはヒト組織に近いでしょうか。プラスチックはまいっか、で、豚はちょっと、というのは論理矛盾でしょうか。

でも、豚かあ。わたしが、豚の肝臓を移植してもらわないと生きられないというならば、そんなこと言っていられないでしょうけどね。助かるならば豚の肝臓を入れてもらうくらい全然オッケーかな、と思います。でも。なんだか疑問が残るのですよねえ。どちらかというとプラスチックのほうがいいかなとか。ヒト臓器と比べてどうでしょう。豚よりもヒトのほうがいいかなあ。あれ、それならプラスチックより豚のほうがいい、となるはずでは。なんだか、へんですね。

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埒があかないので少し角度を変えましょう。

こないだ、どこかの国で、生きている魚を売ったら、魚の苦痛をいたずらに長引かせたとのことで、店主が訴えられたそうですね。豚のために訴える人達はいないのかなあとか。

やっぱりもともと、食べるために飼育されることの多い動物だから、皆何も言わないのかなあとか。いまさら訴えるとしたら、「ずっと豚を食べてきた、そのために豚を飼育してきたおまえたちはどうなる」ということになるでしょう。わたしだったら、ごめんなさいと謝ってしまうと思います。

食べるためでも、捕鯨はいけないという人々がいるのですけれどもねえ。あれは、鯨が少ないからですか?豚はたくさんいるから殺してもいいと。ヒトは60億人もいるから殺してもいいと。あれ?なんだか変だなあ。

豚と鯨、一個体当たりの価値が違うんでしょうかねえ。鯨は養殖できないから?鯨は1頭あたり大きいから?ひょっとして鯨は賢いからですか。賢いとどうして、一個体当たりの価値が高いといえるのでしょう。ひょっとして、脳死のヒトが死んでいるとみなされるのと、同じ意味ですか。キミたちは死んでるのと大差ないらしいよ、と、そのへんの植木に心の中で話しかけたりして。そうなんですか?

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話を元に戻しましょう。

例えばわたしがいずれ子どもなど産んでみたとして、その子どもが移植肝臓のお世話にならないという保証はないわけです。それで病気だった子どもが元気になるとすれば、わたしは、ドナーが生きているヒトであろうと脳死のヒトであろうと死んだヒトであろうと、クローン人間であろうとクローン臓器であろうと、人間でなくて豚であろうとその他の動物であろうと、プラスチックであろうと金属であろうと、ドナーと、その移植を可能にした科学技術に感謝するのではないか、とも思うのですよ。

とすると。いいことなのかなあ。豚クローン。

020107 コンセント©田口ランディ

今日の午後は、始業式ではなくてテストでした。200202年の初登校はテストで始まったのでした。ふたを開けてみると例年通り、すなわち過去問通りでした。少し物足りなかったですけれども落ちなければいいかなとか。これで落ちていたら笑えますけれどもたぶんだいじょうぶでしょう。おそらく。

さて。テストが終わって帰ってきて、前から読むつもりだった「コンセント」を読みました。瀬名英明の「BRAIN VALLEY」と、桜井亜美の「トゥモロウズ・ソング」を思い出しました。新しい種類の人間が発生して、彼らにはそれまでの人類に見えないものが見えて、というストーリーは、どことなくわたしを不安にさせます。取り残されるかも、という不安なのでしょうか。

今日の読書記録は、敬語抜きで書いてあります。本を読んだ直後に書くと、その本の文体に影響されてしまうようです。

020112 自殺がいけない理由。

あるとき、弟がいいました。「自殺しようとした人がいるとして、もう二度と自殺しないようにね、っていいたいとして、どういうふうに言ったらいいと思う?そういうテーマのさ、自殺論っていう、授業があるんだよ。最近テーマがずれてきてるけど。でさ、お姉ちゃんならどう答えるかな、と思って。」

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ほら、たとえ知らない人でも、目の前で死なれたらいやでしょう。目の前に自殺しようとしている人がいたら、やっぱり助けるじゃない?反射的に。

でね、一度でも関わった人が、老衰とかならまあ仕方ないかもしれないけど、自殺したとかそういうのって、しんどいじゃない。自分にとって何の得にもならなくてもさ、もう会わないとしてもさ、できればどこかで元気でやっててほしいじゃない。

だから、ってのはダメかなあ。誰にも迷惑かけない、ってわけじゃないんだよ、ってさ。じゃあおまえこれからいいことなくてもものすごくしんどくっても生きていなさいと命令できるだけの権限があるのかとか、幸せになれると保証できるのかとか、言われると困るんだけどね。それはできないんだけど。

人を殺してはいけないのと、同じ理屈で説明できそうなんだけどうまくいかないや。殺されたくないでしょう?って、死にたいっていわれたら無効だよねえ。生きてればいつかいいことあるよ、って、そう思えないから死にたいんだろうしねえ。ひょっとしてふらっと自殺しようと思った人なら、少し冷静になればもう自殺しないかもしれないけれど、今話しているのは、そういう人についてじゃないよね。

あたしについて言えばさ、いっときね、自殺する方法についていろいろ調べたことは、あったんだよ。でね、本気でやろうと思えば、そんなんいつだってできるってこと、つまり、行動としてはそんなに難しいことじゃないって思ったのさあ。だったら、まあそういういつでもできてでもやってしまったらおしまい、ってなことは今のところやらなくてもいいから、できるところまでやってみようと、思ったんだよね。ま、自殺なんてことはいつでもできる、と。今はそんな、自殺しようなんて思わないけどね。

そのときは確か、こういうふうに答えたはずです。

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そして今思うのは。こんなに精巧にできている人体というものを、勝手に壊したりしてはいけないのだなあ、ということなのでした。

今週から解剖が再開しました。今月いっぱい、頭を解剖して、解剖実習は終了です。頭は細かい筋が多く、血管・神経も多い部位なので、小さい割にはたいへんです。でも、そんなごちゃごちゃした頭においても、ほとんどすべての構造は、どのご遺体にもきちんと存在するのでした。

普通に、生きているというだけで、それらの構造はすみずみにいたるまで呼吸し、エネルギーを消費し、自分の義務を果たしているわけです。誰が作ったってわけでもないのに。母親のおなかである程度育ちはしましたけれど、それだって母親が育てよう育てようと思ったから育ったわけですらないわけです。もちろん、自分の意志だけで、自分の身体を維持しているわけでも、ありません。

そんなことを考えると、自殺しようなんていうのは、脳の横暴かなあと思ったりするのですよ。脳は死にたいと思っていても、他の細胞はそうは思っていないだろうなあと。ウズラの身体にニワトリの脳を移植して育てると、じき脳は、異物として排除されてしまうそうですよ。

020113 掲示板に関する自己正当化。

このサイトには、掲示板を置いていません。

昔は、置いていました。去年の11月だったでしょうか、当時使っていた掲示板の、無料サービス停止に伴い、掲示板はとりはずし、今に至っています。

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たまに、なぜ掲示板を置かないのか聞かれます。

レスをつけるのがたいへんだから、というのは、半分は当たっていますけれども、半分は当たっていません。確かにたいへんだったから取り外したのですけれども、だったらそんなに書きこみがあったのかというと決してそういうことはありませんでしたので。

別に、公序良俗に反する書きこみがあって対応に困ったとか、そういうことはありませんでした。

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ただ、掲示板だと、ちゃんとした話がしづらいな、と思ったのです。

どうしても、その掲示板を見る他の人を、意識するでしょう。そうすると、書けないことが増えます。同じような質問に同じように答えるのもなんだか悪い気がする、とか、ああ、これをいうと、前の書きこみの人の意見を否定することになるなあ、とか。掲示板に書いてくれているのにメールで返事を書くのもちょっと、とか。書けばよかったのかしら、今思えば。

掲示板上では、たとえきちんとした議論が成り立ったところで、その議論が進みすぎると、今度は他の人がはいってきづらくなります。時々他の人のサイトで、議論をはじめそうになります。収拾がつかなくなるなあ、ごめんなさい、と思います。

かといって、いちげんさんだけの掲示板というのも、なんだかさみしいなあと。

常連さんだけで話をする場を提供しているサイトもあるようですけれども、このサイトはそういう雰囲気ではありません。

わたしは誰のために、掲示板を置いているのだろう、そう思ったのです。

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レスをつける順番も問題でした。何日かほっといたりして複数の書きこみがある場合、下から順に、返事を書かなければならないのですね。

一度、サイトの宣伝っぽい書きこみにどう答えたらよいかわからなくて、上にある書きこみに返事を書いてしまい、結局その書きこみを無視してしまったことがありました。当時使っていた掲示板は、レスをつけるといちばん上に上がるタイプだったので、途中からは、いまさらレスつけるのもな、と、ずるずる引き延ばすようになってしまったのです。今思えば、「わかりました、あとで見に行きますね♪」とでもなんとでも、書けばよかったのですけれども。実際よく見にいっていたサイトでしたし。ちなみに、そのサイトの管理人さんからは、後に絶縁されました。自業自得、ですよね。

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メールなら、いつでも連絡が取れます。アドレスが書いてあれば、返事は書きます。サイト上で回答してほしい質問などありましたら、その旨書いていただければ、対応します。下のフォームからなら、匿名でもメールが送れます。メッセージ欄にアドレスを書かない限り、わたしにはアドレスが伝わりません。

そんなこんなで、掲示板は置いていません。これからも置かないと思います。

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020114 一人になる時間の意味

今日の新聞に、「一人になる時間の意味」という題名の、津田和壽澄(つだかずみ)氏のコラムが載っていました。

今の日本においては、孤独というものの価値が、著しくおとしめられているよね、という内容でした。一人でいる時間は人間にとって大事な時間であるはずなのに、日本ではそれは悲しいことでさみしいことで、避けられればそのほうがいい、そういうものだと認識されている、というのです。

おそらくあたりまえのことを言っているだけなのでしょう。でも、そういうことを、新聞という、多くの人が目にするメディアで発言することには大きな意味があると、思いました。

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一人でいることは、否定的にとらえられがちです。人目を気にして、一人でいたいのに一人でいることを避ける、そういうことさえあります。

携帯電話が普及して、一部の人にはのべつ幕なしにメールが送られてくるようです。メールが送られてきたら、その瞬間、誰かが自分のことを思い出していることが、保証されるわけですよね。

わたしもいっとき、携帯電話がないと日常生活が遅れないような状況に陥りました。そうなってしまうと、集中なんて、できません。考えごとも、しづらくなりました。読む本の数も、減りました。今は携帯電話をほとんど使わない生活に戻っています。少しは考え事が出来るようになった気がします。メールが来なくなったから、というより、来るかどうかを気にしなくなったから、かもしれません。

考え事をしたり本を読んだりすることが無条件にいいことなのかどうかはわかりませんけれども、そのような時間があるということは、わたしの精神衛生にとっては、大事なことです。いろいろなことを経験したり学んだりしても、それについて思いをめぐらすことがなければ、なかなか身につきづらいような気がするのです。人に会うだけのエネルギーがないこともしばしばです。考え事をつきつめたいことだって、あります。

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一人でいること自体が楽しいかどうかよりも、一人でいることに対してどのような感情を持つかが、問題なのではないかと思います。一人でいることは、集団に適応できないからだ、誰も相手にしてくれないからだ、そのようにとらえていれば、一人でいることは、とても怖いことになるでしょう。一人でいる人を、ほっとけなくなるでしょう。

『引きこもり」から、どうぬけだすか』(富田富士也、講談社+α文庫)に、一人でいること自体は別にかまわないけれど、必要なときはいつでも集団に戻れるようにできるといいね、とありました。そのように考えるならば、多くの人が、ずいぶん楽になるかなと思います。

020116 決り文句。

過去の悪行ばかり思い出されて、気がつけば「ごめんなさい」とつぶやいている、そんな日もありますね。ここ2、3日、そんな日が続いています。過去の悪行の、たなおろしをしているのかもしれません。たまにこうやってほこりを払って、ごめんなさいとつぶやいてささやかな罪悪感を呼び起こし、ほんの少しだけでも罪滅ぼしをしていくものなのかな、と思ったりします。いまとなってはどうしようもないことばかりですから。

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さて。気を取り直して、本題に入ります。

ある人から来たメールに、その人の怪我について書かれていました。わたしは、なんと言っていいかわからなくなり、「だからどうというわけではないのですけれどもだいじょうぶならいいなあ」と書いて送りました。実をいうと、自分の書いた文章に対して少し違和感があったのですけれども、疲れていたこともありそのまま送信して、寝てしまいました。

あくる日。案の定というかなんというか、違和感を表明したメールが届きました。

違和感の内容をことばにすると、本人がたいへんだともなんとも言っていないのに勝手にたいへんだと決めつけて勝手に同情していたのではないか、それって失礼なんじゃないかなあ、ということになると思います。「ああ、わたしって、同情されるべき状況にいるってわけね」と相手にむりやり実感させるのは、失礼以外のなにものでもないでしょう。

「まず相手の言うことを受けとめなさい」と、カウンセリングマニュアルには書いてあります。でも、相手が言ってもいないことを、作り出して受け止めるというのはいただけません。

自分に置き換えて考えて、たいへんだと思うこと、望ましくないと思うことが、相手に起こった場合には、同情の意を示す、それはすでに、常套手段です。下手をすると、条件反射です。たいへんだねえとか、同情するのは簡単なんです。無難ですし、ちょっといいひとっぽい気分にも浸ることができます。そしてなにも、考える必要がありません。

そのようなことばを使わないとして、使うにしても使っていいかどうか見極めて、その上で話を続けるには、やはりエネルギーがいります。しかしそれは、関係をただの形式、意味のないことばのやり取りに、堕落させないためには必要なエネルギーだと思うのです。

020117 考えるということ。

考えるということについて、「考えて」いました。考えるという動詞は、何をさしているのだろう?と。

私的辞書には、「頭の中にあるもやもやした想念に言葉を当てはめていくこと。」と書きました。でも、それだけなのでしょうか?どうもそれだけではない気がして、気になっていたのです。

で、考えるということばが指している状態が、具体的に何なのかを考えながら、自転車をこいで学校へ行きました。

うーん、なんだかしっくり来ないなあ、と思っていたら、「頭の中にいる、複数の「自分」によって話し合いをすすめること。」という定義を思いつきました。そっか、これか、と。ああでもない、こうでもないとあれこれ考えるのは、たぶん頭の中にいる複数の「人々」の、話し合いなのではないでしょうか。人々と言って悪ければ、自分のいろいろな側面、自分の中にあるいろいろな考え方、といってもいいかもしれません。

その線でいくと書くというのは、自分の考えをあたかも他人のそれのように扱うための手段となりましょう。話し合う相手を外に求めるといわゆる話し合いになり、読書になるでしょう。頭の中での話し合いのほうが一般的に早く進みますけれど、頭の中にいる固定メンバーだけでは埒があかないときには、外との交流も必要となる、と考えればすっきりすると思います。

020120 死神くん

「死神くん」というのは、ジャンプコミックスで出ていた、えんどコイチ(「ついでにとんちんかん」を描いていた人)作の、漫画です。

かなり昔の作品なので、今は、古本屋にしかないと思います。そういえば、愛蔵版も出ていたようですね。やはり古本屋で、見たことがあります。

一話完結形式ですので、何巻から読んでもだいじょうぶです。個人的には、1巻から4巻くらいがお勧めです。

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わたしが持っている漫画の中で、いちばん数多く読み返した漫画のひとつでしょう。どのくらい気に入っていたかというと、帽子とジャケットが着脱式の、マスコットをフェルトで作ってしまったくらいです。今でも部屋の本棚のかなり手の届きやすいところに置いています。わたしにもっとも影響を与えた漫画は、ブラックジャックと火の鳥(鳳凰編)だと思っていたのですけれど、この「死神くん」であったかもしれません。

死神くんというのは、死者の魂を霊界につれていくのを仕事にしています。そのほか、死期の迫った人にその旨を告げたり、「やりのこしたことはないかい?」と、死期の迫った人がその人生に満足するために力を貸したり、自殺しようとする人・人を殺そうとする人を止めたり、悪魔くん(三つの願いと引き換えに魂を奪うもの。案外いい子です。)のじゃまをしに現れたりもします。

そして「死神くん」とは、死神くん(と悪魔くん)、そして彼らに出会った人々の、物語です。

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「死神くんのマスコット、医者になったら診察室に飾ろうかな。漫画も揃えて。」これから医者になろうという人間が、いくらなんでも「死神くん」はまずいだろうと言われました。言われてみれば、その通りです。

わたしが将来を思い描くとき、わたしが医者として担う仕事というのは、どちらかというと「看取る者」なのではないかと思うことが、しばしばあります。ほどなく死んでしまう人がそれまでの間なるべく「生きててよかったな」と思えるように、手伝いをさせていただく仕事がいいな、と思います。だから「死神くん」。「治す」なんてできないと、思っているのでしょうか?そういう消極的な理由ではないと、思いたいのですけれども。

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020112 自殺がいけない理由。で、どうして自殺がいけないのだろう、それは「あなたに死んでほしくない」からであり、「こんなにも精巧な人体というものを、勝手に壊してはいけない」からではないか、と書きました。でもそうではないのかもしれません。少なくとも、それだけではないのかもしれません。

SEARCH FOR MEANINGでも指摘されていたように、自殺しては「いけない」意味というのは、ごく個人的なことの中にあるのかもしれないと、思います。死神くんは、死んだらどうなるか、いかに周りの人生を狂わせてしまうかのかを示し、今生きていることの意味を再確認させ、本人に「生きる意志」を見出させます。「じゃあ、いくら探しても死んだほうがいいという結論に到達するという可能性はないのか」というとやっぱりあるかもしれないのですけれど、「死んでしまおう」という、強い気持ちに対抗するには個人的な事情しかないかな、とも思います。

020121 地底に棲む人。

村上龍の「5分後の世界」だったと思います。地下の排水管周辺に棲む人々の話がありました。たしか身体は半分溶けていました。目は暗いところにずっといるために退化していたはずです。光のあたる場所に出たら死んでしまう。それはそれは悲しそうな声で泣くと、書かれていました。

本が手元にないので、正確ではないかもしれません。

彼らのイメージが、頭から離れません。なにかよからぬことを思い出してごめんなさい、と口の中でつぶやくとき、なぜか彼らの映像が脳裡に浮かびます。作品自体は、ずっと前に読んだきりなのに。映像で見たわけですらないのに。

毎日彼らは何をして暮らしているのでしょう。フィクションの登場人物に思いを馳せて何をしているかなんて、ナンセンスのきわみではあるのですけれども、何かの、比喩である気がするのですよ。なんの比喩でしょうね。

020122 片付けられない女。

「片付けられない症候群」という言葉が、流行っているようです。夕食時、テレビでやっていました。そういえばそういう題名の本を見かけたことが、あるような気がします。部屋の片付けがたいへん苦手なわたしとしては、気になるところです。

そういう人っているんじゃないかな、特にひとり暮しだったりしたら、忙しいし、ま、いっか、というのは普通でしょ?女性はこれまであまりひとり暮しをする機会がなくて、家にいたら母親が、嫁にいったら姑さんがうるさかったかもしれないけれども、今はひとり暮しする人も多いし、ねえ。そう、思っていたのですけれども、

なんでも、脳の伝達物質と関係があるとか。セロトニンでしたっけ。「この状態が進むと精神病になる恐れもあるという」とテレビでは言っていました。自分自身については特に不安になりませんでしたけれども、テレビの姿勢に不安をおぼえました。おいおい、それはないでしょ、と。いたずらに人を不安に陥れてどうするんですか。精神病ってなんのことですか。それだけ言い捨てて「そうだね〜こわいね〜」なんてリアクションを引き出して何が嬉しいんですか。だったらそれなりの対処法を紹介してほしいものです。「ほら、きれいな部屋って、気持ちいいでしょ?」なんて精神論じゃなくて。

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片付けられないひとは、要するに不安なんだ、きちんと片付きすぎた部屋にいられないほど、不安なんだ、そんなことを聞いたことがあります。片付けられないひと=物を捨てられないひと、というのもありましたね。これも不安路線で。

そうなのかしら。たしかに精神的に安定しているとはいいがたい今日このごろのわたくしではありますけれども、片付いた部屋は好きですよ?ただ、元にもどすのがめんどくさい→元にもどさない→散らかる→今から片付けるのもなんだかなあと面倒になる、というサイクルを繰り返しているだけなんです。それが不安っていうんだよー、といわれたら、そうですか、と引き下がりましょうか。

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注意欠陥障害・注意欠陥多動性障害による、という説もあります。ADD/ADHD for ADULTのページを参照してください。こういう障害に関する自己診断は、わたしの場合妙に高い値を示すことが多いのですけれども、それにしてもよく当てはまるような気がします。わたしから、ADHDと呼ばれるような性質を取り除いたらもっともっと『よい』人間になれるかしらと、思ったりもしてみます。ふうむ。薬でなんとかなるならば…?

でも、「非常に当てはまる」のか、というとそういうわけでもないので、「多少そういうところもある」という程度かもしれません。『正常』と『異常』の間にはたぶんなだらかなグラデーションがあって、自分がいまどちらに属するのかは、なかなか決めがたいものですものね。いろいろでこぼこがあるのが、人間だという説もありますし。完璧すぎると近寄りがたいという話もありますし。欠点が多すぎるのも困るといううわさもありますが。

もう少しせっぱつまるまで、ほうっておきましょう。部屋は、なるべく早くに片付けましょう。…テストが終わったら。

020123 火星人の耳。

今日は耳の解剖でした。はっきりいってうまくいかなかったので解剖自体の話は省略します。

さて。音が聞こえる、というのは、空気を伝わって来た音、すなわち空気の振動が、鼓膜を振るわせることから始まります。鼓膜が震えるとその内側についている3個の耳小骨(ものすごく小さい骨)が順々に震え、その震えが膜を通して内耳にある液体に伝わります。そしてその液体が「カタツムリ管」にある神経細胞の毛を震わせて、神経細胞が「音が来たな!」と「思い」ます。

もう一度まとめると、鼓膜→耳小骨→膜→外リンパ(液体)→内リンパ(液体)→神経、ですね。結局のところ神経に振動が伝わっているわけです。

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そうか、とことん振動なのだなあと、予習をしながら考えていました。振動って、例えば手で感じれば、それはただの振動ですよね。大太鼓をたたいたら大きな音がします。そのとき皮を触れば震えています。近くの空気も震えています。皮膚で感じれば単なる振動です。でも耳で聞くと音なんですよね。

人間が音に対して敏感だから、音なんてものがあるのではないかと思います。

それはちょうど、日本ではぶりやはまちを区別するのに、魚を食べない国では「若いブリ」くらいにしか言わないだろうというような。イヌイットの国では、雪の様子をあらわすのにいくつもいくつも言葉がある、というような。そういうことと似ているような気がします。

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芥川龍之介の「朱儒の言葉」に、こんな言葉があります。

火星の住民の有無を問うことはわれわれの五感に感ずることのできる住民の有無を問うことである。しかし生命は必ずしもわれわれの五感に感ずることのできる条件をそなえるとは限っていない。もし火星の住民もわれわれの五感を超越した存在を保っているとすれば,彼らの一群は今夜もまた篠懸を黄ばませる秋風と共に銀座へ来ているかもしれないのである。

この世界のどこかには、人間で言うところの五感はないかわりにその身体に降り注ぐニュートリノかなにかを感じて、周りの様子を探っている生物すら、いるかもしれないのですよねえ。ニュートリノですらなく、わたしたちが永遠に知ることのない現象を感じているかもしれません。でも、わたしたちが永遠に知ることのない現象は、わたしたちが永遠に知ることのないそれゆえに、わたしたちにとってはあってもなくても知る由もないのです。

020126 試験勉強中/「サンクチュアリ」©吉本ばなな

今日は一日、勉強していました。留年科目とされている、組織学のテストが近いのです。

ノート作りにはまっていたりします。A4版のコピー用紙を使います。シャープペンシルで下絵を描いて、サインペンでペン入れして、消しゴムをかけて、色鉛筆で色を塗ります。そうして解説を書きこんで、できあがりです。試験範囲のすべてを網羅したころには、50ページを超えていることでしょう。できあがったら製本します。時間をかけてちゃんとつきつめながら勉強するというのは、かなりぜいたくなことだと、思いました。

さて久々に読書記録です。このテーマは、高橋和巳の心を知る技術に通じるところがあるなあと思いました。わたしにとってもっとも重要なテーマのひとつが、描かれているともいえると思います。

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  • 読書記録に、「サンクチュアリ」©吉本ばなな追加。

    020127 「ちょっと考えれば」の、「ちょっと」

    「最北医学生の日常」2002年1月26日分に、せっかく消毒した採血部位を、(もちろん消毒していない)自分の指で触って静脈を確認する看護婦さんの話が出ていました。

    この場合、消毒はおそらく、単なる儀式と化しているのだろうと思います。儀式、というのは、なんていうのかなあ、「やった」という事実だけで満足してしまえる状態、ということです。「消毒したぜ、よっしゃ」みたいな。

    ひょっとすると、針を刺すところの消毒は、さして重要ではないのでしょうか。実際のところ献血にくるのは健康な人ばかりですから、そうやって針を刺したからといって特に致命的なミスにはならないのかもしれません。それに、静脈にさわることなくあの太い針を的確に刺すのは難しそうな気がします。実は看護婦さんは、手を消毒していたりして。それなら全然、問題ないんですけど。

    ◆◇◆◇◆

    もしそうでないとしたら。本当は触っちゃいけないはずなのにさわっているとしたら。どうしてでしょう。

    「ちょっと考えればわかるでしょう」よく使われるセリフです。これなんですよねえ。ちょっと考えれば。忙しいとは思うのですけれども。

    ◆◇◆◇◆

    別に看護婦さんがいけないとかそういうことを言いたいわけではないのです。この、「ちょっと考えれば」というのが、くせものだなあと思ったのですよ。わかっている人から見たらあたりまえすぎて言うほどのことでもないようなことでも、わかっていない人は言わないと永遠に気づかないかもしれないわけです。

    じゃあ、マニュアルをもっと親切に、というのはたしかに一案です。「○○だから」と書いてあったら、少しは気をつけるように、なるでしょうか。ひょっとして、いろいろな科目を「基礎から」学ぶ理由は、その「○○だから」をつなげるためなのかなあ、と、ふと思いました。

    でも、あまりに分厚いマニュアルでは、結局どうしても必要なところだけ、最終的には「具体的な指示」だけを拾い読みするようになってしまいます。振り出しに戻る、ですね。

    020128 逃げ出したくなるような夜に。

    タイトルは、B'zの、「TIME」から。B'zについてはいろいろまとわりついた思い出が多くてめったに聴きません。でも先日、どうしても歌詞が気になってしまって、しばらく一曲リピートしていました。歌詞カードを眺めていると、気になった理由が、わかるような気がしました。

    全部ほっぽりだしてどこかに行ってしまいたいようなそんな気分です。ちまちま逃避行動に走るのではなく。

    別に試験がどうとか勉強がいやだとかそういうわけではありません。実をいえば、勉強はまあ、それなりに順調に進んではいます。勉強することでそういう気分から逆に逃避しているのかもしれません。集中して机に向かっていれば、そのあいだはなにも考えずにいられますから。

    試験が終わったら1ヶ月間ほど、四国でお遍路してこようと考えています。

    ◆◇◆◇◆

    追記。

    kaoruさんの、BE ANGELを読みながら、考えたこと。

    他人に多くを期待しすぎないこと、それは、自分と他人が別々の人間であることを認識することと、同じことなのかもしれません。だってあのひとはわたしじゃないから。わかるわけないのです。何を考えているかとか、どうしてそういうことをするのかとか。自分のことですら、うまく説明できないことがあるというのに。

    気にするべきは、他人の目ではなく、自分の目なのでしょう。他人が何を考えているかはわからない。でも自分の考えていることなら、わかります。自分で自分を認められるように、行動すること。そのくらいしかできないし、それでいいんだろうなあ、と。

    020129 発見の多いテスト勉強。

    現在テスト勉強中です。明日解剖の口頭試問があるのです。

    明日テスト、という割には、なんだか「新発見」が多いのが気になります。「おお、鼓室神経というのは、小錐体神経につながっているのか!」一事が万事、こんな調子です。どこにつながっていると思っていたんだといわれても、なにも考えていなかったとしか言いようがありません。たぶん「あれ?」と思ったことはあったのでしょうけれど、じきにまぎれてしまって。剖出できていないから、というのもあると思います。

    …さみしくなってきました。他の科目で忙しかったということにさせてください。

    まあ発見が多いことは、本来すでに発見されていてしかるべきであるという事情をあえて無視すれば、喜ぶべきことではあると思います。「あれ、これってどこまでつながっているんだろう」「で、これは結局何をしているわけ」…やっぱり話がつながると、嬉しいんですね。この際、テストとかなんとかはまあおいておくとしても、です。ストーリーができると、頭にも入りやすいですし。

    ひょっとして何がなんでも理屈をつけて落ち着いてしまおうと、わかりやすい説明、実はちゃんと練られていないそれゆえに頭に入りやすい説明に、飛びついていないかな、と、ちょっと心配です。


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