淡々としていなくもない日常。>日記・雑記目次 >2001年12月の日記

◆2002年12月の日記◆


011202 講義のあとにくるべきもの。

011129 ノートの意味。講義の意味。大学の意味。で、講義の意味は、次の二つに要約されるといいました。

講義なんてたまにでいい、しかも出席なんてとらなくていい、とも、いいました。カリキュラムと到達すべき目標がはっきり示されることと、到達度の評価がきちんとおこなわれること。大学に期待することは、それだけだといいました。

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そこで、提案されているのがチュートリアルですね。楽位置楽The Tutorialも、その一種です。

チュートリアルというのは、小人数の学生がグループを作り、議論しながら学習を進めていくことです。議論によって自分の学習したいテーマを決め、自分で勉強します。チューターがついていて、議論の方向をある程度指導します。(011022 チュートリアルと上顎癌。 より引用)

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チュートリアルのいいところは、教えあうことによって、自分の知識が確固としたものになること、ある程度自分の興味や必要性にしたがって学習ができるためにモチベーションが保たれやすいこと、でしょうね。

ただし、問題もないわけではありません。最大の問題は、質が保証できないことです。やる気がある人の集まりならばいい。能力がある程度等しい人の集まりならばよい。しかし、そうも行かないグループが出てきた場合、全員にそれなりの成果を出させることがはたして可能なのかどうかという問題です。

もちろん、「自己責任」で片付けることもできます。でも片付くのかなあ、というのは、少し不安では、あります。どういうメンバーにあたるかによって学習の質があまりに変わってしまうのはちょっとなあ、とか。

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そこで、チュートリアルが成功する条件を考えてみました。

まあ最低限、皆に勉強する気があってそれなりに話し合いが盛り上れば、なんとかなるのでしょう。この点は、自主的な勉強会ならきっとクリアされているのだろうなあ、と今ちょっと思いました。

011204 「皆に勉強する気があれば」という前提。

最近、ある人と医学教育(など)についてメールでいろいろやりとりをしています。話し合うとなるといろいろ考えてしまいます。ゆえに最近の日記は医学教育がテーマになりがちです。

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011129 ノートの意味。講義の意味。大学の意味。で、カリキュラムと到達すべき目標がはっきり示されていて、到達度の評価がきちんとおこなわれていれば、講義なんて要らないと書きました。

011202 講義のあとにくるべきもの。では、自学自習・グループ学習をうたうチュートリアル教育では、質の保証に不安が残るものの、皆に勉強する気があってそれなりに話し合いが盛り上れば、なんとかなるだろうと書きました。

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「皆に勉強する気があれば」話はずいぶん簡単になるわけです。自学自習を推し進めればいい。先生は補助につけばいい。講義なんて聴かなくていい。必要なときに質問に行けばいい。しかし、残念ながら現実はそうではありません。

何を勉強するのか以前に、何のために勉強するのかが、問題になったりします。

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昨今、「人間味のある医師を」うんぬんの記述をよく見かけます。それ自体に問題はないでしょう。しかし、人間性さえ優れていればそれでいいのか。人間性さえ優れていれば、素人でもいいのか、ってそうではないでしょう。昔はシャーマンがひとを治したかもしれない。しかし現在は、そういう時代ではないと思います。

専門家を名乗るからには、やはり知識と技術は不可欠だなあ、と思うわけです。そしてわたしたち医学部の学生は、卒業して国家試験に通ったら、すぐに「医師」という肩書きを手に入れてしまうわけです。研修は必修になるようですから医師にならずに研修医になるのでしょうか?でもそれでも、専門家であることにはかわりはありません。

ならばやはり知識は得なければならない、ということになりますね。

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もし、上に挙げたいくつかのセリフが的を射ているとするならば、医学部なんて要りませんね。

もちろん、学ぶことそれ自体の楽しさというのは無視できません。でも、「だから皆、勉強しなさい」というには、「たのしさ」だけでは根拠薄弱ではないかと思うのですよ。

長い目で見れば、「よりよい医者になるため」に、わたしたちは勉強しているのでしょう。しかし、長期目標だけでがんばれるほど、わたしたちはきっと強くない。すると、短期の目標が必要になります。短期目標はやはり試験かなあと思います。でも現状では、試験に通ることと(単位を得ることと)自分できちんと勉強することとが、乖離してしまっています。

とすると…勉強することの理由をはっきりさせることと、努力が報われるような試験をすること。これが次のテーマですね。

011205 自己満足と「嫉妬の時代」(©岸田秀)

寝るには少し早くて、でも勉強する気も起きないので久々に読書記録を書きましょう。こないだ図書館で「嫉妬の時代」という題の、岸田秀の本を借りてきました。岸田秀というのは、「ものぐさ精神分析」でも有名ですね。写真と文章から受ける印象は、私の長年思い描いていた「学者」もしくは「哲学者」にぴったりです。→嫉妬の時代

011206 光陰矢のごとしとはいうけれど

光陰矢のごとしという言葉を、よく聞きます。

しばしば、「ほんの1週間前のことがずいぶん昔のことに思えてしまう」わたしには少し不思議です。そう言うと、「君はあんまりひまなんだよ、だからさ」とおっしゃる方が多くいます。そうなのかなあ、そうなのかもしれないなあ、そんなにひまなのかなあ、それってちょっとかっこわるいよなあ、と、わたしはこのごろ「似非光陰矢のごとし派」として振舞っていました。

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最近解剖などのおかげでばたばたしています。まさかこれでひまとは言われないだろうと、わたし自身は思っています。当社比なので少し不安ではありますけれども。でもやっぱり、例えば解剖が始まったころのことは、とても昔に思えます。でも今日が12月6日であると日記の冒頭に書きながら、「え、もう12月?」といまさらながらに驚いてしまったりしています。

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この感覚はどういうことなのでしょう。

わたしが思うには─時間が飛ぶには、やるべきことがありながら実はすんでいなくて追いたてられている感覚が必須なのではないでしょうか。そして、変化/時間の比例定数は人によって一定であり、それゆえに、変化が大きすぎると時間がたいへん多く過ぎ去ったように感じられるのではないでしょうか。

011207 大学の存在意義。

今日、解剖しながら、同じグループのひとに、「で、どうしてそもそも勉強しなきゃいけないんだろう。しかも6年間も。医者になってから勉強すればいい、っていうよね」と聞いてみました。お前は考えすぎだと、言われました。

それは言ってはならないこと、考えてはならないことなのかもしれません。単なる甘えであると断罪されても仕方ありません。

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もう一度、考えてみました。

確かに、これまで書いてきたように、知識を伝達するだけなら大学なんて意味がないかもしれません。でも、自分で勉強する方法、自分で調べる方法、自分で考える方法。それらをトレーニングする場であると大学をとらえるならば、大学に通うことも意味のあることかもしれないと、思えてきました。それなら少しは納得できるなあ、と。

そして、考えるには、材料としての知識が不可欠です。考える材料、いろいろな知識を結びつけるための布石であると考えれば、一見必要なさそうな知識、今は要らないかもしれない知識も、必要なものであるとも思えてきます。

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011204 「皆に勉強する気があれば」という前提。で、努力が報われるような試験をするにはどうすればいいのだろうと書きました。記号選択式をやめて記述にするとか口述にするとか、方法の改善は考えられます。でもひょっとすると、もっとも有効なのは、「なにも考えずに丸暗記するよりきっちり考えて理解しながら進んだほうが楽しい」ということを、皆に実感させることなのかもしれません。

011209 「本はどう読むか」(©清水幾太郎)

このところちょっとうつ気味だったのですけれどなんだか元気になってきました。頭の回転の具合が少し躁に近づいているような気もします。長期休みが近づいているせいでしょうか。

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本はどう読むかは以前、読書記録でとりあげたことがあります。そのときには、「忘れない工夫」についての章に、焦点を絞りました。最近この本を読み返してみると、気になる部分は別のところに移っていました。というよりも、以前から気にはなっていながら、なんだか耳の痛い話であったために忘れようとしていた部分を、きっちり読んでみた、というのが真相ですね。

どうしてそんなに耳が痛かったかというと、「職業」に関連するところだったからです。通算11年間(!)も大学生活を送ることがすでに半ば決定している身としては、そして、日々考えすぎで困っている身としては、「職業を決めてしまえば悩みはほとんどなくなる」なんて言葉は、できれば目にしたくないものだったのです。

本はどう読むか

011210 「勉強しなければならないのですか」の真意。

011207 大学の存在意義。で、、「で、どうしてそもそも勉強しなきゃいけないんだろう。しかも6年間も。医者になってから勉強すればいい、っていうよね」と級友に聞いたと、書きました。

そのとき確かに、考えすぎだとも言われたのですけれど、それと同時に、何に対して腹を立てているのかと、聞かれたのでした。何に対してだろう、自分に対してかなと、答えました。

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そして今日思ったこと。

「勉強なんか、しなければならないものなのですか」 というのは多分、 「しなくていいのなら、やらない」 という意味ではなかったのだと、思います。

わたしは実をいうと机に向かうのが好きです。机に向かうだけの生活でも、かなり満足できてしまうのではないかと思うくらいです。勉強しなさいと言う先生方がいるでしょう。彼らに従うことは簡単だし、それを信じているかぎりわたしは安心していられます。

でも、そうではないのではないか、勉強さえしていればいいってもんではないのではないか、と、今、不安なのですね。だから、「勉強なんか、しなければならないものなのですか」と問うてしまう。結局は自分のやっていること、やってきたことが正しいと、信じたいだけなのかもしれません。

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そしてさらに言うと。通常「遊び」と称されるさまざまな活動があるでしょう。例えば、カラオケとかボーリングとかスケートとかスキーとかバドミントンとか。嫌いとは言いませんけれど、わたし、ああいうのが今ひとつ、楽しめないのです。どちらかというと本を読んだりパソコンをいじっていたりするほうがいい。役に立つからというより、そのほうが楽しかったりするからです。正直。

それは便利なのかもしれないし、実際そういう人を前にしたらわたしでも「それは悪いことではない」といいそうですけれども、わたし自身は自分のそういうところを、嫌いではないにせよ少しもてあまし気味です。あたしっておかしいのかなあ、という不安、でしょうか。おかしいのかもしれませんけれども。

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自分が認識している自分の現状と、自分がそうありたいと思っている理想像があって、そのギャップを自己正当化で埋めようとしているような、そんな気がします。何かから目をそむけようと一生懸命になっているのではないか、そういう気もします。

011211 自分で学ぶひと©鷲田小彌太/学校の意義。

このところ「で、どうして教育なんか必要なんだ」という話が続いています。ひとつの答えといえるかもしれない記述を、鷲田小彌太 の「自分で学ぶひと」という本の中に見つけたので、読書記録として掲載します。

この本を読んだのは、なにも今日がはじめてではありません。数年前、京都にいたころ買った本で、もう何度も読み返しています。軽い本だ、というのも一因でしょうけれども、何より「気が合っている」のでしょうね。そして何度も読み返しておきながらいまさらのように気づくことがあるというのは、きっと、「読書は、自分との対話である」からなのでしょう。自分の頭の中にぼんやりとした考えがあるとしますね。そういうときに、そのぼんやりした考えを、きちんとした言葉で言い表した文章に出会うと、あ、そういうことか、と、ぴんとくるのです。→自分で学ぶひと(鷲田小彌太、五月書房、011211)

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そしてもう一つ。今日の昼休み、友人二人と

というような話題で盛り上がっていました。こういう会話ができるのならば、そういう目的の人々が集まっている場所としてとらえるならば、学校という場所も悪くないかもしれないなあ、と思いました。

011213 Shades Of Gray©Billy Joel

Billy Joelに、Shades Of Grayなる曲があります。1993年のアルバム、River of Dreamsに収録されている曲です。最近、以下のフレーズが耳について離れません。

And the only people I fear are those who never have doubts
Save us all from arrogant men, and all the causes they're for
I won't be righteous again
I'm not that sure anymore

<Nによる訳>怖いのは、自分の判断に疑いをさしはさむことのまったくない人々だ。神様、自分の判断に絶対の自信を持つ傲慢な人々から、わたしたちをお守りください。また、わたしたちが傲慢になることのないようにお守りください。わたしはもう、正義を振りかざしたりはしない。自分の判断にそこまで、確信が持てないのだ。

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この歌が耳に残るのも、ある程度の時間を生きてきて、いろいろなことが見えてきたからでしょうか。ときどき、進むべき道を見失います。遠くの目的地がたとえ霧にかすんだとしても、足もとの道をみすえて前に進めばいいのでしょうけれどもね。

011215 「バトル」の準備/ひらきなおり

今日はほぼ一日中、机に向かっていました。来週末(12月21日)に解剖実習の試問があるので、そのために勉強していたのです。

今回わたしたちの試問を担当する先生は、マニアックな質問をして学生をいじめることで有名です。でも誰も落と さないという話ではあります。とはいえ、2001年の締めくくりとなる試問ですし、できればよい気分で終わりたいなあ、と思うわけです。また、日々イジワルな質問をしてくる先生に、なんとか一矢報いたいという気持ちもあります。よって今回、うちのテーブルではその先生と「バトルする」という決意を固めました。ゆえに今回はいつもより気合が入っています。

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といいつつ、「机に向かっていた」時間には、本を読んでいた時間も含まれています。

「道すがら記」に取り上げられていた、D.カーネギーの本を読んでみました。そういえばわたしは、自分以外のものになろうとする努力ばっかりしているよなあ、と思いました。最近、と書きかけて、いや今に始まったことではないなあ、と気づいたりしました。

まあそういう人間であればひょっとしたらより幸せに生きられるかもしれないのですけれども、そういうことはもともとそういう特質を備えた人に任せておけばいいのかなあと思ったりして。

そういう開き直りは堕落への第一歩かもしれないのですけれども、「欠点を直そう」という努力はこれまでさんざん試みてさんざん失敗してきているわけです。それならば自分が楽しいと思えること、得意だと思えることを追求したほうが、楽しく生きられるかもしれませんね。

それがいいことかどうかはともかく。そのように開き直って一日机に向かったら案外はかどりました。

011216 基礎医学とは、言葉と気分の習得。

今日も一日(半日?)勉強していました。解剖学。

医学科2年生は、少なくともうちの大学では、基礎医学なるものを学びます。前期は今ひとつ何をしていたかよくわからない科目が多かったのですけれど、それはともかくとして2年生が学ぶのはおもに組織学と解剖学ですね。

「一年生で医学と何の関係もない教養とやらを勉強して二年生では患者さんと何の関係もない基礎医学とやらを勉強するなんて、そんなカリキュラムでは学生のやる気はいちじるしくそがれてしまう」そんな意見を時々耳にします。正直に言えば、わたしは、そのような意見を持って教授にくってかかったこともあります。(←ケンカっぱやすぎ)

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さて。どうして(教養はともかく)はじめに基礎医学なのでしょうか。

いろいろ考えたのですけれど、言葉の習得のため、というのが今のわたしの考えです。ほんとうに基礎の基礎、でありながら、わたしがまったく知らなかった言葉はとてもたくさんあります。例えば鼠径靱帯とか、脾臓とか、腎盂とか、どこにあるかなんてさっぱりわかりませんでした。実を言うと授業で扱う前に自分で調べて今ひとつぴんと来なかったし、授業で扱ってからも、どこのことかわかるまでずいぶん時間がかかりました←わたしだけ?

一つ一つ体当たりで調べても、なんとかなるんですけどね。結構何とかしてきたような気も、するんですけどね。でもはじめの部分だけは、系統的に学んだほうが、ずっと効率がよいような気がします。自分で勉強する方法が、身についていないからです。医学という学問に特有な、「気分」が身についていないから、といってもいいかもしれません。右も左もわからない状態でいきなり臨床の本を読もうといったって、きっと途中で挫折しますよね。見たことも聞いたこともない用語の羅列にずっと耐えられるほど、わたしは強くありません。

例えば英語もそうでしょう。ある程度英文が読めるようになれば(文法を理解し、基礎的な単語を覚えたら)後は適当にペーパーバックでも英字新聞でも読んでいればいい。でもそこまで行くまでが結構たいへんだったりしますよね。中学校一年生のころ、「辞書さえあればどんな本でも読めるはず」と、あるペーパーバックを読もうとしたことがあります。当然、1ページ読まないうちに挫折しました。現在完了のhaveまで引いていたら読めないのは当然です。高校生になってもう一度見てみたら、何のことはない、平易な文章でした。そういうことかな、と、思うのです。

例えば、解剖および組織学において、基礎的な解剖学用語は、いやでも日々目にします。大事なところは何度も出てきます。関連しているところはいっぺんに、「関連」を前面に押し出しながら登場します。全身をひととおり扱います。

そうして何度も目にしているうちに、「ああそういうことね。このへんにあって、こういうことをするもので…」と、辞書的な正確さはないにせよ「気分」が身につきます。英語で言えば、telescope、television、telephone、teleってきっと離れたところってことなんだなあ、という感じです。「気分」は、容易には出て行きません。

そうして身につけた「気分」があれば、臨床医学もきっとある程度すらすらと頭に入るだろうというのはちょっと楽観的に過ぎるでしょうか。だんだん、楽になってきたような気がするから、そういうことを思うのですけれど。

011218 仕事の上手な仕方(C.ヒルティ著)

先日、本棚からC.ヒルティ著、「幸福論」をひっぱり出しました。高校三年生から(一回目の)大学生活前半にかけて、わたしの座右の書であった本です。この本をひっぱり出したということは、あのころと同じ精神状態にあるのでしょうか、わたしは。あのころほど焦ってもいないし、少なくともあのころより主観的には幸福であると思いたいのですけれども。少し追い詰められ気味かもしれません。追い詰めたのはきっと、自分自身でしょうけれど。

最近「勉強」について、この日記で取り上げることが多いので、それに関連して、「仕事の上手な仕方」をとりあげます。「仕事」を「勉強」に置き換えても、違和感なく読めます。そういえばドイツ語のarbeitenは、「本来するべきこと」を指しますから、「勉強の上手な仕方」と読んでもたいして問題はないのでしょうね。

仕事の上手な仕方(C.ヒルティ著、草間平作訳、岩波文庫「幸福論 第一部」所収、011218)

011219 ウイルススキャン/全幅の信頼の是非。

知り合いのページの掲示板に、ウイルスおよびウイルス対策についての書きこみがありました。(このくどさは翻訳調だな。最近の読書傾向もしくは教科書傾向の現れか。)たとえばSymantec のセキュリティチェッカなんてのがあるみたいですね。加害者になるのはいただけないのでまあここはひとつチェックをしておこうというわけで現在スキャン中です。

チェック済みファイル数が四万を超えている…どこにそんなにたくさんファイルがあったんだろう、というのは今回の言いたいこととは関係ありません。

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最近は、「知り合いから」「もっともらしい題名の」ウイルスが届くことが多いようですね。送信者が気づいている、いないにかかわらず、です。ひょっとしたらわたしだって、知らないうちに何らかのウイルスを誰かに送りつけてしまったかもしれませんし、今でも送りつづけているのかもしれません。

そんなことを考えていると、例えば上に挙げたウイルススキャンだって、本物かどうかはわからないよなあ、と思うわけです。説明を読んで、まあだいじょうぶだろうと実行してはみますけれど、本当にだいじょうぶなのかといわれたら自信がありません。感染している可能性のあるウイルスよりもっとやっかいなシロモノだったりして。

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解剖の、予習発表だって、どこまで信じていいものやら。予習発表というのは、毎回担当の学生が、担当の部位(例えばひざ)について、本で調べて、それについて解剖前に発表を行なうわけです。

でもね、本の内容を正確に伝えたとしても、そもそも、本が正しいかどうかなんて、実はわからないのですよ。医学書の世界には、誤植や間違いが案外多いということを、最近知りました。複数の本を参照していて混乱してきて、よく見比べたら言っていることが食い違っている、なんてことはしばしばあります。かなり基本的なことであるにもかかわらずちょっと前まで皆が勘違いしていた、なんてこともたまにはあります。あの、完成した学問だと思われている、解剖学の世界にも。人体が変わったわけではなく、単に、勘違いが訂正されただけのことです。いくら探しても誰も見つけられなかった構造が、ないと認められました。皆が自分は見落としていた、と思っていたようですね。(註。三層性の尿生殖隔膜のことです。)

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もっと怪しいのは先生の言っていることです。ある先生の言うことと別の先生がいうことが矛盾しているなんてことはよくあります。別に先生が不勉強だとかそういうことが言いたいわけではありません。

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ただ、全幅の信頼なんて言葉を、不用意につかってはいけないのだなあと。避けられないエラーも避けられるエラーもあるでしょう。悪意がある場合もない場合も、善意である場合もあるでしょう。でも、現実にはそこかしこに、エラーは存在します。

他人の言うことに対しても自分の言うことに対しても、心の中で「それってほんとなのかなあ?」とつぶやいてしまうわたしは今、ひょっとすると少し疲れているのかもしれません。

011220 「善きこと」の定義。

カルヴァンは、「救われるか救われないかはすでに決まっている」と言った。どんなに善行を積もうと悪行を重ねようと、救われる・救われないに影響はない。神が、人間の行動によって左右されるならば、そのような神はもはや全能ではなく、神ではない、というわけだ。

そもそも、何をもって善行というのか。 善行の定義は人によって、文化によって、時代によって異なる。 ある行為が、ある人にとっては利益となっても他の人にとっては不利益となる、なんてことはざらにある。

それをしたからといって自分にとって何の得になるわけでもない行動を、誰か自分以外の人のために行うとき、それを善行というのかもしれない。自分のためにだけ生きていては、いけないということなのだろう。

他人のために力を尽くしたって、本人の得にはならないかもしれない。いや、きっとならないだろう。他人のためにも、じつはならないかもしれない。まわりまわってどのような結果が出るか、それは「ブラジル上空の長の羽ばたきがアメリカにハリケーンを起こす」かもしれない、でもやっぱり何も起こらないかもしれない、それと同様、誰にもわからない。

でもそのような行動を、わたしは美しいと思う。思ってしまう。来世の幸福さえ前提としていないとき、ますますそれは美しいと思う。思ってしまう。安易な感動はおそらく危険なのであろうけれども。そう思うようにわたしたちは、プログラムされているのかもしれない。

011222 生まれる前と生まれた後と。

医療最前線の子どもたち(向井承子、岩波書店)を読み返していました。

重度の障害を背負った子供たちの生活が、描かれていました。産まれながらにして重い重い障害を背負い、一生機械から出られない、献身的なケアなくしては一日も生存できない、そういう子供たちも、描かれていました。

重い障害を予測した結果中絶した、というひともいるだろうな、と思いました。

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とても重い障害を持った子供たちを何とか生かそうと、必死で努力している人がいるいっぽうで、「重い障害を持った子が生まれそうだから」と、中絶する人がいることを、考えていました。受精卵の段階ではねられてしまう卵もいるだろうなあと、思いました。

赤ちゃんを殺すのに比べて、中絶というのは罪悪感が少ないような気がする、人工授精で受精卵を選ぶのはもっともっと罪悪感が少ないような気がする、それはどうしてなのでしょう。

中絶が許されうる、ひょっとして倫理的に許されないにしても法律的に許されているのは、もし殺したとしても、殺「人」という感じがしないから、ではないかと思いました。たまごなんてみたことない人が、ほとんどでしょう。たとえ見たとしても、それが生きているのかどうかなんて、わからないでしょう。ほんとに人間になるのかも、直感的に理解できるようなものではないでしょう。知性があるか、言葉を発することができるかではなく、ヒトの形をしているかどうか。ヒトなんだなあと、実感できるかどうかが、境目であるような気がします。

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でももちろん、たまごからヒトに、突然変身するわけではありません。少しずつ少しずつ、変わっていくわけですよね。10ヶ月という時間をかけて、まるいたまごから、そのへんで見かける赤ちゃんに変貌をとげるわけです。

例えば、白から黒に変わるグラデーションがあったとしますよね。隣り合う二点をとってみれば色はほとんど変わらない。その二点の間に線を引くとして、どうしてとなりと区別されねばならないのか、という疑問に答えることは難しいでしょう。端と端を比べればやはり白と黒だったりするのですけれども。

そんなふうに無理やり線を引いて、でも引かないととてもしんどい目にあう人がいるから、それでいいことにしよう、ってことなのでしょうね、きっと。

011223 理屈っぽい女。

「おまえの話しは理詰めすぎて、聞いているとイライラする」といわれることがあります。もちろん、わたしが早口であること、たたみかけるような話し方であることが大きな原因なのでしょうけれども、そうだと知りつつやっぱり心外です。

そのほか、「むつかしいことかんがえているんだね」「すごいね」といった、一見賞賛っぽいセリフもあります。ほめられるのは大好きですけれども、「わたしとあなたとは違う、よってこれ以上話すことはできない」というメッセージだとすると話が違ってきます。それはさみしい。

理詰めな話し方をするとすぐに「面倒なやつ」という目でみる人とは話がしづらい。イライラしてきます。で、きちんと話についてこいと要求していると、向こうがイライラしてくることが多いみたいですね。

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どちらかがあきらめる(妥協する)しかないのでしょうか。相手に強要するとなると、これはわたしに球技をやれと強要するのと同じ。しんどいです。じゃ、その分野ではかかわらないことにしようよ、というのが効率的なのでしょうか。

とはいえ。球技ができないのも時と場合によってはたいへん困りますけれども、言葉が苦手というのもやはりたいへん困るのではないかと思います。

しかし、「君のいっていることは難しくてわからん」「そんなこと考えたこともないしこれからも考える必要を認めない」などなどいっている人達には、何かほかの考えがあるのかもしれません。どうなんでしょうね。「何かほかの考え」があるくらいなら、そもそも上に書いたようなことはいわないような気もしますけれども。

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書いていて不安になってきました。そんなことをいっている自分に、どれだけの能力があるというのでしょう。そして、自分はどれだけ、他人に理解しやすいような言葉の使い方をしているのでしょう。

論理を磨くこと、わかりやすい言葉の使い方を工夫すること、他人についてはできるかぎり要求水準を下げつつ、自分自身については日々向上を目指すのがいちばんでしょうね。

011225 クリスマス・キャロル/「弱者とはだれか」

夕食時、テレビで「クリスマス・キャロル」をやっていたので思わず最後まで観てしまいました。この話、とても好きです。はじめて観たのは小学生のころで、たしかディズニーアニメだったと思います。ビデオの前で─たしか和室で、一人で観ていたはずです─大泣きしたのを覚えています。それから本を買い、実写の映画を観て、と、しばらくわたしの座右の書でした。

ときどき、スクルージ氏の過去に半分泣きそうになりながら、あのころのわたしと今のわたしと何が違うのだろうと、考えていました。あのころ、この話がこんなにも心に残ったのはどうしてなのだろうと、考えていました。

わたしが、お金に関しても時間に関しても精神的エネルギーに関しても、ケチだからかもしれません。ほうっておくとスクルージ氏みたいになってしまう、どころか、すでにスクルージ的なのかもしれない。「それって時間の無駄、エネルギーの無駄よね」と、たくさんのことを切り捨ててきた、また、切り捨てつつあるわたしには、楽しむだとか分かち合うだとかいう精神が決定的に欠けているのかもしれません。

物語が進むにつれてだんだん若く、かわいらしく変わっていくスクルージ氏を見ながら、わたしはこのままでいいのだろうかと、考えていました。わたしは、どこを向いて生きていけばいいのでしょうか?幽霊に教えてもらえるまで待つわけには、いかないのですけれど。

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昨日書いていた読書記録を、推敲してお届けします。今回取り上げるのは、かなり長い間取り上げようと考えていて、それなのになかなか開くことのなかった本です。

昔、医学部にはいる前のことです。部活に、喘息の友人がいて、彼女は常に「がんばっている」との評価を受けているように見えました。わたしも、主観的にはものすごく「がんばっている」つもりだったのですけれども、「がんばっている」と周りに評価されているようには思えませんでした。単に上達が遅かったせいなのか、実は努力が足りなかったのか。それはわからないのですけれども。わたしが喘息で、喘息をおしてがんばっていれば、皆評価してくれるのかなあ、と思っていた一時期がありました。わたしがどんなにがんばっても、病気をおしてがんばっている人にはかなわないよなあと、思っていました。でももちろんそんなことを口に出すわけにはいかず、わだかまっていました。

そんなわだかまりを、正面から取り上げてくれた本です。→弱者とはだれか(小浜逸郎、PHP新書、011225)

011227 摂食障害と自由とバランス。

久々に、拒食症について、考えていました。普通に、母の出してくる食事を食べながら、その分量が不安でたまらなかったことがあったなあと、思い出していました。わたし自身は今のところだいじょうぶなのですけれど。

出されたものは、食べる。もしあまりに多すぎたらちょっと鍋のところにいって減らせばいいし、少なければお代わりすればいい。お代わり分がなかったら、後でおやつでもなんでも食べればいい。食べ過ぎたな、と思えば次の食事で気をつければいいし、足らなかったな、と思えば何か食べればいい。まあいいや、今日は寝てしまおう、そう思うなら寝ればいい。

別に深く深く考えるでもなく、ま、いっか、で、物事が進んでいきます。

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たまには気紛れに、「今日からダイエット!お菓子は食べない!」なんて宣言するもよし。嫌いなものが食卓に並んだからと、「今日から明日の朝食前までダイエット中」などという謎の宣言をするもよし。ちゃんと続かないダイエットに、かえって安心してしまうわたしは、それなりに日々幸せに過ごしているのかもしれません。「だって、そのほうが、健康だよね?」

だれかがどこかに、「シンプルライフには、体型維持にエネルギーを費やしすぎないという項目も入っているのです」と書いていました。なるほど。

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でもときどき、「まいっか」でなんとなく維持されているバランスが、保てなくなることがあるのですね。自転車にはじめて乗ろうとしたときみたいに、一つ一つ考えないと行動できなくなる。例えばある日わたしが、突然自転車に乗れなくなったとしたら、自転車に乗るということにたいへんなエネルギーを使うでしょう。自転車なら乗らなくても生活できますけれど、食べずに生活することはできません。

ある一時期、何をどこまで食べるか、一つ一つ悩んでいたころがありました。そしてそのころは、どうしてまわりの人達が、さして思い悩む様子もなく日々ものを食べているのか、とても不思議でした。しかもそういうふうに無頓着でいながら、劇的に太ったり痩せたりするわけではない、それがうらやましくてしかたありませんでした。だってどれだけ食べればいいのかわからないのですもの。強制的にある分量を割り当てられれば、その分量は、割り当てた人に文句を言いながらなんとか食べたかもしれない。でも、自分で決めていいとなると、どうしていいか途方にくれていました。

その結果、どうしても食べたくて仕方ないときに思い切り食べられるように、と、食べる量がどんどん減っていきました。留学して、昔かたぎのホストペアレンツに大量の食事を出されると、「食べなければならないんだ」と思い、全部平らげるようになりました。多かったのかもしれないけれど、それがよくわからなかったのですね。食べればどれだけでも食べられるような気がしました。食べなければどれだけでも食べずにいられたのかもしれません。

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できている間はだいじょうぶだけど一度できなくなるとどうして今までできていたのかとても不思議、そんなことはおそらくたくさんあるのでしょうね。だいじょうぶ、いずれ取り戻せるよ、今のわたしはそう思っていますけれど、今いろんなことができなくなっている人はそうは思えないかもしれません。わたしだって、もし何かだいじなことが決定的にできなくなったら、いずれ取り戻せるなんて思えないかもしれません。

それでも、「今はむつかしいかもしれないけど、いずれひょっと取り戻せるよ。そうしたらね、なあんだって思うんだよ。」と、言ってあげたいです。

011230 「擬態うつ病」

ここ二、三日、いろいろ書きたいことを持ちながら、文字化するだけのエネルギーがない、そんな状態でした。

何をしていたかというと、ずっと机に向かっていました。来年1月7日、年が明けて最初の登校時に、前期の授業のひとつ、神経解剖学のテストがあるのです。追試ではないですよ、本試験です。半年前の記憶を引っ張り出すべく、ノートと教科書をひろげてわけのわからない略図と格闘していました。ある程度、机に向かうことに身体が慣れてしまうと今度は惰性で机から離れられなくなってしまいました。神経解剖なら神経解剖の世界に慣れ、また、机に向かうことに慣れてしまえば、そんなこんなで日々は続いていくのでした。

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こないだ、「TSUTAYA」で本が売っていることをはじめて知りました。入ったばかりのバイト代で、久々に本を買いました。林公一医師の、「擬態うつ病」です。「病気、って言ってくれたらこのしんどさも楽になるかな。薬が効かないかな」と時々思ってしまうわたしには、ちょっと痛かったです。それはともかく、いまという時代のある側面を、明快にに写し取った本だと思います。明快さが気持ちいいです。明快さを過剰なまでに尊ぶ風潮は最近身の回りに蔓延していて、ちょっと危険だな、と思っていますけれど、いまはあえてその風潮に乗っておきます。→擬態うつ病(林公一、宝島社新書、011230)

011231 このサイトの存在意義を考え、そして2001年を振り返る。

今日は、うちにある二台のパソコンが両方調子が悪く、もう、何度再起動したかわからないくらいです。

「パソコンも正月休みなんじゃない?」

「いや、2002年問題とか」

「要するに使いすぎなわけでしょ」

でもとにかくパソコンから離れられない、パソコン中毒のわたくしではあります。

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今日、本屋で立ち読みをしていると、「その文章は何のための文章なのか」と問いかける本を見つけました。自分をアピールするためなのかそれとも読んだ人に何かアクションを起こさせるためなのかだれかを元気にするためなのかそれとも?

そして、日々わたしがこうして、それなりの分量の文章を書き、しかもそれを公表しているのは何のためなのかと、考えてみました。

何かメッセージがあるのか?あるときもあるかもしれないけれども。

だれかを元気にするためとか?なってくれたらうれしいけど。

自分自身の考え事のためか?それなら公開する必要はないはずだけど。

結局、わたしはここにいるよ、ということなのかな、とか。だれのためということなく、きちんとした格好をして街に出ることがあるでしょう。あんな感じなのかな、と。そしてだれかがわたしの文章を見て、そういうことを考えているやつがいるのか、と思い、自分はそれについてどう思うだろうか、と考えをめぐらせてくれるとすればそれはなんだか、どきどきすることのような気がします。何か思うことがある人がわたしにコンタクトをとってくれるとしたらそれはとてもうれしいですけれども、まあそれは、望んで得られるというよりはもし起こったときに、よかったなあとしみじみ喜ぶようなそういうことなのかもしれません。

というわけでわたしはこれからも、日々漠然と考えていることをなるべく忠実に、決してよくできたツールとはいえそうもない文字という媒体を使って、ネット上に公開しつづけることでしょう。

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まあ今日は一年の区切りですから少しくらいは今年の反省を。

2001年はなにかと、変化の激しい一年でありました。出会った人もたいへん多かったです。現実世界でも、ネット上でも。

このサイトにも、変化が多かったですね。なんだかだんだんシンプルになり、日々の日記は長くなってきました。はじめの、不自然なハイテンションが消えて、少し落ち着いてきたのではないかと思います。それはつまり日常に根付いてきたということなのでしょうし、わたしの中で日々文章を書き公開するという行動が、自然なものになったということなのでしょう。

2001年になってからこのサイトを知った人も多いと思います。2001年から来てくださってくれていた人も多いと思います。2002年にはじめてこのサイトを知る人も、きっといるのでしょう。どうもありがとうございます。見てくださる人がいるから、続けられるのです。実は飽きっぽいわたしのことですから。

ではでは。2002年もよろしくお願いいたします。

よいお年を。


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