淡々としていなくもない日常。>日記・雑記目次 >2001年11月の日記

◆2002年11月の日記◆

011102 炭疽菌にもよく効く薬/なぜがんで死ぬのかについての考察。

ここしばらく風邪でダウンしておりまして、根負けして医者に行ってきました。症状を詳しく述べると、

「少し強い抗生物質を出しちゃろう。炭疽菌にもよう効くで」

とのことでした。解剖実習中です、と言うとそのお医者さんは非常に嬉しそうでした。

「食べれんもん増やしちゃると楽しそうじゃのう」

薬のおかげで多少は楽になったのですが、まだまだしんどいものはしんどいです。

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で、なぜがんで死ぬのか。

何でいきなりがんの話かというと、以前話に出した、楽位置楽The Tutorialにおけるチュートリアルで、その話が出てきたからです。予後が悪いとか5年生存率がとかいろいろ言うのですけれども、そもそもなぜがんで死ぬのか、単なる細胞増殖じゃないか、と言うわけです。

改めて問われると困ってしまいました。脳など、生命維持に必須な部位もしくはその近くに転移して、その大事な部分を圧迫するからか(脳腫瘍は実際そう。がんじゃない脳腫瘍でも、同様の理由で危ない)、とか、正常細胞を何らかの理由で駆逐してしまうのか(それは白血病)とか、いろいろ考えたのですけれども、多くのがんに共通するであろう死因は、思いつきませんでした。がん!→細胞の不正な増殖→細胞分裂サイクルの障害→原因分子は?p53?なんてのは、医学部生の考えではなく生物学者の考え方ですねえ。それ以前に考えることがあるのでした。

というわけで調べてみました。参考文献は「がんの細胞生物学」医学書院(The Biological Basis of Cancer, RG Kinnel et al.)です。それによると…

衰弱とそれに伴う抵抗力の低下→感染症というのがもっとも一般的なコースのようです。cahexia(悪液質)と呼ばれる、あれです。 要するに飢餓と消耗です。どうして身体が弱るのでしょうか。腫瘍が栄養を奪っていくのでしょうか。増えるの早いし、と思ったら、サイクル自体はもとの細胞よりも遅いらしいですね。単に、増殖サイクルに入っている細胞の割合が多いというだけみたいです。それはともかく、腫瘍壊死因子(TNF)というものがあり、それをラットに投与すると悪液質の多くの特徴を備えてしまうことから、TNFと悪液質は何らかの関係があるようです。今ならもっと明らかになっているのでしょうか?

がんが進展して、重要臓器がその機能を果たせなくなる(臓器不全)は、めったに起こりません。実質臓器(肝臓など、中身の詰まっている臓器)は、ずいぶん大きな予備能力を持っているため、多少がんにじゃまされてもだいじょうぶです。ただし、白血病はある意味、造血組織の臓器不全でしょう。巨核球、正常白血球、赤血球前駆細胞を駆逐してしまうために出血や感染、貧血が起こります。

また、圧迫による障害も、めったに起こりません。たしかに腸が閉塞したりはするようですけれども、手術でほぼ確実に救命できるでしょう。困るのは脳腫瘍くらいかなと思います。あれは頭という閉じた空間内での腫瘍ですから。

011104 炭疽菌より強い風邪ウイルス/選挙の歴史。

風邪はまだ治りません。風邪ウイルスのほうが炭疽菌より強靱であるようです。たいへん迷惑な話です。朝見たら顔色が白くて微妙に美人になっていました。いやいやそういう問題ではなく。

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今日は県知事選挙の日でした。

我が家では「選挙は必ず行くべきもの」として教育が行なわれてきました。父は大学時代、唯一(?)本気で尊敬する先生が「選挙は必ず行くように。投票したい候補者がいないというなら自分で立候補しろ」と言われていたと、常に話していました。

しかし。6時台にニュースを見ていたら、投票率は約25%と、出ていました。たしかに今回、どちらに投票と言われても…と思う人が多いような気はするのです。さすがの父も、「選挙行く気がせん」といっていました。上に挙げた先生の件を持ち出すと苦笑して投票に出かけていきましたけれど。もちろんわたしも、行ってきました。

普通選挙って、始まった頃は投票率がたいへん高かったのですよね。選挙権の獲得、というのは、人々にとってたいへん大事だったはずだと思います。これって人権の一つでしたよね。最初は直接国税5円以上だったか3円以上だったかとにかく高額納税者だけで、それから男性は全員となり、さらにそれから、女性にも選挙権がみとめられるようになったのでした。

それなのにどうして、地域をあげて「選挙に行こう」キャンペーンをする羽目になるのでしょう。やっぱり、たとえ人が変わっても、あんまり状況には変化がないよなあ、と、思ってしまうからなのでしょうね。どこかの島では、町長選挙の投票率がほぼ100%であると聞きました。誰が町長になるかによって、生活が全く違ってしまうからなのだそうです。規模が小さくなるほど、選挙は過熱する傾向があるかもしれません。ある程度大きな自治体でも、誰が首長になるかによって、生活が変わることは、あるみたいなんですけどね。例えば長野の田中知事ががんばっているでしょう。ちょっと昔では、出雲の岩国哲人さんもよかったなあ。ファンです。

それとも昨今の投票率の低下は、選挙権が、「勝ち取った」ものではなくはじめからそこにあったものであるから、なのでしょうか?あまりにあたりまえすぎて、失うまでその貴重さに気づけないのでしょうか、わたしたちは。

011105 ハンチントン病出生前診断。

これまで何度か話を出した楽位置楽The Tutorial、今の話題は「ハンチントン病」です。優生遺伝の疾患で、おもに中年期(35-50歳)に発症します。日本ハンチントン病ネットワークのHPから、症状を拾ってみると…

があげられます。発症してから15年から20年ほどで亡くなることが多いようです。

優生遺伝ということですね。母親が発症したとして、

というのが今、話題になっています。ちなみにハンチントン病には「表現促進現象」という現象が見られます。世代を重ねるごとに、症状が重くなり、発症年齢も早くなるのです。

自分がハンチントン病を持っていて、子供にハンチントン病を伝える確率が五分五分なら、わたしならそもそも妊娠はあきらめるかなあ。でも不妊治療をしていて、人工授精をするならば、はじめから遺伝子の検査がプログラムに組みこまれているかもしれません。それならあえて断らないかしら。

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遺伝子診断をするとか、遺伝病の発症が考えられるから子供を作らないとか、それは遺伝病や障害を持つ子供に対する差別ではないのか、という意見があります。

そうなんですけどね。育てる上での苦労や、その子が育っていく過程で味わうしんどさを考えると、できれば健康な子供がいいなあ、と思うと思うのです。生まれてきてしまえばあきらめもつくかもしれないけれど、それはそれで受容の方法を探らなければならないでしょうけれども、そして今、障害を持って生まれた子供を楽しく育てている人は素晴らしいと思いますけれども、でも、それをわざわざ選べとはいいたくない。選びたくない。

そして。おなかの中で殺すのも生まれてから殺すのも、そしてはじめから子を作らないと決めるのも同じことかもしれません。でも、はじめから作らないというのならば、はじめがなければ終わりもないわけで、やっぱり違うかなあと思います。

そしてその親となる人たちが、それでも産むと選択したのなら応援すればいいし、また、知らなかったけど生まれたら異常があったというのでも、できるかぎりのサポートをすればいいのだと思います。

先天異常を理解する(飯沼和三・大泉純・塩田浩平、日本評論社) に、こんな言葉がありました。

おそらく、生存のための競争に勝ち残ったものは、正常な精神の持ち主ならば、戦死 したものに感謝の気持ちをいだくだろう。先天異常の多くの患者は、もっと多くの感 謝の気持ちを健康者たちから送られて当然なのである。

線引きは難しいのですけれど、わたしの考えではこういうことです。

011106 妊娠3ヶ月の胎児の姿。

今日は発生学実習ということで、ニワトリ胚やマウス胚やヒト胚の観察をしておりました。

実習のメインは染色切片の顕微鏡観察とスケッチでした。日々の組織学実習とあまり変わりませんね。

しかし。供覧標本(みんなが交代で見るように教室に一組だけ置かれている標本)を見たとき、つい固まってしまいました。ニワトリ・マウス・ヒトが、固定されてビンに入って、並んでいたのです。

ヒト胚は10くらい並んでいたでしょうか。妊娠2ヶ月から4ヶ月にかけての胎児でした。解説にはステージ(発生段階。この器官ができたら次のステージ…というように進む)しか書いていなかったので、「妊娠3ヶ月って、どのくらいですか」と先生に尋ねました。これでです、と先生が指したビンには、長さ1cmくらいの胚が入っていました。手・足のもととなるふくらみももうできていました。「こんなちっこいのが、お母さんにつわりをひきおこしたりするんだねえ」「いやまあとりあえず他人だし、腹の中にいるんだから無事じゃすまないでしょ」「しかしねえ。おめでたですよ、って、ウチらこれが頭に浮かんだら夢もロマンもないねえ」

「じゃ、5ヶ月は?」(妊娠中絶は、妊娠21週まで可能とされています)「ここにあるより、もっと大きくなっていますね。」「え、じゃ、このいちばん大きいのは…」「4ヶ月半くらいです」4ヶ月半の胎児は、手も足も目も耳もあり、手足には指が揃っていました。長さは5cmくらいでしょうか。「ねえ、おっきくない?」「でもさあ、10ヶ月であの、3キロくらいある赤ちゃんが生まれてくるんでしょう。4ヶ月でこのくらいあってくれないと困るかなあ。」「これ見せたらさあ、妊娠中絶減るよねえ。」「あ、中絶のビデオ見たことあるよ。あれだけはいけないって思ったよ。」…それでもやむを得ず中絶しなければならなかった人、つらかっただろうなあ、とふと思ったりして。すごい喪失感だって聞きますけれど、そうだろうな、と。身体が悲しみそうな、そんな気がします。

そして実習室には、生の胎盤が置かれていました。もっとぐちゃぐちゃなのかと思っていました。直径20cmくらいのきれいな丸で。真ん中からへその緒が出ていて。英語ではmother's cakeというようですね。栄養もやる!守ってやる!と、なんというか母の強さをそれだけで体現しているようなそんな標本でした。

※胎児の成長については、妊娠・育児大百科というサイトに、わかりやすい説明が載っています。

011110 教祖の文学─小林秀雄論─ by坂口安吾

久々の読書記録です。坂口安吾による、小林秀雄論です。(小林秀雄についての読書記録はこちら)ちなみにわたしは坂口安吾も小林秀雄も好きです。自分とより思考スタイルが似ているのは小林秀雄だろうと思います。坂口安吾は、内容もさることながら、あの口調が好きです。どこからあの勢いが出てくるのか全くもって不思議ですけれど、肉声で迫ってくるような、風貌そのもののような、そんな迫力がある文章だとわたしは思っています。

…しかしこれを書いてしまうと。荻野アンナの、「アイ・ラブ安吾」も取り上げたくなってしまいますね。近いうちにとりかかりましょう。

「教祖の文学─小林秀雄論─」

011111 再会/医学部の気楽さ/自分の語る他人の言葉

京都にいる友人がたまたま広島に来ていたので少しだけ会ってお茶してきました。日頃同窓会やそれに類するものが本当に苦手で、やましいことのあるなしに関わらず自分の過去を知るものから逃げるように暮らしているわたしには珍しいことです。思ったほど、プレッシャーは感じませんでした。あんまりタイムラグを感じることなく、会えたような気がします。

研究の世界にいる人です。わたしも以前、理学部で少しだけ研究者生活をしていました。分野は違うし、方法も違うと思われるのですけれども、それでも、昔のわたし、もしくは昔わたしの回りにたくさんいた人達を思い出して少し懐かしかったです。

でも懐かしくとも、もう研究の世界に戻りたいとは思わないなあと、改めて確認しました。理学部より医学部のほうが、今のわたしには居心地がよいことも。きっとそれは、「(よりよい)医者になるためなのだから」というモチベーションの明確さに起因するのでしょう。目標が明確で、やることはたくさんあって、あまり迷う余地がないというのがいい、そんな気がします。

もちろん突き詰めていけば目標が明確といってもよりよい医者って何なんだなどという問題に行き着いてしまいますので、実はそれほど明確ではないのかもしれません。でも、今自分のやっている勉強なり実習なり何なりを、正当化するだけの理由は、いつも手近なところにあるのですよ。カリキュラムもほぼすべてが必修であり、悩む余地がないのです。高校の延長みたい、と、現役で入った同級生諸君はつぶやきます。きっとそうだろうと思います。

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昨日書いた読書記録に、わたしは、「何でもかんでも「わかる」ことができるなんてのは、とても傲慢な態度であるかもしれないとも思います。」と書きました。どっかで聞いたことあるような、と思い、昔の読書記録(これは手書きノート)をぱらぱらとめくっていたら、ちゃんと書きぬいてありました。「マンネリズムのすすめ」(丘沢静也、平凡社新書)の一節でした。

しかし、何にでも根拠があるなんて思うのは、行儀が悪いことだ。

自分の話すすべての言葉が、どこからか拾ってきたものにすぎないような気がすることがあります。今日もどうやら、そんな日みたいです。

011112 じゃがいもでんぷんにまつわる昔の話。

今日は学校で肺のプレパラートをスケッチしたあと、アルバイト先の塾で、中学生の理科に付き合っていた。

少し昔のことを思い出した。たしか、小学校四年生の頃のことだ。

そのころ、授業では「でんぷん」を扱っていた。でんぷんに垂らすと茶色から藍色になるという、ヨウ素液がほしくてたまらなかった。ある学習雑誌で、でんぷんとヨウ素液のセットが付録についてくると知り、両親に購読を頼みこんだが聞き入れてはもらえなかった。

ある日、理科の本を読んでいると、「でんぷんの作り方」なる文章にお目にかかった。じゃがいもをすりつぶし、水にさらす。何度かさらすと、でんぷんが精製できる、と書いてあった。

ある日曜日、母に台所を借りた。たまたま、家には、小さなじゃがいもが大量にあったのでそれを使わせてもらうことにした。皮むき器で皮をむき、すりおろし、ボールにあけた。外が黄色、中が白いボールだった。水を入れてかきまぜて、でんぷんが沈むのを待ち、うわずみを捨てた。白い粉がボールの底にたまるのがわかった。でんぷんらしき粉が減っていくのもわかった。不安だったけれど、きれいなでんぷんがほしくて何度も繰り返した。

とうとう作業に見切りをつけ、ボールをふきんでおおった。台所は母親に明け渡した。乾いてみると、あの、たくさんあったじゃがいもは、ほんの大匙1、2杯ほどのでんぷんに変わっていた。でんぷんは、ジャムの空き瓶に詰めた。

明くる日学校へ持っていった。当時の担任は、よくやったよくやったと、ヨウ素液をたらしてくれた。顕微鏡でも見た。まさしくでんぷんであることが確認された。

そしてそのあと担任は、「減ってしまったからこれをあげよう」と、新しいでんぷんをくれた。フィルムケースに入ったそのでんぷんは、わたしが半日かけて作ったでんぷんよりきれいで、青白く、きらきらしていた。何で先生こんなきれいなでんぷん持っとん、と聞いたのだったか聞かなかったのだったか。

ずいぶん後になって、お使いで入ったスーパーで、わたしは片栗粉を買った。原材料表示には「ばれいしょでんぷん」と書かれていた。母に「知っとった?」と聞いたが知らなかったとのことだった。

でももしわたしに子供ができたとして、じゃがいもからでんぷんを作るといきまいていたとして、わたしはきっとこの話は黙っていると思う。

011114 統計学と「されど、われらが日々─」

毎週水曜日は統計学の授業があります。この授業、先生にやる気はないし生徒にもやる気がないしで、出席をとるから皆仕方なく出ているものの真面目に聞いている人が一桁いるかいないかという惨憺たる授業です。S言語というマイナー言語を扱います。テストは、その先生が書いた本さえ買えばなんとかなるそうです。

「きみたち、前の席から順々に詰まっていく講義があるなんて信じられますか」

「たくさんあるよね、この授業にやる気がないだけなんだから」

今日は演習がありました。コンピュータルームで、実際にソフトを動かしてみるのです。パソコンが足りません。学生の数の半分もないのです。でも、演習のときには、ログインしないと出席がつかないので、皆パソコンをつけるだけはつけます。多くの人は、ログインするや否やログアウトして去っていきます。

わたしもぼんやりとパソコンをいじっていました。すると、その先生が昔作った、オンラインマニュアルが出てきました。なんだかやる気が感じられて、ほんの数年前のことなのに、その頃はきっと、教育に燃えていたんだろうとなんだか先生がかわいそうになりました。昔は、S言語というマイナー言語の有用性を心から確信し、その使い方と統計の基礎を学生に叩き込むことに、大変な喜びを感じていたのかもしれないなあ、と。

柴田翔の「されど、われらが日々─」の一節を思い出しました。

そこには、大抵は、まだあまり知られていないその書を日本に紹介することが、どんなに有意義なことであるかが、少し熱っぽい調子で力説してあった。それは、その人の出した、一生でただ一冊の本であったかもしれない。恐らく、だから、後書きも少し興奮した様子なのだ。が、彼がそんなに期待して出した本も、ほとんど人に知られることなく場末の古本屋の均一本の中に突っ込まれている。

この小説の「私」が古本屋で、背表紙を前に立ち尽くしていたときの思いは、私の今抱いている思いに似ているのでしょうか。

011115 わたしは日々、どこを見ているのでしょう。

2日連続で夜更かししたら、バイト中にめちゃくちゃ眠くなりました。解剖中は、疲れ切ることこそあれほとんど眠くなりませんし、そのほかの授業中だの家にいるときだのでは、眠いと思うやいなやさくっと寝てしまいます。ゆえに、今日ほどの眠気を感じたのはたいへん久しぶりでした。昼眠くなるとすぐ布団を敷いて本格的にお昼寝、と相成るのに今はどうもそういう気になれません。結局パソコンの前に座っております。

だいたいこういう日は一日の記憶がかっぱり欠落しているような、いろんなことがあったはずなのにすでにぼやけてしまっているような、気がするのですね。わたしの頭が一時的にぼやけているだけでしょうか。

でもしょうこりもなく続けてみたりとか。

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「座禅における真理とは、過去はすべて変えられないことであり夢みたいなものであるということだ」

上の一行は、夏休みあけにある友人から聞いたものです。座禅を組んでそういうことに思いがいたるというのもなかなか不思議なことです。それはさておき、この「真理」自体は、実はいちばん大事なことかもしれないと思ったりします。聞いたときには、わたしも夏休みに座禅を組むべきだったかなと、ちょっとばかり焦ったりもしたのですが。

自分にも、他人にも、わたしは期待しすぎているのかもしれません。自分のいたらなさは日々痛感しても、都合の悪いことはすぐに忘れてできるはずだと思ってしまう。同じことを他人にも当然のように要求してしまう。わたしは日々、どこを見ているのでしょうか。そんなに急いで、どこに行こうとしているのでしょうか。

011117 一周年。

本日(正確には昨日)11月17日,このサイトはめでたく(?)1周年を迎えました。時々でも一瞬でも寄ってくださっているみなさま、ありがとうございます。日々チェックしてくださっているみなさま、本当にありがとうございます。

011118 本棚を見ればその人がわかる、というのは本当なのでしょうかねえ。

題名に、「本棚を見ればその人がわかる、というのは本当なのでしょうかねえ。」と書きました。渡辺昇一が、そんなことをどこかに書いていたと思います。知的生活の方法、だったでしょうか。

今日、わたしの部屋に、新しい本棚が導入されました。壁に取りつける、天井まで届くタイプの本棚です。60cm幅のを2つとりつけたので、これで本の氾濫も収まるはず、とわたしは喜んだのでした。

昼ご飯前と夕ご飯前の、それぞれ2時間ほどを使って、父とともに組み立てに励みました。組み立ての合間に、久々に本屋に行き「本棚に入れるための」本を買ったりしました。そして先ほど、本をすべてその本棚に入れてきました。

なぜかすでに80%埋まっています。わたしの部屋には、新しく入った本棚のほかに、文庫本専用のかなり大きなスライド書棚一つと、教科書を入れる細い本棚があります。はっきり言って、もう、本棚を入れるスペースはありません。本棚に場所があくはずだから、クローゼットに封印していた「美味しんぼ」1巻〜60巻も、一緒に並べようともくろんでいたのに。いずれ古本屋でドカベン全巻をそろえるつもりなのに、ついでにあぶさんも30巻くらいまではほしいのに、おたんこナースも揃えるつもりなのに、できればぽっかぽかもほしいと思っているのに、入れる場所がないです。どうしよう。

ちなみに漫画は、新しい本棚のほぼ5分の1を占めています。「いいひと。」全巻に「ブラックジャック」全巻、「墓場の鬼太郎」3冊に「死神くん」1巻〜12巻、「MIND ASSASSSIN」全巻、「笑ウせえるすまん」2冊に「ポーの一族」3冊、「スター・レッド」くらいでしょうか。そう言えば「研修医なな子」は某事務所に出張中です。

それはともかく真の問題は本棚のほぼ半分を占めるハードカバーの数々です。小説はさほどでもない(ほとんど文庫)ものの西研その他の哲学書、宮台真司その他の社会学、精神分析学に心理学の本がめちゃくちゃ多い。中谷彰宏も結構な場所を占めています。「誰が買ったんだ」と思いつつどの本も背表紙を見ただけで内容が思い出せてしまうところが「わたしです、すみません」てな感じです。

以上の内容からわたしという人間が想像できますでしょうか。もちろん上に挙げた以外に、新書と文庫がそれこそ数え切れないほどあります。新書はブルーバックス(おもに物理系・分子生物学系)、もしくは教育学・医学が多いですね。文庫は小説が主。わたしという人間そのものについてはわかるかどうか謎ですけれども、わたしの興味の遍歴は、わかるのではないかという気がします。

011121 一人称・ニ人称・三人称における、医療のあるべき姿について。

たけさんのページを読んで考えさせられたことを少しばかり。

最先端医療は、お金がかかります。でも、例えばいちばん安い抗生物質が買えないばかりに、死んでいく人たちがいます。

実のところ、「最先端」「最高」の医療なんてものは今一つわたしの好みではないのです。そういう余裕があったら地球のどこかでどれだけ…と思ってしまうのが、理由の一つなのでしょう。言い方をかえると、一体どれだけの人がその治療の恩恵にあずかれるというのだ、ということになろうかと思います。しかもそういう治療は大抵リスクが高く、ますますそんなことをするくらいなら…と思ってしまうのですね。

それでも、自分自身についてだったら、最先端で最高の医療を望んでしまうでしょうか。自分自身については、ひょっとしたらもういいといってしまうかもしれません。でも、最愛の人だったら?

どうも、人は、自分に対するより最愛の人に対して、延命治療その他の、「積極的治療」を望む傾向にあるようです。自分については延命措置を拒否しながら、家族については希望する人が、たくさんいるようなのです。どんな姿になっても、(自分はいやだけど)生きてほしいからでしょうか。それとも、できるだけのことはやったと、信じたいからでしょうか。もし積極的治療を断ったとして、それでどのような結果を招こうとも、もしあのとき積極的治療を行なっていれば、と、ついつい後悔してしまう、そんなものなのかもしれません。

じゃあ、海の向こうでなら、どれだけの人が死んでもいいのか。

そんなわけはない。でも、なかなか実感できませんよね、海の向こうのことは。つい、目の前の人をなんとしてでも助けようとしてしまう。なんとしてでも助かってほしいと祈る、その対象は、きっと目の前の人だろうと思うのです。

どうなっちゃうんだろうなあ、と思います。目の前の人に最善を尽くすのが医者、ともいえます。そのほうがわかりやすいし、ある意味で楽かもしれないと思います。でも、「上医は国を医す」(←「信州に上医あり」)はずですし、もし一流の医者であろうと思うならば、目の前の患者さんより遠くも、見えなければならないとも思うのです。

011122 他人を操作するということ。

昔どこかで読んだ話に、こういうのがあった。若い女性の話である。

彼女は母と祖母と住んでいる。彼女のストレスの原因は、祖母である。例えば、夜食を持ってくるのに、「夜食は要らないね?」と尋ねる。要らないといえば不機嫌になるし、要るというには、「要らない」という否定をひっくり返してもう一度肯定するというエネルギーが必要である。たいへん疲れる、とのことだった。しかし祖母は、そうやって強く「要る」と彼女に言わせることによって、自分が彼女にとってなくてはならない存在、価値ある存在であると確認し、満足するのである。

この祖母の行動は、(祖母が明確に意図しているかどうかは別として)やはり他人をコントロールしようというこころみなのだと、わたしは思う。それも、かなり巧妙に仕組まれている。「彼女」が、拒否できないようにだ。このように聞くと、ああ、それはよくないなあ、と思うけれども、自分もしばしば、そういうことをやっているなあと気づいてしまうときがある。きっと、気づかないときもしばしばやっているのだろう。

その端的な例が、過剰な自己卑下だと思う。過剰な自己卑下は、まわりのフォローを要求する。「そんなことないよ」そう言わざるを得ない雰囲気がある。これは、先に挙げた「祖母」と同じだ。自分で否定しておいてそれを相手に肯定させる。その結果、「そんなことないよ」の一言が、より強い肯定となるのだ。

では、本心から卑下したい気分のときはどうなのだろう。本気で卑下するつもりならば、そんな気分を表出する権利さえもないとあきらめなければならないのかもしれない。意図しなくても、他人をコントロールしてしまう危険は常に存在する。自分を卑下したい気分のときに、さらに他人に迷惑をかけてどうするのだ。それならば、素直に助けを求めればよい。恐らく誰かが、自分自身の自尊心を満足させつつ助けてくれるだろう。そのほうがよっぽど潔い。

そのような操作を、やめようと思った。やめなければならないと思った。他人にどういう印象を与えるかとかそういうことではない。どういう生きかたを自分は望むか、そういうことなのだろうと思う。

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「蒼氓」のバックナンバー、011121-ミエナイチカラで、ああ、わたしのことだなあとしみじみ。少しずつでも、人柄ってやつは改善しうると信じたいものです。

011124 「で、なんでそうしなければいけないの?」

23日・24日と、少し遠くで行われたとあるイベントに行ってきました。

ある企画でのこと。机の並べ方についての会話。○○、とはその会話の相手です。

○○:「こうしたほうがいいんじゃない?」

N:「なんで?」

○○:「なんで、って…」

N:「わたしはこうこうこういう理由でこうしたほうがいいと思うんだよね。それで○○はどういう理由でそのほうがいいと思うの?」

○○:「…」

N:「じゃあこのままにしておくね。理由、思いついたら言ってよ。検討するから。」

○○:「すごいはっきり言いますねえ。」

わたしのセリフ、文字にするとつっけんどんですね。多少虫の居所が悪かった、あるいはつかれていたせいでしょう。攻撃的になってしまって、けんか売ってますね。いっちょ対戦してみますか、モード。

わたしのこういう態度が敵を作るんだろうなあ、と思いつつ、やっぱり人に物を頼むもしくは命令するときにはきちんとした理由が必要だよなあ、とも思います。別に、「みんながそうしているから」「そういうものだと思うから」でも、よかったんですよ。その人なりの理由があれば、それを伝えてくれれば、受け入れる用意はあるんだけどな、とか。言ってくれれば話も続くけど、言わないなら従うわけにはいかないな、とか。

虚をつかれたのでしょうか。まさか根拠を尋ねられるとは、思っていなかったのでしょうね。

最終的にはひとは、感情で動くのかもしれません。でも、冷静な議論と判断も、必要だと思うのです。例えば天気予報。わたしたちが天気予報を信じるのは、たとえ毎回は示されないにせよ裏でデータをとって解析してできるだけ正確に予測したという、根拠があるんだろうと思うからでしょう。もしも疑問に思って調べようと思えば、根拠はいつでも示されうると思うからこそ、信頼は成り立つと言えるのではないでしょうか。そこをクリアした上で、理屈だけではうんぬん、というのはオッケーです。でも、まずは根拠があること、根拠はいつでも示されうると信じられること、必要となればいつでも根拠を示せること、これは前提ではないでしょうか。

それはひょっとしたら、「医師には人間性が…」と言いつつ、技術と知識がゼロならそれはもはや医師とは言えない、そういうことと相通ずるのかもしれません。

011125 海の上に浮かんでいた人達。

自衛隊をアフガンに派遣するそうですね。今日、テレビで出発の模様を放送していました。

自衛隊をアフガンに派遣することの是非は、実はわたしにはわからないのです。ここは攻撃に参加せずに、アフガンに対して後々も発言権を保てるようにしたほうがいいのかなあ、とか、それともやっぱりここで何もしないというのはまずいかなあ、とか。しかし、ここで言いたいのは、自衛隊をアフガンに派遣することの是非ではありません。

自衛隊のアフガン派遣に反対する人々が、ゴムボートか何かに乗って、海に浮かんでいました。

「行ったら死ぬぞー」

なんて、叫んでました。もう一度いいます。自衛隊の派遣が正しいかどうか、問題にしているわけではありません。でも、これは、少なくとも国のためであると信じて、それが国益であると判断した国の指示にしたがって、危険な地域に赴く自衛隊の人々に、たいへん失礼ではないでしょうか。また、隊員の家族の人々に対しても。家族の人々が、たとえ行ってほしくないと思っているにせよ、行って頑張ってほしいと思っているにせよ、いずれにせよよい気持ちはしないでしょう。彼ら隊員たちが、ここまで来て引き返せないのは、自明ではありませんか。この期に及んで、何が「行ったら死ぬ」ですか。行くのなら、せめて無事に帰ってきてくださいというのが、筋ではないのですか。平和やヒューマニズムを語るのならば、なおさら。

ゴムボートの人々はどうしてこういうことをしているんだろうと、考えてしまいました。自衛隊隊員たちは、ここまで来て引き返せないのです。実力阻止は、明らかに不可能です。

ゴムボートに乗る前に、断片的な叫び声をあげる前に、他にすることがたくさんあるのではないかと思います。例えば代表を国会議員選挙に立候補させて国政に関われるようにするとか、そこまで行かなくても新聞などに意見広告を出して主張をし、人々の賛同を得られるよう努力するとか。この、民主主義・法治国家である(はずの)日本において、まずとるべき手段は、言論による勝負ではないかと思うのです。ゴムボートの彼らは、声はあげていました。でも、叫び声は、言論ではないはずです。少なくともわたしは、反感しか抱きませんでした。ひょっとしたらゴムボートで注意を引きつけて、立派な演説をするつもりだったのでしょうか?その場合ゴムボートは、共感する人の人数を増やすのに役立つのでしょうか?わたしだったら、聞く気をなくしそうですけれども。

それでも彼らはゴムボートに乗っていました。何か理由があるはずです。夕食時、家族で話し合ってみました。出てきた理由を挙げましょう。

  1. これ以外に、「皆の強い意思」を表現する方法が思いつかない。(これで歴史が動いたことがあるんでしょうかねえ。わたしが不勉強で知らないだけでしょうか?)
  2. マスコミを意識している。タダで全国に宣伝ができるチャンスだから、派手なことをやろうとしている。  
  3. 以前にも同じようなことをやって、賛同者の人々から賞賛のメッセージがたくさん届いた。批判的な意見を持つ人は、面倒臭いから何も送らなかった。(批判的な意見を黙殺した可能性もなきにしもあらず)  
  4. 「反対しています」というデモンストレーションを行なわないと、格好がつかないから仕方なくやっている。
  5. その集団への帰属意識を高めるために、わざわざ無茶なことをやっている、もしくはやらせている。(自分にここまでの行動をとらせるような原理は、きっと正しいに違いない、と思うのですね。マインドコントロールの基本です。某宗教のつぼ売りと同じ。)
  6. 自分たちの主張の正しささえ繰り返してアピールすれば、皆がそれを正しいと思うと思いこんでいる。
  7. 実は本気で、自衛隊の派遣を阻止するつもりである。
  8. こんなに頑張っている自分、に陶酔している。

わざと意地悪くみているところが、ないとはいいません。でも、たとえ彼らの主張が正しいとしても、方法がよくないと思うのです。結果さえ正しければ手段はなんでもいい、それは間違っていると思います。誰もが自分は正しいと思っているから、戦争だって起こるのではありませんか?

011127 臓器移植のためのヒトクローン。

なんでもアメリカで、ヒトクローン胚が作られたそうですね。まあ、作成に成功、といってもまだ6細胞期までですから、人間らしい外見にも程遠いわけで、だいじょうぶではないかとも思うのですけれども、なんだか無気味だなあと思います。

ヒトクローンというのはつまり、いっとき話題になったクローン羊ドリーちゃんの人間バージョンということです。未受精卵(女性の卵巣に入っている、「まだつかっていない」たまご)の核(DNAなどが入っているところ)を取り出して、普通のヒトの細胞の、核と入れ替えてしまうわけです。例えばわたしの細胞から取り出した核を入れたら、その「たまご」の持つDNAはわたしとまったく同じですね。すなわち、クローンです。人工的一卵性双生児といってもいいでしょうか。その場合わたしとクローンは、遺伝情報が同じではあるものの、おそらく生育環境その他がまったく異なるので、まったく同じ人間にはならないと考えられます。いわば、別々の場所で育った双子の片割れ、みたいなものです。しかもこの場合、母親のお腹にいる時期も違えば、そもそも「生みの親」がおそらく異なるわけで、どれだけ「同じ」ヒトになるかは疑問ですね。ただし、遺伝情報は同じですから、移植を行なっても拒絶反応は起きないでしょう。

臓器移植などへの応用が目的、だそうですね。そこは信じるとしても。臓器って、例えば肝臓、肝臓だけでぽんと、作ることができるんでしょうか。単に、元気な肝細胞を作ってやってそれを本人の肝臓にくっつければ、思ったように増えると、そういうことなのでしょうか。

それならいいんですけどね。クローン=「スペア」を病院に寝かせておいて、からだのどこかが不調になったら病院に行ってその「スペア」の臓器ととりかえる、なんて世の中はいやだなあ、と思ってしまうわけです。「スペア」を育てるのも、「スペア」と臓器をとりかえる手術をするのも、いやだなあ、と。

例えば、子供を亡くした親がいて、「この子と同じ子がほしい」と言ったとします。目の前の人の為に一生懸命になって、だれかがクローン人間を作ってしまうかもしれません。もちろん、善意で。

例えば、腎臓移植が必要と申告された患者さんがいる。目の前の人の為に一生懸命になって、だれかがクローン人間を作り、そこから腎臓を持ってくるかもしれません。もちろん、善意で。

もちろん、世の中には移植を必要としている人がいます。再生医療の進歩を心待ちにしている人もいるでしょう。そして、他人の組織ではなく自分の組織を使う再生医療には、わたしは基本的に賛成です。

でもそこに、まだ何の分化も起こっていない、何になるか決まっていない、体のあらゆる部分になれる、体のあらゆる部分を作れる、それこそ一人の人間をまるまる作れるような「たまご」がからんでくると、何か不気味な気がします。「たまご」を、それ自身のためではなく、その意思に関わらずはじめから他の存在のために犠牲にすべく育てるというのは、間違っているのではないかと、思います。いつか、子どもの移植のために次の子を産んで、その、次の子から上の子へ、臓器を移植するという話をテレビでやっていました。この場合、それでも「次の子」には残りの人生があるわけですけれども、クローンもしくは人工臓器には、残りの人生も何もないわけですよね。そんなふうに、仮にもヒトになるはずだったものを、扱っていいのでしょうかねえ。なんとなく、「臓器農場」を、思い出します。それとも、この、「経済的理由」のための人工妊娠中絶が容認される日本においては、そのような議論は行なわれるべきではないのでしょうか。そんなことをいいつつも私に子どもがいてその子どもが移植を必要とするような病気だったら、クローンでもなんでも作ってくれといってしまうかもしれません。

ふと、一年生で受けた法学の授業を思い出しました。

君たちは今、実際に死刑にされる可能性はない。死刑には、関係ないといえる。しかしだからこそ、死刑について公平に考えられるのだ。もし当事者だったら、フェアに考えられる可能性は非常に少ない。

もしこの通り他人事でいいのならば、「即刻禁止」と言うのですけれどもね。歯切れが悪くなっています。

011129 ノートの意味。講義の意味。大学の意味。

講義って、何のためにあるのでしょうねえ。ここで問題にしているのは、教授(など)が前でしゃべって、学生はそれをノートにとるだけ、教授の言うことをきちんと書き取ってあるノートがよいノートとされるような、そしてそのノートがないと試験に通らないような、いわゆる講義のことです。

アメリカのleft-handed dictionaryには以下のように載っているそうです。(「超」勉強法からの孫引きです。)

Lecture: The process by which the notes of the professor become the notes of the students without passing through tne minds of either.

勝手に訳すと、「教授のノートの内容がそのまま学生のノートになる過程。ただし、その過程において、内容は教授・学生双方の頭を素通りしている。」という感じでしょうか。

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聞いたことを書き取ることが、勉強なのでしょうか?素通りしているかどうかはともかく、です。まあ、まさか一言一句は写せないから、その過程である程度は頭が働いているということなのでしょうか。その割にはよく聞く言葉。

「今日の授業わけわからんかったよねー。黒板写すだけでまじ精いっぱいだったわー。」

つまり黒板を丸写ししているだけなのですね。たしかについていけないとそうなります。そしてそういうときのノートは、意味がわかっていないだけに写し間違いなどが非常に多い。なんだかなあ、ですね。それなら黒板の内容をプリントにして配ればいいですよね。いずれにせよ、試験前には誰かのノートが出回るわけですし。

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ある授業では、OHPの内容を印刷したプリントが、前もって配られました。

「これを配らないと、君たちはOHPを写すことだけに集中してしまうから」

そしてその結果は…何をノートにとればよいのか分からない人が続出。勉強したという実感が起きなかった、という感想がちらほら。やっぱり「作業した」という感覚が必要なのでしょうかねえ。

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「先生、ノートが取れないからもう少しゆっくりしゃべってください。」

というのもおかしいといえばおかしいですね。いえ、ノートがとれないからというのは分からなくもないけど、そもそもノートをとるために聞くというのもへんかなあ、と。学生がノートをとるのを待つ先生、というのも何というか手持ち無沙汰そうです。

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ノートを取るのが目的なら、何も講義をする必要はないのではないかと、思うのですよ。ノートになるはずの内容をプリントにして配ればそれでおしまいですよね。実際、テスト前にはそのようなコピーが教室中に出回ります。

そもそも、世の中には立派な教科書がたくさんあるのにどうして講義の内容を頭に入れることを第一義としなければならないのでしょう。講義ではその教授の言いたいことが語られますので、講義を受けることによってテストに有利になるというメリットはあるでしょう。しかしそもそも、医学の勉強とは、教授の言いたいことをそのまま頭にいれることでしたっけ。医学に限らず自然科学には、必修のスタンダードというものが、あるはずなのではないでしょうか。つまりそういうテストは、テスト自体間違っているのではないかと。本当に大事なことは、どの教科書にも大きく取り上げられているはずです。

本を読んでいるだけでは目から情報が入ってくるだけだけれども、講義では耳からも入ってくるということでしょうか。それなら学友同士で教え合うというのはどうでしょう。

家でほうっておくと勉強しないからと、強制的に一か所に集めて一応の勉強をさせているのでしょうか。話を聞くこと、それをノートに取ることが勉強そのものであると仮定しての話ですけれども。

いや単に、勉強した、勉強させたという安心感がほしいのかもしれません。一応の体裁を整えることで安心するという側面は、見逃せないでしょう。

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いろいろ皮肉なことを書いてきました。あえて少し攻撃的に。個人的には、講義のメリットは以下の二つに集約されると思います。

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上の二つくらいしか、講義にメリットはないと思っていますので、講義なんてたまにでいい、しかも出席なんてとらなくていい、と思っているわけです、わたしは。ただ、カリキュラムと到達すべき目標を提示してくれればいいのではないかと。もちろん到達度の評価も。

アメリカのある大学では、例えば「糖尿病とは」という問題が出されて、それについてグループ学習をして教授のところに持っていき、OKをもらう、それを所定の問題分すべてクリアしたら次の学年にいける、というカリキュラムを採用しているそうです。もしレポートが基準に達していなかったら、教授は何も言わずに突っ返すとか。いいなあ、そういうカリキュラム、と思うのです。たいへんでしょうけどね。

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そして今結局わたしにできることは、そういう文句はともかくとしてできるかぎり自分で勉強すること、講義だけで満足しないこと、興味のあることは追求してみること、そして、楽位置楽The Tutorialなどで提供される学習の機会をできるだけ利用すること、なのでしょう。


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